室生犀星の母と娘
我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
昭和三十五年十月十八日 室生犀星之建
詩集『鶴』巻頭詩「切なき思ひぞ知る」より
この詩を読むとねぇ、僕はどう言う訳か背筋がゾクゾクと寒くなってくるのですよう。読む人に温かみが伝わってくる詩ではないのですよう。
そうでござ~♪~ましょうか?それはデンマンさんの極めて個人的な受け止め方ではないかしら。。。?
だったら、卑弥子さんは、上の詩を読んで宝くじに当たったミーちゃんハーちゃんのようにルンルン気分になれますか?
確かに、スキップしたくなるような詩ではござ~♪~ませんわ。
そうでしょう?僕だって、ルンルン気分でスキップしたくなるような気分にはなれませんよう。
そう言えば、デンマンさんは、上の詩を読んで犀星さんの人生哲学を読むようだとおっしゃっていましたよね?
そうですよう。悪く言えば「井の中の蛙人生」。。。よく言えば、「孤独を愛した孤高の人生」ですよう。。。僕は、上の詩を読んで、そのように感じ取ったのですよう。
でも、“井の中の蛙人生”と決め付けるのは、かなり言い過ぎではござ~♪~ませんか?
しかし、犀星自身が“我はつねに狭小なる人生に住めり”と言っていますよう。
でも、“狭小なる人生”は“井の中の蛙人生”とはニュアンスが異なると思いますわ。
どのように違うのですか?
犀星さんが言おうとしているのは、狭小かもしれないけれど、自分の世界を深く深く掘り下げていって、氷のように冷たいかもしれないけれど、自分の世界の真実を見届けようとする姿勢を詩に詠んだと、あたくしには思えるのでござ~♪~ますわ。
ほおォ~。。。さすがに京都の女子大学で「日本文学と源氏物語」を講義している准教授の卑弥子さんの良識が見えるような意見ですねぇ~
このような時に、また、あたくしの職業を持ち出さないでくださいましなア。
しかし、なぜ、犀星の世界の真実は、氷のように冷たくなければならないのですか?その冷たい人生の荒涼の中で、なぜ呻吟しなければならないのですか?。。。卑弥子さんは考えてみた事がありますか?
だから、真実に直面するという事は、冷たい現実に真正面から向き合う事だからですわ。
でも、現実が冷たいとは限らないでしょう。ほっかほっかの現実だってあると思うのですよう。それなのに、どうして犀星の詩には冷たい、鋭い、痛々しいモノが詠まれているのですか?。。。卑弥子さんは考えてみた事がありますか?
なぜでしょうか?
僕は次の句に、その答えが秘められていると思いますよう。
『犀星発句集』(1943年)に見える次の句は50歳を過ぎた後も、犀星がこのダブルバインドを引きずっていたことを示している。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
この句がどうだとおっしゃるのでござ~♪~ますか?
卑弥子さん!。。。とぼけないでくださいよう。卑弥子さんは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているのですよう。分からないはずがないでしょう!
京都の女子大学とは関係ござ~♪~ませんわ。
あのねぇ~、日本語が母国語でないジューンさんだって次のように言っているのですよう。
こんにちは。ジューンです。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
なんとなく意味は分かりますよね。
でも、わたしは“匹婦”という言葉を
初めて見たのでした。
“匹”は動物を数えるときに使いますよね。
“婦”は成人女性のことです。
だから、“動物的な女性”だろうと
わたしは直感的に意味を考え出したのです。
念のために辞書を引いてみました。
ひっぷ 【匹婦】
身分の低い女。
また、道理をわきまえない卑しい女。
【用例】
「欲にのみふける匹婦の情/人情本・梅児誉美(後)」
三省堂「大辞林 第二版」より
なるほどね~。
男性の場合は“匹夫”です。
ところで、“匹”は何をかたちどって
出来た漢字だと思いますか?
なんと、馬のお尻だそうです。
そう言われてみれば、
馬のお尻のようにも見えますよね。(爆笑)
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
『室生犀星を旅する (2008年12月28日)』より
つまり、犀星さんは自分の産みの母親を“身分の低い、道理をわきまえない卑しい女”だと俳句の中で詠んだのでござ~♪~ますわね?
そうですよう。
それでデンマンさんは「犀星の詩には冷たい、鋭い、痛々しいモノが詠まれている」とおっしゃるのでござ~♪~ますか?
そうですよう。犀星は自分の出生について50歳を過ぎた後でも、心の底に重くわだかまっているものを感じないでは居られなかったのですよう。
。。。んで、“ダブルバインド”と書いてありますけれど、それって、一体どう言う事なのでござ~♪~ますか?
それは犀星の生い立ちを見れば分かりますよう。
室生 犀星 (むろう さいせい)
本名: 室生 照道(てるみち)
1889年(明治22年)8月1日に生まれる
1962年(昭和37年)3月26日に肺ガンのために亡くなる。
石川県金沢市生まれの詩人・小説家。
1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。
生後まもなく、生家近くの、真言宗寺院雨宝院住職室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。
住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。
私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。
「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。
『犀星発句集』(1943年)に見える次の句は50歳を過ぎた後も、犀星がこのダブルバインドを引きずっていたことを示している。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
抒情小曲集の次の詩句が有名である。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も金沢にはほとんど戻ることがなく、そのかわり犀川の写真を貼っていたという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
犀星の父親は上の略歴にも書いてあるとおり旧加賀藩の足軽組頭だった人なのですよう。当時64歳だった。真珠湾攻撃を考え出した山本五十六という陸軍大将が居たけれど、この人の名がどうして五十六かというと、山本大将が生まれた時の父親の年齢が56歳だった。
つまり、山本大将のお父さんよりも、さらに8歳もお年を召していたにもかかわらず、犀星さんのお父様は、お寝間ではお元気だったのでござ~♪~ますわね?!今で言うならば、高齢化社会の見本のような方だったのでござ~♪~ますわねぇ~ おほほほほ。。。
あのねぇ~、卑弥子さん!。。。笑っている場合じゃないのですよう!
失礼いたしました。。。んで、ダブルバインドとは、どういうことなのでござ~♪~ますか?
犀星を生んだお母さんは、実は小畠弥左衛門吉種の正妻ではなかった。
どういう方だったのでござ~♪~ますか?
木畠家に仕えていた奉公人だったのですよう。
つまり、お手伝いさんだったのでござ~♪~ますか?
まあ、分かり易く言えば、そういうことなのですよう。犀星は、祝福されながら生まれたわけではないのですよう。ハルさんは当時32歳だった。木畠家は、とりわけ裕福である訳ではないから、水子にして処分しないのであれば、後は里子に出すしかなかったのですよう。
つまり、他の人に赤ん坊を貰ってもらうのですわね?
そうですよう。それで、生後まもなく雨宝院住職の室生真乗の内縁の妻、赤井ハツさんにもらわれたのですよう。
つまり、この赤井ハツさんも、世間で言うところの“お妾(めかけ)”さんだった訳でござ~♪~ますか?
そうなのでうよう。
“人の口に戸は立てられない”
諺にもあるように出生の秘密というのは、どういうわけか漏れてしまう。それで、上の略歴にも書いてあるように、犀星は「お前はオカンボ(妾)の子だ」と馬鹿にされたのですよう。
でも、犀星さんは赤井ハツさんの子供ではないのでしょう?
そうですよう。噂というものは、いい加減なものだという事ですよう。真実を知る人は少ない。でも、“妾の子”と馬鹿にされただけでも子供心には、深い心の傷になってしまう。
つまり、ダブルバインドという事は、“お妾さんの産んだ子”だと馬鹿にされた事とは別に、自分の父親が奉公人の女に手をかけて産ませた子だという事実を犀星さんは知ったということですか?
その通りですよう。要するに自分の出生にまつわる2重の苦しみの種を抱えてしまったのですよう。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
その苦しみ、悩みがこの俳句に詠み込まれていると、デンマンさんはおっしゃるのですか?
そうですよう。50歳を過ぎた後でも、犀星はこのダブルバインドを引きずっていた、と言うのですよう。
つまり、自分の産みの親を憎んでいたのでござ~♪~ましょうか?
憎んだ事もあったでしょうね?
つうことわぁ~。。。犀星さんがこの句を詠んだ時には、もう産みの親を憎んでいなかったと。。。?
上の句を詠んだ時には、犀星は産みの親を憎んでいなかったと僕は思いますよう。
どうして、そのようなことがデンマンさんに分かるのでござ~♪~ますか?
犀星は生みの母に会った事がないのですよう。だから、なおさら憎めなかったのでしょうね。
どうして会えなかったのですか?
当時、我が子を里子に出したら産みの親は2度と別れた子に会うべきではない、というのが里子に出した産みの親の守るべき事だと言われていたのですよう。
つまり、会ってはいけないと。。。?
そうですよう。いわば暗黙の掟(おきて)のようなものだったのですよう。
犀星さんは、さぞかし産みのお母様にお会いしたかったでしょうね。あたくしは、いつも『徳光和夫の感動再会"逢いたい"』を見て感動しているのでござ~♪~ますわ。もし明治時代にあの番組があったならば、犀星さんも産みのお母様にお会いできたかもしれませんわよねぇ~。(卑弥子さん、番組の感動シーンを思い出しながら目頭に熱いものがこみ上げてくる。。。)
ちょっと、卑弥子さん!。。。涙を浮かべて。。。それではまるで司会の徳光さんのようじゃないですかア~
デンマンさんは。。。、あのォ~。。。日本に帰省した時に、その番組をご覧になりませんでしたのォ~?
実は、僕のお袋があの番組が好きでしてねぇ~。僕も、仕方なしに一緒にみましたよう。
産みのお母さんとの再会なんて、実に感動的でござ~♪~ますでしょう?
卑弥子さんもTBSテレビで見たのですか?
あたくしは関西でござ~♪~ますから毎日放送(MBS)ですわ。。。んで、犀星さんは一生、産みのお母様にお会いしなかったのでござ~♪~ますか?
会えなかったのですよう。お母さんは行方不明のままだったのですよう。それで、室生犀星は生涯にわたって、この「見えない母」を思慕しつづけたのですよう。
どうして。。。、どうして、そのような事がデンマンさんに分かるのでござ~♪~ますか?
長編小説『杏(あんず)っ子』を書いあとで、犀星は次のような率直な感想を書いていたのですよう。
「ただ、このような物語を書いているあいだだけ、
(母に)お会いすることが出来ていた。
物語をつづるということで、
生ける母親に会うことのできるのは、
これは有難いことのなかの
特に光った有難さなのである」
卑弥子さんも、これを読めば分かるでしょう!?会えない産みの親というのは男にとって“心のふるさと”なのですよう。
そう言うものなのでしょうか?。。。でも。。。でも、それならばなぜ、犀星さんは産みのお母様を侮辱するような次の句を読んだのでござ~♪~ましょうか?
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
だから、そこですよう。
どこでござ~♪~ますか?
このページの冒頭に掲げた詩をもう一度じっくりと読んでみてくださいよう。