いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

あまりにナイーヴな日本の政治家

2009年02月21日 17時14分32秒 | 政治って?
大衆誘導はどのようにして行われるのか?

例えば不祥事、偽装関連、モロモロあるわけである。世間のバッシングを演出することは、さほど難しいことではない。そういう雰囲気を作ってやれば済む話だからである。特定人物に対してネガティブな印象形成に成功すれば、画面に出てくるだけでも嫌悪感を抱いてもらえるようになる。普通の会社組織などのイジメみたいなものも同じ。とどのつまりは、「誰かを叩きたくて仕方がない」のだ。こういう手法は、亀田一家の場合だろうと、山本モナだろうと(*)、船場吉兆の女将だろうと、亡くなられた養鶏場の社長夫妻だろうと、どれも同じ。ああ、イラクの3邦人人質事件のバッシングでもそう。

(*):個人的には全く興味ない、でも、チューやラブロマンス(笑)ごときで、どうしてあんなにバッシングされねばならないのか疑問。チャールズ皇太子はかつてカミーラ夫人との不倫関係が伝えられていたと思うが、別に謝罪も何もないけど。イタリアの首相なんて、ナンパを奥さんに怒られて公衆の面前で謝罪させられた挙句、今度はナンパ相手の女性を閣僚に据えてるじゃないの。仏大統領の奥さんだって、ヌード写真だの色々書かれていたけど、別になんてことないし。


つまり、エコーチェンバーの役割を果たすのは、マスメディアなのだ。伝統的手法と言っていいのが、大衆操作なのだ。彼らの姿勢や意図や考え方などに乗っかってしまっているので、マスメディアの連中が低俗であればそういう方向に行くし、魂を売ればいくらでも情報操作なんてものは行えるわけである。マスメディアの水準が劣化していくと、こうした傾向は一層強まることになるだろう。


昔の政治家がどうであったか、なんてことは、多くの一般国民にとってはあまり意味のない比較であり、殆どの人たちが覚えてはいないか、よく知らないことの方が圧倒的に多いのではないかと予想している。自分がそうだから、ということもあるけれど。いや、そうではない、大多数の国民はきちんとどの総理大臣がどうであったかを評価できる、ということなら、1985年以降に総理大臣だった人を並べてもらってもいいし、順不同で挙げてもらってもいいだろうと思いますけど、試しにやってもらっては。そんなに正確に憶えていますかね?羽田でもいいよ、とか、細川内閣の方がマシ、村山さんがいいとか、本当に言うんですかね?
因みに合衆国大統領なら、ちょっと前から挙げたって、カーター、レーガン、ブッシュ父、クリントン、ブッシュのたった5人だけだぞ?

昔の政治家たちなんて、実弾として「金」をばら撒いていたし、イスだって灰皿だって飛び交っていたし、それこそ武勇伝を挙げれば数限りなく、豪快・豪傑の類の人たちなんて、それこそ大勢いたわけでしょう?型破り、型ハズレ、というような人たちは、別に珍しくもなかったんじゃないですかね?今の政治家に対して、そんなに潔癖で聖人君子みたいな人格者を求めるのって、どうしてなんでしょうね。マスコミ連中がいちいちあげつらうようになってからなのではありませんかね?別に昔の政治家たちがとりわけ人格者で間違いをおかさない人間たちばかりだったかといえば、そうではなかったでしょう?


「強い総理」の政治的仕組みが日本には育ってきましたかね?
長年やる人の方が少なかったように思えますけれどもね。今の仕組みや政治的成熟度では、誰がなっても大して変わらないんじゃないか?今の低俗なマスコミや、そういう情報に左右される有権者たちや、選挙制度や選挙運動も同じなのに、何かが変わるというのだろうか?
総理が代われば、何かが変わるとか、解決できるといったことになるのか?

徳川治世下では、名君も出たかもしれないが、殿様がそういう人間ばかりとも限らず、名君ではなくとも統治が行えるような仕組みになっていたからこそ、2百年以上も続いたのだ。現状の政治システムを見ている限り、トップに誰が来てもあんまり大きな違いはないように思える。支える仕組みが機能していないもの。取締役会で互選で社長を選んでいるのに、取締役同士で支えないで足の引っ張り合いをやっているような連中ばかりでは、会社は傾くって。社長を誰にするか、というのではないんだもの。社長がちょっとくらいボケっとしていても、取締役が優秀なら会社はきちんと回っていくし、機能すると思うけど。だって、社長が独裁者でもなく、何でも1人で決めたり実行できるわけではないんだから。取締役がいないと仕事ができないんだから。

なのに、今は「~が悪いのは社長のせいだ」「~できないのは社長のせいだ」ということで、全部社長が悪い、に行き着いているもの。これでは、全然ダメだよね。会社が一丸にはなれないよ。取締役は社長を支える気もない、社員も支えたくない、ということなら、いつまで経っても同じ。社長を変えたからといって、何かが良くなるわけじゃない。実際仕事の大半をやっているのは、社長ではなく配下の人間なのだから。

マスコミは狙ってるネタが消えていけば、次のターゲットを探して歩くのだよ。段々重箱の隅をつつくようになっていく、ということ。姑根性みたいなものだ。

部屋の掃除を嫁がするとしよう。チェックポイントがあって、「タンスの陰」や「窓のサン」を姑が指でこすって「ホラ、ここに汚れが残ってる」と指摘するわけだ。そうすると、嫁の方でも予防するようになって言われないように気をつけよう、ということになる。姑の攻撃を避ける努力をするんだよ。そうなると、姑は「タンスの陰」や「窓のサン」を指でこすっても何も出てこなくなるわけだ。そうなると姑は面白くないしチェックする意味を疑われてしまうということになるので、これを回避しようと「血眼になって汚れを探そうとする」わけだよ。すると、「イスの足の裏」とか「タンスの取手の裏」みたいなマイナーな場所を細かく点検するようになるわけです。ホラ、ここに汚れが、みたいな。これを繰り返してゆくと、嫁はチェックされるポイントを予め潰そうとする、姑はそれを上回るより「マイナー」かつ「細かい」チェックポイントを開拓してゆこうとする、というイタチゴッコになっているわけです。

これは企業不祥事で追及するマスコミの体質とほぼ同じようなものなのである。「追及する」という行為に意義を見出しているとしか思われず、それをやることが正しいことで重要な意味を持つのだと信じているのである。是非とも追及すべき部分はあるからやって欲しいと思うが、それはバーに行って何を飲んだか、みたいな話ではないはず。

「ル・トリアノン」「松風」「Taikan En」「津やま」「グラナータ」「山里」「福田家」「星ヶ岡」「アトーレ」「赤坂プリンス」「品川プリンスエグゼクティブ」

これらの場所に僅か4週間28日のうち15日間通っていた、とか、報じられたことがありましたか?
土日祝日は休養日なので、週5日として20日間のうち15日間は外出していた、ということではないですか。これが誰か判りますか?郵政選挙のあった年の2月に、小泉さんが夜に出かけた場所ですよ。

こういうのをマスコミは大々的に報道しましたかね?
マスコミは、こんなのに「毎晩のように高級店に行って飲食している」とか報じてなかったのではないですか?庶民の気持ちが判らないとか言ってましたかね?一国の宰相に、庶民の生活と同じ水準にしろ、とか求めるわけですか?(高給取りのマスコミの方々が。何なら、みのもんたさん、古館さん、といった人たちの報酬を公開したらいいんじゃないですか?)
小泉時代には報じなかったこれらのことを、麻生総理になってから「敢えて」報じる意味とは何でしょうか?
ネガティブ・キャンペーンを毎日やられて、それでイメージ悪化を招かない人がどの程度いますかね?

要するに、卑怯なんだって。
たとえ同じことをやったとしても、「ジャイアンには文句を言わない」、「のび太には言う」という、典型的なイジメの構図だろ。クラスの有力者には言わないけど、下っ端の冴えない君には何とでも言っちゃうよ、という、まさに「イジメ」の基本手法だろ。

はっきり言って、汚い。
姑息だ。やり方が卑怯。


たとえどんなことであろうと「叩けばホコリが出る」というのはよくありがちだろうから、どんなことでも使えるぜ、ということなのでしょう。
ああ、それから、議員秘書のコネだか、何とかで元審議官を紹介したというのが報じられていたみたいだけど、これも日本社会の構造として、どうよ、というのは思うね。

何ならハッキリ言ってあげようか?

これまでに、議員関係ばかりではなく、どんな世界にだって、一番大事なものはなにか、と聞けば、コネだろ、って話でしょう。今更、何「きれいごと」を言ってるのかと思うね。なに処女ヅラみたいにブリッ子してんだよ。

最もコネの威力が効くのは、マスコミ業界だったんじゃないの?(笑)
有力者の子弟から、議員関連、…色々とあるけれども、広告代理店とかマスコミ業界とかに共通している「コネ主義」なんじゃなかったの?いや、そういう知り合いとか一切いないから、現実にどうなのかは知らないんだけさ。

それに大手企業にだって、コネが通用してきたんじゃないの?本当に何のコネもなく実力で、っていう人はいるだろうけど、そうでもないボンクラ息子とかがコネ入社とか、いくらでも事例はあったんじゃないですか?事実かどうかは知らんけどさ。でもまあ、都市伝説的には珍しくも何ともないわけで(笑)。日常茶飯事だろ。「ちゃめしごと」だろ、と。

コネだろうと何だろうと、「私立の医学部に行きたい」なんて物好きな奴もいるんだな、とは思ったけど、大学に金を湯水のように使うバカは、いいカモなんじゃないの?もしコネが通じるのだとすると、そういう大学も大学だとは思うけど、いずれ国家試験があるのだからそこで落とされるわけでしょう。金だけカモられるなら、しょうがないんじゃないか?国家試験に受かるなら、そういう人だったんだな、ってことなだけでしょ。どっちにしたって、別に一般国民が被害を蒙るわけじゃない。数千万円も学校に使える人なんて滅多にいないわけで、口利きで報酬を受けたり地位を利用したのであれば問題だろうけど、犯罪でもないのなら何が(誰が)問題なのかというのを明らかにすべき。

それから、日本社会の基本構造というのは、コネ社会でしょ?
今頃、知らなかった、みたいな寝言を言ってる連中はおめでたいね。

日本には、都市伝説だか不可思議神話だかがあるらしくて、コネの頂点・総本山みたいなコネ大学があるらしいじゃございませんか。何と言ったか忘れましたが、総理大臣まで排出したくらい有名な大学らしいですけど。
某人物をして、「相場にうつつを抜かす儲け主義」とか「下宿屋もどき」とか、そういった批判もあったやに聞き及びますが、定かではございません。そこでは、遠きエゲレス国にある制度に似ていて、最も培われるのは何かと申しますと、コネでございますよ、コネ(参考記事)。

で、そのコネの一員に加わりますと「コネ」の特権を享受できる階級へと進むわけでありまして、これが人生成功&安泰の秘訣にございますです、はい。そういう伝説だか神話が信じられているので、おバカな連中が吾も吾もと「お受験」に狂奔するのだそうでございます。アホですな。幼稚園に入れると、素晴らしき「コネ人生」がスタートでき、そのコネに守られているので大変良かったね、という世界に足を踏み入れて行くんだそうです。こういうのはあくまで神話とか伝説の類でして、私自身はあっさり信じるのはどうかと思うわけでございますが、中には「データで補強しよう」ということで「コネ力」(「こねか」ではありません、コネの力でございます)をランク付けの一助としたいという勢力もあるということらしいです。そうすると、ニッポンの力の源を探るべく、出身大学別の「社長の数」とかで「コネの威力」を暗に誇ろうということらしいです。大笑いですな。そういうのに「ばかされた」か「毒された」ような連中が、「コネの輪」の中に入りたいということを願い、これをもって一生の安泰を図ろうとする浅はかな考えを持つに至るらしいです。


だから、こういう「コネ社会」では、「コネ」の力を得よう・磨こうというのはごく普通でして、日本だとコネ力が社会を動かしているんですよ。それを今更、「こんなことはこれまで一切なかった」かのように素知らぬふりをしながら、一方では議員秘書の「コネ」を使ったらしいですわよ、ということを槍玉に挙げるということですな。コネ社会に最も近い連中が、何を言ってるのかなとは思いますな。私のような、下賤の庶民には一切かかわりのない世界ですから、別にどうだっていいんですがね。思うのは、「コネ社会」があたかも存在しないかのような、その厚顔無恥さ、ですわ。一番通用する世界の住人たちに、「議員秘書のコネ」は問題だ、なんて言われたかぁないわな。

いい加減に、猫かぶりは止めたら?
日本はコネ社会です、ってまず認めたらいかがか?
特権階級の人間たちは、コネをフル活用してきました、って言えばいいじゃん。
コネ力を鍛えたかったら、コネ大学に入るのが一番の近道、とか、はっきり教えてやれや(笑)。
コネ大学のある場所もついでに教えてやればいいんじゃね?
そういう大学に「お受験バカ」が大勢集まってくれるお陰で、ブランド価値を高め、コネ信仰を確固たるものにしていったのだ、ということでいいんじゃないか?ま、ボンクラぼっちゃんには、そういうコネが一番お似合いじゃないか?




新書に斜陽の兆し?

2009年02月21日 13時53分50秒 | 俺のそれ
『バカの壁』以降、新書の一大ブームが到来したかの感があるが、これも興味深い題材ではある。ここ暫くだと売上が低下気味らしいが(数字で確認していないので定かではない)、現象を考えてみるとおもしろい。

まず、大ヒットが生まれて利益が生じる。そこに目を付ける人たちが現れて、競合していこうとするわけだ。つまり(独占的な)利益があれば、そこに参入する業者たちが増えてくる、ということ。そうなると参入障壁が低下し、かつては「高水準の書き手」だけが出版に漕ぎ着けられたのが、今度は玉石混交の書き手たちがどんどん参入してくる、ということになる。

外見的には「高水準の書き手」か「低水準の書き手」なのかの見分けが難しくなるからだ。そうなると、ハズレ商品(新書)も当然増えてくることになる。以前には商品数がある程度限られていて、読み手たちの選別という洗礼を受けていたのだが、品数が増えると中々そうもいかなくなる。駄作は何故存在できるかと言えば、良作があるからそこにコバンザメのようにくっついて「便乗売り」ができるからだ。消費者側には、これを選別するだけの情報や能力に限りがあるからである。


ブランド品のヒット商品のマネをして、便乗して売ってくる紛い品みたいなものと似ているかもしれない。
大ヒット商品として仮に「ヒートテック」があるとしよう。すると、これによく似た「フートタック」や「ニートテツク」という商品が他社で売られる、と。もっと広がると、商品の名前や外見だけが似ているというだけの、商品の持つ品質(保温性だの線維タイプがどうの、といったこと)がまるで違うのに、便乗して似たような劣悪商品を売る業者が増えてくる、ということになるのである。「ハム太郎」が流行れば、微妙に違う顔をした「八ヶ太郎」、「ノム次郎」や「公太郎」(縦書き)が売られる、みたいな。


こうした便乗商品の割合が増加してゆくと、品質が低下するので次第に消費者側からは敬遠されていくようになってしまうかもしれない、ということになるわけである。参入が容易であると、偶然に良いものが生まれることもあるかもしれないが、玉が減って石ころばかりになって行ってしまう危惧がないわけではないのである。新書の書き手についても、消費者が石ころを選別して排除するまでのコストというのは、それなりにかかってしまうということになるだろう。消費者側というのは、「ああ、石ころが増えてるから止めようかな」と考えるようになってしまうので、品質が落ちたなと思わせないような仕組み(例えば出版社の編集段階での選別など?)がないと、水準が低下して消費者から敬遠されるようになるのである。


大学入学者もそうかも。
参入障壁というのはちょっと違って、入学試験ということになるかな。入学の基準が厳しい(=参入障壁が高い)と大学の学力水準が維持されるが、入試基準を緩くして水準を下げると入学者(参入者)は増えるものの大学の学力水準が低下してしまう。水準が低下して「石ころが増えたな」と思えば買い手がこれを避けるようになってゆく、ということになるだろう。買い手とは、例えば就職受け入れ先といった人たちだろうか。これが続くと、次第に「石ころ」ばかりが集まってくるようになってしまい、逆選択っぽい状況になっていくだろう。


水準を下げると逆に品質低下を招いてしまって、需要が減少してしまう、ということになれば、いずれは消滅危機に曝されるようになるだろう。なので、参入を容易にしたからといって、必ずしもよい結果をもたらすとは限らないであろう。品質を保つ仕組みが機能していなければ、マーケット自体が崩壊することになってしまうであろう。