3月に入ってから銀座に3回行きました。で、とくに意識していなくても目についたのは建て替え・新築のビルが多いこと。モザイク銀座阪急(銀座TSビル)の撤去・新ビルの建設工事は2012年から始まっていますが、近くのニュー・トーキョー本店も近く取り壊し工事に入るのでしょうか?
21日、銀座4丁目交差点まで行くと日産銀座ギャラリー(サッポロ銀座ビル)は跡形もなし。少し南の松坂屋銀座店の跡地も、だだっ広い更地に大きなクレーンが何台も置かれていました。そして北に歩いてすぐ、ブルガリ、シャネル、ルイ・ヴィトン、カルティエといった最強のブランドショップが建ち並ぶ銀座2丁目交差点方面に向かうと・・・。
右(東)手前がブルガリ銀座タワー店。その北隣の伊東屋銀座本店も建て替え工事中ですが・・・。交差点北西角を見ると・・・。
あれれ。ここも工事中で、そこにあったはずのカルティエは50m先(西)に移転してます。
じつはそのカルティエが入居していたビルは大倉本館というビルで、何をかくそう私ヌルボが2年前に写真を撮っていました。ほぼ同じ位置で今回も撮ったので比べてみましょう。
ところで私ヌルボ、なんで2013年1月にこの大倉本館の写真を撮ったかというと、砂川幸雄「大倉喜八郎の豪快なる生涯」(草思社文庫)を読んだ直後で、銀座に彼の「栄華の名残り」があることを知ったから。つまり、このビルのことです。
明治前期から、近代日本の発展とともに次々と事業を拡大し、莫大な財を成した実業家・大倉喜八郎(1837~1928)については、とても簡単には書けません。とりあえずウィキペディアは→コチラ。
取り壊された大倉本館ビルの表通り側の外壁下部には、下の写真のようにレリーフがありました。1882(明治15)年設立した日本初の電力会社・東京電燈が宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけたそうですが、そのようすを描いた錦絵をレリーフにしたものです。(→関連記事。)
新しいビルでも設置されるのでしょうか?
彼は日韓間の近代史を見る時にも欠かすことのできない人物で、たとえば赤坂にある大倉集古館所蔵の朝鮮の文化遺物については返還問題が現今の課題にもなっています。
上記の文庫本を読んで、私ヌルボが理解したのは莫大な財産の築き方です。それは時代の少し先を的確に読むこと。幕末~維新の激動期を前に銃砲の商売を始めたのが最初。私費で米欧を周り岩倉使節団一行と親しくなり、たとえばその後の国の軍事的拡張とともに軍隊の装備調達や兵員の移送に食糧の輸送、施設の建設等々をしっかり請け負ったりして、これは儲かるしかありません。
話はそれますが、同様の時代を先読みする目を持って事業を拡大した韓国人を2人思い出しました。
サムソンの創業者・李秉喆(イ・ビョンチョル)と、あの統一教会の文鮮明(ムン・ソンミョン)です。左の漫画本は昨年12月アラディン中古書店江南店で購入。右の文庫本は以前近所の神社境内でたぶん信者によって置かれていたものを持ち帰って読みました。
とくに李秉喆は、自前の銀行をあえて持とうとしなかったところも大倉喜八郎とよく似ています。
さて、往時の大倉喜八郎の金満ぶりを示すのが下の絵。
1878(明治11)年溜池葵町(後に赤坂葵町)に建てられた大倉本邸です。現在のホテルオークラの場所。この絵は明治何年頃のものかな? その敷地内に1898年に建てられたのが大倉商業学校。その後身である東京経済大学の校章の葵はここの地名に由来しているそうです。また大倉集古館の開館は1917年です。
<セメント王>浅野総一郎等とは違って、大倉喜八郎がどんな会社を経営して成功したかというイメージが思い浮かばないのは、1つ2つ手がけた事業の成功にあきたらず、すぐ次のことに乗り出したから。彼が設立に関与した企業・建築は200以上に及ぶといわれます。その核となったのが1873 (明治6)年設立の大倉組。下の写真は1915(大正4)年竣工の大倉組の社屋。現在の銀座2丁目に建てられたということは、大倉本館と同じ所?
なかなかリッパな建築物で、今回取り壊した大倉本館ビルよりずっと風格が感じられます。関東大震災で内部が焼失したものの、その後もしばらく使われていたそうです。
この建物が造られた2年後の1917(大正6)年、大倉組は土木建設部門を大倉土木組に、石炭採掘・鉄鋼販売を大倉鉱業に、残りの主力商事部門を大倉商事として再編されました。
大倉土木組は現在の大成建設で、今回の建て替え工事にも携わっています。「大成」の社名は大倉喜八郎がみずから選定した戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」からつけたものです。
また大倉鉱業の後身が、現在大倉本館・別館の賃貸・管理を主要事業としている中央建物。全然違う業種なのになんで?と思いますが、終戦後大倉商事とする大倉財閥が財閥解体の対象企業となったため、1949(昭和24)年に旧大倉財閥の土地・建物を基に新たに発足させたのが中央建物株式会社なのだそうです。
旧大倉財閥の中心だった総合商社・大倉商事は、その終戦直後の困難は乗り切りましたが、90年代のバブル崩壊でダメージを受けて1998年自己破産に追い込まれ、1873年の大倉組設立から125年の歴史にピリオドを打ちました。そして大倉商事の社長だった大倉喜八郎の曾孫・大倉喜彦氏が中央建物社長に就任して今に至っているということです。(大倉喜彦氏は現在ホテルオークラ取締役会長、大倉集古館館長等の肩書もあります。)
現在、中央建物が現在管理しているもう1つのビルが大倉本館のすぐ南西にある大倉別館です。
この写真を見ると年期の入った雑居ビルといった感じですが・・・。
なんだ、カルティエの移転先ではないの!(左) 2013年の写真(右)と比べると違いがわかりますね。
上述のように、大倉喜八郎の「周辺のこと」だけでもこれだけ長くなってしまいました。
本ブログの主旨である日本と朝鮮との関係に絞っても、さらにテーマを小分けにしなければならないほどネタがたくさんあります。
それらについては(いつもの)また今度、ということにしておきます。
【注】神戸と札幌の大倉山
①神戸市の大倉山は、大倉喜八郎が日清戦争後、安養寺山の約8千坪の土地を買い取って広大な別荘を建てた所で、その後彼自身により1910年神戸市に寄贈された。
②札幌市の大倉山ジャンプ競技場の名は、秩父宮の口添えにより大倉財閥2代目総帥の大倉喜七郎(1882~1963)男爵が私財を投じて建設したもので、完成後札幌市に寄贈され、1932年の開場式で市長により大倉シャンツェと命名されたことに由来する。
【注の注】別の大倉さん
①大倉孫兵衛(1843~1921)は大倉孫兵衛洋紙店(現・新生紙パルプ商事)を設立した実業家。また息子の和親とともに大倉陶園を設立して日本の陶磁器産業に大きく貢献をした。
②横浜の大倉山記念館は実業家の大倉邦彦(1882-1971)により1932年創建された大倉精神文化研究所の本館。彼は上記の大倉洋紙店に入社し、2代目社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長となった人物。
21日、銀座4丁目交差点まで行くと日産銀座ギャラリー(サッポロ銀座ビル)は跡形もなし。少し南の松坂屋銀座店の跡地も、だだっ広い更地に大きなクレーンが何台も置かれていました。そして北に歩いてすぐ、ブルガリ、シャネル、ルイ・ヴィトン、カルティエといった最強のブランドショップが建ち並ぶ銀座2丁目交差点方面に向かうと・・・。
右(東)手前がブルガリ銀座タワー店。その北隣の伊東屋銀座本店も建て替え工事中ですが・・・。交差点北西角を見ると・・・。
あれれ。ここも工事中で、そこにあったはずのカルティエは50m先(西)に移転してます。
じつはそのカルティエが入居していたビルは大倉本館というビルで、何をかくそう私ヌルボが2年前に写真を撮っていました。ほぼ同じ位置で今回も撮ったので比べてみましょう。
《2013年1月》 右(東)奥がブルガリのビル。 大倉本館を探して来たらカルティエだった。 このビル名の認知度はどれほど? | 《2015年3月》 大倉本館のビルがなくなったのでブルガリがよく見える。 今たくさんある工事現場の1つにすぎない。 来年8月末に新ビル完成か。 |
ところで私ヌルボ、なんで2013年1月にこの大倉本館の写真を撮ったかというと、砂川幸雄「大倉喜八郎の豪快なる生涯」(草思社文庫)を読んだ直後で、銀座に彼の「栄華の名残り」があることを知ったから。つまり、このビルのことです。
明治前期から、近代日本の発展とともに次々と事業を拡大し、莫大な財を成した実業家・大倉喜八郎(1837~1928)については、とても簡単には書けません。とりあえずウィキペディアは→コチラ。
取り壊された大倉本館ビルの表通り側の外壁下部には、下の写真のようにレリーフがありました。1882(明治15)年設立した日本初の電力会社・東京電燈が宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけたそうですが、そのようすを描いた錦絵をレリーフにしたものです。(→関連記事。)
新しいビルでも設置されるのでしょうか?
上記の文庫本を読んで、私ヌルボが理解したのは莫大な財産の築き方です。それは時代の少し先を的確に読むこと。幕末~維新の激動期を前に銃砲の商売を始めたのが最初。私費で米欧を周り岩倉使節団一行と親しくなり、たとえばその後の国の軍事的拡張とともに軍隊の装備調達や兵員の移送に食糧の輸送、施設の建設等々をしっかり請け負ったりして、これは儲かるしかありません。
話はそれますが、同様の時代を先読みする目を持って事業を拡大した韓国人を2人思い出しました。
とくに李秉喆は、自前の銀行をあえて持とうとしなかったところも大倉喜八郎とよく似ています。
さて、往時の大倉喜八郎の金満ぶりを示すのが下の絵。
1878(明治11)年溜池葵町(後に赤坂葵町)に建てられた大倉本邸です。現在のホテルオークラの場所。この絵は明治何年頃のものかな? その敷地内に1898年に建てられたのが大倉商業学校。その後身である東京経済大学の校章の葵はここの地名に由来しているそうです。また大倉集古館の開館は1917年です。
<セメント王>浅野総一郎等とは違って、大倉喜八郎がどんな会社を経営して成功したかというイメージが思い浮かばないのは、1つ2つ手がけた事業の成功にあきたらず、すぐ次のことに乗り出したから。彼が設立に関与した企業・建築は200以上に及ぶといわれます。その核となったのが1873 (明治6)年設立の大倉組。下の写真は1915(大正4)年竣工の大倉組の社屋。現在の銀座2丁目に建てられたということは、大倉本館と同じ所?
なかなかリッパな建築物で、今回取り壊した大倉本館ビルよりずっと風格が感じられます。関東大震災で内部が焼失したものの、その後もしばらく使われていたそうです。
この建物が造られた2年後の1917(大正6)年、大倉組は土木建設部門を大倉土木組に、石炭採掘・鉄鋼販売を大倉鉱業に、残りの主力商事部門を大倉商事として再編されました。
大倉土木組は現在の大成建設で、今回の建て替え工事にも携わっています。「大成」の社名は大倉喜八郎がみずから選定した戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」からつけたものです。
また大倉鉱業の後身が、現在大倉本館・別館の賃貸・管理を主要事業としている中央建物。全然違う業種なのになんで?と思いますが、終戦後大倉商事とする大倉財閥が財閥解体の対象企業となったため、1949(昭和24)年に旧大倉財閥の土地・建物を基に新たに発足させたのが中央建物株式会社なのだそうです。
旧大倉財閥の中心だった総合商社・大倉商事は、その終戦直後の困難は乗り切りましたが、90年代のバブル崩壊でダメージを受けて1998年自己破産に追い込まれ、1873年の大倉組設立から125年の歴史にピリオドを打ちました。そして大倉商事の社長だった大倉喜八郎の曾孫・大倉喜彦氏が中央建物社長に就任して今に至っているということです。(大倉喜彦氏は現在ホテルオークラ取締役会長、大倉集古館館長等の肩書もあります。)
現在、中央建物が現在管理しているもう1つのビルが大倉本館のすぐ南西にある大倉別館です。
上述のように、大倉喜八郎の「周辺のこと」だけでもこれだけ長くなってしまいました。
本ブログの主旨である日本と朝鮮との関係に絞っても、さらにテーマを小分けにしなければならないほどネタがたくさんあります。
それらについては(いつもの)また今度、ということにしておきます。
【注】神戸と札幌の大倉山
①神戸市の大倉山は、大倉喜八郎が日清戦争後、安養寺山の約8千坪の土地を買い取って広大な別荘を建てた所で、その後彼自身により1910年神戸市に寄贈された。
②札幌市の大倉山ジャンプ競技場の名は、秩父宮の口添えにより大倉財閥2代目総帥の大倉喜七郎(1882~1963)男爵が私財を投じて建設したもので、完成後札幌市に寄贈され、1932年の開場式で市長により大倉シャンツェと命名されたことに由来する。
【注の注】別の大倉さん
①大倉孫兵衛(1843~1921)は大倉孫兵衛洋紙店(現・新生紙パルプ商事)を設立した実業家。また息子の和親とともに大倉陶園を設立して日本の陶磁器産業に大きく貢献をした。
②横浜の大倉山記念館は実業家の大倉邦彦(1882-1971)により1932年創建された大倉精神文化研究所の本館。彼は上記の大倉洋紙店に入社し、2代目社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長となった人物。
関西大倉のことは地元なので知っていましたが、善隣については先日、台湾旅行で嘉義に行った時に調べて初めて知りました。
http://www.sunrint.hs.kr/custom/custom.do?dcpNo=45709
やっぱり大倉喜八郎の名はありませんでしたが、昨年9月の民団新聞に「ソウル市内のホテルで姉妹提携30周年を祝った」という記事がありました。 →
http://www.mindan.org/kr/newspaper/read_artcl.php?newsid=14277
しかし、同窓会間の交流だけで生徒同士の交流はないようです。
古賀政男や江田三郎が卒業生というのも初めて知りました。
そのことを江田五月が一昨年語っています。 →
https://www.eda-jp.com/satsuki/housei_gs/hugs2012/14.html