ベートーベン白熱教室(PART 1)
Ludwig van Beethoven
(1770-1827)
L.v.Beethoven の“ Fidelio”(Op.72)は、初演の当時から幾多の論議を呼んできた。それがとりもなおさず、この四つの序曲を持つ彼の唯一のオペラが、ほかならぬBeethovenの作品であるが故であることは、とかく忘れられがちであるのではないであろうか。
その議論のひとつに、夫婦愛などをテーマとしたオペラが成功するはずがない、というのがあった。(中略)しかし、たとえ登場人物が夫婦ではなかったとしても、恋人同士であったとしても、話の筋道は大体つくであろうのに、それを、ことさらに、夫婦とした台本を使用したところに、私は、むしろ、Beethovenの破天荒な意思、意欲を感じるのである。(中略)
この作品は良い作品ではあるが、それでも、W.A.Mozartのオペラに較べれば、太陽を前にした星である、ということを誰かが言っていた。(中略)それはそうであろう。舞台は、貴族の館などではなくして、監獄の中での出来事である。何も、Beethovenの作品に、Mozartの音楽を聴こうとすることもなかろう。そんな風な聴き方は、Mozartだって野暮だと言うであろうし。
第三に、これは、この作品に限らないが、Beethovenの声楽の扱い方に対する批判が後をたたないことである。しかし、思い切って乱暴に言ってしまえば、彼は、彼のやり方で人声を扱ったまでで。それはそれで完成されたものではなかったか、と私は思うのである。
(中略)
抑圧からの開放。これは、常に現代的、現在的である。ただ、その開放がDon Fernandoの鶴の一声では成らぬことを知るのには、人類は、未だ、一世紀余りを要した。さもなくば、この作品中にDon Fernandoのせいにはすまい。そもそも、彼といえども、なんらの見通しのない時代には、強固の意志に貫かれた、信仰にも近いような信念なくしては、理想などは持ち得ないではないか。その意味では、共和主義者Beethovenは古典であった。
現代であること、現代人であることは、必ずしも幸いなことではない。今、ソヴィエト社会主義連邦共和国や東欧諸国で起きている事態、あれは何であろうか。この様にして、この二十世紀最大の実験は無に帰するのであろうか。それでは、革命に血を流した勇敢なる闘士は浮かばれないであろう。それこそ、Stalinismeによる犬死に、それで終わるのであろうか。
犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士の死もまた、すべて犬死であった。遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあるが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。犬死と言う認識ではなかったら、その悲惨さは権力によって薄められるのである。はっきり言おう。遺族団体は、現在、政府に媚びる圧力団体に堕落しているではないか。
言うべきことが言える間に、言うべきことは、きちんと言う、それしかできない私である。また、私は共産主義者でもないが、それを強調するまでもあるまい。
それにしても、私の知る限り、Beethovenの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであった。奇妙な共和主義者ではあった、と思わざるを得ない。しかしながら、彼のmessageは、いまだ有効である。
出典:13-14ページ 『間奏曲集ー主題なき変奏』(作品2)
著者:太田将宏 初版:1994年1月 改定:2006年6月
Les Interludes - Variations sans Sujet - Opus 2
by Masahiro Ota
デンマン注:写真はデンマンが貼り付けました。強調のための赤字もデンマンが施(ほどこ)しました。
デンマンさん。。。ベートーベンのことなど引用して、あんさんは何を言おうとしてはるの?
うん。。。よう聞いてくれた。わては日本帰省の10月24日に、たまたまNHK教育テレビの『白熱教室JAPAN』と言う番組を観たのやァ。
その番組でベートーベンが取り上げられたん?
そうなのやァ。
。。。で、その事と上の引用した文章が関係あるの?
太田さんは次のように書いている。
抑圧からの開放。
これは、常に現代的、
現在的である。
これが、あんさんにとって感動的な文章やの?
そうや。ベートーベンもナポレオンの出現によって抑圧からの開放を感じ取ったのやァ。それはベートーベンの作品にも表現されている。
そう言われてみると『英雄』という曲がありましたなァ。あれはナポレオンのことでしたん?
そういうことになっておるでぇ。。。
あんさんは、その事が言いたかったん?
そうやァ。。。でも、そればかりではあらへん。番組の中でもパネリストが太田さんの書いているような事を言うてたのやァ。
何故、ひとは、L.v.Beethovenは、旋律を書けなかった、などと言うのだろう。もっとも高橋悠治は、Beethovenは、それを書けば書けた、と書いていたけれども。
確かに、“Simphonie in d-moll”(Op.125)の最終楽章の旋律は、いただけない。とてもではないけれど、素面では人前には持ち出せないような代物だ。だから、それは、sempre pianoで、おずおずと導入される。ただし、このやり方は効果的で、この旋律が、静かに美しく流れるのは、認めざるを得ない。しかし、ここだけである。後は、とりわけ、これが咆哮するようになると、いかにもいただけない。
(中略)
さらに困ったことがある。この楽章の出だしのRecitativeによって否定された先行三楽章に成り代わって出てきたはずのこの旋律が、散々、オーケストラによって鼻ずらを引き廻された挙句、とどのつまりはBaritonの気張った声によって、またまた否定されるのである。すると、誰だって、まともに聴いていた人は、自分は、今まで何を聴いていたのだろう、と一瞬、眩暈(めまい)がするような戸惑いを感じるはずだ、と私は思うのであるが、誰も、それを言わない。それどころか、W.Furtwänglerは、他の作曲家の作品とは異なり、Beethovenの音楽は、自分が今、どこにいるのかが常に明瞭である、と言っていたほどである。
例は、いちいち書かないが、Beethovenの作品には、こうした二重否定だけではなく、二重肯定も散見されるのである。
出典:47ページ 『間奏曲集ー主題なき変奏』(作品2)
著者:太田将宏 初版:1994年1月 改定:2006年6月
Les Interludes - Variations sans Sujet - Opus 2
by Masahiro Ota
デンマン注:強調のための赤字もデンマンが施(ほどこ)しました。
要するに、ベートーベンの作品には二重否定だけでなく二重肯定も見られると書いてるねん。
その事がどうやと、あんさんは言わはるの?
否定されなければならない事をどうして作品の中に書くのか?肯定されることだけを書けばええやんか!?。。。それが、わてが初めて上の文章を読んだときの反応やったのやァ。NHKの番組の中でも作曲家の坂本龍一さんが、その否定の箇所をいくつか演奏して見せていた。
それで、あんさんはどうやと思いはったん?
ベートーベンはナポレオンの出現によって抑圧が解放されると思って狂喜した。ところが、やがてナポレオンが皇帝になってしまった。それで失望してしまったのやァ。つまり、その狂喜と失望が作品の中で肯定と否定になって表現されているのではないか!?。。。そう思ったのやァ。
そやけど、太田さんは次のように書いてますやん。
彼といえども、
なんらの見通しのない時代には、
強固の意志に貫かれた、
信仰にも近いような信念なくしては、
理想などは持ち得ないではないか。
その意味では、共和主義者Beethovenは
古典であった。
つまり、ベートーベンは強固な意志に貫かれた信仰にも近い信念を持って共和主義に徹していたと言うことですやろう?
太田さんは、そう信じたのかも知れへん。でもなァ、人間は100%揺ぎ無い信念など持つことができへん。そやから太田さんかて次のように書いている。
Beethovenの失恋の相手は、
貴族の令嬢ばかりであった。
奇妙な共和主義者ではあった
要するに、ベートーベンは共和主義と貴族の令嬢の間で振り子のように揺れていたと、あんさんは言わはるの?
あのなァ、人間は不完全な生き物なのやァ。そやから、めれちゃんだってベートーベンのように揺れることがあるねん。
わたしもペートーベンのように否定と肯定の間で振り子のように揺れることがあると、あんさんは言わはるの?
そうやァ。めれちゃんも否定と肯定の間で激しく揺れたことがあったのやでぇ~。。。
ホンマかいなァ~?
めれちゃんが書いた絶交状と、その後で仲直りしようとする詩を読むと、その振り子の振幅の激しさが手に取るように分かるのやァ!
じいさん、
永久に近づくな。
めれんげは自分の思うままに
詩を書きたいのだ
自由に心のままに。
ネガティブな詩だってある。
そこに喰らい付いてきて、
気持ちの悪い文章を書くじいさん。
アンタは本当に面倒くさい奴だ。
アクセス禁止にしたところで、
どうせipを偽装するんだろうな。
ハッキリ言う。
一度はアンタと和解したが、
そんなことはもう、決してありえない。
なぜかと言うと、
めれんげの気持ちをわかったつもりで、
見当違いのコメントを書いて
わたしのブログを汚すからだ。
何より許せないのは、
アンタの「言葉泥棒」だ。
都合のいいところだけ抜き出して、
さも、アンタと通じ合っているような
文章を垂れ流していることだ。
それに、何年も前の文章を
いつまで使い続けるつもりなんだ。
わたしはいつまでも
同じ所に立ち止まっているわけではない。
アンタが同じネタを使っていることで、
アンタの進歩のなさを露呈しているんだ。
気持ち悪い「愛のコラボ」ってなんだ?
それも結局は、アンタの脳内で
わたしの創作を侮辱しているってことだ。
アンタとわたしとではレベルが違う。
アンタは人の書いたものなしでは、
何も書けない貧困な人間だ。
クリエイティビティもないくせに、
「文学的素養」について語るな。
わたしが心の底から苦心して
絞り出した言葉を
アンタはのうのうと使いまわして
さも自分が知識人であるように装っているだけだ。
そして、さもしいアンタは、
他人を馬鹿呼ばわりして、
自分のブログのネタとして使う。
オリジナリティもないアンタには、
自分で何かを創りだす能力なんて
ないからだろうな。
じいさん。
アンタは自分が思う以上に、
ネットの中で、飽きられているぞ。
アンタに構ってくれた人たちは、
もうアンタになんて目もくれていないだろう?
それはアンタの薄っぺらさを
みんなが気付いたからだ。
わたしはアンタにつきまとわれているから、
こんな文章を書かざるを得ない。
とにかく一言言いたいのは、
「死ぬまでわたしに関わるな。
ネタにもするな」
ということだ。
by merange (めれんげ)
October 05, 2009 19:36
『極私的詩集 永久に近づくな』より
『相手にされない成りすまし馬鹿』に掲載
(2009年11月22日)
これがめれちゃんの書いた絶交状やがなァ。
あんさんは、私が書いた絶交状まで大切に保存してはるの?
そうやァ。。。こないな記事を書く時に、ごっつう参考になることがあるさかになァ。うしししし。。。
。。。で、わたしが仲直りしたいと言う詩ってどれやのォ~?
めれちゃんは次のように書いてたでぇ。。。
(すぐ下のページへ続く)