De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

父の日記帳:8月19日

2009-08-18 22:15:23 | 自分史エピソード
8月19日晴れ
 子供たちの間でシャケの空き缶にひもをつけてぽくぽくと下駄代わりに歩くことがはやり出した。家の子供たちも今始めた。いたるところでぽくぽくという音が聞こえる。空き缶は昨日の一人当たり6個の配給品だ。そのぽくぽくという音が如何にものんびりした張りのない音だ。亡国の音だ。支那や朝鮮人が好みそうな音だ。これからは日本人の音かもしれぬ。支那や朝鮮と入れ替えになった日本だ。こんな音が国に似合ってくるとは情けない。

 人心やや落ち着きを見せてきた。和平はこの際やむを得ぬことだという心が湧いてきた。あらゆる角度からそろばんをとってみれば降伏という答えが出るに相違ないのだ。潔く玉砕するという熱情はもうさめてきた。

 今晩煙草の配給がある。これが最後の配給だそうだ。十日足らずの量だ。これを吸い終わればもう煙草にはありつけないのだ。二、三日煙草を吸わずにいた口へ1本吸いつけると頭がくらくらとぐらついてくる。何とも云われに味だ。思いきり吸えるだけ吸ってしまって潔くやめようか。あるいは1日の量を減じてだんだん減じていこうか。何としてもさびしいこと限りない。

 今日、隣家へ山口博士が来て時局をいろいろと説明してくれたそうだ。私も聴けば良かった。山口博士の話では、今この条件で降伏できればありがたいことだとのことだ。博士は陸軍の顧問だから万事よく知っているのだ。いまさら何を聞いても元に帰らぬ事だからこの煙草のようにだんだんとものを減らして生活していかねばならぬのは必定だ。女房にもよく言ってその心得で生活していくことにする。


ここで出てくる山口博士とはその後私が世話になった医者と思われます。私はこの翌年4月16日から高熱を出して生死の間をさまようことになります。終戦のころ、隣家には使われていない診療所があり、その後地位の高い医者が開業していました。当時手に入れるのも困難なはずの薬品が豊富にあり、的確な治療で助かっています。肺炎をさらにこじらしたものでもしかしてそこにはストレプトマイシンは無理としてもペニシリンぐらいあったのかもしれません。この日記帳に出てくる山口博士に違いないと思います。この先生は往診の時も見たこともないしっかりした注射薬の入っていた空き箱をお土産に持ってきてくれました。診療所に連れられて行った時も目の前で新しい箱を取り出し、封を切って中のアンプルを他の箱に移して私にくれました。未使用の薬包紙が何年か後にまでたくさん持っていたのはこの医者がくれたものだと思います。私が元気になって学校に戻るころその診療所は再び閉まっていたような気がします。母はそのお医者さんのおかげで助かったんだよと言っていました。父の日記帳にはどう書いてあるか楽しみです。

亡国の音と書かれる缶詰の空き缶のぽっくりは2この缶の底に穴をあけてひもを通し首にかけて歩くものです。