懸案のネタの1つをようやくupします。
6月21日の記事で紹介した1970~74年発行の「朝鮮文学」の中で、とくに興味を持った朝鮮詩論争についてです。
「朝鮮文学」(第2号.1971年3月)に、<随想>という分類で掲載されている梶井陟「金素雲・藤間生大の朝鮮詩論争」という記事でこの論争の梗概を知ったのですが、じつは以前に読んだはずの林容澤「金素雲『朝鮮詩集』の世界」(中公新書)にもこの論争について30ページ分も記されていることに少しあとになって気づきました。
この論争のポイントを略述します。
金素雲は、朝鮮近代詩の名訳と定評のある「朝鮮詩集」の訳者、藤間生太(とうま・せいた)は唯物史観に立脚した古代史学者で「倭の五王」(岩波新書)等の著書があります。
まず、藤間生太が「民族の詩」(東大新書.1955年2月)で「朝鮮詩集」をテキストに、たとえば林龍喆や異河潤の詩から日本の植民地支配の厳しさを読みとっています。
今は荒れ果てた故郷を偲んだ林龍「ふるさとを恋ひて何せむ」の冒頭、
ふるさとを恋ひて何せむ/血縁(ちすぢ)絶え 吾家の失せて/夕鴉ひとり啼くらむ/村井戸も遷されたらむ」や、異河潤「無縁塚」の第三聯、
「国道の/拓かれてより かの塚の/押し潰(くず)されて/後もなく、・・・」
の詩句中、<村井戸>が遷されたり<国道の拓かれ>たりしたのは、「悪逆残忍な日本帝国主義の植民地統治が行ってきた開化政策の産物」であると解釈するわけです。
これに対し、翌1956年6月に金素雲が「憶測と独断の迷路 藤間生太氏の『民族の詩』について」という論文を「文学」に発表しました。
それは、次のような厳しい一文で始まっています。
「朝鮮の詩と詩人について一人の歴史家の手でなされた荒唐無稽な憶測と独断-しかもそれは朝鮮民族への悪意からなされたものでなく、善意のヴェールを纏うがゆえに、その是正と解明に一層の困難を感ずるのである。」
さらに金素雲は「(村井戸は)「日本帝国主義」の侵略がなくとも移るべき理由があれば移るのである」等々、藤間の解釈を個々批判しつつ、「ふるさとを懐かしむ詩なら世界中のどの国にもあるが、朝鮮の詩だけが、なぜ、こうまで大問題を胎み、深刻にして悲痛なる結論と結びつかねばならないのか」と反問し、藤間氏の所論をドグマであると結論づけています。
藤間生太は、1ヵ月後の「文学」8月号(1956年)に反論を寄せています。
要点は、次の通りです。
・文学作品は一度できあがれば、作者の手をはなれる。
・抒情詩も、創作としてつくられるかぎり、本質的なものはあらわれる。民族性というものが抒情詩にはあらわれるはずはないという証拠はどこにもない。
・抒情詩も、創作としてつくられるかぎり、本質的なものはあらわれる。民族性というものが抒情詩にはあらわれるはずはないという証拠はどこにもない。
以上がこの論争のあらましですが、私ヌルボが数ヵ月前に「朝鮮文学」を読んで初めて知った時、ふと思い起こしたのが「徒然草」中の「丹波に出雲といふ所あり」という話です。
神社の狛犬が外向きになっているのを見て、何かいわれがあるに違いないと涙まで流した上人が神官に由来を聞くと、実は子供のいたずらだったというもの。
いかに的外れの誤解・曲解でも、人は自分の見たいように見てしまいがちだし、そして感動までしてしまうということです。
ただ、「徒然草」のこの段はとても可笑しかったですが、朝鮮詩論争は笑えませんでした。
そして、単に藤間生太のような解釈は、一笑に付してオシマイ、というものではなく、現時点でも関連する諸問題はあると思われます。それもかなり厄介な問題・・・。そして、金素雲の方にも問題がなかったともいえないようです。
具体的には、次回に回します。
このテーマについては、今後数回続く予定です。
予告編として、上記の林容澤の本から引用します。
「韓国の近代望郷詩は、望郷というテーマの抒情性と祖国喪失の寓意性が入り交じった形のものが多く、その解釈をめぐって今も議論が続いている場合が少なくない。・・・李陸史の「青葡萄」は、その好例といえる。」
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