カッパのロードスター

幌を開ければFeelin`good。カッパーレッドの
路渡☆くんとの楽しいドライブ日誌。

新緑の三井寺。

2012-05-12 23:26:48 | 洛外うろうろ
ゴールデンウィーク初日の4月28日、西国三十三所巡礼で
滋賀県の『長等山 園城寺(ながらさん おんじょうじ)』
通称、三井寺(みいでら)に行きました。

天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺*の一つに数えられています。
相当な大寺院、日本史における影響力を考えてもなかなか手強いお寺です。
*日本四箇大寺=東大寺・延暦寺・興福寺・園城寺(三井寺)

三井寺には、国宝10件(64点)・重要文化財42件(720点)の国指定文化財が
その数は実に多く、全国でも屈指のものです。

トップの写真は「大門(仁王門)」〔重文〕
白く塗られていたのかな、かなり老朽化しているようにも見えました。

さて、気合い込んで何枚もシャッターを切りまくったのですが・・・
最初の部分の撮影データを誤って削除してしまい、跡形もありませんw
デジタルの悲しいところですね、消すのは一瞬ですが、
消してしまうと何も残りません。

仁王門を抜けると直ぐに釈迦堂〔重文〕が右手にあり、隣接して弁財天社も。
参道を真っすぐ行くと階段の先に金堂(本堂)が現れます。
手水舎もありました、金堂を撮る前に、ここの見どころでもある鐘楼〔重文〕を。
三井(みい)の晩鐘といわれ、日本三名鐘のひとつと言われています。
「姿(形)の平等院」「音の三井寺(園城寺)」「勢の東大寺」「銘の神護寺」
・・・あれ?四つやん!イイカゲンナ。東大寺と神護寺が替わることがあります。
いっぱい写真に収めました。潜り戸を開けて中まで入って撮りました。
鐘を撞くのは一人一回300円也、鐘の音聞くのも金次第ってことやね・・・

国宝の金堂、現在の建物は豊臣秀吉の北政所によって慶長4年(1599)に
再建された物で桃山時代を代表する名建築とされています。
正面から見ると石灯籠が3基(堂前灯籠)立っています。
屋根は桧皮葺きで、見るからに風格があり優美でもある重厚な建物です。
拝観もでき、内陣は一段低い土間で、天台密教寺院の特徴を表している。
本尊の弥勒仏は天智天皇が信仰されていた霊像で、秘仏とされており、
見ることはできません。

・・・と、ここまでの写真が欠落しました。


この金堂の横には、閼伽井(あかい)屋〔重文〕があり、



おっと、金堂が写ってます。一部、それも裏側ですが…その奥が閼伽井屋です。


左が金堂(本堂)、右が閼伽井屋。

 閼伽井とは閼伽(閼伽水)を汲む井戸のことです。ここで汲まれた水は
 お供え用の水として使われます。閼伽の語源はサンスクリット語アルギャ。
 英語のアクアもこれを語源としているとか・・・





格子越しに中が覗けます。ゴボッゴボッって水が沸く音や、蛙の鳴き声も
聞こえますが、どうやら録音テープを流しているようです。

この霊泉には九頭竜神が棲んでいたとか。堂の正面上方には左甚五郎の作と
伝えられている龍の彫刻があるですが、この龍、夜な夜な琵琶湖に出て
暴れるので目玉に五寸釘が打たれているとのこと。
釘は確認できませんでしたが・・・

なお、この井戸水は天智、天武、持統の三天皇の産湯に使われたと伝えられ
御井(みい)の寺と呼ばれたのが、今の三井寺の名の由来です。



「熊野権現社」


「教待堂」



「霊鐘堂」
さてさて、ここには「弁慶の引摺り鐘」〔重文〕なるものが置かれています。



この梵鐘、奈良時代のもので俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に
竜宮から持ち帰ったと伝えられているもので(ま、伝説やから)
何故にこれが「弁慶の引摺り鐘」かと言うと、当時比叡山延暦寺の僧であった
武蔵坊弁慶、園城寺を襲いこの鐘を奪い、比叡山に引摺り上げ撞いてみたところ
”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに
三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。
鐘の傷跡はその時のものと言われていますが・・・ま、伝説ってことで。
ただしその当時、比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の僧兵によって
幾度となくこの三井寺が焼き討ちされたことは史実のようです。


何故か「弁慶の汁鍋」ってのが置かれています。グッズもね・・・(^_^ゞ




「一切経蔵」〔重文〕

写真は堂内にある高麗版一切経を納める回転式の八角輪蔵。



なかなか面白い建物です。この建物は国清寺の経蔵で、慶長七年(1602)に
毛利輝元によって移築されたものだそうです。


お寺などを撮っていると、たまにこんな写り込みのある写真が
突然撮れたりします。訳が分からない不思議な現象・・・大丈夫やろか?




「園城寺唐院四脚門」〔重文〕
ここから唐院と呼ばれるエリアに入って行きます。


「三重塔」〔重文〕
元は大和の比蘇寺の塔を、豊臣秀吉が伏見城に移築したものを
1600年、徳川家康が三井寺に寄進したものです。


「長日護摩堂」〔重文〕



「唐院潅頂堂(かんじょうどう)」〔重文〕
唐院にはもうひとつ「大師堂」があります。潅頂堂の奥だったので
見逃しましたが、その中には智証大師像〔国宝〕2体と黄不動尊立像〔重文〕
が安置されています。

三井寺には、金色不動明王画像(黄不動尊)が伝えられ、国宝なのですが
秘仏として見ることはできません。(20世紀後半に6回ほど公開されたそうですが)
この黄不動、高野山明王院の「赤不動」、青蓮院の「青不動」と共に
日本三不動の1つに数えられています。




唐院を出て、南に進むと


「村雲橋」
この石造りの橋にも伝説があります。智証大師がこの橋を渡っているとき、
中国の青龍寺が焼けているのを感知、大師が閼伽井の水を撒くと橋の下から
村雲が湧き上がり、中国の方向へ飛んでいったという。
翌年には青竜寺から鎮火のお礼の使者が来たと言うことです。



村雲橋の側にはまだ満開の枝垂れ桜が咲いていました。
城壁のような石積の壁は「勧学院」の塀です。


「勧学院」
中には勧学院客殿〔国宝〕がありますが、残念ながら非公開でした。


この後、札所のある観音堂まで行きますが、とにかく広い・・・




観音堂はまた次回ってことで、タイトルの三井寺の新緑をフォトアルバムで。


例によって右下のアイコンをクリックでフルスクリーン表示になります。




2012.4/28、三井寺にて。