例の郵便不正事件後の処理に絡んで、主任検事が逮捕されたという事態に発展した。最高検が「ケジメ」を取るという形で、身内を切ったものと思われる。だが、それで信頼回復に繋がるか、というのは、甚だ疑問である。既に、検察の信頼は失われ地に堕ちてしまっているからである。
今年1月に警告したではないか。
>続・今の「小沢まつり」について
>「”反検察”というラベル」で誘導するかのような切込氏のポジションが気になる件
>検察批判を封じ込めるマスコミの自己正当化
>続・検察批判を封じ込めるマスコミの自己正当化
>司法への信頼を失わせた検察
だが、止まるということはなかった。地検幹部は2月時点で報告を受けていたらしいというのに、それでも村木局長の裁判につき進んでいった、ということである。当然起訴担当の検事たちもいたのだろうし、そういう人たちはあくまで元の作られたストーリーを信じ込んでいたわけでしょう?
誰も、振り返ろうとはしなかった、ということなんでしょう?
途中で改めようとか、変更した方がいいんじゃないか、とか、できなかったということでしょう?
検察批判を非難していた連中は、このような事態についてどう考えているのか、是非とも「検察擁護」でもやってもらって、正当性を主張したらいいんじゃないか(笑)。
あと、裁判で無罪になったのだから「司法制度は十分機能していた」、みたいなことを言う人がいるが、そういうのは単なる「結果オーライ」みたいなのと何が違うのか。
証拠捏造とか、そんなのやられたら「反証できない」ようなものの場合、実際どうすんの?まともにそれが信じられることになるんだよ?
このような腐った検察を、どうやって信じろと?
失われた信頼は、簡単には戻らない。
正義はどこへいったか?
検察は死んだ。
こういうのを止めようがない、間違いを認められない組織なのだ、ということが、明らかになったということさ。
そして、そのような検察と一体となって追い込むマスコミ。
(村木局長の事件の時には、毎日新聞なんかが被疑者の無実の訴えを記事にしていたらしくて、必ずしも全部が叩きに回っていたわけではなかったみたい)
日本を動かすのは、こうした連中なんだ、ってことだ。
木村某とか、今回の検事なんかもそうかもしれんが、こういう末端のしっぽだけ切られたって、しょうがないってことなんだよ。
本質は何も変わっちゃいない。
形式的に人身御供が出されて、処理されたようなフリをするというだけ。
構造は残されたまま、ということさ。
今年1月に警告したではないか。
>続・今の「小沢まつり」について
>「”反検察”というラベル」で誘導するかのような切込氏のポジションが気になる件
>検察批判を封じ込めるマスコミの自己正当化
>続・検察批判を封じ込めるマスコミの自己正当化
>司法への信頼を失わせた検察
だが、止まるということはなかった。地検幹部は2月時点で報告を受けていたらしいというのに、それでも村木局長の裁判につき進んでいった、ということである。当然起訴担当の検事たちもいたのだろうし、そういう人たちはあくまで元の作られたストーリーを信じ込んでいたわけでしょう?
誰も、振り返ろうとはしなかった、ということなんでしょう?
途中で改めようとか、変更した方がいいんじゃないか、とか、できなかったということでしょう?
検察批判を非難していた連中は、このような事態についてどう考えているのか、是非とも「検察擁護」でもやってもらって、正当性を主張したらいいんじゃないか(笑)。
あと、裁判で無罪になったのだから「司法制度は十分機能していた」、みたいなことを言う人がいるが、そういうのは単なる「結果オーライ」みたいなのと何が違うのか。
証拠捏造とか、そんなのやられたら「反証できない」ようなものの場合、実際どうすんの?まともにそれが信じられることになるんだよ?
このような腐った検察を、どうやって信じろと?
失われた信頼は、簡単には戻らない。
正義はどこへいったか?
検察は死んだ。
こういうのを止めようがない、間違いを認められない組織なのだ、ということが、明らかになったということさ。
そして、そのような検察と一体となって追い込むマスコミ。
(村木局長の事件の時には、毎日新聞なんかが被疑者の無実の訴えを記事にしていたらしくて、必ずしも全部が叩きに回っていたわけではなかったみたい)
日本を動かすのは、こうした連中なんだ、ってことだ。
木村某とか、今回の検事なんかもそうかもしれんが、こういう末端のしっぽだけ切られたって、しょうがないってことなんだよ。
本質は何も変わっちゃいない。
形式的に人身御供が出されて、処理されたようなフリをするというだけ。
構造は残されたまま、ということさ。