ワイセツと芸術(PART 1)

「エログロナンセンス」の時代
特有の、妖しげな表現に
魅せられました。
2007-04-13 13:53

デンマンさん
わたしの言う「エロい」は、
やはり少々お下品だったかな?
この表現って、
わたしにとっては「ギャグ」に近いんですよ
わたしは関西人のなかでも特に?
ウケをねらう傾向が強すぎるものでして、
必要以上に自分をコミカルにデフォルメするという、わるーい癖があるんですよね
で、回答へとまいりますね。。。
江戸川乱歩全集に関してですが、
とにかく横尾氏のイラストが、
エロチックだったのです。
幼いころから、女性の肉体の美しさに
強烈に魅了されていたわたしは、
偉大な画家たちの描く裸婦や、
女性のヌード写真を見て
「わたしも早くこんな風にキレイになりたいなあ!」
と、成熟へのあこがれを強く感じていました。
乱歩の作品自体については、
「エログロナンセンス」の時代特有の、
妖しげな表現に魅せられました。

「人間椅子」での、愛する女性のソファに、
自ら入り込み、悦楽にひたる男の異常な愛などは、
「家畜人ヤプー」に通じるものがあり、
それはむしろ、純粋なものすら感じました。
そういえば…
乱歩の時代のことが知りたくて、
おばあちゃんに
(今は亡き愛するおばあちゃんです!)
「見世物小屋行ったことある?」
「衛生博覧会って、どんなんやった?」
などと、聞きまくっていたものです
「チャタレイ夫人の恋人」ですが…
ぶっちゃけエロい箇所の拾い読み、
というのが事実です!
だってねえ…あの小説の大半は、
ロレンスの思想の
展開だと思いませんか?
小学生のわたしに、
そんなものを理解できるような
知性も理解力もなかったっす…
で、大人になってから読み返したのですが、
森の番人の野卑でありながらも、
深い洞察力に満ちた性格に、
恋愛感情にも似た気持ちを感じました。
おまけに、セックスは上手ですしね(キャー!)
女性が自らの性欲を恥じる必要など
ないということを、
わたしは少女時代に、
あの小説によって知ったのかもしれませんね。
フロイトも、ヒステリーの原因は、
性的欲求不満であると、言ってましたよね?
セックスとは、
愛を基盤とした自由なものであるべきだと、
わたしはずーっと信じてます!
by レンゲ
『ゴスロリと黒パンツ』より
江戸川乱歩の世界
(2009年5月6日)

デンマンさん。。。あんさんはレンゲさんの手記を持ち出してきてワイセツな話をしようとしてるん?

やだなあああァ~。。。わては芸術の話をしようとしているのやでぇ~!
そやかて、その前に“ワイセツ”がついてますやん。
めれちゃんは“ワイセツ”にこだわるのやなァ~。。。
あんさんがこだわるさかいに、タイトルの初めに“ワイセツ”を持って来たのやないかいなァ。
それやったら、『芸術とワイセツ』に変えるわァ。
もう、遅すぎますねん。。。で、レンゲさんが「チャタレイ夫人の恋人」を読んだ事がワイセツやと、あんさんは言わはるのォ~?
いや。。。わては、そのような事を言うておらんでぇ~。。。
これから、言わはるのやろう?
ちゃうねん。。。わては、たまたま「チヤタレー事件判例」を読んだのやァ。
それで、この記事を書く気になったん?
そうなのやァ。。。めれちゃんが書いた手記を持ち出そうとしたのやけれど、見つけることができへんかった。
それで、レンゲさんの手記を持ち出してきやはったん?
そうなのや。。。そやけど、思い返せば、めれちゃんもレンゲさんと同じような事を以前に言っていたなァ~?
そうでしたやろか?
そうなのやァ。 めれちゃんは次のように言うてたと思うのやァ。
わたし、「チャタレイ夫人の恋人」を読みましてん。
うふふふふ。。。
ぶっちゃけエロい箇所の拾い読みでしたわ。
そやけど、あまりエロい所はありまへんかった。
あの小説の大半は、
ロレンスの思想の展開とちゃうん?
そやけど、小学生のわたしに、
そんなものを理解できるような
知性も理解力もおまへんでしたわ。
大人になってから読み返したのやけど、
うふふふふ。。。
森の番人の野卑でありながら、
深い洞察力に満ちた性格に、
わたしは恋愛感情にも似た気持ちを持ちましてん。
おまけに、森の番人はセックスが上手ですやん。
うしししし。。。
女性が自らの性欲を恥じる必要などないと、
わたしはあの小説によって知りましてん。
フロイトも、ヒステリーの原因は、
性的欲求不満であると言うてましたわ。
セックスとは、愛を基盤とした
自由なものであるべきやと、
わたしは信じてますねん。

どうや、めれちゃん。。。このような事を言うた覚えがあるやろう?

勝手に決め付けんで欲しいわ。。。わたし、上のような下品な事を言うた覚えがありまへんわ。
さよかァ~?。。。めれちゃんが言うたと思うのやけれどなァ~。。。
それで、「チヤタレー事件判例」を読んで、どないしやはったん?
どないも、こないも。。。めれちゃんの言うた事を思い出したのやがなァ。
そやけど、わたしは上のような事を言うてへん。。。
さよかァ~。。。とにかく、次の箇所が最初に目に付いたのやァ。
「チヤタレー夫人の恋人」は英文学界において名前が通つているA3の長編小説であり、芸術的観点からして相当高く評価されている作品である。
それは小説の筋の運び方や、自然、社会、登場人物の性格の描写、分析や、著者の教養の広さを示すところの、ユーモアと皮肉に富む対話などからして、著者の芸術的才能を推知せしめるものがある。
(中略)
話の発端は第一次大戦において負傷し、性的機能を失つた若い貴族のクリツフオードとその妻コニ―との、中部イングランドのラグビー邸における彼女にとつて不自然で退屈な生活である。
そのうちにコニ―とクリツフオードの雇人で、その領地内に住んでいる、妻と別居していたメラーズという森番の男との間に恋愛および肉体的関係が発生、発展し終に両人ともに社会的拘束をふり切り、離婚によつて不自然と思われる婚姻を清算して恋愛を基礎とする新生活に入ろうとする。
これがこの小説の構造のあらましである。
そしてこの構造は思想的、社会的、経済的の主題によつて肉附がなされているのである。
それらは貴族階級の雰囲気に対する批判、工業化による美しい自然の破壊、農村の民衆の生活に及ぼす影響、鉱業労働者の悲惨な境遇、人心の荒廃、間化等の事実を指摘し、また著者自身が真に価値のある生活と認めるものおよび著者のもつ社会理想を暗示している。
そしてその主題の中で全篇を一貫する最も重要なものは、性的欲望の完全な満足を第一義的のものとし、恋愛において人生の意義と人間の完成を認めるかのような人生哲学である。
かような人生哲学からして著者は彼の祖国のみならず他の国々においてもあまねく承認されているところの、性に関する伝統的な、彼のいわゆる清教的な観念、倫理、秩序を否定し、婚姻外の性交の自由を肯定するが、同時に性的無軌道な新時代の傾向に対しても批判的であり、精神と肉体との調和均衡を重んずる性の新な倫理と秩序を提唱しているものであること本書の内容、著者自身の序文、その他の著書および原判決において引用するA3の書翰からして推知できるのである。
この点から見て本書がいわゆる春本とは類を異にするところの芸術的作品であることは、第一審判決および原判決も認めているところである。
しかしながらA3の提唱するような性秩序や世界観を肯定するか否かは、これ道徳、哲学、宗教、教育等の範域に属する問題であり、それが反道徳的、非教育的だという結論に到達したにしても、それだけを理由として現行法上その頒布、販売を処罰することはできない。
これは言論および出版の自由の範囲内に属するものと認むべきである。
問題は本書の中に刑法一七五条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれているかどうかにかかつている。 もしそれが肯定されるならば、本書の頒布、販売行為は刑法一七五条が定めている犯罪に該当することになるのである。
出典: 『チヤタレー事件判例』

このように言うてるわけや。 つまり、「チャタレイ夫人の恋人」はエロ本とは類を異にするところの芸術的作品であることを認めているのやァ。

でも、裁判官は刑法一七五条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれていると思うているのやろう?
たぶん、そうなのやァ。。。そうやなかったら、裁判にならなかったのやから。。。
。。。で、どれが「猥褻の文書」やと言うてるねん?
まず、猥褻とは何か? その事を裁判官は問題にしてるねん。
しからば刑法の前記法条の猥褻文書(および図画その他の物)とは如何なるものを意味するか。
従来の大審院の判例は「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」ものとしており、また最高裁判所の判決は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」としている。
そして原審判決は右大審院および最高裁判所の判例に従うをもつて正当と認めており、我々もまたこれらの判例を是認するものである。
要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。
およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。
羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である。
人間は自分と同等なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ。
これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである。
羞恥感情の存在は性欲について顕著である。
性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。
しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。
従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。
これすなわち羞恥感情である。
この感情は動物には認められない。
これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人聞または特定の社会において缺けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。
例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。
要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。
かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。
なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。
そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。
もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。
かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。
刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。
性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。
そして刑法一七五条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
出典: 『チヤタレー事件判例』
赤字はデンマンが強調するために施(ほどこ)したものです。
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