ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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韓国ではだれでも知っている、北朝鮮で禁じられた2つの歌♪♪  ①「朝露(アチミスル)」

2016-10-04 16:56:56 | 韓国の音楽
 1つ前の記事で過去100年の日本・韓国・北朝鮮で主に時の政治権力によって禁止された歌について書かれた田月仙(チョン・ウォルソン)さんの著書「放送禁止歌」を紹介しました。

 その本の中に「朝露(アチミスル.아침이슬)」のことが書かれています。ご存知の方も多いと思いますが、1970年に当時大学生だった金敏基(キム・ミンギ)が作詞・作曲し、翌年レコード化された歌。1973年政府から健全歌謡に選定されますが翌74年には禁止されます。朴正熙大統領の軍事政権に抗する民主化闘争の中で学生たちの間に広がり、愛唱される歌になっていたから。「長い夜を明かし・・・」や「太陽墓地の上に、赤く昇り・・・」といった歌詞中の長い夜墓地は軍事政権下の韓国のことで赤く昇る太陽とは金日成を意味しているのだろうというのがその禁止理由でした。しかし、この歌はその後80年代の全斗煥政権下でも民主化闘争を象徴する歌として歌われ続け、そして1987年の盧泰愚の民主化宣言後ようやく解禁されました。

 この「朝露」について、本ブログでは2011年にけっこうくわしい3回連続の記事を書いたことがありました。その<その1>(→コチラ)で楊姫銀(ヤン・ヒウン)のファースト・アルバムの動画(といっても静止画像と歌だけ)を貼ったので、今回は金敏基の歌を貼っておきます。背景の動画は1987年7月9日李韓烈(催涙弾の直撃を受け死亡した延世大の学生)の<民主国民葬の時のようすです。

 ところで、上記過去記事の<その3>(→コチラ)の最後の方に、私ヌルボが1991年8月北朝鮮に行った時のエピソードを少し書きました。北朝鮮の対文協(対外文化連絡協会)(?)との交歓を兼ねたディナーの際の出し物で、当方の団体から1人の男性が持参したギターを弾きながら歌った歌がこの「朝露」でした。が、反応はゼロ。いや、マイナスと言った方がいいくらいかも。当時北朝鮮ではこの歌を知っていた人は、いたとしても職務で韓国を「注視」しているごく限られた人だけだったのではないでしょうか? また韓国の歌自体歌うことは厳禁だし・・・。そして日本からのこの旅行団の参加者100人中でも何人くらいの人が知っていたか?(10人くらい??) とにかく(たぶん)朝鮮総聯の人が歌って会場がすごく盛り上がった「朝鮮八景(조선팔경)」(1936年.→YouTube)とは対照的な雰囲気でした。
 ところが「禁じられた歌」には、この「朝露」が「北朝鮮版カラオケに登場する」と書かれています。田月仙さん自身の経験として次のように記されています。
 その映像は驚くべきものだった。数えきれないほどの北朝鮮の出演者たちが、韓国の学生や労働者に扮し、韓国で反体制デモを行っている様子を演出しているのだ。
 そして彼女は、このビデオを制作したディレクターにも直接話を聞いているのです。その彼の言。
 「当時、北朝鮮の金策(キムチェク)工業大学の学生を集めて撮影されたものです。北朝鮮で『朝露』はとても人気があるのですよ。」
 田月仙さんは、この映像をビデオに録画し、金敏基に手渡したとのことです。(金敏基と田月仙さんとのやりとり等々については省略。)
 「禁じられた歌」でこのような「朝露」にまつわる話を読み進んで、実は私ヌルボ、最後に肩すかしをくらった感じでした。なぜかというと、上述の北朝鮮でのエピソード(1995、6年?)の少し後の1998年にこの歌が北朝鮮で禁止曲になったことが書かれていないからです。ヌルボさえも先の過去記事(その3)で書いていたのに・・・。
 しかし、考えてみれば過去記事のネタ元の<DailyNK>の記事(→コチラ)の配信2008年4月ということは、禁止されたのが1998年でもそれが韓国に知られたのはその10年後ということなのでしょう。「禁じられた歌」刊行は2008年2月なので、わずかの差で田月仙さんはその情報を知りえなかったということになります

 上記の<DailyNK>の記事を読むと、北朝鮮でこの歌が1996年に初めて歌われた理由と、98年に禁止された理由をおよそ次のように次のように記しています。

 当時の北朝鮮は300万人(?)が飢え死にしたという<苦難の行軍>の時代。北朝鮮の宣伝当局はそれを政権の過ちではなくアメリカ帝国主義をはじめとする反動の反共和国策動のためとし、宣伝・教育活動を展開した。その一環として韓国国内の反米運動と関連づけて北朝鮮の歌手イ・キボクが歌うこの「朝露」のテープを作成した。
 ところが、この歌が広まるにつれ住民たちはこの歌の中に、社会に対する抵抗意識があることを感じるようになり、ますます歌われるようになった。北朝鮮政府はそれに気づき、1998年に「朝露」を歌うことを禁止し、テープもすべて回収した。「朝露」を歌って捕まった者は政治犯扱いされて労働鍛錬隊に送られた。ただ、その一方で政府は韓国の人と接触する海外の北朝鮮食堂や金剛山観光、開城観光の案内員にはこの歌を歌うように奨励した。そこには「わが民族同士力を合わせて米帝と戦おう」という意図があった


 いやー、北朝鮮当局の「苦慮」や「狡知」がうかがわれます。かなり「善意」に解釈すれば、取り締まる側も人々の心情がわかるからこそ取り締まることができるということでしょうか。韓国で「朝露」の含意を<邪推>した人たちと相通ずるものがあるかも・・・。

 私ヌルボ、今回の記事を書くにあたってまた韓国の記事をいろいろ漁ってみたところ、おー、その北朝鮮のビデオ動画と思しきものがYouTubeにあるではないですか! 歌手はたしかにリ・キボクです。(北朝鮮では李は「リ」と表記・発音する。)

 フォークよりも歌曲のような感じでずいぶん端正な雰囲気で歌ってますね。実際の韓国の街並みや人々のようすを用いていないのは、それを見て北朝鮮の住民が「ずいぶん車も多いしにぎやかじゃないか」とか「いい服を着ているな」等々と思う<危険性>があるためですね。
 2010年2月にアップロードされた動画ですが、この「朝露」が北朝鮮で禁止されたということはまだ韓国では周知のこととはなっていなかったのか、最近でもメディアで取り上げられたりしています。
 たとえば昨2015年8月の<TV朝鮮>。→コチラ(韓国語)によると、「耳慣れない発音、白いチョゴリに黒いチマを着た女性の行動も何となくぎこちないです」等々と語りつつこの動画を流し、禁止されるまでの経緯とともに、2011年に脱北した人の次のようなコメントも入れています。
 「南朝鮮で主体思想を信奉する人々が闘争しながら歌った歌だとのことで、その歌を歌えば南朝鮮の青年学徒のような感じなのでカッコよく見えて・・・

 そして今月(2016年9月)5日、「東亜日報(日本語版)」にも「北朝鮮の禁止曲「朝露」と題したコラム(→コチラ)が載っていました。やはり「南北当局がいずれも住民が相手に染まることを恐れて禁止したとは、実に数奇な歌だ」といったことが書かれています。そして北朝鮮で友人と「朝露」を歌ったという「金日成大学出身の本紙のチュ・ソンハ記者」の「歌の中に隠れている抵抗の精神が私たちの胸の中に眠っていた内在的な反抗意識を呼び起こしたのではないか」というこの歌に魅了された理由も紹介しています。記事末尾の「北朝鮮で「朝露」を密かに歌って新しい世の中を夢見る人々が最近増えたという」という一文は、どこまでが事実で、どこまでが「期待」なのか・・・。
 ※このコラム中のチュ・ソンハ記者による「我々は「朝露」を歌って平壌を守った」と題した記事(韓国語)は→コチラ

 以上、「禁じられた歌」をキッカケに私ヌルボが「朝露」について知っているor新たに知ったことをあれやこれや書きました。決して政治的主張が具体的に盛り込まれていないこの歌が、このように長い間人々に愛唱されるばかりでなく社会を変える大きな力を持ったのも、多くの人たちの言葉同様ヌルボも歌自体の力として納得できます。
 そしてこれまでさまざまな物語を生んだこの歌の物語はまだ終わっていないのだというのが今の実感です。

 この記事の続きは、もう1つヌルボにとっては思い出の、最近北朝鮮で禁止された歌についてのことです。(※これだけで何という歌かわかる人もいらっしゃるでしょう。)
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