ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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北朝鮮の歴史読み物「紅衣将軍 クァク・ジェウ(郭再祐)」を読む

2014-05-22 23:52:28 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)


 5月12日の記事(→コチラ)でも少し書きましたが、以前文京区白山のコリアブックセンターで購入した北朝鮮本「홍의장군 곽재우 (紅衣将軍郭再祐)」を読了しました。

 壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)の時、慶尚道方面で義兵たちを率いて日本軍と戦い、戦功を挙げた郭再祐(クァク・ジェウ)の物語です。

 <絵で見る朝鮮歴史>というシリーズ(全100冊)中の1冊で、2004年発行。表紙の下部に<주체93(2004)>とありますが、これは金日成の生年(1912年)に基づく年号<주체(主体)93年>のこと。

 中は、下の画像のように各ページの3分の2は劇画タッチの(?)絵で、本文は9行だけ。ということで、北朝鮮風の表記や歴史用語に慣れながら(飛ばしながら?)読み進むと、かなり早く読み終えます。


 ところで、この本の紙の色は白くないのです。写真の撮り方によるものではなく、実際こんな色。10年前発行なのに、半世紀以上前の古本のようです。20年前の北朝鮮本はもっと粗悪で、消しゴムで数回擦ると穴が開きそうでしたが、これはまだ表面がツルッとしているから多少は進化したかも・・・。
 ※この後の画像は見やすくするため色補正をした結果白っぽくなっています。

 さて、この郭再祐(クァク・ジェウ)という人物、私ヌルボは今まで知りませんでした。
 こうした本の主人公になるくらいだから、きっと載っているだろうと開いた「人物 朝鮮の歴史」(明石書店)や「朝鮮を知る事典」(平凡社)には見出し語にないばかりか壬辰倭乱等の説明文中にチラと出てくるだけ。旧参謀本部(編)「朝鮮の役」(徳間文庫)も同様。
 実は、日本語で手軽に読めて一番詳しいのは日本ウィキペディアの<郭再祐>の項目(→コチラ)だったのですが・・・。
 韓国の高校生向けの「韓国史」の参考書には20行ほど簡潔な説明文がありました。つまり、小学生も知っている李舜臣ほどではないにしてもフツーに名前は知られているレベルかな?

 彼は慶尚南道・宜寧(イリョン)の地主の家の生まれで、1592年日本軍の侵入に際して本来は防衛の任に当たるべき官人がわれがちに逃げたりした中、義兵を募り、彼らを率いて日本軍と戦い、撃退したという武将です。彼の働きで、その一帯は農民たちも依然と変わりなく農事を続けることができたといいます。
 <紅衣将軍>というのは、彼がいつも赤い緋緞で作った軍服を着て戦いに臨んだからです。
 下の絵のように自身<天降紅衣将軍 郭再祐>という旗を掲げていました。(この本では、です。以下同様。)


【下から見上げるアングルの絵が多いのは、偉い人に見えるから?】

 で、この読み物なんですが、意外に、と言っていいくらいおもしろかったです。
 というのも、郭再祐の戦い方が豪勇無双とか勇猛果敢といったものではなくて、知略を働かせ奇計を用いて、数において圧倒的な日本軍を打ち破ったというものだったから。

 たとえば下の絵。日本軍の先鋒が川の浅い所に後続部隊のため目印として打ち込んでおいた棒杭を、郭再祐は抜いた上で深い所に打ち直します。するとしばらくしてやってきた日本の兵士たちは深みにはまり大混乱。そこに矢を射かけます。

     
【川の深みに義兵たちが棒杭を打ち直すと(左)、その後やって来た日本軍が溺れてあたふた。(右)】

 別の場面では、川面からは見えないように川底に棒杭をたくさん打ち込んで、日本軍の船を座礁させ、そこを攻撃するというのもありました。

 また数人の部下にも紅衣を着せて敵を混乱させたり、敵軍の籠る城の周りで夜もずっと太鼓や鉦(ケンガリ)等をやかましく打ち鳴らして睡眠不足にさせたり・・・。

 自分たちが立て籠もる火旺山城(ファワンサンソン)では城壁の上に旗をたくさん立て、ここでも農民たちも動員してやはり楽器をにぎやかに打ち鳴らしたりして人数が多いように見せかけたり・・・。(下の左の絵。)

   
【慶尚南道昌寧郡にある火旺山城(右)は史跡に指定されています。】

 日本の歴史関係書にはほんの少ししか書かれていない郭再祐について、なんでこんなにいろんなエピソードが書けるのだろう?とちょっとネット上を探してみたところ、作者も成立年も不明の「郭再祐伝」という書物があるようで、内容は確認していませんがどうもそこらあたりがネタ元ではなかろうかと思うのですが・・・。
 ただ、このような知略にたけた武将の物語というのはどこまでが史実なのか、疑問も感じないではありません。
 この人物、政争に明け暮れている官人の世界を嫌って、倭乱の後も与えられた官職も忌避して山に入って暮らし、最後は神仙となって天に昇ったというのもいかにも人々にウケのいいキャラクターで、その点も疑り深いヌルボとしては「そんな人いるわけないよ」と思ってしまいます。 

 さて、この郭再祐さん。生地の慶尚南道宜寧郡ではさぞかし郷土の英雄なんだろうな、と思ったら案の定。郡の公式サイト(→コチラ)を見ると郭再祐の生家や記念館等々はあるし、2010年に国家記念日に制定された6月1日の義兵の日にはいろんな催しをやっています。(→コチラ参照。)

 そして、<DAUM地図>のスカイビュー機能を利用して宜寧郡方面に仮想ドライブしてみたら、アラ前方左に見えるのはまさしく紅衣将軍の絵ではないですか!
 
【拡大して見ると「호국・의병의 터 의령(護国・義兵の地 宜寧)」と書かれています。】

【記念館近くにある(?)紅衣将軍像】

 最後に、この本で気になったことをちょっと。
 日本軍のことをこの本では一貫して「倭敵」と表記しています。まあそれはいいとしても、郭再祐のセリフ中に잰내비같은 섬노란캐(サルにも等しい島夷)」という言葉が出てくるのはなんだかなー。おなじみの「チョッパリ」もあったなー。
 また文中で2ヵ所、日本の武将が日本語を発する場面がありました。その言葉は칙쇼!(チクショー!)」。これは朝鮮語にしなくても意味が通じるということなんですね。(あーあ。)

 この北朝鮮の<絵で見る朝鮮歴史>シリーズ、あと2冊未読の本があるので、近いうちに読んでみようという気になりました。
 しかし、こういう本を一体どんな人が買って読むんだろうな?
コメント (6)
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19世紀後期の朝鮮の社会や政治を知るための資料や関連サイトの紹介

2014-03-09 21:01:14 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 3月7日の記事でも書いたように、安素玲「甲申年の3人の友」は史実に忠実な小説です。

 この本を読むのと併行して、壬午軍乱や甲申事変等について書かれている関係サイト、ブログ記事をいろいろ見てみました。
 その中で、ちょくちょく読んだのが<きままに歴史>という個人サイト中の<きままに歴史資料集>の朝鮮史関係諸記事。(→コチラ。)
 各記事の詳しさは尋常ではありません。「筆者としては史資料の提示もない解説には興味がないので、それらを参考とする気はない」と管理者さんご自身記しているように、主に<アジア歴史資料センター>収録の公文書に拠って史実を追究し、考察を加えています。
 たとえば1884年の甲申事変についての記事は→コチラ

 また<愛刀物語>というサイト(→コチラ)のサイトは動画や音声付きというB級臭フンプンのヘンな作りながら、中身はなかなか具体的で、おもしろく読めます。たとえば金玉均の最期のページは→コチラ

 もう1つ、→コチラの記事も参考になりました。

 では、この小説の作者安素玲さんはどんな資料に基づいて書いたのか?
 本の巻末には、84の参考書籍と57の論文等という多数の書目が掲げられています。全部完読したかどうかはわかりませんが、史実に対する彼女のこだわりはうかがい知ることができます。
 そこでは歴史関係の多数の研究書があげられていますが、小説にも登場した人物が残した書物もあげられています。
 たとえば、宣教師兼医師としてアメリカ公使館にいたH.N.アレン(朝鮮名:安連[안련])(→ウィキペディア)の『朝鮮見聞記』や、清の顧問官の資格で朝鮮に来て政治に大きく関わったドイツ人メレンドルフ(朝鮮名:穆麟徳[목인덕])(→ウィキペディア)の伝記、あるいは日本の書籍もいくつか。

       
          【朝鮮服で正装したメレンドルフ】

 そして、これらのような当時朝鮮を訪れた外国人により書かれた著作については、<樹懶庵(じゅらいあん)>という恐るべきサイトがあることを知りました。(→コチラ。)
 その中の<欧米から見た朝鮮>ページには、韓国語訳が刊行されている22もの書目があげられています。そればかりではなく、それぞれの著者や内容の紹介の他、翻訳ミス等も指摘されています。(つまり、英語・韓国語に精通している。)
 たとえば、『P・G・フォン・メレンドルフ伝』については、「申福龍らの韓国語訳では、なぜか「自伝」となっている。本書に限らず申福龍訳は、年月日をはじめ数字が間違いだらけで非常に読みにくい」とあります。(→コチラ。) たしかに、上記の巻末リストも『メレンドルフ自伝』となってます。
 ※このサイト中の<嫌韓派のための引用例><反日派のための引用例>も必見。自分の都合のいいところだけ資料をつまみ食いするようなことを排している姿勢は、私ヌルボ、非常に共感するところです。

 さて、朝鮮王朝の歴史を見る上での第一級の史料といえばもちろん『朝鮮王朝実録』です。初代太祖(李成桂)から一応第25代哲宗まで、1392~1863年の公式記録です。(→ウィキペディア。)
 ※雑誌「Koreana」のサイトにも、読みやすい記事(日本語)がありました。(→コチラ。)
 一応と書いたのは、『哲宗実録』の後『高宗実録』(~1907)、『純宗実録』(~1910)[※附録は~1928]まで続くのですが、これらは日本統治時代の1934年朝鮮総督府の影響下で編纂されたため、韓国では「日本人の見解に沿った記述が多すぎる(※)」として正式な実録に含めない見解があるからで、大韓民国指定国宝等からも外されています。
 ※たとえば乙未事変(閔妃暗殺)当日の1895年8月20日条は「卯の刻に王妃が坤寧閤で崩御した」と記しているだけで詳細は記されていない等。

 この『朝鮮王朝実録』は、2005年からネット上で公開されています。
 私ヌルボ、ソウル大学奎章閣のサイト(→コチラ)は以前のぞいてみたことがありますが、今回それとは別に韓国の国史編纂委員会のサイト(→コチラ)を見て、コチラの方が使い勝手もよく、ソウル大学奎章閣の方にはない『高宗実録』『純宗実録』も載っていることを知りました。
 で、たとえば甲申事変が起こった高宗21年10月19日(旧暦)の記事を見てみると・・・。

   

   

 このように、ハングル訳と原文(朝鮮風漢文)の両方で読むことができます。(朝鮮史の研究者は、韓国語もマスターして、こういう基本史料も必読ですから、大変なことですねー。)

 この『朝鮮王朝実録』については、『高宗実録』『純宗実録』の再編纂の件その他いろいろ興味深いネタがありますが、それはまた別の機会で・・・。
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ハングル・カレンダーで毎日韓国語の勉強だっ! (・・・とは自分でも信じてはいない)

2014-01-31 18:05:22 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 새해 복 많이 받으세요~(あけましておめでとうございます)

 ・・・と言っても、「ん?」という人も多いと思いますが、今日は旧正月。TVでも関連ニュースが報じられていますが、中国では春節といって人口大移動。ここ(横浜市立図書館)からバイクで10分ほどの中華街でもいろんな催しをやっているので、この記事を仕上げたらちょいと行ってみるかな、と・・・。

 韓国でも新正月(新正.신정)よりも旧正(구정.설날)の方が重視されていて、公休日も旧暦12月31日~1月2日の3日間が公休日と定められています。
 ※このへんの事情や歴史は本ブログ過去記事(→コチラ)参照。

 そういうことで韓国は1月30日~2月2日が4連休となります。
 ※今年から韓国では「旧正月・秋夕(チュソク)・子供の日が土・日曜または他の公休日と重なる場合、その翌平日を公休日にする」という振替休日制が施行されたり、曜日の並びが幸いしたりして公休日は合計67日となり、12年ぶりに最多日数更新ということです。(→<ソウルナビ>の関連記事。)

 昨2013年の旧正月は2月10日だったのが今年はずいぶん早い旧正月だなと思ったついでに、最近12年の新暦と旧正月の対照表をちょっと作ってみました。

 2004年=1月22日  
 2005年=2月9日
 2006年=1月29日
 2007年=2月18日
 2008年=2月7日
 2009年=1月26日
 2010年=2月14日
 2011年=2月3日
 2012年=1月23日
 2013年=2月10日
 2014年=1月31日
 2015年=2月19日


 ・・・こうしてみると、1月22日から2月19日まで、ずいぶん幅があるものです。
 また、なんとなく「新古今集」の「年の内に 春は来にけり ひととせを こぞとや言はむ 今年とや言はむ」(在原元方)という和歌を思い浮かべましたが、立春はこのところはずっと2月4日なので大体2年に1度は立春前の旧正となるわけで、全然めずらしいことではないようです。

 さて(ここから本論)、正月といえば新しいカレンダー。
 私ヌルボ、先日民団の傘下組織の在日本大韓民国青年会制作のハングル・カレンダーをいただきました。(・・・というか「入手した」というか「せしめた」というか・・・。)
 2005年から毎年作られているとのことです。

      
   【表紙。かなり大きいカレンダーです。韓国各地の地名が記されています。】

 表紙左下の文字をみると・・・。

       

 甲午年、つまり<きのえうま>の年。あの丙午(ひのえうま)の年からはもう48年経ったのですねー・・・。
 そして甲午といえば、甲午農民戦争とそれに続く日清戦争の勃発が120年前の甲午年=1894年。・・・この件については今回は素通りします。

 で、このカレンダーの特長は一目瞭然。たとえば今日1月31日のところを見てみると・・・。

     
  【この記事冒頭にも載せた新年の挨拶。ハングル文とその日本語訳が併記されています。】

 つまり、その日やその時期に関連した単語や文が記されているというわけです。
 1月1日あたりは次の通り。

     
        【コチラも正月関係の言葉や文が記されています。】

 1月1日、いきなり「설을 쇠다」というのを見てあせる韓国語学習者もいらっしゃるのでは?(「설을 보내다」ならわかるが等々)
 このカレンダー、表紙右下に書かれているように<中級>なんですね。
 別にデザインはほとんど同じの<初級>用もあるのです。(<上級>はありません。)
 ネット検索したら、<初級>用の5月のカレンダーが見つかりました。

    
     【ショッピング関係の会話文が続いています。5月とはあまり関係ないかも・・・。】

 次に各月ごとの絵に注目。

    
  【1月はソウル。Nソウルタワーに漢江に・・・。あとはごちゃごちゃしててよくわかりません。】

      
   【3月はビビンバで有名な全州。10月の春川はタッカルビじゃなくて、「冬ソナ」で有名な南怡島(ナミソム)のメタセコイアの並木道です。】

 全12ヵ月の配分を見てみると、1月ソウル・2月珍島・3月全州・4月済州島・5月慶州・6月水原・7月釜山・8月板門店・9月安東・10月春川・11月済州島・12月ソウル。
 つまり主要観光地ということですが、ソウルと済州島が各2回。それなのに江原道は入っていないぞ。江陵方面の皆さんとか、言いたいことあるんでないの? 仁川、光州、大邱、大田等々主要地方都市の皆さんも・・・。

 このハングル・カレンダー、昨年もさる筋からいただいたのですが、実は在日本大韓民国青年会でネット販売(→コチラ)、または各地方本部で販売されていて、そのお値段が1500円なんですね。
 そうとは知らず、2年連続でいただいちゃって、もうしわけないというか、ラッキーというか・・・。まあ、こうして一応宣伝させていただきますということでご勘弁を・・・。(初級のネット販売は12月13日早々に売り切れとのこと。中級はまだあるのかな?)
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[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって③

2014-01-21 09:21:27 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 → <[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって①>
 → <[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって②>

 昨年6月、私ヌルボはサークル仲間と計4人ので聞慶方面漫遊の旅に出かけ、聞慶からはバスで店村に出て、そこから店村→栄州→堤川→清州とぐるっと韓国内陸部のローカル線の旅を楽しんできました。
 その時は<白頭大幹>のことは言葉さえ知りませんでした。ところが、後になって知ったところでは、その頃「白頭大幹観光列車」という観光列車が運行していたのです。そして、われわれ4人がマッコリを飲みながら「何の変哲もない田舎だな~」とぼんやりと景色を眺めたりしていた栄州~堤川も、その観光列車の路線の一部だったのです。(その時の旅行記録は→コチラ。)

 その「白頭大幹観光列車」については、<コネスト>の記事で詳しく説明されています。(→コチラ。)
 それによると、運行期間は2013年4月12日~12月31日。
 「O-train」と「V-train」の2種類があり、「O-train」は堤川~栄州~太白~堤川の路線を約5時間で1周する循環列車、「V-train」は白頭大幹の峡谷部を往復する峡谷列車で、汾川~鉄岩間を約1時間かけて運行します。

     
         【「O-train」と「V-train」の運行地図。】

 この観光列車はなかなかの人気だったようで、「100日間で10万人突破」というニュースが7月<聯合ニュース>等で報じられました。(→コチラ。)

 関係の動画もいろいろありますが、次の動画は国土交通部(日本の国土交通省に相当)作成のもので、KORAIL(韓国鉄道公社)及び慶尚北道・忠清北道・江原道の3自治体も名を連ねています。
 タイトルが<몸과 마음의 정화, 백두대간 탐방열차 타고 에코힐링여행 떠나요(体と心の浄化、白頭大幹探訪列車に乗ってエコヒーリング旅行に出かけましょう)>。この文言だけでも<白頭大幹>がどんなイメージで宣伝されているかがよくわかります。

   

 では、このような<白頭大幹>のブームはいつ頃から起こったのでしょうか?

 これまで見てきたように、90年代登山家の間で注目され、縦走が行われるようになったのが最初です。

 雑誌「山(산)」の2003年4月号に<백두대간 종주기 발행 붐 뜨겁게 인다(白頭大幹縦走記ブームが熱い)>という記事がありました。(→コチラ。)
 この記事によると、.登山家たちの間に白頭大幹の縦走ブームが続いたのは95年前後から。その中で、とくに1994年7月17日~9月25日の71日間を単独無支援で縦走したキル・チュンイルさんが96年に縦走記「71일간의 백두대간(71日間の白頭大幹)」を刊行。悪条件の中を苦労して縦走した体験とともに準備や所要時間、日程表等の情報や資料も載せたこの本は「しばらくの間、大幹縦走者たちに教科書のような本として人気を集めた」そうです。その後、白頭大幹の全行程を1度に縦走するのでなく、週末等に少しずつ何回、何十回にも分けて縦走を達成する形式もふつうに行われるようになり、またその記録もさまざまなものが書かれるようになりました。中には、行くことのできない北朝鮮部分の白頭大幹を「地図の上で歩く」、つまり仮想山行記まで書かれるようになったとか。
 また、この記事の中でやっぱり、と思ったのは「このように絶えず出ている大幹縦走記の共通点は、<大幹を縦走する間に生まれる私たちの国土を愛する心>である」という点です。
 この白頭大幹縦走ブームは、日本での「日本百名山ブーム」にも相通じる部分が少しあるかもしれませんが、<愛国心>という要素は韓国らしいところです。

 このような白頭大幹縦走記は今ネット上でいくつも読むことができます。
 そんな中、2008年の<アジア経済>に「白頭大幹、縦走ブームに毀損深刻」という記事が掲載されました。(→コチラ。) 10年来の縦走ブームや開発等によって白頭大幹の生態系が脅かされているというもの。これまたさもありなん、という内容です。

 ところで、白頭大幹という概念が太白山脈等学校教育の中で教えられてきた山脈図を否定するような形で注目されてきたということは、もしかして学問的に問題を生ずることがあるのでは・・・、ということを前の記事で書きましたが、韓国のサイトをいろいろ見てみると、次のような記事が見つかりました。

 2005年<ハンギョレ21>の「山地図の激突が始まる」と題した記事です。(→コチラ。)
 それによると、国土研究院は地表の指標の高低データと衛星映像などを活用して、3次元映像による新しい朝鮮半島の山脈地図を発表したが、この山脈地図は既存の小•中•高の地理の教科書に掲載されたものと非常に異なっている。新たに描かれた韓半島の山脈は、既存の14の山脈ではなく、48個の山脈を含んでおり、山の位置や外見も差が大きい。この発表の通りなら、韓国の国民は100年近く「事実でない知識」を「騙されて学んだ」ことになる。また、この地図は登山家や在野の学者が支持する「山経表」の山並みの体系と似ている
 一方、これに対して地理学界の反応は冷ややかで、「国土研究院の山並み概念は、自然科学で扱う山脈とは異なる概念である。山地の規模と連続性のほかにも、山脈の生成原因、地質などが山を分ける重要な基準になる」との批判があるということだ。

 ・・・さて、この対立する2つの概念はどういう形で決着がつけられたのかはよくわかりません。
 ただ、山林庁の公式サイト(→コチラ)を見ると、「2つの方式の表記の長短所」という次のような表が載せられています。
     
   区分   白頭大幹    山脈体系
   性格○山と川を基礎として山並みを形成
○山並みは山から山へのみに続く
○地形と一致する自然な線
○地下の地質構造線を根拠として土地の上の山を分類
○山脈線が中間で川によって途切れる
   長所○景観上よく見られる断絶のない分水嶺を中心として河川・山並み等の把握が容易
○したがって山地利用計画と実践に便利
○風水地理的韓国の地形と山系の理解に便利
○国際慣行に符合している
○山脈形成の原因と関連性が深い

 ・・・つまりは、両論併記ということですね。

 そして、この<白頭大幹>概念の復活に当初からつきまとっていた要素が近年いよいよ形をとって現われてきたようです。
 それは風水思想とか(民族の)<気>といった考え方。

 たとえば、2012年11月の「中央日報(日本語版)」の<植民地時代に断絶された「梨花嶺」を復元>という記事(→コチラ)を読んでみてください。
 日本語版では白頭山脈と表記されていますが、原文はもちろん白頭大幹です。白頭大幹の一部である聞慶に近い梨花嶺は日本強制占領期の1925年に道路が造成されて脈が途切れたが、87年ぶりに韓国政府が復元に着手して、従来の道路の上にトンネルを造成した、というものです。
 また2012年2月の「朝鮮日報」の記事(→日本語)によると、白頭大幹は植民地時代や開発時代に各種の道路工事が行われる過程でおよそ50ヵ所が断ち切られたが、43億6000万ウォンをかけて梨花嶺のトンネル造成を進める他にも、「政府は江陵の大関嶺、聞慶のボル峠、尚州のヌル峠・ピ峠・化寧峠、南原のサチ峠・女院峠など計13ヵ所を2020年までに復元することとした」とのことです。

  
   【梨花嶺。以前は道路によって分断されていた分水嶺(左)が、トンネルが造成されてつながったのです。(右)】

 いやあ、これは2ちゃんねらー等々のかっこうのネタになるというか、すでになってますね。
 しかし、太白山脈の北の、北朝鮮領内の楸哥嶺(チュカリョン)構造谷という低地帯では鉄道(京元線)がトンネル一つなく敷設されているそうだし、運河も低地帯に沿って突き抜けているというし、そこにも将来的にはトンネルを造って白頭大幹をつなげるという構想なのでしょうか?

 ・・・白頭大幹について3回にわたり長々と書きました。
 12月8日の<★ジュニア向き教養書「大東輿地図」を読む>からだと4回です。
 思わぬところから韓国人の伝統的地理観や、その喪失と復活及びその背景等々を知ることとなりました。
 例によって細々と書きすぎた感もありますが、基本的には読者の皆さん向けというより(勝手ながら)自分が調べたことの備忘録のようなものなのでご容赦を・・・(!)。
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[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって②

2013-12-29 23:56:38 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 12月25日の記事の続きです。

 前回は、韓国には古くから半島最北端の白頭山から半島南部まで至る山並みを1筋につながっている白頭大幹という地理概念があったこと、それが日本統治下、日本の学者による山脈図が学校で教えられる一方で忘れられてきたこと、ところが近年再び白頭大幹が注目されるようになったことについて記しました。

 再び注目されるようになったきっかけは、1980年冬に山岳人&古地図研究家のイ・ウヒョンさん(1933~2001)が仁寺洞の古書店で1冊の古書を見つけたことだそうです。
 ※イ・チャンウォン「大東輿地図」等には<仁寺洞の古書店>の店名は書かれていませんが、<「風のように生きたイ・ウヒョン>と題されたイ・ウヒョンの略伝(→コチラ。韓国語)によると、彼はその頃あの有名な通文館(→関連記事)で売り物として出ていた(!)「大東輿地全図」を借りたりしているのでそこかもしれません。

 で、その古書の名は「山経表(산경표)」。申景濬(シン・キョンジュン.1712~1782)が書いたと伝えられる地理誌で、山の体系を族譜のように記述したものですが、イ・ウヒョンさんが通文館で偶然見つけたのは崔南善(チェ・ナムソン)や朴殷植(パク・ウンシク)等が古文献の整理・保存のため1910年に設立した朝鮮光文会から1913年に刊行されたものです。

     
 【朝鮮光文会刊行の「山経表」。朝鮮半島の山々の<始祖>というべき白頭山が最初のページ冒頭に記されています。】

※韓国版ウィキペディアの申景濬(신경준)の項目(→コチラ)によると、「山経表」が彼の著作というのは必ずしも明確ではないようです。

 この山の<系図>によると、たとえば智異山(チリサン)は123世の子孫となっています。そして最後は、全羅南道光陽市の白雲山(백운산.ペグンサン)で、171代目の子孫となっています。

 「山経表」を入手した6年後、イ・ウヒョンさんはその書物で朝鮮半島のすべての山が1大幹・1正幹・13正脈という1つながりの系譜のように分類されていることを公表します。
※「14正脈が正しい」との異論も提起されています。(→コチラ。韓国語)

 イ・ウヒョンさんは、また現在使用している太白山脈、小白山脈等の名称ははいつから使われ、白頭大幹はなぜ消えたのか疑問を持つようになり、日本の国会図書館にまで行って結論を出します。それが前の記事でも書いた20世紀初頭の小藤文次郎による朝鮮半島の地質調査と、山脈図の作成でした。
 こうした事実を知った彼は、それを学校教育に反映させるため教科書作成にも関わります。

 1990年代に入って、月刊誌「人と山(사람과 산)」が白頭大幹に関する記事を連載し、白頭大幹の概念はより広く知られるようになりました。
 以後、白頭大幹を縦走する登山家が増えていきます。イ・チャウォンさんの本「大東輿地図」によると、「イバラに覆われた道なき道をさまよったり、炎天下でばてて倒れたり、前も見えない大雨に見舞われたりといった苦労を経ながら、白頭大幹は表面的な概念ではなく、実在する朝鮮半島の骨格であることを全身で確認した」とのことです。

 白頭大幹復活に大きな役割を果たしたイ・ウヒョンさんは2001年67歳で世を去ります。
 その翌々年の2003年12月「白頭大幹の保護に関する法律」が成立します。→コチラのニュース記事によると、白頭大幹の自然環境保護のため建築物の新築や土石採取等々の開発を規制することを目的とした法律で、関係諸業者や地主等の反対、山林庁と環境省の所管をめぐる対立等のため成立に至るまでいろいろ調整に難航したとのことです。
 つまり、その頃にはすでに白頭大幹は地理の分野だけでなく、環境行政にも関係するキーワードになっていたということですね。

 そして私ヌルボが思うには、2005年頃から白頭大幹はまた新たな段階を迎えるようになります。それは自然や環境に対する意識の高まりという風潮とも相まって、観光や町起こし等と結びつけられたり・・・といったように、一般の人々の間にも白頭大幹への関心が広がり、さまざまな取り組みが行われるようになってきたことです。
 その具体的なあらわれについては続きで、ということにします。

☆上記イ・ウヒョンさんの略伝はとても興味深くて、つい読みふけってしまいました。
 自動翻訳は→コチラです。

 → <[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって③>
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[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって①

2013-12-25 19:28:49 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 12月18日の記事で「大東輿地図」について書きました。
 今回は一応その続きです。

 テーマは朝鮮半島の山脈についてです。

 金正浩の「大東輿地図」に表されている山並みの中で、朝鮮半島最北端の白頭山から半島南部の智異山までひときわ太い線で描かれているのが白頭大幹(백두대간)です。

 下の画像[A]は、イ・チャウォン著「大東輿地図」に載っている白頭大幹の図です。
 一方、[B]は韓国の学校で戦前の日本の統治期以来現在まで長く教えられてきた山脈図です。

     
    [A]白頭大幹
 
    [B]教科書に載っている山脈図
 


 [A]図の太い赤線が白頭大幹です。
 その線上にある▲印のついた山を北からたどると次の通りです。

▲백두산(ペクトゥサン)=白頭山(2750m)
▲금강산(クムガンサン)=金剛山(1638m)
▲설악산(ソラクサン)=雪岳山(1708m)
▲오대산(オデサン)=五台山(1563m)
▲태백산(テベクサン)=太白山(1567m)
▲소백산(ソベクサン)=小白山(1439m)
▲속리산(ソンニサン)=俗離山(1058m)
▲덕유산(トギュサン)=徳裕山(1614m)
▲지리산(チリサン)=智異山(1915m)


 このように有名な山々がこの線上に位置しています。
 白頭山から南下した白頭大幹は、そのまま現在の韓国領内に入り、太白山で大きく西に折れて、半島南端に至ります。つまり半島内のすべての山がこの白頭大幹から枝分かれしていることになります。

 イ・チャウォンさんの本によると、白頭大幹は韓民族が自然とともに生活する中で得た1000年以上用いてきた概念です。最も古い(15世紀)地図の「混一疆理歴代国都之図(혼일강리역대국도)」をはじめ、昔の地図には例外なく表示されています。
 この白頭大幹は、韓国の地を東西に分け、数多くの谷や野を生み、民族の生活の場をつくってきました。広い意味では、白頭大幹は山並みを含むこの地の山並み全体が作り出した秩序を意味しています。

 ところが、韓国の学校教育の中では、日本の統治期から長く上の[B]の山脈図が用いられてきました。
 その山脈の中で、太白山脈(태백산맥.テベクサンメク)は趙廷来の長編小説のタイトルでもあり、映画化もされているので聞いたことがある人も相当数いることでしよう。

 この山脈図は、イ・チャウォンさんの本にも記されている通り、日本の地学・地質学・地理学の草分けともいうべき学者の小藤(ことう)文次郎が1903年発表した山脈体系に基づいたものです。
 この本の説明では、「当時としては最新の学問の地質学によって、地質構造を基に作成されたもの」で、「当然実際の地形とはあっていない一種の地理教育的模型」とされています。そのうえ「踏査期間も短く、学問的妥当性もないことが今の研究により明らかにされた」とも。
 また、さらに問題なのは、「小藤の山脈体系が以後韓国の地理教科書に載せられ、日帝強占期のうちにわが民族の伝統的な地理観にとってかわってきたという点」だと述べられています。

 この「民族の伝統的な地理観」というのがまさに「白頭大幹」という考え方なのです。朝鮮半島に昔から暮らしている民族の生活や精神の母胎ともいうべき山や川に対する見方がそこに表されている、というわけです。

 [B]の山脈図では、白頭大幹が狼林山脈と太白山脈の間の楸哥嶺構造谷[地溝帯](추가령구조곡)で分断されています。
 この点をはじめとして、本書では山脈図を次のように厳しく批判しています。

 日帝はひとつの山並みとして連結された大幹と正脈(大幹から枝分かれしている山並み)の概念を無くして山脈の概念を導入し私たちの地をさまざまな地域に分けました。近代学問の名を借りてはいるものの、明確に意図的な歪曲でした。小藤の山脈図には最初から白頭山がありません。日帝は政治・経済・社会・文化すべての分野を植民統治に便利な体制に変え、私たちの地形まで変えたのです。
 いくら学者だといっても、侵略国から来た一個人の短期間の研究がこの土地で暮らしてきた民族の千年以上になる地理観に替えることは理に適っていません。侵略の一環としてこの程度の歪曲はあるはずだと見積もっても、さらに大きな問題は、この山脈体系がいかによく見ても教育的にも学問的にもそんなに役にたたないということです。


 ・・・どうでしょうか?
 私ヌルボが前回の記事の末尾で書いた疑問の1つはこの箇所です。
 最近、日韓間で「歴史歪曲問題」が大きな課題になっています。それにも関連するのですが、日本人にとって「歪曲」という言葉は意図的に事実を変えることをいうのではないでしょうか? 韓国人の場合は、もしかして意図的であるかどうかと関係なく、事実が歪められたら「歪曲」なのでは、・・・と、このくだりを読んでいて考えました。
 20世紀初頭に、ドイツ仕込みの近代的地質学に基づいて朝鮮半島を調査した小藤文次郎が、朝鮮の文化や伝統を否定しようという意図を持って山脈図を作成したとはとても思えません。
 また、イ・チャウォンさん等が朝鮮の伝統的な自然観・地理観を尊重したい気持ちはわかるとしても、そのような民族主義の色濃い見方が現代の科学と相容れない部分はあるにちがいありません。その点をどう考えるのでしょうか?

 どうも、ヌルボの考えでは歴史だけでなく、地理学の分野でも民族主義の色眼鏡で「歪曲」された像を見ているのは韓国の人たちのように思います。
 (日本人がよくやるのは「歪曲」よりも「隠蔽」でしょう(!?))

※立岩巌「朝鮮-日本列島地帯地質構造論考」(東京大学出版会.1976)によると、小藤文次郎は1900~02年に計14ヵ月をかけて朝鮮半島を踏査し地質調査を行った、ということです。
 太白・小白・車嶺等、今も韓国で使われている山脈名もその時初めてつけられました。(これは韓国人としてはたしかに腹立たしいことでしょう。)

楸哥嶺構造谷[地溝帯]は白頭大幹を横切って(??)東西にのびている低地帯で、1914年全線開業したソウル~元山(ウォンサン)間を結ぶ京元(キョンウォン)線もこの低地帯に沿ってトンネル1つなく建設されました。

 ところで、この白頭大幹という概念ですが、学校教育で約1世紀もの間教えられてこなかったこともあって、韓国の人々から忘れ去られていたものでした。
 それが「再発見」されたきっかけを作ったのが前の記事でも出てきたイ・ウヒョンさん。金正浩は半島全土を踏査しなかった等々の新説を唱えた山岳人&古地図研究家です。
 そのイ・ウヒョンさんが1980年代に仁寺洞の古書店で1冊の古本を見つけたことから白頭大幹が再び注目されるようになり、近年はブームにもなっているようです。
 それについて書くとさらに長くなりそうなので、また今度、ということにします。

 → <[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって②>
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「韓国の伊能忠敬」ともいうべき金正浩の実像は? ★ジュニア向き教養書「大東輿地図」を読む

2013-12-18 16:09:33 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 10月25日の記事<そうだったのか! 韓国人のアタマの中の韓国地図>のコメントで、のんきさんが朴範信(パク・ボムシン)の小説「古山子(고산자.コサンジャ)」のことについて書いて下さいました。
 それを読んで、私ヌルボ、20年以上も前に観た北朝鮮映画「朝鮮地図物語―金正浩の生涯」のことをボンヤリと思い出しました。
 ※この映画については崔碩義さんの文章をご参照ください。(→コチラ。)

 映画に続いて思い出したのが何年か前に購入したもののツンドクになっていたジュニア向けの韓国書。
 それが、とくに熱心に捜したわけでもないのに、数日前奇跡的に発見されました。これは空前で絶後のことかもしれません。
 で、その本がこれ。
       
    【書名は「大東輿地図」(だいとうよちず)です。あ、書いてありますね。】

 地図といえば、日本人なら誰もが知っている有名人が伊能忠敬(1745~1818年)。
 彼の偉大な点は、まず隠居後の50歳になって19歳年下の高橋至時を師として暦学・天文の学問を始めたこと。
 そして幕府の命を得た形で蝦夷地測量に向かったのが55歳の時で、以後73歳で世を去るまで日本全土の測量を続け、歩いた歩数は井上ひさしの小説によれば「四千万歩」。その成果というべき「大日本沿海輿地全図」が完成したのは、彼の死後の1821年でした。
 ・・・と、以上はウィキペディアを援用。
 ※「大日本沿海輿地全図」の大図214枚を名古屋ドームで並べている動画は→コチラ

 そして朝鮮では、「大日本沿海輿地全図」からちょうど40年遅れて、1861年ほぼ正確な朝鮮半島全図である「大東輿地図」が作成・印刷されました。
 「大日本沿海輿地全図」は手書きの彩色地図でしたが、「大東輿地図」は126枚の木版に彫られました。

        
    【「大東輿地図」。韓国人にとっては、独島が載っていないというのが非常に残念ということです。】

 そして、この「大東輿地図」の作者が金正浩(김정호.キム・ジョンホ)という人。古山子(コサンジャ)というのはその号です。

 この地図は、現在は韓国が誇るべき歴史遺産として国宝(正確には宝物)とされていますが、この金正浩については伊能忠敬とは対照的に詳しく伝えられていません。

 私ヌルボが金正浩について知ったのは先述の通り北朝鮮映画「朝鮮地図物語―金正浩の生涯」からですが、今回読んだ「大東輿地図」という本によると、過去大方の韓国の人たちもその映画に描かれた金正浩像を当然のように思い込んでいたということです。

 そのポイントというのは次の3点です。

①金正浩が地図を作る前は、朝鮮には正確な地図がなかった。
②金正浩は白頭山に8回登り、全国を3度も踏査する等、ただ二本の脚で歩いて地図を作った。
③朝鮮政府(大院君)は、この地図が外敵の手に渡ることをおそれ、地図と木版を押収し、金正浩は獄死した。


 ・・・そうそう。だから私ヌルボ、この「大東輿地図」という本もたぶんそのような金正浩の一生を描いた伝記だろうと思ってしまったのが2006年発行なのに長い間ツンドクにしてしまっていた大きな理由だったのです。

 ところがこのイ・チャウォンの本を読んでみたら全然違う内容なのです。
 伝記ではなく、フィクションでもありません。金正浩と、彼が作製した「大東輿地図」等の地図について書かれた児童・生徒向けの教養書です。
 筆者のイ・チャウォンは梨花女子大で地理学を専攻した人とのことで、最近の学説についてもわかりやすく紹介しています。

 ところがこの本、最初から「アレレ!」と<常識>を覆すようなことが書かれています。
 その<常識>というのがまさに上記の①~③なのです。

 この本によると、そのような「常識」の元は<日帝強占期>の普通学校の教科書「朝鮮語読本」(1934年)だということです。

       
  【「日帝は朝鮮語を抹殺しようとした」という韓国の主張を否定するネタとしてよく用いられますね。この第五巻に金正浩のことが記されています。】

 このイ・チャウォンの本の冒頭に、この教科書の文章がそのまま載せられています。(下画像)

        
  【ハングルの用字がヘン! と思ったら、当時と現在とでは正書法が違うのですね。挿絵は当時のものではありません。】

 そして本書は「朝鮮語読本」の金正浩の物語の要点として上記3項目を列記しているのですが、「アレレ!」というのはその直後のこの文章。

 「うーん、あまりにもそのようにみえますが、これは最初から最後まで誤解です。

 では、正しい史実はというと要約すれば以下の3点。
①金正浩以前の朝鮮にも、すでにいくつも地図があった。(世宗の代以来、地図製作の先進国だった。)  
②金正浩は朝鮮各地を踏査していない。彼はそれまで作られていた地図を基にして地図を作った。
③「東方輿地図」は没収・焼却されたりせず今に伝えられていて、金正浩が捕えられ獄死したという事実もない。


 この<常識>破りの説の論拠として、次のような理由があげられています。
 「大東輿地図」の製作を後援した崔漢綺(최한기.チェ・ハンギ)、申櫶(신헌.シン・ホン)も処罰されなかった。  
 また、彼らの残した記述によれば金正浩は長い間広く資料を集め、さまざまな地図を比較した後地図を作成したと伝えている。
 現に「大東輿地図」の木版が残っていることからも、没収・焼却の事実はなかったことは明らか。

 
 さらに、全国をくまなく調査することが地図作成に必須のことではなく、たとえば白頭山に登るのも実質的に意味のあるとはいえないことや、フランスの有名な地図製作者ダンヴィルは1歩もフランスを出ることなく非常に正確な地図を作成したという事例もあげて、むしろ金正浩が英雄的なのは、山を越え川を渡り、飢えや寒さに耐え、ある時は猛獣と戦ったり等々しなくても、机上の作業でこのように細かく正確な作業を持続できたことにある、とこの本では述べられています。

 では、なぜ日帝は誤った内容の物語を教科書に載せたのか、という点について。
 それを読んだ子どもはおそらく「金正浩は本当に偉大な人だ。しかしそんな立派な人物を殺すとは朝鮮という国はなんとなさけない国か!」と考えるだろう。そして、そんな国は滅んでも当然だと・・・。日本はそれをねらったのだというわけです。

 実は以上のこと(金正浩は全国を踏査せず、獄死もしなかった等)は日本版ウィキペディアにも記されています。(→コチラ。)
 そして彼の投獄や地図の焼却等は「韓国の歴史学では朝鮮総督府の捏造と見ている」とも。

 ところが、このイ・チャウォンの本によると、すべてが朝鮮総督府の作りごとではないとも書かれ、「朝鮮語読本」刊行に約10年先立つ1925年、当代きっての朝鮮人文化人崔南善(チェ・ナムソン)の文章を紹介しています。
 ※崔南善の激動の生涯についてはウィキペディア参照。(→コチラ。)

 崔南善は1925年「東亜日報」に「古山子を偲ぶ」という記事を載せ、「正確な現況を知るために数十年全国をくまなく踏査し、白頭山だけでも7回登った」と記し、その3年後にも「別乾坤」という雑誌で彼が「半生をかけて八道をあまねく回って・・・」と記して、このような文を通して金正浩を死に追いやった朝鮮の無知な為政者を批判している、とのことです。

 つまり、崔南善がこのように書くほど<日帝の教科書歪曲>以前に多くの人々がこのような話を信じていたということです。

 では、なぜ朝鮮の人々の間に<誤解>が広まり、戦後も長くそれが信じられてきたのか?
 イ・チャウォンの本では、この「大東輿地図」を見た人たちがそのすばらしさにうたれ、このような地図はきっと(全国踏査のような)艱難辛苦の結果に違いないと思ったからだろう、と推定しています。(この点について私ヌルボは保留。)

 ・・・以上、金正浩についての誤った<常識>と、それに対する近年の批判の主要部分をまとめてみました。
 ところで、このイ・チャウォンの本によるとこれらの批判が出てきたのが1970年代。李祐炯(イ・ユヒョン)という山岳人にして古地図研究家という人が最初に提起したということのようです。

 私ヌルボが最近読んだ山本博文「こんなに変わった歴史教科書」(新潮文庫)には、「学会で認められた新しい学説が教科書に載るのは30年後」というようなことが書かれていました。
 韓国でも同様のようで(?)、李祐炯の説にしたがって教科書が改定されたのが1997年。そして2006年度の教科書では、この地図が両班だけでなく百姓の間にも広く、正確に、また後世まで長く伝えられることを期して木版に彫られたことが強調されて記述されています。

 以上長々とイ・チャウォンの「大東輿地図」の内容を紹介しました。ところが実は私ヌルボ、とても興味深く読んだのは事実ですが、伊能忠敬について全然ふれていない点は日本人としてはちょっと不満が・・・。
 そして、伊能忠敬の生涯と業績について日本では詳しく伝えられていることと比較すると、彼よりも半世紀ほど後の金正浩のことは不明な点が多いということ自体が19世紀~現代の日韓の政治・社会・文化のもろもろを象徴していると思いました。
 また、この本については「大東輿地図」という地図とは直接関係ない箇所で疑問をもった点が少しあります。それについてはまた別記事にします。

※参考:上記の新しい金正浩像を漫画で説明している韓国サイトがありました。→コチラ

 →<[韓国]民族主義の色濃い伝統的な地理観? <白頭大幹>をめぐって①>
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[クイズ] 韓国の果物の特産地は?

2013-06-12 23:42:40 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 4月28日29日の記事で、紹介した韓国の女性徒歩旅行家ハン・ビヤさんの韓国縦断記録「風の娘、わが地に立つ(바람의 딸, 우리 땅에 서다)」(1999年)を読むと、半島西南端タンクッから韓国内の東南端統一展望台まで歩く途中の沿道には、土地の特産物を栽培している畑や果樹園や、それを売っている店等があって、彼女は店や農家のおばさんたちと話したことや、それらの特産物についての説明をいろいろ書いています。

 そこで、それらの果物についていろんなことをちょっと調べてみたりしたのですが、とりあえず韓国の地理や産物について「少し知ってる」人向きのクイズを作ってみました。
 韓国の小学生レベルの問題です。

   [問題] 次の果物の特産地をA~Fの中から選べ。  
 ※正解は、(   )の部分を範囲指定すると現れます。
①梨(배)    →( E )  
②みかん(귤)  →( C )
③リンゴ(사과)  →( D )
④干し柿(곶감)  →( F )
⑤スイカ(수박)  →( G )
⑥ブドウ(포도)  →( H )
⑦クルミ(호두)  →( A )
⑧マクワウリ(참외) →( B )


 A.天安(천안.チョナン)
 B.星州(성주.ソンジュ)
 C.済州島(제주도.チェジュド)
 D.大邱(대구.)
 E.羅州(나주.ナジュ)
 F.尚州(상주.サンジュ)
 G.無等山(무등산.ムドゥンサン)←光州市
 H.永同(영동.ヨンドン)


 クルミは果物か?と言われると「いいえ」と答えざるをえませんが・・・。ちなみにトマトは韓国では野菜ではなく果物です。
 マクワウリといっても、韓国のチャメは私ヌルボが子どものころはよくあったのと色は同じ黄色ですが、韓国のチャメはずっと小さいです。(下の画像参照) 職安通りの韓国市場で売ってますね。通販等でもあるのかな?

       
コメント (2)
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[韓国の手帳の付録]ハングル⇔漢字対照表などは便利かも・・・・

2013-05-25 16:30:04 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 昨年12月、韓国の方から2013年用の手帳をいただきました。
 韓国語だと??(スチョプ.手帖)ですね。
 1日が1日分。やや厚めですが、やや小さめの手ごろな大きさなので使っています。

            

 下に「韓国出版文化産業振興院」の文字が入っていますが、韓国の代表的な手帳&日記帳の会社・ヤンジ社の製品です。基本的な仕様は→コチラ参照。

 ところで、この手帳の後ろの方に付いている付録がなかなかおもしろいのです。
 とくに、知り合いの韓国語学習者の人たちに見せて回っているのがこのページ。(下の画像。)

           

 「常用漢字一覧表」。漢字をカナダラ順に並べた表が2ページにわたって載っています。これは日本の韓国語学習者にも役に立つかもしれません。

 漢字の表の後の小さなスペースにあるのが次の表。

              

 「韓国の姓氏が、これもカナダラ順に並べられています。
 最下段の南宮から皇甫までの8つは、2文字の姓です。

 このほかに、下のような電話の市外局番や国際電話の国番号や、世界時差表(画像省略)もありますが・・・

             

 以下、韓国らしいものをいくつか紹介します。
 
 まず、「慶弔文・寿礼書式」。

      

           

          
   
 こういうかしこまった儀礼では漢字で書くんですね。

 下の画像は「年齢早見表」ですが・・・・

           

 西暦だけでなく、檀紀や干支も記載されています。
 そして何よりも、韓国では数え年が基本なので、2013年生まれは生まれた瞬間に1歳ということになります。つまり、同じ年に生まれた人は誕生日に関係なく皆おない年です。

 次は「度量衡換算表」。  

        

 長さ(길이)では1尺(자)・1間(간)・1町(정)、重さ(무게)では1斤(근)・1貫(곤)、体積(부피)では1合(홉)・1升(되)・1斗(말)、面積(넓이)では1坪(평)・1段歩(단보)・1町歩(정보)と、それぞれ尺貫法の単位も載っています。

 尺貫法(척관법.チョックァンポプ)は、韓国でも用いられている言葉です。
 しかし、日常生活でどれくらい使われているのかな? 部屋の広さ等で坪は聞いたことがありますが・・・。

 そして、綴じ込みの地図が付いています。非常に詳細ですが、当然読みづらいです。裏面は世界地図です。そちらも1つのハングル文字の大きさは1.5㎜くらい。

       

 右下隅には首都圏の拡大図があります。そして右上には・・・

       

 鬱陵島(ウルルンド)といっしょに、やっぱりあります独島(トクト)が・・・。

 そして裏表紙見返しに地下鉄路線図。

       

 日本の手帳の付録についてはあまりよく知りませんか、比べてみていかがなものでしょうか?
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[昔の韓国の習慣] 他家を訪問したら、門前で「こちらに出て来い!」と叫ぶ

2013-05-05 23:29:50 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 誰かが門前で、「こちらに出て来い!」と大声で呼ばわったら、家の中の者たちは、いったい何ごとかと色めきたつでしょう。
 ところがこの「こちらに出て来い!」、韓国語で「이리 오너라(イリ オノラ)」は、「両班が他家を訪ねたときに、訪問先の使用人を呼ぶ時に使う言葉」として昔はふつうに用いられた言葉で、時代劇などではよく出てくるので、韓ドラファンの皆さんはおなじみかもしれません。
 <韓国時代劇歴史ドラマ事典>というサイトの中にも載っています。それには「帯同している自身の使用人に言わせることも多い。この言葉自体が命令形であるため、決して訪問先の主人に対して直接使うことはない。」とも書かれています。
 時代劇ドラマの日本語字幕では「後免!」と訳しているのがふつう、かな。「誰かいないか!」とか「門を開けろ!」とかもあるようですが・・・。

 「朝鮮を知る事典」(平凡社)の「あいさつ」の項目には、次のような説明があります。
 訪問するときには、<ケェシムニカ>(いられますか)とか<シルリェハムニダ>(失礼します)とまず声をかける。かつては両班は<イリオノラー>(ここに出て来い)と、まず召使か下男を呼んだものだが、今どきこんなことは言わない。

 私ヌルボは、10年くらい前(?)にある古本(今行方不明)を読んでこの言葉を知ったのですが、それには、李朝の時代が終わってからもかなり長く用いられていたと書かれていまた、と記憶しています。
 また、没落した両班でもう使用人がいなくなっていても、「こちらに出て来い!」という客に対しては、たとえばその家の奥さんが「どうぞお上がり下さい」という言い方はしないで、「「中に入れ」とのことです」と、使用人が主人の言葉を伝えるという形式で客を招き入れるのだ、とも。

 今このようなことを思い起こしたのは、たまたま最近韓国近代小説史上の記念碑的作品とされる李光洙「無情」の最初のあたりを読んでいたら、次のような場面があったからです。

 主人公の青年教師李亨植(イ・ヒョンシク)は、教会の金長老から娘の英語の個人教授を頼まれ、ソウル安洞(現在の安国洞)にある彼の屋敷を訪ねる場面から始まっています。(1916年6月27日という設定)
 金長老は「ソウルのキリスト教会でも両班の資産家として三本の指に入る人物」で、大きな屋敷で「数十人の使用人を使って」います。
 金光鉉という表札がついたその屋敷の門前に着いた李亨植は・・・・というところで原文。

 형식은 지위와 재산의 압박을 받는 듯 한, 일변 무섭기도 하고 불쾌하기도 하면서 소리를 가다듬어, "이리 오너라"하였다. 그러나 그 목소리는 아무리 하여도 뚝 자리가 잡히지 못하고, 시골 사람이 처음 서울 와서 부르는 소리와 같이 어리고 떨리는 맛이 있다.
 "안으로 들어오시랍니다"하는 어멈의 말을 따라 새삼스럽게 가슴을 두근거리면서 중문을  지나 안대청에 오르다.전 같으면 외객이 중문 안에를 들어설 리가 없건마는 그만하여도 옛날 습관을 많이 고친 것이라.

 ※「無情」(平凡社.波田野節子:訳  
 地位と財産に威圧されるような気がして、亨植は畏怖と反感を同時に覚えながら声を整え、
 「ごめんください」と言った。だが、その声はしかにも場違いで、初めてソウルに来た田舎者のようにおずおずとして、どことなく震えていた。
 「お通しせよとのことでございます」
という女中の言葉で、あらためて胸をドキドキさせながら中門を通り、母屋の大庁[母屋にある広い板の間]に上がる。
以前なら外来客が中門より先に入れるはずがなかったが、これだけ見ても昔の習慣は大いに改まったのである。


 李亨植が、はるかに格上の金光鉉元老の屋敷の前でも「이리 오너라」ですからねー。そして中から「안으로 들어오시랍니다」と伝聞形で女中が主人の意を伝えています。
 1916年。「昔の習慣は大いに改まった」というその当時も、この時代劇調のやりとりはまだ続いていたということですねー。
 では、いつ頃まで存続したのか、という点については今後の課題ということにしておきます。

付記:「이리 오너라(イリ オノラ)」という看板を掲げているレストランとかネットショップがあるのは、文字通り「この店に来い!」という意味なんでしょうね。

★ぬんと、→コチラで李光洙「無情」(韓国語)の全文を読むことができます!
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日本と韓国 ここが違う  ③街や乗り物編   

2011-03-04 23:52:12 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
の続きです。

 ※ソウルの街も、韓国全体も日々変わりつつあるので、現時点で正しいとは保証できませんが・・・

上は日本
 下は韓国 です。

通学に買い物に自転車を愛用。置場もある。
街でめったに見ない。物の運搬かスポーツ用程度。
  ※少しようすが変わってきたかも。→<目につき始めた韓国の街の自転車>

 
オートバイは当然車道。
えっ!? オートバイが歩道を・・・(交通ルールがいいかげん?)

カミカゼタクシーは昔の話。
車のスピードはハンパじゃない!

相乗りはありえない。(白タクを除く。)
ハプスン(合乗)はふつう。→えっ、最近はなくなったって!

交通渋滞はあいかわらず・・・。
 ・お盆休みと暮れ・正月の高速は大渋滞。 
ソウルの混雑は東京以上? 冬は未明から交通渋滞。
  ・9月の秋夕(チュソク)と旧正月(ソルラル)は大渋滞。


高速道路は眠らないようカーブしている。
直線の高速道路、戦時には飛行機の滑走路になる。

駐車場がないと車があってもダメ。
裏道にたくさん駐車。どうなっているんだろう?
  ※他の車が出るのをふさいで駐車している車には電話番号メモが挟んでって、℡すれば来てどける。


スイカもパスモも便利になったが・・・
T-money(ティーモニ)カードで地下鉄もバスもすいすい乗れる。

JRに私鉄、電車はやはり乗り物の王様か。
遠距離もバスで。電車の切符は全部指定券。

日本人は気がつかないが街は醤油の臭いがするそうで・・・
大韓航空も地下鉄もキムチの臭いが・・・

東京の地下鉄も色分けされてるが、複雑。
路線の色分けと駅の番号がわかりやすい地下鉄。

地下鉄内での物品販売は禁止ですよね。
ガムやら、サイフやら、おもちゃやら、地下鉄内にいろんな物売りがやってくる。

乗り物で席をゆずる光景が見られなくなった。
さっと立って席を譲る若者。大きな物を持っていると座ってる人が持ってくれる。

バスでお年寄りはタダというのはあるが・・・
地下鉄、60歳以上はタダ!

信号で聴覚障害者用の音が流れるのはよい。
信号は残り時間をランプ数で表示。人の形が力強い!

地下街もあるけど・・・。
地下街が発達している。
  ※最近横断歩道が増えて地下街に行く人が減ってるようです。


地下通路でトイレがあると思ったら改札の中!
地下街で、トイレまでの距離をm表示しているので便利。

ウォシュレットじゃないと用を足せない子供もいるとか。
便器に紙を流さないで! 管がつまる! 丸めて容器に捨てて。

電車もバスも整列乗車。(○阪は違うって!?)
バス停から離れた所に停まるので、走っていって乗る。

日本人は<真っすぐ>とか<真っ平ら>が好き。
道に凸凹が多い。

ネットカフェ難民は今や社会問題に。
PC房(ピーシーバン)でゲームに熱中。

教会は、近所にあるかなあ?
教会はすごく多い! 赤いネオンの十字架が目立つ夜の街。

お風呂屋さんはふつう夕方から。
沐浴湯(モギョクタン)は朝から営業。豪快な洗い方!

街の屋台は少なくなった。え、不法営業?
屋台(ポジャンマチャ)が並んでいる。最近減ってきてるが・・・。

宿はやっぱり予約しておくほうが安心。
旅館、モーテルの宿泊は予約なしでもまず大丈夫。

宿泊、シングルはあくまでもシングルでしょう。
旅館は一人で泊まっても枕は二つ並んでいる。

親しい友人でも、一つふとんは抵抗あり。
旅館は男二人で泊まってもベッドは一つ。
  ※男男同衾がいやならふとんを出してもらってジャンケンで負けた方が床に寝る。


御客様には営業スマイル。
店員の仏頂面もこの頃は変わってきたかな?

傷痍軍人、50年以上前(!)、動物園の入口等にいた。
行楽地や繁華街で傷痍軍人を見かけることがある。(ベトナム戦争の)

コンビニ天国。
セブンイレブンもファミマもずいぶん増えた。

ファーストフード天国。
ロッテリアにマックにバーガーキングもあるよ。

消える一方の純喫茶。
昔ながらの茶房(タバン)はめっきり減り、明るいコーヒーショップが続々登場。スタバは高いよ。

中間色好みで化粧が地味。
原色好みで化粧が派手。最近ちょっと変わってきたかも・・・。

女子高生の短いスカート、いつまで続く?
日本の女子高生のスカート丈にビックリ!ドッキリ!

気軽に美容整形、とまではいかないでしょ?
美容整形はごくふつう。卒業を機にプチ整形!

自然に見えて、実は凝ってる日本式庭園。
自然のままの朝鮮式庭園。

書店での立ち読みはけっこう普通だが・・・。
韓国の書店では堂々と座り込んで参考書等の丸写しをやってる。

映画の本編終了後も多くの観客は延々と続くエンドクレジットの間も座り続けて館内が明るくなってから席を立つ。
映画は本編が終わったら即退場! まだ音楽も流れているのに、場内が明るくなるのはふつうのこと。作品によってはエンドクレジットの中でNG集があったり、時には重要なタネ明かしとかもあるのに・・・。

おもてで遊ぶ子供を見るのはまれ。
路地で元気に遊ぶ子供たちをけっこう見かける。
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日本と韓国 ここが違う  ②人間関係編

2011-02-28 19:21:04 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 ①食生活編の続きです。

 ※前回同様、「100%こうだというわけではありません」ということを、前置きしておきます。

上は日本
 下は韓国 です。

〇昔、儒教道徳というものがあったようだ。 
 ・宴席で上下関係がどれほど反映してる?
 ・優先席にも若者が座ったまま。
 ・先生にも友達のような言葉づかい。
 ・老後も子供には頼れない。
〇儒教精神、儒教道徳が生きている。
 ・目上の人の前では顔をそむけて喫煙・飲酒。
 ・若者が席をゆずる。
 ・学校では先生=神。
 ・親孝行。<孝道(ヒョード)>は今も生きている。
 ・ご先祖様の栄誉は自分の栄誉。ご先祖様の恥辱は自分の恥辱。∴父親の「親日行為」を息子が謝ったりしてます。(追記。朴槿恵大統領の「恨み千年論」も対日本というよりご先祖様向けの言葉?)


〇社長も組織の一員。エラそうにしてると嫌われる。
 ・意外と豪華、・・・でもない社長室。
 ・チームの合議を重視。
 ・朝から掃除して<親しみやすさ>を売る社長。
〇社長は偉い。(校長も、学生会長も・・・)
 ・社長室は広い。(高校の校長室も広かったなー。)
 ・社長が決める。「君の意見を採用しよう!」
 ・社長自ら掃除はしない。したら馬鹿にされるだけ。


〇エリート社員がカッコいい! もちろん大会社。
〇社長が最高!

〇個人主義。(部下が上司の引越しの手伝いに行ったのも今は昔・・・。)
〇家族主義。(といっても個々の競争はシレツなようだが・・・。)


〇言いたいことがあっても言わない、言えない。
 ・個人情報は聞きにくい時代になっちゃった。
 ・一目惚れの彼女は未婚? 心の中で願うだけ。
 ・電車内のお化粧にまゆはひそめるが・・・。
 ・高くても黙って買う。苦情がはっきり言えるのはオバサンくらい?
 ・お客様は神様です。
〇率直に物を言う。 
 ・初対面で年齢をたずねる。(年の上下で話し方が違ってくるからねー。)
 ・初対面で既婚か未婚かたずね、未婚だと「なぜ?」
 ・街で見知らぬ女性にも喫煙するなと言う。
 ・買い物の苦情や要求はストレート。「なんでオマケが大人だけなの? 子供の分もちょうだい。」(←体験的事例。子連れの韓国人女性[実は韓国語の先生]が店員さんに。)
 ・美容師が客の複雑な注文に「面倒だな」と独り言を言ったという事例も。(これは例外とみましょう。)


〇露わな感情表現ははしたない。
 ・悲しみはじっと堪えるのが美しい。
〇率直に感情を表現する。
 ・悲しければ声を上げて泣く。(事故犠牲者の家族等) 


〇親しき仲にも礼儀あり。親友に対しても話さないことはいっぱいある。
 ・偶然知った親友の秘密。それに触れないことも彼の親友として当然の配慮ですよ。
〇親しき仲に垣根はない。
 ・台所に自由に入り、冷蔵庫を勝手に開ける。
 ・え? 友だちの歯ブラシ使っちゃうの?!
 ・相手の負担を背負ってこそ友だち、相手に負担をかけてこそ友だち。
 ・おたがいの秘密を打ち明けてこそ友だち。学生同士だと相手の成績も知っている。


〇友だちでも身体が触れるのは抵抗感があるんだよな・・・。
〇スキンシップ重視。
 ・ある日本女性、親しい韓国女性と銭湯に行った時、「あなたの肌キレイねー」と触ってこられて思わず体を引いたので、相手の韓国女性も驚いた、という話が・・・・。
 ・大人でも手をつないで歩く。親しい女性同士はふつう。
 ・韓国の大学に赴任した日本人の先生、女子学生と話をしながら歩く場面で彼女が腕を組んできたのでドギマギ。(このような事例がどれだけふつうかは未確認。)
 ・男同士でも(下写真)のような例あり。2000年の南北首脳会談の時には、金大中と金正日が手をつないで「われらの願い」という歌を歌ってました。

      
   手をつないで出廷した全斗煥と盧泰愚両元大統領
 ・同性の友人が自分の部屋に来て泊まることがけっこうあり、その時は同じベッドで寝る。
 ・同性の友人でホテルに泊まる時も同室でダブルベッドで寝る。


〇恋人でもないのに、そんなに近づいて来られると・・・(と後じさりしてドブに落ちた日本人もいたとか。)
〇身体が触れなくても、話をする時の距離が近い。 ※関川夏央の仮説では日本人の平均90cmに対し、韓国人は60cm。友人間だと日本人は50~60cmで、韓国人の場合はそれより10cmくらい近い。

〇クリスマスも初詣も(葬式も)あるけど無宗教。
〇日曜日は教会へ。

〇すぐ「すみません」と謝る。
 ・あとで内心ムシャクシャ。「相手が悪いのになんで謝っちゃったんだろ?」
〇なかなか謝らない。街でよく見る口ゲンカ。(手は出さない。)
 ・大声でどなりあったあとはどちらもスッキリ、かな? 


〇愛国心? 別に・・・。
 ・竹島? どこ?
 ・北京五輪、金メダルは北島と、えーと・・・。
〇民族のプライドが高い。強い愛国心。ウリナラ(わが国)マンセー!   
 ・熱く叫び、歌う「独島はわが地!」。
 ・ウリナラ(わが国)は金メダル13個。日本に勝ったぞ!


〇手作りのお菓子に心を込めて
 ・プレゼントをいただいたら相応のお返しをしなくちゃね。
〇プレゼントは安上がりの手作りよりも高価な物を。(高麗人参等) 
 ・贈り物する気持ちは純粋。見返り期待のような計算はない!


〇割り勘がふつう。(1円の単位まで(?))
 ・「アイツの方がオレの倍以上も酒飲んだのに・・・」と内心不満に思ったりすることもある(?)。
〇年長者や誘った人が支払う。


〇愛情表現も婉曲に。「それってプロポーズ?」
 ・♪目と目でわかるあなたと私♪ (←1950年代の日清チキンラーメンのCMソング)
 ・愛の告白が何月何日だったか??
〇愛の告白に、羞恥心はない! 10回伐って倒れない木はない!!(←韓国のことわざ) 
 ・街の電光掲示板とか、あの手この手で愛の告白。
 ・つき合って百日目の記念日とかを祝う。


〇経済的人間。
〇政治的人間。とくに男は政治好き。


〇0ボール2ストライクだと1球遊んで・・・。これがピッチャーの常識だろ。
〇0ボール2ストライクでも直球で勝負だっ!


〇10分遅れるとイライラ、ソワソワ・・・
〇約束時間はテーゲー(だいたい)でケンチャナヨ!(OK)


 → <日本と韓国 ここが違う  ③街や乗り物編>
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日本と韓国 ここが違う  ①食生活編

2011-02-27 23:40:28 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 これまで読んだいろいろな本や、自分自身の経験から、日韓の違いを列挙してみました。②人間関係編、③街や乗り物編、④学校&教育編と続く予定です。

※日本人同様、韓国人といってもさまざま。社会も日々変わりつつあります。100%こうだというわけではありません。当然のことですが、ご留意を・・・。

上は日本
 下は韓国 です。

〇ご飯に汁をかける。
〇汁にご飯を入れる。


〇主に箸を使用する。箸は横向きに置く。
〇さじを箸(共に金属製)と一緒に使う。箸は右側に縦に置く。


〇茶碗を持って食べる。
〇ご飯の器(金属製)は食卓に置いて食べる。


〇全部残さず食べるのが礼儀。
〇全部食べるのは「料理が足りない」の意味なので残す。


〇鍋物は共用の箸で取り分ける。
〇各自が自分の箸やさじで鍋から取る。


〇鍋物の時など、親切な人は他の人の分も小鉢等に取り分けてくれる。
〇おいしそうなおかず等は、親切にも(!)自分の箸でつまんで相手の口まで運んで食べさせてくれる。・・・って、なんなの、これ!?(韓国ドラマ等ではよくある場面。)

〇ちらしずしをはじめ、混ぜないことが多い。えっ、納豆? うーむ・・・
〇ピビンパもチャジャンミョンもよく混ぜる。日本に来たらちらしずしも丼物も!


〇調味料の代表は醤油。
〇調味料の代表は唐辛子味噌(コチュジャン)。生ガキにも!


〇外国に醤油を持参する人いる? 売ってるかもね・・・。
〇海外旅行にもチューブ入りのコチュジャン。


〇一人分の量が少ない。日本人の胃が小さいのかな?
〇一人分の量が多い。シンプルなオムライス等はなく、トンカツ+オムライスとか、寿司+うどん等々、ボリュームのあるセット物が大半。(小腹がすいた時食べるものがないよ~!)

〇盛り付けに凝るこる日本料理。
〇「和食のチマチマした小皿攻勢は何なんだ? どかっと来い!」


〇朝は軽く・・・。抜く人もけっこういるようで・・・。
〇朝から鍋物とは!(最近は多様ですけどね。屋台のトーストも美味しいし・・・。)

〇夏バテにはウナギ。
〇夏バテにはポシンタン(補身湯)=イヌ鍋。
([2019年の追記] 近年動物愛護の風潮でイヌ鍋文化も厳しい状況になってきてます。「イヌはお好きですか?」ってペットのこと? それとも・・・)

〇魚にくわしい。
〇肉なら何でも知っている。(タコとイカの足の数? そんな細かいことは知らないよ」)


〇キムチやサンチュも有料とは・・・。(と、来日した韓国人、口をとがらせる。)
〇サンチュやキムチ等はおかわり自由。


〇伝統のある老舗が多く、店にプライドがある。
〇「儲けたら転業だっ」・・・で、長く続く有名店が少ない。


〇肉はご飯を食べながら、かな?
〇焼いた肉はサンチュやゴマの葉に包んで食べる。


〇タクアンは衰退気味? 梅干しは?
〇やっぱりキムチは不可欠。世界にも広がる。


〇焼肉は焼く直前にタレをつける。
〇焼肉は半日~5日程度タレに漬けておいたのを焼く。


〇肉は少しずつ焼いては食べていく。
〇肉はいっぺんにたくさん焼いて一気に食べる。(日本人のキミ、油断してるとほとんど残ってないよ。)


〇お茶といえば緑茶。
〇いちばん一般的なお茶は麦茶。


〇焼き魚は網で焼く。
〇焼き魚もフライパンで焼くのがふつうのようだ。


〇魚の小骨はきちんと取る。
〇刺身にけっこう小骨が残っている。


〇ラーメンにもいろいろある。
〇ラーメンといえばインスタントラーメン。ゆでて食べる。赤くないスープでも辛いので要注意! もちろんカップラーメンもある。

〇今やラーメンが麺類の代表でしょう。
〇好きな麺類といえばチャジャンミョン。


〇一人の外食も普通になってきたよね?
〇一人で外食はあまりしない。「一人で食べてる人はカワイソー」と見られがち。最近お一人様も見かけるよ。[2019年の追記] 「ホンパプ」(一人メシ)という新語もできました。ロッテモール金浦のCoCo壱番屋にはお一人様用のカウンター席があったな。

〇街の屋台が珍しい時代になった。
〇街に屋台がいっぱい。種類もいろいろ。([2019年の追記] 街の再開発等で屋台は減ってきているような・・・。)

〇学校帰りにタイ焼き(?)
〇学校帰りにトッポキ(?)


〇タイが目出度い。
〇イシモチが目出度い。エッ、なんで高価なの?


〇マグロ大好き。
〇魚は白身魚。好きな刺身のトップはヒラメ。(最近マグロ専門店が出現!)

〇豆腐は昔より軟らかくなったのでは?
〇豆腐は硬め。

〇テンプラにもサンマにも大根おろし。
〇大根おろしなんてものはないよ~。


〇とりあえずビール。(えっ、若者は違うの?)
〇消費量トップの酒は焼酎。世界一の酒消費量!


〇酒も十分飲んだ。しめはラーメン(お茶漬け?)だな。
〇さあ宴会、とりあえずカルビだ。後は最後(って何時だ?)まで飲み続け。

〇サワーや水割り、お湯割りはしごく普通。
〇「日本人は、うまい酒をなぜ割って飲むんだ?」


〇飯は酒のあとで食べる。
〇ご飯は酒や料理と並行して食べる。

〇遊園地に漂うイカ焼きのにおい。(ヤキソバ等、他にもありそう。)
〇遊園地に漂う異臭(!)はポンデギ(カイコのサナギ)。


 → <日本と韓国 ここが違う  ②人間関係編>
 → <日本と韓国 ここが違う  ③街や乗り物編>
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韓国の旧正月、現在は3連休

2011-02-03 22:30:53 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 새해 복 많이 받으세요~(あけましておめでとうございます)

 今日2月3日は、日本では節分ですが(恵方巻き、いつの間にか定番になっちゃってる!?)、韓国では旧正月。中国同様、新正月よりもはるかに盛大です。
 新正(신정)とか旧正(구정)とかいう言葉は、韓国でもふつうに用いられています。
 新正月が1日だけ休みなのに、旧正月は3連休。あれっ、3日からじゃなくて、2日から3連休なんですね。

 旧正月の休みは昔からではなくて、日本の統治時代には「新正月がおしつけられ、昔からの正月(설날.ソルラル)は旧正(구정)といわれて否定された」ということです。
※したがって、「구정といわないで설あるいは설날というべきだ」と唱えるブログはかなりあるようです。
あるブログには「陰暦の正月を祝えなくするため、モチ精米所をその前の1週間稼働を禁じた」とか「陰暦の正月に白い服を着て挨拶にまわっている人に黒い水が入った水鉄砲を撃った」とかあるのは事実なんでしょうか?

 ところが、戦後も李承晩はアメリカ帰りのクリスチャンだったため、新正月だけが3連休。しかし旧正月は公休ではなくても民間では祝っていたそうです。
 朴正煕大統領の時代も、旧正月でも学校も会社も公共機関も通常通り、といっても、学校では大半が欠席で、勤め人も雑談したりして過ごしたとのことです。

 旧正月が公休日になったのは1985年1月21日から。全斗煥大統領が「민속명절(民俗名節)」の名で1日公休としてからです。民族大移動のお正月帰省戦争が本格的に開始され、お正月が熱くなったのもこの時からだそうです。
 盧泰愚大統領の時代、1989年からは旧暦1月1日を설날に指定して4日間も公休としました。

 その後金泳三大統領は旧正月の休業日を4日から3日間に減らし、金大中大統領は、通貨危機に直面して新正・旧正とも2日間ずつの休みとしました。盧武鉉大統領はどちらも3日間ずつの休みに戻し、さて李明博現政権はというと前述のように新正月の休みは1日だけ。

 その時々の政権でこんなにくるくる変わってきてるんですねー。

 2つ前の記事でチェギチャギのことを書きました。今日はそれ以外の正月遊びについてや、お年玉、正月の食べ物等々についても書こうと思ったのですが、正月休みのことだけで字数をかなり費やしてしまいました。
 で、正月遊びについては<コネスト>の記事を見ていただくことにしましょう。
 ただ、<ノルティギ(널뛰기)>=立った姿勢で高く跳ぶ、女性のシーソー遊びは、いくつかの写真を見るとその高さに驚くばかり! 

  
       【この高さ! もしかして体操選手では?

 正月じゃなくて春の遊びだそうですがブランコ(그네.クネ)も同様。「春香伝」の冒頭、春香のブランコの場面を北朝鮮の映画で観た時にもびっくりしました。韓国の女性は高さに対する恐怖心がないのか・・・。そんなわけはないと思いますが・・・。

 動画で見てみてください。
  → ノルティギ
  → クネ 
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韓国の正月遊び チェギチャギはむずかしい!

2011-02-01 02:25:29 | 韓国・朝鮮関係の知識教養(歴史・地理・社会等)
 2月3日は韓国の旧正月、ということで、一昨日鎌倉某所に韓国オタクたち&U先生(韓国人女性)が集まって韓国の正月遊びをしました。

 以前何度かユンノリ(윷놀이)(双六のようなもの)はやったことがあるのですが、チェギチャギは初めて。

 「穴の開いた小銭を紙で巻いて作ったチェギを地面に落とさないように蹴りつづける」というサッカーのリフティングというか、蹴鞠というか、まあそのようなもので、当日U先生ご持参のチェギは下の写真のようにちょっとしゃれた市販のもの。

    
        【通販でも売ってますよ

 むずかしそうだな、と思っていた通りで、年期の入った先生も「11回できたのよ!」と自慢(?)してましたが、われわれの前では4~5回どまり。初めて挑戦するわれわれの場合、2回できたらまず上出来。

    
 【U先生の妙技。足が痛くないように片足だけスリッパをはいてます。

 コツは、下の絵のように足を内側に曲げて、くるぶし辺りチェギを当てて真上に蹴り上げるんですね。

     
       【足がこんなに内側に曲がるとは!

 私ヌルボは、チェギがあろうがなかろうが、右の足が左足の腿の真ん前辺りまで上がらないから、いくら頑張っても無理ということに気がつきましたね。

 帰宅後、動画を検索してみたら、案の定みつかりました。ヘタな人上手な人神技の人と3つのレベルを順次見てみてください。神技は、すごいですよ!

A.ヘタな人(ゴメンね。でもヌルボより上手いよ。)


B.上手い人



C.神技の人


 [2018年7月11日の追記] 実はこの「神技の人」、冒頭の音声を聞くと中国語ですね。この記事に最初に貼っていた神技の女性2人組の動画が消されていることに気が付いたので代わりを探したのですが、これはちょっと落ちるかな? また→この女子生徒の演技もハイレベル。やはり中国人のようです。実は中国にも「ジェンズ(毽子)」というチェギチャギによく似た遊びがあります。(他のアジア諸国にも。→ウィキペディア参照。) この中国語で検索すると、→神技に近いレベルの動画も見つかりました。

 いやー、やっぱりウチらはユンノリだなー、というわけで、無念の思いを闘志に変えて、早々にわれわれは第二部のユンノリに入ったのでありました・・・。
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