いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

君は何を見たか

2006年11月16日 18時49分33秒 | 俺のそれ
とても古い感じのタイトルですが(笑)、そういう年代なので。

誰しも、どうしても「認めたくない」ということがあっても、それは構わないと思いますね。ただ、「自分が見たいものだけ見て」、「都合のいいことだけを信じている」というのが、自分自身でないと確信しているなら、まんまとブービートラップに引っ掛かっているようなものです。他人の価値判断や世界観をどうこう言う前に、「自分自身の目」でよく見て、考えてみた方がよいでしょう。

参考記事:
また貸金業関係を書いてしまった

水戸黄門的世界観」を難ずる人々


何かのデータがあって、2つを取り出してきて比較検討する場合、そこには何らかの意図が必ずあります。なぜその2つなのか、ということに説明の意味があるからですよね。


仮に、一つを「ビアガーデンの月次売上」というデータを見るとします(そんなデータが実在するかどうかは知らないのですけれど、とりあえず)。月毎の時系列データです。そこで、売上に影響を与える要因は何だろうか、ということを考えるとしますか。で、比較データを探す時、理由をまず考えるはずです。例えば、説明として次の2つの可能性を考えてみるとします。


①暑くて天気が良ければビールを飲みたくなる人がきっと多いはずだ。だから、売上は天候に関係しているはずだろう。

②景気がいいと会社帰りなんかに立ち寄る人が増えるが、不景気だと支出を抑える気分になるから、売上は落ちるだろう。


自分が支持したい説明があるとすれば、その為の指標を探してみることは普通です。取りあえず、今は②を支持したいとして、何かの経済指標を見るとしますか。それに関連がありそうなもので、いくつか候補を挙げてみます(全くのいい加減な例に過ぎませんので)。

・名目成長率
・実質成長率
・可処分所得額
・勤労世帯の給与所得の伸び率
・失業率

他にも色々とあると思いますが、こういうのをいくつか見て、最も「うまく表現」できそうなものを選択するとどうでしょうか。この場合、失業率が最も売上データとの相関を言いやすそうであれば、「失業率が相関関係を示しているので、ビアガーデンの売上増には、経済政策や失業対策が有効」という風に説明するかもしれません。確かにそういう可能性はあるかもしれない。けれども、本当にそれが説明として妥当かどうかは、ちょっと疑問だな、と思っておくことも必要でしょう。他の意見も参照してみてからだな、とか思うのは普通でしょう。


今度は、①の説を信じているから、天候に関する指標を探して、その関係について考えるものとしましょう。次の候補を考えるとしますか。

・平均気温
・平均湿度
・雨の降らなかった日数
・真夏日の日数
・平均日照時間

こういうので見た場合、「真夏日の日数」が最も相関が言いやすそうであれば、それを選んで「暑い日の割合が多いと売上が伸びる」と説明するということです。ビアガーデンの売上は天候(真夏日の多さ)に影響される、という主張をすることになります。


この2つの説明は違うものになる訳ですが、どちらが正しいか直ぐには判らないですよね。普通の人であれば、研究者でもないし、そんなに詳しく調べたり検討したりする必要性もないので、どちらを信頼してようとも構わないと思いますが、「絶対に天候の方が正しいのだ」と主張し、それ以外の可能性を考慮しないとすれば、それは単に「(結果を)信じ込んでる」ということかもしれないのでは?ということを言ってるんですよ。データを選んでくる時、2つの組み合わせは「意図的」なものですから、そこにはある種のバイアスのようなものがあっても不思議でないのではありませんか?これを考えることすら、そんなに「ハードルが高い」ことですか?かなりの部分は天候でうまく説明できそうだが、それだけの要因ではないかもしれない、と考えることは、普通の態度なのではないですか?うまく説明できてない部分について疑問に思い、例えば「飲酒運転問題」という特殊な社会状況があったから、とか、全体的な消費停滞によって天候の割には売上が伸びなかったから、といった他の要因を考えることは、ごく当たり前なのではないですか?


こういう時、「信じ込んでるヤツラは、『いくら天候なんだよ』と言っても説得されないのさ」と考えていることの方が、自分に都合のいいものだけを見てるんじゃないでしょうか。そのような態度こそ、「天候という要因を信じ込んでいるだけ」だと思えます。論理がどうの、科学がどうのなどと言ってる割には、随分だな~と思えますね。


何かを立証せよ、と求めてる訳でもなく、「何故~と考えたのか?」という思考の道筋を尋ねているのに、「ハードルが高い」も何もないでしょう。「何故比較するデータとして、『真夏日の日数』を選択したと思うか」という質問に、「アイスクリーム販売が天候に左右されると思ったので、ビールもそうかもしれないと思ったから」とか、普通に答えられるでしょう。「暑い日が多い方が、ビールの売行きがいいはずだろうと考えたから」とか、自分で考えた道筋はあるわけでしょう?自分の考えを決める時、賛成・反対いずれでもいいのですが、何かの理由か考えがあるから「賛成」または「反対」が決定されるのですよね?こんなの「立証」でも何でもないでしょう。答えるか否かは別として(感情の問題でしょうから)、もし答えるにしても、何ら難しい要求でもないでしょう(笑)。


何かの関係を見るとき、それを選ぶ側に特定の意図があるのは普通なんですよ。曖昧な記憶ですが、「太陽の黒点周期」と「農作物の収穫高」の関連を調べたりしてる経済学者がいたのですよね?これも、それなりの「相関関係、係数」になってるのではないですか?何かの意図を持ってデータから結論を言おうと思えば、そこそこ可能なのですよ。なので、本当に意味があるのかどうか、という視点は必要でしょう。それを認められないとすれば、それこそ「信じたいものだけを信じる」のと同じなんですって。


適当に思いつく例はありますよ。
「最近の出生数の増加への反転は景気回復によるのではないか」みたいな感じで報道されてたのですが、これもいくつかの解釈は有り得ますよね。仮に、「少子化は経済環境(景気)に影響されるので、不景気になれば子どもの生まれる数は減り、好景気になれば逆に増える」と考えることもあってもいいかもしれません。

じゃあ、ってんで、試しに1980年以降の合計特殊出生率と日本の長期金利を比べてみると、「あら不思議」ってなもんですな。両者には「相関関係がある!」という大発見ですか(勿論冗談なんですからね)。なら、長期金利が上がれば、合計特殊出生率も上がっていくと予想され、長期金利を上昇させる方法が少子化対策に有効な政策ということですかね(本当は合計特殊出生率は出生数とは違うのですが、まあ、とりあえず)。


出生数及び合計特殊出生率の推移

MRI エコノミストの眼 金利が左右する消費税論議

(グラフの雰囲気では似ているでしょう?)


ここで、何かを立証してみろ、などと言ってないし、「どうして長期金利という指標を選択したのか?」ということを聞いてるんですよ。長期金利を説明することで、合計特殊出生率の変化をどのように説明しようと考えているのか、ということを聞いているんですよ。「最近は好景気になったから出生数が増えた」と主張してるなら、過去に何度かあった好景気の時期にも同じく増加トレンドになるはず、と普通は考えるでしょう。でも実際は減少傾向であるなら、「その時期には増加しなかった別なワケがある」と解釈しているからこそ、「最近は好景気だから~云々」の説明をしているはずなのですよ。なので、「過去の好景気の時期にも増加トレンドになるはず」と考えなかった理由は何か、即ち「別なワケがある」と考えたはずだろうから、「それは何ですか?」という質問をしているのですよ。


このような簡単な質問が理解できないのでしょうか。これは立証でも何でもないではありませんか。まあ、長期金利と合計特殊出生率には「相関関係がある」と言い切られ、それを「認めないヤツラは、「関係ない」と信じ込んでいるから説得できないんだーー」と、あらぬ方向に逝っているようなものです。これこそ、「自分の都合のいいものしか認めない心理」と呼ぶべきなのではありませんか?


「Xさんが~~と言ったから」ということを受け入れてそれを信じるのであれば、自分は「Xさん(の言うこと)を信じている」ということだけでしょ?それ以外に言えんでしょ?それは権威主義的に、「信じたいものだけを信じている」だけなんですって。「結論ありき」とは、「長期金利と合計特殊出生率には相関関係がある」ということを、あくまで正しいものとして信じ込んで、他の可能性も説明も捨てているってことでしょう。これも理解できないのであれば、科学がどうのとか、学問が何だのとか、そういう問題ではないでしょう。



「シャンシャン総会」みたいなもの?

2006年11月15日 13時35分12秒 | おかしいぞ
タウンミーティングの問題がジワジワと燃え広がってきたようだ(笑)。しかもサクラ部隊のエキストラには「日当付き」ともなれば、これはちょっとマズかったよね。


何となく、昔の株主総会みたいなもんですかね。私は参加したことはないのですが、物語みたいなイメージでは「異議なーし!!」という感じのサクラ部隊が大量に動員されてたりするんですよね(笑)。今ではそういうこともなくなってきたのだろうけど。


開催担当側の心境を考えると、何となく理解できなくもない。総会とかタウンミーティングで、「段取り」通りに進行させることが求められるだろうし、適度に質問なんかが出るように小細工しておいたりするとか、シナリオに沿った「安定した進行」が一番安心だもんね。なので、運営・進行担当は細かく気を配り、粗相のないように細心の注意を払い、セッティングを準備してしまった、と。気持ち的には判らないでもないが、やはりマズイですよ、これは。


でもですね、一番マズイのは「特定個人」にその失当の責任を負わせるのは、ちょっと酷ではないか?犯罪行為とかならば勿論大問題なのだが、まず、組織的・システム的な問題であって、例えば株主総会の「総会屋担当総務部長」だけにその責任を押し付けるようなものなのではありませんかね。「報ステ」だったかで、その担当だったという当時の広報室長(今は内閣官房参事官)が実名で晒されていたが、これもちょっとどうなんだろう、とは思う。株主総会で「株主社員を動員指示する係りの人」とかだけに責任を負わせるか?普通。それは企業組織が問題なのであり、「総会屋」との関わりが問題であったりするわけでしょ?


所謂特ダネを取ろうと思って直接の当事者に取材する場合には、ソースを完全秘匿し、情報提供者を最後まで守り抜くことで「情報を引き出す」という取材は有り得ると思うのだが、個人そのものをいきなり晒してしまえば、やはり「徹底的にバッシング」するターゲットを「ロックオン」状態(笑)にするということにしかならないのではないかと思う。文科省もちょっと酷くないですか?何も、現段階で特定しなくてもいいんじゃないのかな。「会社」が守ってくれなくて、初めから「生贄」として捧げられる社員の身にもなってごらんなさいな。酷いよ、やっぱり。

少なくとも、現段階では「詳細を調査中です」とか、「正確な事実関係を調査中ですので、最終調査結果が出るまで関与した個人についての責任等の判断につきましては、予断を与える恐れもあることから差し控えさせて頂きます」とか、言えるように思えますがね。組織から人身御供のように切り捨てられるということなら、辛すぎるのでは。局長クラス?より上の判断では、「トカゲの尻尾切り」で終わらせようということなのかもしれないけど。


もしもこのような「仕込み」をしてないとどういう事態が想定されるでしょうか。ひょっとして、共産党員、日教組関連、人権・市民団体等の方たちが「大挙」して押しかけ、大臣を吊るし上げにするとか?(笑)もしもそういうのが本当に行われるとすれば、それはそれでちょっと見てみたい気もしますが(ゴメンナサイ、不謹慎ですか、やっぱり。悪乗りでした)。まるでNHKの「それから」シリーズものみたいな感じで(笑)、会場の参加者たちがヒートアップしていったりとか、過激な意見がバシバシ出されたりとか?ああ、そうだな積極的な賛成の立場の人たちはあんまり来ないか。「~~はんたーい」とか、「権力は悪だー、政府の横暴を許すなー」というような方々が積極的に参加しそうかも、やっぱり。ホラ、「弁護士 灰島秀樹」というドラマに出てきた「住民説明会」の会場の雰囲気みたいな。ドラマの影響を受け過ぎでしょうか(笑、現実もそうだと信じている訳ではありませんよ)。


<ちょっと寄り道:
灰島弁護士のドラマは結構気に入っていた。中々示唆に富んでいたですよ。あれも、住民集会に呼び寄せたメディアの「エキストラ」に日当を配ってたけどね。単なる偶然だろうと思いますので(笑)そんなことは別にいいですが、最終的に公共事業を住民側と行政側の双方の意見を取り入れて、「何でもダメ、全部ダメ、白黒どちらかじゃなけりゃダメ」という結論を抜け出したことが、良い終わり方だと思ったのですよね。やや大袈裟に描いていた(わざとだろう)のですけれど、象徴的に分りやすく表現されていました。できれば続編を希望したいですね。>


そういう心細さが主催側にはあるから、やっぱり「味方」をそれなりに動員していおかねばならないと考えたのかもしれないし、反対勢力を分断して、参加者の中で分散化させ、サクラ部隊で包囲網を敷いておこうということだったのかもね。

ところで、前に書いたように(肥大化する官邸?)、行政は本当に広告代理店を開けるくらいの「広報活動」を担っているんですね。文科省にも広報担当の専門部署があったようで。どうやらあちこちの広報部門にも、色々問題が隠れているのかもしれません。



「社会が悪いのさ・・・・」に行き着くのは何故?

2006年11月15日 00時05分04秒 | 俺のそれ
ウンザリされていると思いますが、もうちょっと書いておきます。どうぞお許し下さい。

どうも、「におわせ」だけでは「読み取れない」であろうと思いますので(書き手の能力が著しく低いのが原因ですけど、スミマセン)、率直に書いていきます。


ある政策決定際しては賛成、反対と色々ある訳ですが、それには雑多な人々が判断を下し、意思表示を行い、何かのアクションを取ったり取らなかったりするのです。これに影響を与えるのは、政治家、官僚、マスメディア、世間の空気等々あると思います。どうも「論理的な議論をせねばならないんだ!」と切に願っている割には、「恨み節が多すぎなのではありませんか?」という人々が見受けられることがとても不思議なのですよ。


政治家のバカ野郎、とか、悪徳官僚や首長が癒着してやがるんだ、とか、資本家が搾取してるんだ、とか言う、一般大衆を笑うのはいいでしょう。それは単なる個人的感情表明ですからね。世間の空気に同調するマスメディアを非難するのも、それはそれで一法でしょう。そのことに特別な論理も何もありませんよね。ただの意見表明であり、言論には言論で対抗する、ということでしかないと思えます。


ところが、いかにも学問を装って、正しいとも言えないことを言うのは如何なものか、ということがまずあります。でも、複雑なこととか、まだ誰にもよく判っていないことなんかがあるわけですよね。そういう場合には、いくつか試行錯誤を繰り返しながらも、議論を積み重ねれば「何かいいアイディア、方法」が浮かんでくるかもしれない。もっと専門的な知識を持つ人々が「一生懸命」考えれば、更に別なプランが出てくるかもしれない。そう思うのは普通ではないですか?


政策決定は、一般大衆にとっては「時間との戦い」になります。それに意見表明しつつも、学術的にどうなのか、ということが「正確に判らなくても」判断を下さなければ、行政側の提示で一方的に決定されてしまいます。例えば、年金改革関連法案とか、障害者自立支援法とか、そういうことがありますよね。国民側からの「強力な意思表示」がなければ、アッサリとスルーですよ。なので、現時点で「正確に判っていなくとも」、賛否どちらかの意思表示を行うのは仕方のないことでもあるのです。これを全ての国民に「正確に理解して判断せよ」ということを求めるのは、かなり困難でしょう。それでも、行政側の決定は、常に待ってくれるとは限らないのですよ。


もしも政策決定について問題意識を持ち、正しい答えを知っているのであれば、それを認知させる努力をするべきであろうし、対立意見の論点については意見で対抗するべきでしょう。十分説得的であるなら、マスメディアの人たちだってバカではないのだし(というか、元々は凄く頭のいい優秀だとされる人たちなのですよね?)、ある一定の判断能力もあれば認識もあるので、報道の方向を変えるかもしれないし、もっと論理的な意見を取り入れてくれるかもしれない。そういう論点提示をどれくらいやれるか、ということだろうと思いますよ。記者氏には中々気付かない視点があるのであれば、判る人が代わりにその示唆をしてあげればいいのだし、その正当性についてそれこそ論理的・学術的に探求していけば済むことです。いくら罵倒し叩き続けても、物事がよくなることもないし、別な案が浮かんでくる訳でもなければ、問題解決に繋がる訳でもないでしょう。


それなのにですね、一部の人々には不可思議な行動というか現象が見られるのですよ。

弁護士たちをバカだのと責めて、彼らに何か伝わるのでしょうか?
懇談会の座長やメンバーを誹謗して、彼らは何か得られますか?
マクロ経済音痴だ、と責めることで彼らは何かの答えに近づけますか?
政治家をバカにしてみることで、政治家を説得できるのですか?
裁判官を法匪だの経済無知だのと罵って、新たな知見は出てきますか?

しまいには、メディアもアレだとか、一般大衆は感情論だ、魔女狩りだ、とか、全てを罵倒し大衆を敵視していくことが、解決の糸口であると考えているのでしょうか?


学校が悪い、教師が悪い、親が悪い、大人が悪い、社会が悪い・・・・・まるでソックリです。
同じではありませんか?
いくら、「理解できないオマエらが悪い、世間が悪い」とか言い続けても無駄なんですって。
それでは、何も変わらないんですって。


感情論を抑制するべく、深層部分をどんどん探求すればいいのではありませんか。
もっと説得的な言説を示し、わかり易く答えを教えてあげればいいではありませんか。
そういうトライを続ければいいではありませんか。

そういう中から、一つくらいは使えるものが出てくるかもしれないし、他の誰かがもっと考えてくれるようになるかもしれない。


結局、何かの言葉尻を捉えたり、揚げ足を取ったり、罵倒・誹謗に終始し、誰かの能力的問題を論い、誰かを呪い、世間の無知無能を嘆き、ひたすら恨み言ばかりを言ってるのと変わらないんですよ。それで誰を説得しようとしているのでしょう?世間?政治家?それとも、単なる不満のはけ口か、自己満足の世界ですか?


7月終わりには、朝日新聞は坂野先生の論説を詳細に取り上げ、掲載していたのですよ。それこそ、(「ライフイヴェント」ではない方の)論文にあった、超過需要発生・GDP減少の論説は出ていたのですよ。必ずしも、一方的なものばかりでもないし、フジサンケイビジネスアイだって業界側の意見や、アナリストの意見だったか載せていたではありませんか。


池田信夫氏にしても、初めのうちは坂野論文を論拠として取り上げていたし、市場は十分「競争的」で借り手は「合理的」なのだ、と言っていたが、最終的には修正していったではありませんか。池田氏に私のようなド素人が何も言わない方が正しかったのかもしれませんが、それで良いとは思わなかったから、私は自分の意見を主張しましたけれども。最大の理由はきっと47thさんの記事とか、大竹―池尾論議だったと思いますが(コメントなんかは、そういう意図で述べていたと思う)。


もしも自分達の主張するべき意見があり、それが論を検証するのに役立つと思うのであれば、大竹先生や池尾先生などにもその意見をきちんと主張すればいいではありませんか。坂野論文や堂下論文を読み返して自論の補強をするなり、別な文献を探すなり、「プレディター」に対抗できうる論点を考えればいいではありませんか。それとも、違う解決方法を探すなりして、糸口を提示すればよいではありませんか。その有効性・効果について検討し、経済学理論に照らし合わせてみたり評価したりすればいいではありませんか(当然私には無理、能力不足だから)。


実際はどうですか?
遂には、水戸黄門を笑うところまで来てしまったわけですが(笑)、如何に水戸黄門を笑おうとも、政策決定には何ら関係ないのではありませんか?そういうところに進むのが好きなのであれば、それでいいですよ。笑えばよろしい。いつまでも、誰かを笑っていればよろしい。それが充足感を得られ、満足なのであれば。


svnseedsさんの論説には、内容的にちょっと疑問を感じていますが、それでも、ただ罵倒や批判に終始するよりは、はるかにいい。実際のデータと向き合い、そこに何かを読み取ろうとするという姿勢があるからだ。そういう作業をできる人がやればいいのだし、考える能力を有していて、知識もあるのであれば、そういうのをできる人たちがやっていけばいいじゃないですか。元々、経済学理論を知っているのでしょう?他の一般人や弁護士や判事なんかよりも。であれば、考える道筋を教えてあげれば済む事です。それを放棄しておきながら、ひたすら世間を恨んでみてもしょうがないんですよ。大衆の無知を笑ってみても、自分たちもそれと何も変わらないのですよ。これまでそういうことをやらなかったから、説得に失敗したのではないでしょうか。


借入額を年収水準の1/3だとか1/4だとか書いたのなら、その功罪を確かめたりすればいいではないですか。「ライフイヴェント」は説明要因だが、「金利」や「借入額」は説明要因ではない、と主張していたこととどのような整合性があるか、考えてみればよいではありませんか。一方では「金利はリスクを反映する」と言いながら、他方では「金利」が破綻の説明要因(貸倒リスクの違い)にならないとは、一体全体どういうことなんだろうか矛盾ではないか、とか考えてみればよいではありませんか。

そういう過程の中で何かに気付いたり知ったりしたのであれば、いかにも学問風という装いを捨てて、素直に評価してみればいいではないですか。考えられるだけの知識も能力もあるのでしょう?そんなの経済学を必ずしも利用する必要なんてないじゃないですか(勿論、利用できればそれでいいけど)。今ある、あなた方皆さんが持ってる知恵や知識を合わせれば、もっといい考えに繋がるかもしれないじゃありませんか。


学問的に結論がよく判ってない事柄なのであれば「絶対的正当性」は捨てておくべきで、いかにも学術的に正しいという錯覚を与えるようなことは初めから言わなけりゃいいんですよ。その程度のものなんではないですか?そういうレベルであるなら、どれほど頑張っても、結論を豪語することや経済学を知らない人間たちを罵倒するなんてことは起こらないでしょう。


経済学的に考えなけりゃダメなんだ、と言いたいのであれば、別に坂野論文や堂下論文を出さずとも言える訳だし、論点を積極的に提示したいのであれば、その論点に反論や問題点の指摘があるなら(絶対にない、と確信しているならしょうがないけど)言論で対抗するべきなのではありませんか?自論の問題点は無視に終始する、ということであるなら、経済学の学術的っぽいフリをするのは止めて、「よく判らないけど、ただ(権威に基づいて)信じている」と表明すべきだろう。


あたかも正しい経済学理論を匂わせ続けるのは、卑怯としか思えないのである。それそこ、「ドンデモ」と何が違うのか。

そんなに、自ら認めるということが罪悪なのですか?
ワケ知り顔で、「やれやれ、これだからバカどもは・・・・大衆は所詮・・・・」といつまで言っていても、何も得られないのではありませんか?

それは単なる能力の浪費に過ぎないのです。



編集画面にないものが表示されてる!!

2006年11月14日 17時51分28秒 | おかしいぞ
どうしよう。

困った。昨日の記事のタイトルの上に、変なリンクが3つ出てる。
怖くて押せない。


これは何故?

編集画面には出てないのに。

うーん、gooさま、何とか調べてもらえんかな?
今時間ないので、とりあえず。


「松茸狩りゲームに挑戦しよう」とか、変なのが出てる。
これって、嫌がらせか何かでしょうか?
何でしょうかね・・・


追加:
今見たら、一つ上の今日の記事に上がってきてる。
どうして?
不思議だけど、どうしようもないのか?



「水戸黄門的世界観」を難ずる人々

2006年11月14日 13時28分06秒 | 俺のそれ
svnseedsさんの所にコメントもあり、リンクもありましたので、すなふきんさんの記事をご紹介させて頂きます。

すなふきんの雑感日記 - 水戸黄門的世界観に嵌る人々

(一部引用)
結局スケープゴートを血祭りに挙げることで本当の問題の隠蔽がなされるために、解決は一向に進まない。庶民が苦しんでいるのは既得権者や官僚など含め誰か悪い奴らが暴利を貪っているからで、そいつらを退治することで正義は実現されるという水戸黄門的世界観がここにもある。見当はずれな政策はかくのごとく進行する。


続いて、こちら。


すなふきんの雑感日記 - 自分の都合のいいものしか認めない心理

(一部引用)
「まず結論ありき」で、議論はそれを追認する意味しか持たないという状況はいろいろな場面で散見される。議論を通じて疑問点を解明し不都合が判明すれば是正していったりという本来の機能が無視され、予めこうと決まってるんだからその線に沿ってやれという一種の権威主義が根底に存在するのだろうか。




このように、svnseedsさんやbewaad氏の賞賛を受けた卓見を示されておるわけでございます。

私のような「水戸黄門的世界観」を有する人間にとっては、大変勉強になるわけでございます。


そこで、是非ご教示下さればと思い、いくつかご質問をさせて頂きたく存じます。
コメントを残されていたので、恐らくsvnseedsさんの当該記事をお読みになられたのであろうと思いますので、それについてお伺い致します。


①svnseedsさんの論考は大変興味深いものでしたのが、それを肯定的、または否定的とのいずれとお考えなのでしょうか。安易に推測させてもらえば、コメントには特段の問題点の指摘を残しておられなかったことから、賛成のお立場なのではないかと思いますが、もし違っていたならば謝りますので、どうぞご容赦下さい。


②もしも賛成のお立場をとられているとすれば、グラフに「上限金利」と「業者数」の推移が示され、特に「業者数」はいくつかのグラフに用いられていた訳ですが、何故「業者数」を”敢えて”選択したとお考えでしょうか?他にも変数や経済指標等、比較対象の候補が数ある中で、特に「業者数」がある意図を持って選択されている訳ですから、これをどのように捉えられたのでしょうか?通常は着目するだけの理由というものが存在しますので、そこを考えているからこそ「賛成」のお立場をとり得るものと思いますものですから・・・・。


③もしも否定的のお立場であれば、どこが否定的とお考えになられたのか、その理由をお伺いしたく存じます。


グラフというのは文章で書くよりも大変説得的でして、会社のプレゼンなどでもよく用いられたりするのではないかと思います。とても効果的なのですね。

「自分の都合のいいものしか認めない心理」或いは、「一種の権威主義の存在」と鋭く断じておられるすなふきんさんですので、「水戸黄門的世界観」を有するような低レベルの私に、ご教授頂ければ幸いに存じます。


「オメガブロガー」故の不調法を、どうぞお許し下さいませ。



教官冥利に尽きるのではないかと思う

2006年11月13日 15時31分17秒 | 社会全般
以前に紹介しました中西先生のHPですが、悲しい出来事を知りました。

宇井純先生が亡くなられたそうです。

J. Nakanisi Home Page

Wiki にも書き加えられている(些細なことだが、「飛田」は「富田」のようだ)。

宇井純 - Wikipedia


お恥ずかしい限りですが、私は中西・宇井両先生を今年になるまで存じ上げておりませんでした。


でも、今回の記事は、特に心に滲みた。

科学者であることは厳しく、辛い。


中西先生の記されている、

「研究者の社会で、無能という烙印ほど辛いものはない。「有能だけど不遇だ」などと言われているうちはまだよいが、不遇が続けば無能になる」

という言葉は重かった。


私には研究者とか教官の経験がないのでよく判らないのであるが、周囲の評価は一定の影響力があるのであろう。それでも、意志を貫こうとするのは、凄いことなんだろうな、と。


そして何より驚いたのは、中西先生をして、
「我々を支えた、本当の力は学生達だった」
と言わしめたことだ。


大学教育とは何か、教師(教官)とは、学生とは・・・・・
色んな思いが浮かんでくるが、これは当事者になった者でなければ分らないのかもしれない。
学生達に支えられた、と思える教官は、教育者として幸せであろうと思う。


きっと宇井先生の教え子達は、あちこちで活躍していることだろう。
どれほど優れていても、自分1人の能力には限界がある。でも、教えるということは、それをもっと多数の人たちがそれぞれに実行できるようになる、ということだ。教育とはそういうものなんだろうな、と思う。


葛藤と苦しみの中で、科学者の良心を持ち続けた宇井先生の功績に感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。



また貸金業関係を書いてしまった

2006年11月12日 16時53分46秒 | 社会全般
上限金利ものは書かないと言ったのに、書いてしまいます。悪しからず。


svnseedsさんが大変見やすいグラフを示して下さっております。

svnseeds’ ghoti


このような作業はきっとご面倒だったと思いますが、グラフになっているのでとても判りやすいです。厚く御礼申し上げます。

論点は今まで大体記事に書いてきたので、挙げておきます。

闇金が増加したワケ(追加あり)

坂野教授に反論する(追記後+訂正あり)

貸金業者数減少は上限引下げが原因か

貸せなくなるって、本当?

生活困窮者の対策と破綻処理(追加あり)

貸出金利の条件について


いくつか気になった点を挙げてみたいと思います。


①貸金業者数に関して:

・上限金利と業者数の減少は「相関関係が見られる」と説明されております。

是非「質屋の業者数」もグラフに加えて頂ければ、と願っておりますが、質屋の数は減少傾向であって、貸金業者の減少とほぼ似たトレンドではないかと思います。このような場合、「相関関係はある」と言えるのでしょうか?質屋の上限金利は別モノですけれども、同じように業者数は減少トレンドなわけですから、必ずしも上限金利の低下と業者数減少には「関連がある」とも言えないように思えます。

業者間の競争が激化していけば、業者数が減少することは普通であるように思えます。また、経済学に詳しい方々がよく取り上げられる需給と価格ですけれども、「貸金業の信用供与額が増加」(需要の増加)、ということがあったのですから、私の素人考えで申し訳ないのですけれども、「価格」(すなわち貸出金利)が低下するのは普通なのではないか、とも思える訳です。上限が下がったことで「平均約定金利が下がった」という説明の方が、経済学的な理論から言えば「妥当性が高い」ということでしょうか?数回の上限引下げがなければ、「価格は低下しなかった」即ち「金利低下も起こらなかった」ということでしょうか?


・上限引下げによって業者数が減少して寡占化が進んだと説明されています。

単に数について言えば、それでも現状で4千社程度はある訳ですし、代替的なクレジットキャッシング業者もそれなりに存在しているので、ここにアクセスできない人たちは少ないのではなかろうかと思っております。銀行等の民間金融機関は、これよりもはるかに少ない(大手銀行、地銀、第二地銀、信金、信組、農協、郵貯等の合計)のですが、これを数的に寡占と言ったりするのでしょうか?

小規模業者が淘汰された場合に問題とされているのが何なのか判りませんが、もしも大手などとは「マーケットが異なる」(これは47thさんがちょっと記事で触れておりました)可能性とか、他の誰も貸さない借り手にのみ貸す、ということを想定されているのでしょうか?他の貸金業者から一切借入不可能で、小規模業者の少しだけ高い金利でなら「借入可能」という借り手は、そんなに多く存在しているとは考えていないのですが、そうであれば、そのような借り手はそもそも多重債務には陥ることは少ないように思えます。「小規模業者からしか借入できない」という借り手の貸出残高は、年間貸倒引当金よりも小さいはずです。

池田信夫氏やbewaad氏などの早大の坂野論文を論拠として支持していた方々は、論文中にあるように「貸金業の市場は(ほぼ)完全競争市場である」ということを前提に考えておられたのではないかと推測しますが(そうでなければ坂野論文の内容を支持できなくなると思います)、業者数が減少してきたからといって、それを「寡占だ」などとは考えていないのではないでしょうか。

イギリスでの業者数は日本よりもかなり少ない訳ですが、「業者数が少ないイギリス」では日本よりも寡占化が進んでいて競争が阻害されている、ということを言っておられるわけではないのですよね?


・図6の説明に関して、次のように記されています。

『2000年までは失業率と業者数は無関係に推移していましたが、2001~2002年の失業率の更なる悪化に伴い業者数が増加し、その後失業率が改善するに従い業者数も急激に減少している点が興味深いところです。』

まず、一時期の業者数増加の原因は、私の推測としては、悪徳業者(闇金系ですね)に流行った手口が財務局に登録して引っ掛けるというもの(借り手を信用させる為)でしたので、この登録件数が多かったからだろうと思っています。スポーツ紙広告などに掲載するやり口ですね。もしもこの増加がなければ、ほぼ直線的な減少トレンドは変わらなかったのではなかろうか、と。単に元のトレンドに戻ってきただけなんじゃないのかな、と。

上記注釈によれば、「失業率の更なる悪化に伴い業者数が増加」とされていますが、そうであれば、それ以前の失業率が上昇した時に業者数が増加すると考えなかった理由というのは何でしょうか?また、「失業率が改善するに伴い業者数が急激に減少」とも述べられておりますが、この両者と考え合わせると、「業者数は失業率の変動に確実に影響を受けている」と解釈している、と受け止めてよろしいでしょうか?もしそうであれば、svnseedsさんが主張されている「上限金利引下げで業者数は減る」ということとの影響度の程度をどのように考えておられるのか、ご意見を伺いたいと思います。


②ライフイヴェントに関して:

失業率と自己破産件数のグラフですが、これはとても説得力のあるグラフですね。相関係数も出しておられて、失業が大きな要因である、というのは確かにその通りであろうかと思います。「ライフイヴェント」を裏付けるものである、とのご趣旨も頷けます。

そこでお伺いしたいのですが、失業と破産件数の相関は、日本だけに見られる特徴的現象なのでしょうか?もしもそうであれば、他国との比較というのはできない訳ですが、「ライフイヴェント」は割りと何処の国でも起こるように思えますので、「破産原因はライフイヴェントだ」というのを比較できるようにも思えます。あくまで素人考えなので、申し訳ないのですけれども。

もしも図4にアメリカの自己破産件数をグラフ化するとどうなのでしょうか。この作業をやってくれとは申せませんので、ザッとの印象だけですみませんが、確かアメリカの自己破産件数と日本の自己破産件数の推移は割りと似ていたように思います。そこで、まさか日本の失業率とアメリカの自己破産件数に相関関係がある、などとは言えないのですが、しかし、データだけを持ってきて見てみれば、関係があるかのように「目に映せる」んじゃないのかな、と。少なくとも、日本においては失業というのが、家庭のキャッシュフローの「in-out」バランスに大きく影響することは間違いなく、それは私も当然だろうと考えております。ただ、注意すべきは、「in」部分に大きく影響する要因、「out」部分に大きく影響する要因、(つまりはライフイヴェント)ということを考えるのは勿論でしょうけれども、借入額とか金利というのがどのような影響を有しているか、ということについての判断には至らないのではないかと思っています。それ故、坂野論文での分析においては、モデルに問題があると考えていました。

英米二カ国においても、自己破産件数と失業率には有意な相関関係が見出せるということであれば、破産の主たる要因は失業ということで決着がつきそうに思いますが、これはおそらく違うだろうな、と考えています。失業率の低下トレンドの時期であっても、自己破産者は増加してきていると思います(前に記事を書くとき見たように思いますが・・・・どこで見たのか忘れましたので資料がないのですけれども、金融庁だったかtalpasのところだったか、のように思いますが・・・定かではありません)。もしも、日本だけに特徴的であるとすれば、どのようにお考えなのかな、とちょっと思います。


自己破産件数増加要因としては、他にもあると考えています。「整理弁護士」の積極的な介入や司法書士介入(時期は別でしょうけれども)とか、『夜逃げ屋本舗』のような映画だったかテレビ(笑)とか、とにかく多くの人々に自己破産制度があると認知されてきたから、ということがあると思います。過払い返還の増加もそういう面があります。それと、利用者の絶対数が増加すれば、破産者の発生確率が同じであっても、破産件数の絶対数は増加するだろうと思います。


svnseedsさんの記事と直接関係ない話ですので、申し訳ないのですが一応書いておきます。
普通に考えれば、同じ程度のライフイヴェント発生確率の集団を見れば、「借入額が多い」、「借入金利が高い」というのは破産リスクを高めると思いますが、そういう分析は日本ではなされていないのでしょうか。ライフイヴェントの発生確率が異なっているか予め判っていない集団であっても(恐らく職種とか勤続年数等の違いが審査されるのではないかと)、金利が高い層は「貸倒率が高い」ということが起こるはずであり、逆に金利の低い層は「貸倒率が低い」ということになるのではないでしょうか。そうであれば、「金利水準」が説明要因になるのではないでしょうか?もしもこうした区別をつけず、破綻リスクには関係なく一様に貸すのであれば、全員同じ金利が適用されるはずで、その集団ではある水準でライフイヴェントが発生する、ということになるでしょう。それとも、金利の高い層では低い層に比べてライフイヴェントの発生確率も高い、ということを考えているのでしょうか?堂下論文を肯定している人たちには是非お伺いしてみたいと思っていましたものですから。無理にお答えにならなくとも宜しいので・・・。


③貸金業者の利益に関して:

『図3から読み取れるように、業者数の減少が2002年以降の需要の停滞・減少に大きく反応していることから、サラ金業の多くは世間で言われているほど儲かってはいないのではないか、とも言えそうです。』

仰るように、近年の利益減少は確かにあると思います。
90年代後半以降、大手は営業経費を縮減してきたので、貸出残高対比では貸倒引当金以外の営業経費率は低下しています。調達金利の低下(笑)もその一つですね。即ち、本来であれば営業利益が増加する体制になり、その環境も整ってきているわけです。00年の引下げ後であっても、貸倒率以外の経費は約5~6%程度です。ところが、「貸倒率」の上昇が続いてきたので(今年は低下に転じたはずですが)利益は縮小し、過払い返還費用もかさんできているのが現状です。貸倒率は7%前後、返還費用が2~3%ですから、両方で約10%程度の比率となっています。営業経費に占める割合は、それ以外の営業費用よりもはるかに多いのです。以前は貸倒率が3%以下でしたから、利益も多かったのですね。

返還費用を考えないとして(返還請求は一時期のものですから)、貸倒率6%、それ以外の経費6%としても、平均約定金利が18%であれば、営業利益6%ということになり、引下げ前の水準(2003年頃)と利益率は大きく変わりません。貸倒率のコントロールが大きく影響するということは言えると思います。

大手以外の中小業者になると、貸倒率の高い業者が存在する、それ以外の経費率が大手に比べて高い、というコスト構造が見られますので、大手に比べれば非効率である可能性は否定できないと思います。商品の違いとか、顧客層の違いによって、それでも生き残れるのかもしれませんけれども。これは推測ですので実際どうなのか判りませんが。


長々と書いてしまい、申し訳ありません。どうしても回答して欲しい、というものではありませんので、無理をなさらなくともいいです。

「見たいものだけを見る傾向」というのは、私にもズバリ当てはまるわけですが、このようなアドバイスをされている賢人もネット上にはおられるようです。恐らくsvnseedsさんのグラフを見て、その関係性については「一目瞭然」とか、「相関関係があるのは明らか」ということには必ずしもならないのではなかろうか、と思っていますが、それは「見たいものだけを見ようとする」(見たくないものは見ない?)私の個人的性質によるかもしれません。でも、今回このような実際の数字、過去の経過を取り上げて頂いて、感謝しております。私の素人談義では影響力がないもので。



議論も何も

2006年11月12日 12時31分09秒 | 俺のそれ
まず、根本的な部分を言っておきます。
「経済学」を最も揶揄し、貶めている人々とは、誰あろう「経済学信奉者」たちではないですか?一般の経済学素人などではありませんよ。勿論大衆でもない。学問に対する敬意ですって?敬意を持っていて、どうして彼らのような態度、言説が出てくるというのでしょう。


私は弾さんの気持ちが分るような気がしますよ。思わず訝りたくなる気持ちもね(笑)。

経済学を謳ってる連中が如何にいい加減なことを言って、デマをばら撒いていることか。
彼らが自ら笑いものにしているような「経済学」を、どうやって信頼ができると?


私の考える経済学信奉者たちというのは、学者とか、民間の所謂エコノミストとか、行政・政策に関与する人々とか、大学院生とか、大学生とか、経済学マニア?とか、そういう人々がいると思いますね。常にそういう人々の誰かが「ウソ」を言い、胡散臭いデマをばら撒き、「経済学理論ではこれが当然」と喧伝し、それを攻撃する連中と防御する連中が年がら年中批判を繰り返し続けているのですよ。

ただ不毛なことだけが繰り返されているに過ぎない。
彼らは、それが経済学の一部であると考えているのではないか、とさえ思える。傍から見れば、異常としか思えませんね。そういうのが経済学信奉者たちのやっていることです。彼らの発言を見れば、あーそうか、と思ったりします。


要するに、経済学信奉者たちは、ただただ他人を「アフォ」と思ってるだけでしょ。「オレには分るが、オマエらには分らんのだ」という優越感への陶酔、他人を見下した態度、経済学至上主義的物言い、「素人はすっこんでろ」という排他性、自己の支持する理論のみが最善であるという非常に非常に強固な確信、そういう特徴を感じますね。


これまで貸金業の上限金利問題で見てきたように、経済学信奉者たちには「何を言っても無駄」というのが率直な感想。いつまで経っても同じですもんね。「議論」とかそういう問題ではないよ。経済学以前の問題としか思えんね。これも何度も書いたけど。


彼らには初めから結論が出ている。
何たって、全て分っているらしいからね、経済学理論に基づいて。
他の可能性とか、実際の数字とか、そういうのを見たり考えたりしないしね。
経済学理論で完全に明らからしいから。
そういう全知全能には対抗できんワナ。こっちは素人なんだし(笑)。
ああ、「らしい」とか書いちゃうと、またアレだけど。


経済学信奉者たちは大言壮語というか、自分たちの正しさを喧伝し、結論を豪語し、他の意見を排撃する。
これ最強。

まだ正確に判ってもいないことなのに、豪語なんてできんよな?
あんなに大衆をバカにしたりもできんよな?
金融庁や懇談会メンバーをバカにもできんよな?
自分たちが「答えを知っている」と強く確信しているからこそ、あれ程デカイことを言い、他人をバカにできるんだろう?


決めセリフは勿論、
「教科書嫁」

そのココロは、
「オマエは経済学を知らんから、そんなこと言うんだ」

読んだ挙句に、これですか?
経済学信奉者たちは。

感情論?衆愚?
笑わせるんじゃないよ。


専門知?

なら、答えを言ってごらんなさい。
正解は一つだ。そうだろ?

坂野先生に聞いてごらんなさいな。
堂下先生に聞いてごらんなさいな。
大竹先生に聞いてごらんなさいな。
池尾先生に聞いてごらんなさいな。
深尾先生に聞いてごらんなさいな。
池田先生に聞いてごらんなさいな。


答えは勿論、「需給」で一発解答!だよね?


えっ?
ごまかしてるんじゃないかって?
意見を出してるのが「経済学者」じゃないとでも?

(ひょっとして、池田信夫氏を経済学者とは言わないの?)


経済学を知っていて、「価格」「需給」で説明ができないなんてことがある訳ないよな?
学者が間違って、素人が正しいなんてこともないんだよね?


経済学信奉者に共通するのは、同じペーパーを論拠とし、いかにも明らかに正しいかのような「経済学風な理屈」を並べ、経済学素人たちの―特に、大衆の―「無知なる感情論」とバカにし、自分たちだけが全てを知っていて、初めから何もかも見通せていると確信していることです。


「トンデモ」を散々笑っておきながら、
「トンデモ」を蔓延させてるんじゃないの?

「答えはこれなんだよ!」とデマをばら撒いてるのと
何も変わらないんじゃないの?

経済学無知な大衆よりも、なお悪いのが、「トンデモ」をばら撒くヤツラだろ。
中途半端に理屈を使ってるんじゃないのか?


「理屈付き」が故に、なお手に負えないんだよ。
これなら大衆の感情論の方がはるかにマシ。
判別がつきやすいから。
それに、「ああ、水戸黄門的だな、藁」、と普通に分るでしょ(笑)。


「水からの伝言」がどうのなんて言ってるけど、経済学信奉者たちはそれと同じ事をやっていないと本当に言えるのでしょうか?



結婚したい若者たちへ

2006年11月09日 21時12分55秒 | 社会全般
nikkei BPnet経由で面白い資料を発見。
案外と結婚したい人たちの方が多いんじゃないか、と思った。でも、中々出会えないのかもしれんけど。

まずは、ユーキャンの資料を見て頂ければ。


結果はなるほど「そーですか」と思うけど、ちょっと気になったところをいくつか挙げてみたい。


まず、将来結婚したいと思ってない数は、年齢層に関係なく大体似ていて、約17%が「いいえ」と答えている。6人に1人くらいがそう考えている、ということですかね。仮に合コンの席に男女6名参加している時、そのうちの男女各1人が「結婚はしなくていい」と考えていたりする、ってことですかね(笑)。これは結構多いような気がしますが、どうなんでしょうか。昔より結婚しない男女は増えてますか?

世の中難しいもので、組み合わせが「いいえ」の人同士になればいいですがね。この場合、最大で5組のカップルが誕生するわけですが、もしも、「いいえ」の人と結婚したいと考えている人が組み合わさってしまうと、先ほどよりもさらに男女各1名が結婚できないので、最大で4組のカップルに減ってしまいますね。となれば、カップルの3組に1組が結婚しないカップルになってしまいますので、これは大問題とも思えるわけです(笑)。

大丈夫なんでしょうか、日本の将来は。子ども減っちゃうよ~。
それに、萌えてあぶれた男(笑、実際いるの?)とか、もっと増えちゃうかも。


次に、預貯金の額。
全体平均で325万円、ということで、まあそんなもんかな、とも思ったのですが、よく見るとそうでもなかった。こういう時に、平均の罠というのがあるかもしれませんね。ついつい平均の数字にばかり目を奪われがちですが、注意が必要なんじゃないのかな。

たった1人の「7千万円」という回答が、数十人分の影響を持ってしまいますので、ちょっとどうなんだろうな、と。70万円の預金額だと100人分、100万円でも70人分と同じですので、その他の方々の回答が霞んでしまいかねません(笑)。なので、もうちょっと細かく見てみることにしましょう。


大雑把に言って、大体「半分近くは100万円以下しか持ってねー」ということかな。若い世代では、まあそうだろな、とも思えます。回答結果を見ると、30~34歳の層でも、男女を問わず100万円以下は少なくないんですよね・・・・なので、「若いから」ということだけでもないかもね。ちょっと寂しいですね・・・・。

で、数字で見ると、100万円以下は、「100万円」が最多の55人で、全部で180人が該当していました。400人中180人ですので、45%ってことですよね。あなたが出会う25~34歳の独身男女の約半数が100万持ってるか持ってないか、という水準である、ということを頭に入れておくべきでしょう。「平均が325万円」だからといって、「この人も300万円くらいは持ってるよね」などという甘い幻想を抱いてはいけない、ってことですよ!要注意!!
なんて、力説するほどでもないんですけど、ある意味、予想通りではありますね。現実は厳しいのです(笑)。

続いて100~300万円以下の層は72人、300~500万円以下の層は85人でした。両方で157人ってことで、約4割がこの層に該当しています。なので、大雑把に覚えとくポイントとしては、「100~300万」と「300~500万」が2割ずつくらい、ってこと。半分近くは100万以下でしたので、約3人に2人は300万円以下くらいしか持ってない、ってことですよ!どーです、平均幻想は打ち砕かれましたか?実際に「富」を持ってる人たちは限られていて、3分の1程度しかいないってことです。因みに、30万円以下も70人ですからね。100~300万円の層と大差ないのですよ。

最後に、本当に持ってる人たちを見ると、500~1000万円以下が46人ですので、約1割ちょっとしかいません。これより多い(1000万円超)のが17人ですので、まず滅多に出会わないでしょうね。玉の輿です(笑)。本当に限られた人たち、ってことです。僅か4%程度しかいません。500万円以上持っている、割と「リッチ」な層は約15%ということで、「富は少数者に集中する」ということがお分かり頂けましたか?


平均は当てにはならない、ということを頭の片隅にでも置いておけば大丈夫でしょう。「愛があれば、お金なんて・・・」というのが、たとえ古くても、非現実的で絶滅しているとしても、いつかは「結婚はプライスレスさ」などと皆さんが思えるように願っております(笑)。若者は結婚した方がいいですよ、本当に。


参考までに、結婚に漢字一字を当てるというアンケートで、主婦の回答の1位は「忍」って、酷くないですか?(笑)結婚への甘い期待も、幻想も禁物というのも、これまた現実の姿ってことなのか・・・・。

と他人事のように言いつつも、我が家も心配(爆)。
多分違うと信じています、ウチの妻の場合は。いや、待てよ、実はもっと酷い字を当てられてたりして・・・・「滅」とか「惨」とか「恨」とか・・・・イカンいかん、いくらでも悪い想像ができてしまう・・・・。大丈夫だってば。ホント。信じてるから。


若い人たちは、バーチャルでも同棲生活みたいなのをやった方がいいかもね。
うーん、妙案はないんだけど、どうだろ?

名付けて、「愛の巣箱」とか。
ダメですか?変?
そーですね、センス悪いもので。

ネット上で巣箱を用意して待っていることにする。で、気に入ったカップルが巣箱に入って共同生活をする、と。そうはいっても、現実世界ではないので同棲とも違うのですけど、あたかも同棲しているかのような「何か」を共に営むということが必要です。何でもいいんですけど、双方のプライバシーに関する部分まで必要になりますかね。現実世界でのお付き合いに至る前の段階で、相手をよく見たいという人にはいいかも。そういうサービスは、既にあるか?あるかもね。まあいい。若い人たちが結婚したい人は結婚できて、楽しく生活できればそれが一番いい。子どもと共に成長するのも楽しいよ。弾さんじゃないけど(笑)。仰る通りだな、と思ったね。




「水戸黄門好き」は恥ずかしいらしい

2006年11月07日 13時30分57秒 | 俺のそれ
大勢の方々のご意見を確かめた訳ではないので全く分りませんが、「水戸黄門」とか「大岡越前」とかその他勧善懲悪的な時代劇はいくつかあったと思いますけれども、そういうのを好む人たちはあまりいないのでしょうか?(笑)少数派なのであれば、私の場合結構好きなので、錯誤野郎ということかもしれません。


法と正義9


一般大衆の感情論のような反応を非難する時に、こうした勧善懲悪的な部分を批判する知的水準の高いと自認されている方々がきっとおられるでしょう。それはそれで、ナルホド、と思える部分もありますね。でも、普通の反応というのは、勧善懲悪的な部分が少なくないのではないかと思っています。自分がその仲間だから(笑)、ということも当然あるのですけど。近視眼的発想のみが私の判断材料だからでしょう。その論も某I氏から既に出されたわけですし(笑)。


常に、「だからオマエら一般大衆は常に衆愚であり、正しい答えが分らず、感情だけで判断するんだ」と、少数派の正統性言論(?、言葉がかなりヘンかもしれないがとりあえず。きっと正統性は我にあり、と考えているから大衆批判だろうと思うので)がイジケて嘯いていたところで何も変えられないし、多数派を説得し考え方を変えさせることも、政治的解決を目指すことも困難なのではないでしょうか。


水戸黄門にですら対抗できないか、それを上回るだけの信頼性を勝ち取れていない、ということでもあるんじゃなかろうか、と。制限を外して解決されるなら、現状多重債務になっている人たちは制限を無くすことによって救済されるということを説明するべきでは。量的規制に対しても当然反論するべきで、3分の1ルールに抵触する可能性のある層が「借入困難になる」ということに変わりはなく、それを肯定していたのなら矛盾のように思えるが。


もう触れない、と決めたのに・・・ソッコウで破っています・・・スマヌ。



追記:

一応参考までに書けば、私の世界観にはかなりの歪みというようなものがありますので、当然のことながら過去に「シャイロック」もご登場願っておるところです(笑)。

格差社会5


「貧すれば鈍す」か、はたまた「鈍すれば貧す」なのかは、私自身にも分りませんが、私の評価がこのいずれであってもそれは否定しませんよ。学生時代の服を未だに着てるし、年に1度程度買うのも大半がユニクロ服だし(笑)、腕時計もしてないし、ブランド品など殆ど持ってないですからね。靴も長年履いてきたものですし。

それにブログの中身は自分の体験から書いてることが多いし、書いている内容はほぼ自分の経験(見聞きも含めて)に負うところが大きいですしね。自分の「半径3メートルの壁」を越えることはないというのも、その通りでしょうね。理論と経験は違うんだYO!というのも、そりゃまあそうだろな、くらいは思いますがね。


即ち、知的エリートたちから全くの対極に位置しているのは事実ですので、蔑まれても一向に構いませんよ。

それこそ「オメガ」確定ってことで。うふふふ。



続・幸せは何処にあるか

2006年11月06日 21時17分39秒 | 社会全般
昨日の続きです。農業についてもう少し考えてみることにします。

日本の農業全体の傾向としては、離農が進んできており、現存する農家の作り手の大半が高齢化してきているということのようです。つまり、あまり前途の見えない業種なのであり、多くの若者が敬遠しているという状況ではなかろうかと思います。労力が多くて収入少ないので益なし、として止めていく人たちが結構多いのかもしれません。若者たちは都会に出て行き、年老いた親たちだけが残されて、細々と農業を続けているということなのかもしれません。この辺の実態はよく判りませんが、問題がいくつかあると思います。


技術の伝承ということと、供給能力が落ち込まずに確保されるのか、といったあたりでしょうか。次の時代の「美味しいモノ」がきちんと生産されるのか心配になりますよね。メロンとかイチゴや梨なんかは、自分が子どもの頃に比べてはるかに美味しいと思うのですよね。庶民にとっては高嶺の花であったメロンなんかが、今では普通に食べることが可能になりました。これって、実は凄いことなんだろうな、と思います。


農業は急にやってもうまく生産できるようになるとも言えず、従来の「できる人」たちが大幅に減ると、戦力ダウンは避けられないだろうと思います。伝承という部分で言うと、生産指導者的な人を確実に育てていくことが必要だろう。それ以上に必要なのは、指導者が生産現場で指導するとして、それをある程度安定性のあるビジネスとして維持・推進できるシステムだろう。


日本だと農業は金にならない、というのも、何が問題なのかよく研究してみると、違った解決方法が出てくるのかもしれません。一次産業ではダメなんだ、というのも、必ずしも当てはまらないのではないかと思える面があるからです。デンマークは農産品輸出国ですが、幸福度では世界ランク1位となっているし、一人当たりGDPも日本より多いです。人口が約540万人ですから、北海道と似たような水準です。それでも何ら問題なく農業は続けられるのですね。デンマークでは可能で、日本ではできない理由というのは、ちょっとよく判りません。補助金の投入量などが違うのでしょうか?日本の農業補助金が削られたら、デンマーク産の豚肉が日本に入ってきてしまうのでしょうか?


デンマーク - Wikipedia


アイスランドにしても、漁業が盛んであり雇用の8%が従事しているのですから、日本でだって不可能ということにはならないのではなかろうかと思えます。人口規模が約30万人と小さいし、都市人口が90%以上ということがありますが、日本の地方都市でこれと似たような経済圏を作るようにできれば、きっと成長可能ということなのではないでしょうか。


アイスランド - Wikipedia


どちらもその地域にお金が残ることが重要なのかもしれません。デンマークやアイスランドで消費されたお金は何処かに利益を生むでしょうが、それはデンマークやアイスランドに多くが留まることになる、ということでしょう。外国から稼いだお金の利益もやっぱりデンマークやアイスランドの国内に貯められる、ということなのでしょう。日本では、東京に溜まってしまうようにできているのでしょう、多分。例えば、田舎のコンビニで使ったお金の利益部分の大半が、東京とか都会の本社に集められるから、そこに利益が配分されるのですね。本社が東京に多く存在している限り、地方の中でお金を使い、その利益が残されるということにはなりにくいのであろうな、と思います。それがデンマークやアイスランドとの違いなのでしょうか?どうもよく判らんのですけど。


できれば法人税率を地方毎に独自で決められる制度に変えるべきではないかと思いますね。企業が全く来ないような田舎で、法人税を安くできることにするんですよ。ペーパーカンパニーでいいので、田舎に本社を置けば企業は「節税」になるし、田舎では地方法人税やら法人事業税?や固定・償却資産税、住民税なんかが入ってくるはずだから、財政的には凄く助かりますよね。大体、大企業本社で勤めてる絶対数なんか多くはないのに、決算なんかで利益が大企業本社に全て集まってるから、東京みたいな大都会だけが潤うのではなかろうか。

今後、地方分権を推進していくとか、道州制なんかにするとか言うのであれば、税率も独自で決められるようにしたりする方がいいと思うが、どうなんだろう。うまく事業化できれば、代行オフィスみたいに、何社か分の事務を数人でできるかもしれませんよね。大半は機械ができるはずだし、転送電話みたいな装置があればいいですよね、きっと。それか、域外に利益を移転しようとする時には、持ち出し前に課税するとか。法人税の減税云々とかを決める前に、よく検討して頂いた方がいいように思います。特に政府税調の本間先生あたりは法人税減税派でしょうから。


今の流れだと、地方の資金調達は独自で責任を持ってやれ、というような方向に向かっているので、税制についても地方独自の責任で出来るようにしてもらうべきなのではないでしょうか。でも、地方の資金調達能力は高くないでしょう。地方にある中小・零細企業の資金調達も同様ですね。事業資金の需要が止まっているのか、貸出を過度に抑制した結果なのか分りませんが、地方に新規事業がどんどん芽生えてくるとか、地元企業が育つといった環境には必ずしもなっていないでしょう。消費者金融市場の貸出残高は特に事業性資金の落ち込みが大きく、既に約40兆円規模で全体の残高が減少してきましたが、今後破綻寸前の個人多重債務者の債務残高が減少していくことをより一層心配している人たちがいるのはやや疑問に感じています(個人向け消費者ローン市場だけに限っても、民間金融機関が約12兆円の信用供与額減少となり、そちらの方がはるかに影響が大きかったのではなかろうかと考えますけれども、どうやら現状多重債務者の債務残高減少の方がそれ以上に重大だ、ということでしょうか)。地方での資金調達というのは、(個人は別として)官民問わず厳しい部分が多いだろうな、と思っています。


結局、地方に住んでいて幸せだな、と思えるかどうかは個人で違うと思いますが、都会にはない自然だとかのんびりしたところとか、何かそういう別なものに価値を見出さない限り、都会に対する怨嗟が募るばかりになってしまいそうです。そういう生活を受け入れたくないのであれば、やっぱり地方を脱出するしかないのではないかと思います。昔の日本の平均的生活レベルよりかは、十分幸せなような気もしますけど。テレビは庶民には買うのが夢であったし、憧れの「ハワイ航路」(笑)も金持ち以外は無理なものだったのに、今では若い人たちでも普通に行けますからね。そう思えば、まだまだ色んな意味で何かは出来そうに思えますけど。


地方では、地方の経済圏の中で循環させられるような仕組みを作っていく努力をするしかなく、他からのお金(要するに殆ど国からもらえるお金)を当てにしていても、暫くは厳しいのではないかと思っています。お手本になるのは、デンマーク、アイスランド、アイルランド、フィンランドといった国があるので、その運営をよく研究してもらって、真似できるところは真似してみたり、取り入れたりすることで何かを変えていけるかもしれません。何と言っても、インターネットの恩恵は大きいと思える。かつては大都会とか工業都市のような「地域基盤」みたいなのがないと成長していくとも言えなかったけれど、今は遠く離れた田舎の小規模な地域であっても、ネットの威力で新たな仕事・価値創造が可能になったのですから。


ビジネスセンスのある人、語学に優れた人、腕に覚えのある生産者、こういうような人たちが、一致協力して世界に向けて農業・漁業ビジネスを展開していけるのであれば、新たなマーケットが開けてくるかもしれません。加工食品にも別な道があるかもしれません。何かのチャレンジをしていかないと、いくら現状を嘆いていても何も変えられないように思えます。「衰退していく一次産業」という危惧は、自分たちで振り払う努力をするしかないでしょう。



幸せはどこにあるか

2006年11月05日 18時02分17秒 | 社会全般
以前、「オマエは効率性信者か」みたいな誤解を招いたので(「成長」は耳ざわりが良すぎるか)、お断りしておきますが、私は効率至上主義者ではありませんし、「農業はイラネ」派でもありません。むしろ、情緒系というか、感傷的なものに賛同する部分を結構持っているんじゃないかと思います(笑)。それに、農業そのものに期待している部分があります。ただ、今の日本というか、自分たちが住んでいる環境、これまでの経験、そういったものから影響を受けるので、色々と難しい部分があるのかもしれない、とは思っています。


前に「アーミッシュ」の話をちょっと書いたのですが、これと同じようなものかもしれません。もしも、「アーミッシュ」が自分の世界の全てで、他の知識も情報もなければ、一生を「アーミッシュ」として過すしかないでしょう。それ以外の選択肢がないのですから。それ以外に、自分の世界を持っていないのですから。でも、「外の世界」があると知ってしまったり、もっと他に何かを得よう・達成しよう、ということになれば、「アーミッシュ」の世界には満足できず、外の世界へ旅立ってしまうのかもしれません。人類の歴史の中では、こうした「冒険心」に富む荒くれ野郎(笑)が多く誕生してきたので、生活圏というかテリトリーを拡大し、数も増えていったのではなかろうか、と思っています。


生き物で見れば、じっと動かないことで生存を図ろうとする選択も有り得ます。どうしてそれを選んだのかは判りませんが、偶然その戦略を選んだ生き物が生存競争に残ってきたということでしょう。簡単な例では、「植物」があります。樹齢千年を超える老木もあるし、日本でも数百年の松とか、屋久杉なんかがあります。移動して勢力圏を拡大し、常にエサの獲得競争に勝っていくというようなことをしなくとも、こうした植物は「長く生き延びる」ということが可能であったわけです。これから1万年後であっても生き延びているかは不明ですけれども、今までのところはその選択は生物としては「間違っている」ということでもない、ということです。数百年以上生きている木というのは、短時間の観察だとハッキリと目に見えて判る程の変化がないのですが、それでも極々僅かかもしれないが、ほんの少しずつ成長していき「大きくなる」ということです。そして大木に成長するのですね。いずれその限界点は訪れるのかもしれませんけれども。


こうした大きな木は、動物なんかに比べると変化に乏しく、動かないことで生存してきたということでしょう。これはまるでアーミッシュの小さな集落のようなものではないかと思えます。数百年の間、生活環境を変えないこと、変化をできるだけ小さくすること、それを行うことで生存を図るという選択ですね。でも、これを選ぶと、集落の人数は一定以上に多くなれません。多くなりすぎると、集落の生産物では支えきれないからです。食べ物を多く獲得できない限り、増えすぎることは害悪になってしまいます。もしも人類が全員アーミッシュのような生活を守り続けてきたとすれば、人口はあまり増えず、住んでる世界も狭い範囲でしかなかったかもしれませんね。きっと日本なんかには、誰もやってこなかったでしょう(笑)。でも、動物の行動様式としては、恐らく違うだろうと思います。

寧ろ言葉、知識や宗教といった「人工的」な何かを獲得したが為に、敢えて「不自然」な植物的生活を選んだのではないでしょうか。その選択の良し悪しというのは、誰にも判りません。植物が良くて動物が悪いとか、どちらが正しくどちちが間違っているとか、それが判らないのと似ているように思えます。


幸福度の世界ランキングなどがありますが、日本は確か90位でした。上位は北欧の小国が割りと多かったように思います。日本は豊かではあるけれども、生き難い面があるのかもしれません。中国でさえ(笑、他意はありません)82位ですからね。何かを知ってしまう、外の世界と情報が移動する、ということによって、人々の幸福度は変わってくるのだろうと思います。知らなければ、それは普通だからです。「閉ざされた世界」で生き続けることができれば、あまり不幸を感じることなく、老木のように生存が図られる可能性はあるのかもしれませんが、実際どうでしょうか。


仮に、ある孤島があるとしましょう。外界とは全く隔絶されて、誰もやってこない島です。そこには人が住んでいて、自給自足で生活しているとします。電話やテレビは勿論のこと、電気もなければ水道もありませんが、人々は家の周囲の簡単な畑で作る野菜やイモ類で十分食べていけるし、時には魚を獲りにいったり、山の木の実なんかを食べたりして生きています。衣服は粗末な布でできているが、着ることはできるので不自由することはありません。年中気温が温暖なので暖房も必要ありません。水は湧き水や川の水を利用しています。時々物々交換で何かを手に入れることはあるかもしれません。このような生活をしたいかどうかは別として、その島の住人たちは不幸だと思うことがそれほど多くはないでしょう。肥満もないし、メタボリックシンドロームに頭を悩ませることもないし(笑)、食品添加物やら身の回りの化学物質に過剰に敏感にもならずに済むし、うつ病の人もまず見ないし、過労死や自殺者なんて誰もいません。泥棒もいないのです。こういう世界が十分「幸せだ」と感じる人々がいたとしても、不思議ではありませんよね。


全く何も知らなければ、この島で生きていくことは普通なのです。そして、毎日食べられて生きていけるならば、それが幸せであると感じられる、ということでもあります。実際、そうやって生きている人たちは今でもいますよね。でも、知らないだけに過ぎない部分もあるし、未来永劫この環境で生存が可能かどうかは不明な面が有り得ます。例えば、島に伝染病が大流行しても、病院もなければ医者もいないので、昔ながらに祈るか薬草らしきものを与えるかくらいしかできないのです。運が悪ければ、全滅してしまうかもしれませんよね。最近日本で問題に取り上げられる、出産に伴う異常事態であっても、何もできないため死産や母体死亡などが起こってしまうかもしれません。現代の医療水準ならば、かなりの確率で救命できそうな病気であっても、治療はないのが当たり前ですから止むを得ないのです。そういうリスクを当然受け入れなければならないのです。他にも、超大型台風が来て島に壊滅的な被害をもたらし、食糧がなくなってしまうかもしれませんし、長期の雨不足で水がなくなることもあるかもしれません。そういう生存に関わる自然の変化は起こるので、それを乗り越えることが必要なのです。人口が少ない中で出産を繰り返し続ければ、数百か数千世代後かに問題のある遺伝子が固定的に残される可能性だって有り得るかもしれません。幸福感とは別な問題が起こるかもしれない、ということです。


人間というのは「知る」ことの為に、非常に多くの能力を投入してきたのではないだろうか、とも思います。山の向こう側はどこにつながっているか、海の向こうはどうなっているのか、星空には何があるのか、そういうことを延々と続けてきたのではないかと思います。はるか彼方の場所に移動していったり、どうやって辿り着いたのか知らないが、大陸からは遠く離れた島に住んでみたり、そういう色んなことをやってきたのですね。新たな生活地域を捜し求め、世界中に散っていったわけです。そういう拡散がなく、固定的な場所でのみ生活していたとすれば、ひょっとすると人類は途中で死に絶えていたかもしれません。大きな天変地異があったり、伝染病のような何かの災厄があったりすれば、全滅してしまったかもしれません。でも、世界各地に分散していたお陰で、どこかの誰かが生き延び、食糧を多く獲得しようと努め、人口を増やしていけたのかもしれません。こうした行動、選択というのは、生きるための本能的なものであり、きっと人工的な世界ができる以前では(勿論お金などない世界だ)、単純に「現状に留まる」「定常状態を続ける」というのは死をもたらしかねない、滅亡を意味するものであったのかもしれません。


今の日本で、地方を切り捨てるな、とか言ったりしますが、上述したような「隔絶された島」の如く生活できれば、「閉じられた集団」だけで生活は可能です。あれ程不便ではなくてもいいので電気や水道はあってもいいでしょうけど、自分たちの中だけで殆どの需給を満たせるように生活すればいいのです。電車も車もないし、東京に行ったり海外旅行に行ったりもできないし、便利な電化製品もあまり持てないかもしれませんが、それなりに生活は可能です。誰も訪れない山村で目ぼしい産業はないでしょうから、農業が大事なのであれば農業をやって、そこから得られたものを食べ、収入を得て生きていくことは可能です。それを不幸せなのだ、と言ってしまうのであれば、「どういう生活を求めているのか」ということが問題になってきます。アーミッシュはそれで生活しているのです。幸福度の高い地域では、日本のような生活水準ではないところなど沢山あるのです。


そういう生活はイヤだ、もっと都会的な暮らしをしたい、ということであるならば、「閉じられた集団」のような生活を捨て去るしかありません。「閉じられていない」ということは、今のようなグローバル化が進んだ生活の中にわざわざ飛び込んでいく、ということです。自分の思「閉じられた集団」の生活様式だけを得ようと思っても、それは難しいでしょう。どちらかを選ぶしかないと思います。老木のように、長年じっと動かず変化を小さくして生きるか、動物のように動き回り、エサを求めて歩いていくか、選択するしかないのです。エサが少ない場所では必然的に多くの人口を支えきれず、もしもある程度数がいるのであれば、平均的に見れば「腹ペコ」の人たちが増えるに決まっています。都会と同じような生活を維持することは難しく、エサ(=収入)の量や質に合わせて生活する以外にないのです。それか、エサの多い地域を求めて、「冒険の旅」に出るべきでしょう。過去の人類の祖先は、同じく移動していったのではないかと思います。


ヒマラヤ山脈のてっぺんの方にも、舗装道路を作って欲しい、便利な温泉付きのホテルを作ってくれ、鉄道も引いて毎日定時運行させて欲しい、とか、要望は色々出せるわけです。でも、あまり現実的ではありませんよね。そこには、採算を取れるだけの需要がないのですから。鉄道があれば、それは便利かもしれませんが、ごく僅かの利用者の為に大赤字を続けることは困難なのです。これは止むを得ないのです。少数者の利益の為に、多くの国民がそれを受け入れる、ということであるなら、それはそれでいいでしょう。けれども、大多数の国民がそれを許容できない、ということであるなら、止めるしかないのです。


「農業を守れ」というのは、気持ちは判ります。私も守れたらいいな、とは思いますよ。でも、誰がどうやって守るのか、考える必要があると思います。随分遠い未来なのかもしれませんが、いずれ世界人口を支えるのに食糧戦略というのは出てくる可能性があります。今の資源価格上昇に近いかもしれません。鉄鉱、石炭、原油、等々、いずれも付加価値の低いと思われていた一次産品なのであり、その供給を握っていることで産油国や資源大国は多額の外貨を獲得することができました。将来には途上国の発展に伴い、食糧供給は逼迫するかもしれず、そうなれば国外から大量に輸入できなくなってくる(海外産品が割高になる)可能性はあります。その時には国内生産の割合は自然と高くなり、国産品が十分競争力を持つかもしれません。それまで待てるかどうかは判りませんけれども。


用事で退席しますので、とりあえず。



大型アイドル登場の予感

2006年11月04日 12時01分33秒 | 俺のそれ
本日は重大なご報告がございます。大発見でございます。多くの方々には何の関心もないかもしれませんが、大型新人を発見してしまいました。


話が長くなるのでご容赦願います。

えーと、囲碁界には女流棋士の方々がおられるのですが、皆さんそれなりに素晴らしい方々でございます。ベテランでは「こんにちは。小川誠子です・・・・」という挨拶に独特の雰囲気を持つ小川さんもおられます。しかしながら、一般人にもアピールできる潜在力を持つ方はそれほど多くはなかったのですね。


そんな中で、梅沢由香里さんが結構注目を集めました。見た目が良かったからですね(でも既に人妻だが)。『ヒカルの碁』で囲碁人気がやや盛り返した感があって、女流棋士の影響力はそれなりにあったのではないでしょうか。


他には、小林泉美さんとか。見た目は・・・うーむむ、好みがあるかもしれないので何とも言えないが(笑)、小林光一さんのお嬢さんだったこともあって有名であった。男性棋士っぽい力強さがあって、その後タイトルを取った。張名人と結婚して、タイトルホルダー同士の「強・強」カップルとなっている。


この年代よりも下になるのが、万波佳奈さん。NHKの聞き手役で出ていたので、それなりに注目していた。カリメロみたいな髪型で(笑)、純朴な感じが良かった。とても好感の持てる棋士。近年女流棋聖を獲得する程実力があり、今後も活躍が期待される。

万波佳奈 - Wikipedia


で、いよいよ本題なのですが、先日この万波佳奈さんに妹さんがおられることを初めて知りました。今年入段したばかりで、万波奈穂さんといいます。テレビの対局に登場していたんですよね。佳奈さんもそれなりに可愛らしいのですが、奈穂さんもカワイイのですよ。で、私は決めました。奈穂さんについて行こう、じゃなくて、応援しよう、と。タイトルを取れるように、オジサンが応援しています、と。なかなか「力の強い」棋風は、男性棋士に近い印象です。周囲の強い棋士に揉まれているためなのでしょうか。

棋士紹介


そして、若い方々にも、「囲碁のプロ棋士には、こんなカワイイ人がいるんだぞ」ということを知って頂いて、もっと皆に「プロ棋士になってやる」という野望を抱いてもらえるように祈念致しておるところでございます。世の中に囲碁が愛され、広まることを願っています。頑張ればプロになれるし、女流棋士と結婚できるかもしれないよ、と。どうでしょう?アホかって?ええ、ええ、アホですね。でも、万波姉妹は可愛いよ。頑張れ、万波奈穂初段。



亡国の「東大脳」(笑)

2006年11月03日 16時36分31秒 | 社会全般
最近の教育問題関連で、槍玉に上がっているのが「文部科学省」と「東大」ですね。
前者はイジメとか履修問題で、後者はその影響を受けてなのでしょう。別に東大生だけが悪いわけでもないでしょうが。とりあえず叩かれやすいのですかね。

『諸君』で特集だそうです。「東大脳が国を亡ぼす」ですって。ガツーンと。

諸君!061201


ところで「東大脳」という言葉は、別な本で以前から出てたのですね。知らなかった。新しい言葉じゃないのですね。調べて判りました。

安川佳美さんという現役東大生が書いた『東大脳の作り方』という本があるんだそうです。在学中に書いたのですって。世の中には凄い人がたくさんいるものです。これによく似たタイトルの『「東大脳」の作り方と使い方』(中本千晶・著)って本もあるようです。

これって、どちらかが殆どパクリのようなタイトルですね。単なる偶然なのかもしれませんがね。「東大脳」の字面に釣られて、うっかり買ってしまうのかもしれません(笑)。


立花氏も例によって東大批判(笑)。何となく気持ちは判る。実際に教育の場で接しているからね。でも、あんまり細かく判るエピソードを公開するのは、教育者としてはちょっと問題ではないかと思ったりもします。参考になるとか、他の教育者や現場の役に立つというのなら多少はいいと思いますが、あまりに酷いのは書かれた学生が可哀想かな、と。傷つくよね、やっぱり。

第89回 東大生にも蔓延!履修漏れ問題 「ゆとり教育」が国を滅ぼす - ビジネススタイル - nikkei BPnet


『諸君』の方は「国を亡ぼす」、立花氏は「国を滅ぼす」と使い分けていますね。両方とも東大と教育を絡めた内容ってことで、どうやら日本は東大が滅ぶと一緒に滅んでしまいかねないのかも。ちょっと大袈裟すぎな気もします。役立たず「東大脳」を持っている人たちが、日本を全て動かしているということが信じられているのかな。実際そうなら、もっと早く滅びそうにも思うが。まあ、いいか。


履修問題は遂に「国を滅ぼす」ところまで来てしまいましたね。これが発覚しなかった場合、どうなっていたのでしょうね(笑)。


世の中全般に「~脳」というのが流行りなんですかね。色んなバリエーションを見かけるような気がします。

ネット風な表現で言うと、

「漏れ」も履修漏れだよ~

みたいな極寒オヤジギャグはすぐさま使われてしまっていると思いますが、このような場合、「ネット脳」とか「2ちゃん脳」とか言われるのでしょうか?

こういう脳の場合は、誰も心配していないことから、国を滅ぼさないことは確かでしょう。そう考えると、なんか、意味なく安心した。



マクロ経済運営のコンフリクト

2006年11月03日 01時09分35秒 | 政治って?
発端は、例の福井総裁の「耳ざわり発言」ですね。

成長」は耳ざわりが良すぎるか


で、有識者議員からのご提案の基本は、「改革の大前提となるのは、適切なマクロ経済運営である」ということですからね。多分これは、伊藤先生や八代先生などが中心となって「押している」ことですね。中には「改革、改革って、念仏じゃないんだから」というような批判もあるかもしれませんが、よく注意してみることも必要かもしれません。行政の場合、無意味な文言というのは、殆ど入れられることはないですよね、きっと。それで、今回は「マクロ経済運営」が取り上げられることとなったのでしょうね。実際のところは、福井総裁の前回発言が大問題だったからでしょう(笑)。で、今回、福井総裁は資料を提出させられて、「弁明」というか言い訳することとなったのだろうな、と。


大田さんの説明を大まかにまとめますと、次のようなことだろうと思います。

まず、福井総裁の判断というか、日銀サイドの見方としては次の通り。

・足元の基調判断としては、景気は順調に推移
・日銀はリスクとして、「上振れ」「下振れ」の両方を念頭に置いている
・設備投資の過熱感を警戒している
・家計部門には「ジワジワ」波及していく(だろう)
・それは雇用逼迫や給与増などによる
・雇用や給与増は将来時点のリスクと認識
・CPI の0~2%のレンジは「理解」
・政府と日銀の間には、所謂「コンフリクト」はないと認識


これに対して出された意見としては、

・景気は、地域、正規非正規、企業規模などで依然格差があるので注意すべき
・上振れリスクは大きな問題になり得ず、下振れリスクをメインに考えるべき
・消費の弱さ(停滞?)にリスク
・雇用改善が必ずしも進んでいるわけでない
・日銀は政府と連携していくべき


大体こんな感じだろうと思います。

大田さんはCPI の説明をする時に、事務方からの「注釈」を受けたようです(笑)。日銀サイドは以前から言っていることがありましたよね。「0~2%」というのは、「目標」「参考」「参照」のいずれでもない、と(笑)。「理解」なんだ、と。「understanding」なのだ、と。縛りを受けたくないから、こういうことを言っている訳ですね。まあ、現状では仕方ないですけど。

結局の所、日銀は政府に協力しなさいよ、ということでしょう。
福井総裁はクギをビシッと刺されたわけですね。

現時点で見えてるリスクに対処するわけでない、ということを言われちゃ、どうにもできないけど。「日銀は将来を見据えているんだYO!」というのも、怪しいもんですね。その将来予測がどれほど信頼できるのでしょうか?
僅かな期間の間に、量的緩和解除、ゼロ金利解除、と立て続けに「劇薬」連続投与ですからね。当然そのリスクは大きいですよね。


直接関係ないですが、「アジア・ゲートウェイ」に関連して、根本補佐官に一度報告してもらう、ということのようです。やっぱり根本補佐官の経済担当は、有力ポストということなんでしょうかね。


いずれ議事録が出るので、また見てみようと思いますが、皆さんも各自で確認された方がよいかと思います。