8月20日
降伏が国民の幸福であったことが一般に知れ渡るとみんな気の抜けた顔をして百姓を始めた。今日は朝から畑に出ている者が多い。私も甘藷の施肥を負ふて西峰の畑に行く。大豆を耕して牛の草を刈って帰ると女房は米の配給を受けに出て留守だった。今日の配給は米が三分大豆七分の割合だ。
戦争中は重荷を背負うてあへぎあへぎ歩いてきたが和平となると一時にその重たい荷物を下ろした感じで今度は足がふらふらして歩きにくいといった感じだ。重い荷物を背負っているときは喘ぎながらも一歩一歩前に踏み出して歩いていた。(いまは)足がふらついて千鳥足になる。畑の土は灰のように熱かった。炎署の太陽はいやに頭から浴びせかけてきた。
配給のサケ缶は毎日の食膳に上った。主食はトウモロコシだ。昨日までは量が乏しくともコメや麦があったがこれからはそうもいかなくなる。今日も相変わらず子どもたちは空き缶を吐いて亡国の音を立てている。
渡辺の娘が東京に行くと言って出て行った。貯金をみんな下ろしてくるのだという。貯金は下ろしてしまった方がいいのかそのままにしておいたほうがいいのか私にはわからなくなった。
富蔵の倅は飛行機乗りの兵隊だったが帰ってきた。そのほかもぽつぽつと兵隊が帰ってきた。
香穂が飛行場へ顔を出すと言って昼ごろ出て行ったが夕方帰ってきてビラを持ってきた。そのビラには皇国陸海軍としてあって、アメリカは日本の天皇を南洋諸島におこしめ奉り、さらに数千万人を奴隷として連れて行くといふ事をラジオで放送していると報じている。それに首相の○の重要放送と云う前触れで皇国護持に対して国民は血をもって守ると自ら放送した。それが5時の放送から5、6回放送しているので国民は心配し出した。今日のごとき場合は一刻一刻と様子が変わって来るのが当然で山口博士がいふ事は昨日のことで今日のことではないのだ。この分ではまた壕でも掘って生き延びる工夫をつけなければならなくなる。
夕飯は焼きトウモロコシを1本ずつと赤いトマトを1個ずつと牛乳1杯だ。米は無くとも百姓をしていたおかげで食膳はにぎやかだ。トウモロコシで配給の不足を補っていかねばならぬのはつらいが、毎日変わったものが食せるのは骨は折れても百姓をやっていたおかげだ。
毎晩風呂を立てる。子供たちが早く帰るので風呂を焚くことはこれがやってくれる。風呂に毎晩は入れるだけでも感謝しなければならぬ。
野菜の盗難が多くなった。お良は南瓜を十ばかり盗まれてから眼を据えた。我が家でも垣根のカボチャが少し早いが収穫する。盗まれるより早く口に入れてしまった方がよい。お良は甘藷畑と云わず、野菜畑と云わず神様のお札の古いのやら新しいのやらを竹にはさんで刺した。神様のお守りにあやかろうとしているがご利益があるのかどうか・・・。
・親父はこのころ百姓をはじめて十年目ぐらいだったと思う。農家の総領で兄弟に任せておく上での問題がたくさん出てきて、早めのリタイヤで戻ってきたものである。百姓をやっていたから助かったのだと、自分に言い聞かせている節がある。家族が住んでいた中野鍋横の住宅はまだ人に貸してあり、罹災もしなかった。
・農家にもコメがない時代だったのか。全部供出する義務があったのだろうか。おやじはお上の指示には従うという主義だったから、供出の割り当てが来れば自分の食いぶちが不足するとわかっていてもやる人だった。このころ、すでに小作米は届けらてれていなかった。年貢は金に換算されていたが、実態とはかけ離れていた。
・香穂子(長姉)が通っていたのは自宅から歩いて1時間ぐらいのところにある陸軍熊谷飛行学校 中津分教場である。厚木で撒かれたビラと云うのは下記のものであることは知られている。日記の内容からするとこれとは異なるもののようである。
陸海軍健在ナリ
満ヲ持シテ醜敵ヲ待ツ 軍ヲ信頼シ我ニ続ケ
今起タザレバ 何時ノ日栄エン
死ヲ以テ 生ヲ求メヨ
敗惨国ノ惨サハ 牛馬ノ生活ニ似タリ
男子ハ奴隷 女子ハ悉ク娼婦タリ 之ヲ知レ
神洲不滅 最後ノ決戦アルノミ
厚木海軍航空隊
降伏が国民の幸福であったことが一般に知れ渡るとみんな気の抜けた顔をして百姓を始めた。今日は朝から畑に出ている者が多い。私も甘藷の施肥を負ふて西峰の畑に行く。大豆を耕して牛の草を刈って帰ると女房は米の配給を受けに出て留守だった。今日の配給は米が三分大豆七分の割合だ。
戦争中は重荷を背負うてあへぎあへぎ歩いてきたが和平となると一時にその重たい荷物を下ろした感じで今度は足がふらふらして歩きにくいといった感じだ。重い荷物を背負っているときは喘ぎながらも一歩一歩前に踏み出して歩いていた。(いまは)足がふらついて千鳥足になる。畑の土は灰のように熱かった。炎署の太陽はいやに頭から浴びせかけてきた。
配給のサケ缶は毎日の食膳に上った。主食はトウモロコシだ。昨日までは量が乏しくともコメや麦があったがこれからはそうもいかなくなる。今日も相変わらず子どもたちは空き缶を吐いて亡国の音を立てている。
渡辺の娘が東京に行くと言って出て行った。貯金をみんな下ろしてくるのだという。貯金は下ろしてしまった方がいいのかそのままにしておいたほうがいいのか私にはわからなくなった。
富蔵の倅は飛行機乗りの兵隊だったが帰ってきた。そのほかもぽつぽつと兵隊が帰ってきた。
香穂が飛行場へ顔を出すと言って昼ごろ出て行ったが夕方帰ってきてビラを持ってきた。そのビラには皇国陸海軍としてあって、アメリカは日本の天皇を南洋諸島におこしめ奉り、さらに数千万人を奴隷として連れて行くといふ事をラジオで放送していると報じている。それに首相の○の重要放送と云う前触れで皇国護持に対して国民は血をもって守ると自ら放送した。それが5時の放送から5、6回放送しているので国民は心配し出した。今日のごとき場合は一刻一刻と様子が変わって来るのが当然で山口博士がいふ事は昨日のことで今日のことではないのだ。この分ではまた壕でも掘って生き延びる工夫をつけなければならなくなる。
夕飯は焼きトウモロコシを1本ずつと赤いトマトを1個ずつと牛乳1杯だ。米は無くとも百姓をしていたおかげで食膳はにぎやかだ。トウモロコシで配給の不足を補っていかねばならぬのはつらいが、毎日変わったものが食せるのは骨は折れても百姓をやっていたおかげだ。
毎晩風呂を立てる。子供たちが早く帰るので風呂を焚くことはこれがやってくれる。風呂に毎晩は入れるだけでも感謝しなければならぬ。
野菜の盗難が多くなった。お良は南瓜を十ばかり盗まれてから眼を据えた。我が家でも垣根のカボチャが少し早いが収穫する。盗まれるより早く口に入れてしまった方がよい。お良は甘藷畑と云わず、野菜畑と云わず神様のお札の古いのやら新しいのやらを竹にはさんで刺した。神様のお守りにあやかろうとしているがご利益があるのかどうか・・・。
・親父はこのころ百姓をはじめて十年目ぐらいだったと思う。農家の総領で兄弟に任せておく上での問題がたくさん出てきて、早めのリタイヤで戻ってきたものである。百姓をやっていたから助かったのだと、自分に言い聞かせている節がある。家族が住んでいた中野鍋横の住宅はまだ人に貸してあり、罹災もしなかった。
・農家にもコメがない時代だったのか。全部供出する義務があったのだろうか。おやじはお上の指示には従うという主義だったから、供出の割り当てが来れば自分の食いぶちが不足するとわかっていてもやる人だった。このころ、すでに小作米は届けらてれていなかった。年貢は金に換算されていたが、実態とはかけ離れていた。
・香穂子(長姉)が通っていたのは自宅から歩いて1時間ぐらいのところにある陸軍熊谷飛行学校 中津分教場である。厚木で撒かれたビラと云うのは下記のものであることは知られている。日記の内容からするとこれとは異なるもののようである。
陸海軍健在ナリ
満ヲ持シテ醜敵ヲ待ツ 軍ヲ信頼シ我ニ続ケ
今起タザレバ 何時ノ日栄エン
死ヲ以テ 生ヲ求メヨ
敗惨国ノ惨サハ 牛馬ノ生活ニ似タリ
男子ハ奴隷 女子ハ悉ク娼婦タリ 之ヲ知レ
神洲不滅 最後ノ決戦アルノミ
厚木海軍航空隊