De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

終戦の詔書をうけての内閣告諭

2009-08-15 18:17:49 | 自分史エピソード
64年前の今日
 玉音放送を聞いて意味がわからなかったという声は多いにもかかわらず、「父の日記帳」からも田舎の百姓たちでさえみな敗戦であることを理解していたことがわかる。疑問に思ったがやはり玉音放送の後、「終戦の詔書をうけての内閣告諭」という解説がなされていたことがわかった。その内容の記録を見つけることができないが、敗戦ではないと息巻いていた人たちさえ本当は理解していた筈である。
 「父の日記帳」は終戦の翌日から、人々の動揺と気持ちの変化が続く様が読み取れるものである。終戦で平和になったのだという考えと、軍がただではおかないだろうという不安、それによって壕を掘り続けるべきかどうか迷うさま、厚木航空隊の扇動ビラの入手などである。しかし、現実は軍の物資はどんどん配給されるし、飛行機の解体に駆り出される現実から次第にもう戦いに巻き込まれることはないんだと悟っていく。
 
 毎年、戦没者慰霊祭などで首相は先の大戦で亡くなった人に対する鎮魂の言葉はある。戦没者が礎となって今の日本の繁栄があるという感謝の気持ちがある。しかし、なんとも納得できない。皆さんは当時の国の誤った政策により無駄死にをさせてしまいました、という謝罪の言葉が何時の政府によって出るのでしょうか。

 無知な政府を作らせないのは我々有権者の権利である。この8月30日に奇しくも総選挙がある。

父の日記帳:8月15日

2009-08-14 21:33:31 | 自分史エピソード
終戦の日
8月15日
今日正午重大放送があると予告しているので多分本土敵上陸に対する決戦の国民の覚悟を要請するくらいのものと思っていた。今日は松根割の日割で6時に国民学校の校庭に集まる。切れぬのこぎりで松の根をひいているうちに12時になった。重大放送は天皇陛下が勅書を御自ららお読みになるのだ。それが意外にも無条件降伏といふことになったのだ。後で鈴木首相の声も聞いた。意外なことで顔を上げることもできぬ。私は松根割の昼飯に帰宅していてこのことを聞いた。私はこれだけ聞いて炎天下を校庭に行く。松根割の用もなくなったので薪割りと鋸を担いで帰った。ちりぢりに皆帰った。隣近所の男も女も集まって顔の色を変えている。
家の前の木陰では朝鮮人の靴直しが仕事をしている。1足の修理代が30円だといふ。わずかの間に百円ばかり札を集めて帰っていく朝鮮人は元気だ。店でも精米でも(近所の雑貨やと精米所のこと)豪堀は中止だ。そんな用はなくなったのだ。せっかく骨を折って掘ったものが用のなくなったというのもさびしい。
今日の日のことは細密に書きたいが書けない。ただ驚くばかりでまとまった感じができないのだ。学徒動員で工場に勤めていた香代が早く帰ってきた。明日一日休みで明後日から学校に出席するのだという。工場も中止なのだ。香穂は常通りの時間に帰ってきた。彼は中津飛行場に勤めていたのだが第一期は終わったのだ。戦争は負けたのではない、明日も同様に努めるのだと言っている。
午後からはラジオを離れずに聞いた。しかし野良着のままだ。女房に早風呂を沸かしてもらって昼湯に入る。そしてラジオを聞いた。今は心が騒いで書けない。今日のことは落ち着いたときに書いて見ようと思う。


 毎年、この日が近づくと気になることがある。わたしは、この放送を意味がわからないながら家族と一緒に畳に座って聞いている。この放送はこの日記帳によく出てくる「渡辺」さんの住んでいる我が家の離れに集まって聞いた。渡辺さんのラジオはよく聞こえたからという理由もあったろう。
 天皇陛下の勅語の後「・・・どうだ恨めしいか・・。」という声が私の耳に残っている。時代が過ぎてこれが空耳だったかどうか毎年みんなに確かめるのだが、誰も記憶にあるという人は出てこない。毎年のこの記念日の放送特集でもそのことが話題に上ることは無い。しかし、父の日記帳で、やはりこの言葉か、それにごく近い言葉が鈴木貫太郎首相から発せられたのではないかという確信のようなものが持てた。


父の日記帳:8月14日

2009-08-13 22:16:28 | 自分史エピソード
8月14日曇り

 早朝から警報が鳴る。何回も鳴る。解除になっては鳴る。沼田と渡辺の日除けを作るのだ。牛の草を刈っていても鳴る。朝飯を食っていても鳴る。沼田と渡辺の日除けを作る。この際日除けなぞ手を出している場合ではないのだがと思うと気がせく。沼田も黙々と働いている。竹を割って細縄で組んで上に載せる。意外なほど立派にできる。

 高橋義三郎が小作金をもってくる。彼は66歳だというがまだ百姓をやっている。せがれの○が牛車を曳くので金回りがいい。壕も2カ所掘ったといふ。66歳になっても命が欲しいと見える。孫たちを思えばやるだけはやっておきたいといふ。私たちはもういい日に死ぬことは出来ないとあきらめているが—といふ。私はまだ彼より10年若いのだがいい日に立ち返って死ぬることも難しい。金があっても財産があっても労働力がない家ではろくな壕も掘ることもできない。労働力のある家では立派な壕も掘れるのだ。山林の木材など人のものもわれのものもなくなっているのだ。人の土地でも山へでも勝手に壕を掘る。それに何の抗議も言えない。今日は立派な家より立派な壕が欲しいのだ。金○や土地や山林なぞは何の役にも立たなくなって今はただ労力ばかりが第一の財産になったのだ。労働力の不足な家族ほどみじめなものはなくなった。人にすがって壕を掘らねばぬ。しかし自分の身を守るに精いっぱいな人たちは金を積んでも壕堀に来てくれる者はなかった。

 今日は私は沼田と向山から杉の丸太を切って運んだ。9尺ばかりに切って担いで川を越して1本ずつ担いで来るのはなかなかつらい仕事だった。

 渡辺のばあさんは寝そべって団扇をつかっている。まだ金がものを言うと思っているのだ。
 お盆でも坊主は棚○にも来なかった。お寺の坊主は出征しているが誰か代わりに来ても良さそうなものだ。坊主も手不足で回りきれないのだろう。高橋大介と和田隆一両家の新盆に線香あげに行く。今日は空襲は無かった。渡辺が中元をくれた。紙に包んだ中に30円入れてあった。中元にせめて百円くらいは包んでくる気前が欲しいと思った。私の欲でなく彼のためなのだ。

国民義勇隊結成
なぜしこに熱砂を踏んでわれも兵
空襲もなし大蜘蛛の畳這う
敵襲下小さき輪をかき蛍落つ
壕堀の炎天に出ていこいけり


戦前からすでに実質地主より小作人のほうが金持だった。とくに我が家はこの数年前まで東京在住で不在だったため土地の権利上のいろいろな問題が起っていた。
父は日記上でご近所の一人一人を棚卸し、悪口三昧を書く。母や子供たちにはただただきつく、姉たちもこのころから面と向かって反抗していた。私も、反抗的とは言えなかったが母の味方だった。
日記の中で、農家の仕事の詳細やご近所や家族の悪口に及ぶものは読み飛ばして転載は控える。父の33回忌をとっくに過ぎた今になっても許せない感情が出てくることがあるから。

父の日記帳:昭和20年8月13日

2009-08-12 21:59:29 | 自分史エピソード
8月13日晴  (  )は追記注釈、○は判読不明
 お盆が来た。お迎えの日だ。朝から沼田と壕を掘る。午前中で掘るだけは終わる。後は丸太を山から切り出してきて柱と天井に張ればいいのだが今日は朝から空襲(警報)で山へ出かけられぬ。午後からは渡辺の日除け掛けをはじめる。尺めぐりの竹2本を切って柱に立てる。立派なものだ。この日除けも今日は出来上らぬ。

 とうとう一日中空襲続きだ。しかし敵機は空を飛ぶだけでこの辺には何にもしなかった。壕へは何度も入った。仕事ははかどらぬ。お盆棚は女房と子供が飾った。香穂(子)も香代(子)も家にいた。香穂は気持ちが悪いといい香代は2回も学校(厚木の女学校、バスで1時間もかかる)へ出かけて途中から空襲(警報)で引き返してきた。

 南瓜をお盆にあげるのでとる。まだ少し若い。トマト5,6個茄子3個胡瓜3本いんげん一掴み、それだけだ。花はあじさい、シュウカイドウ、桔梗、花だけは近所にも分けてやれる。

迎え火はわが子に任せ壕を掘る
迎え火をは○かりたけり決戦下
敵機去る夕べにあかしお迎え火
決戦下むかへ団子も○○めけり
妻や子や迎へ団子もつくり得し
夏がすみつんざき敵機あらはるる
○天をかき混ぜ去りし敵機あり
敵機去りて灯篭に火を入るる○○
敵襲下かなかな鳴いてくれにけり
敵襲の柱めぐりて蛍飛ぶ
敵襲の空より低き蛍かな


俳句の習作が次々出てくるが、彼は俳号(秋外城)を持った一応俳人である。東京在住中は警視庁勤めと、新聞の読者文芸欄の俳句の選者も務めていた。絵も書もやる多芸な百姓なのである。本職は剣道である。
日記に出てくる沼田(竹刀庵)と言う人は、我が家が竹刀の生産をやっていたようで、その作業所に住み込んでいた竹刀作りの2代目である。

父の日記帳:昭和20年8月12日

2009-08-12 10:17:22 | 自分史エピソード
8月12日(晴れ)
 昨日ざっと夕立が来たのでありがたいと思ったがわずか草の露ほどの雨で晴れてしまった。雷も遠くにあったが近付かなかった。今日も朝から暑い。沼田と壕を掘る。
 日曜で武(たけし)も近くに掘り始める。豪堀休暇が取れるのだそうだ。日曜日も休めない人たちだ。針金もない、くぎもない。完全な壕はできない。できるだけで我慢しなければならない。それで死んだらそれまでだ。少ない材料を無理に手に入れようとしてもだめだ。日本国民がだれも完全な壕など作る材料をもっていない。完全な壕を作って生き延びれる人がいたらその人たちに日本の一切を任せる。こう思えば早く死ぬのも生き延びて責任を負ってゆくのもいずれも国のためだ。どっちにしても同じなら若いものに生き延びてもらいたい。老人はこの少ない物資を倹約して生きること。早めに死を迎えることも国のためだ。そのように観念して乏しい材料で壕を掘る。家の山のくりの木を切り倒して柱にした。

 湯河原の海軍病舎の加藤真雄大尉が毎週一回の俳句会に出席してくれるようにと言ってきた。汽車の乗車証明書まで添えてある。行きたい。何としても行きたい。が、行けそうにない。氏は病気再発して遊んでいると書いてあった。きっと回復するだろう。彼は病気では死なない男だ。私も近頃は足ももろくなったし、暑さで立ち暗みすることもある。加藤氏にお願いして一週間も湯河原で保養したい。俳句を作りながら保養できたらこんな良いことはない。
 
 トマトがぽつぽつ熟して夕食膳にのる。去年より胡瓜もなすも収穫が少ない。供出するだけのものがない。茗荷は早くから取り始めて朝晩の汁に入れるほどしかない。


私の記憶の中に、海軍将校の服装をした人が親父と親しくしている場面がある。彼が我が家に逗留中に目の下の中津川を超低空で上流に飛ぶ米軍機があった。あとで、近くの橋が機銃の被害にあったということを知ったが、そのときにその将校はステテコ姿で青梅を拾って庭の端まで走って行って投げつけてきたシーンが記憶に焼き付いている。当然ふざけ半分だった。その将校は何者か気になっていたが、この日記帳にたびたび出てくることがわかった。
彼がくれたという汽車の乗車証明書とは何なのか、そんなものがあったとは知らなかったが、歴史の事実を知りたい。

父の日記帳;昭和20年8月11日

2009-08-11 10:18:13 | 自分史エピソード
終戦記念日が近づいてきました。戦争は歴史のかなたに追いやられていきます。でも、64年前に終わった戦争は、日本が犯したもっとも罪深いこと。世界の人々にも日本国民すべてに対しても・・・。その政治の意志の下でうごめく庶民の記録が手元にありましたので、私の幼少のころの記憶とともに明かしていきます。

8月11日
私と沼田(竹刀庵)と二人で土蔵跡に壕を掘り始めた。孟宗竹の根がはびこって大仕事だ。女房がいり豆を作って茶をいれてくれた。渡辺はご苦労様とも言わない。すぐ目の前で働いているのだからご苦労様ぐらいいだろうに。娘もいたって無関心だ。シャツの汗を絞った。警報が鳴った。空襲も鳴った。それでも鍬を離さなかった。
敵機なきわが機とぶすずみかな
涼しさや日の丸付けし飛機飛べば
豪堀や古き欅を盾として
観念の豪堀りはじむ○○○
壕を掘る人来てじゃがいも喰い尽す


そのころすでに庭隅には防空壕が掘られてあり、空襲警報のたびに私らはそこへ逃げ込んでいました。このころは本土決戦に備えてさらに強固な壕が必要だったのでしょう。渡辺という名前が出てきますが、我が家の離れ(親父が作った座禅堂)に疎開してきていた女性です。土蔵の跡地の壕掘り作業はわたしの記憶にもはっきりあります。ご近所の、住みよさそうな壕を訪ねてあるって、我が家にももっといい壕があったらいいなと子供心にも思っていました。よい防空壕があることがその家のステータスでした。

終戦前後のリアルな日記

2009-08-10 12:53:29 | 自分史エピソード
父の日記帳
このブログで、しばらくの間「父の日記帳」を披露してみたい。それも昭和20年の終戦前後に絞って・・。今の私の年より10年以上若い時に終戦を迎えている。解読するのも簡単でないが、削ることはあっても加えることは無いという前提で書き写していく。

昭和20年8月10日
今日は百姓をせずに家で農業要員の登録申請を書いていた。9時ごろ空襲警報が鳴った。近所の者が2人来て私の山に壕を掘ることを許してくれと言ってきた。どこでも好きなところに掘りなさいと言ってやった。隣の肇も掘らせてくれと言ってきた。これも掘りなさいという。豪堀りの日当が35円と食事という相場だそうだ。
我が家でも新しく壕を掘ろうと、竹刀庵と渡辺と3軒で使うものを掘ることにした。渡辺が金を出し、私が労力と材料を出し竹刀庵は労力だけを出すということにした。
アメリカ一国でさえ負け戦なので、この上ソ連が敵に回っては国民はとても負けだと観念した。この敗戦を何とか生き抜こうと考えた。壕を掘って身を守り、焼き物などを土に埋めたり、食料をかこったりした。しかし布団や衣類を壕におけばすぐ湿気てダメになってしまった。○も壕へはかこえなかった。金にしてもっている方が安全だという者もいたが金で物が買えなくなるのは当たり前だから品物で持っていたほうが得だ。
食糧を蓄えておくことが一番だが、それを焼かれたらそれまでとあきらめるより仕方がない。どこに隠したらよいかいい考えは浮かんでこなかった。家に火が付いたら取り出すことなどとてもできない。どうにもならないと観念した。