創建は平安時代前期、860年に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県)から
勧請されたもので、八幡市(やわたし)男山(鳩ヶ峰、標高143m)山上に
鎮座する。都の裏鬼門(南西)を守護する神社として、表鬼門(北東)の
延暦寺とともに重要視されてきました。
国家鎮護の神として歴代天皇が参詣するなど、伊勢神宮に次ぐ「天下第二の
宗廟」として信仰を集め、武家からは守護神として崇敬。源氏はもとより、
平氏、足利、織田、豊臣、徳川と天下人たちの手厚い保護を受けてきました。
一ノ鳥居(写真左)表参道の入口です。額には「八幡宮」の文字。
八の字をよく見ると八幡大神の神使である鳩が一対向かい合った絵文字に。
私はここから入ったことが無い。いつも山上の駐車場までクルマで登ります。
だから二ノ鳥居も見ずに、三ノ鳥居(写真右)を見ることに。
一度まともに表参道から参拝しないとね。表参道は結構急勾配のようですが・・・
もう1つのルートとして、ケーブルが京阪電車八幡市駅の近くから男山山上駅
まで通っています。これは経験済み。(^_^ゞ
石灯籠の参道の先に南総門が見えます。
表参道の坂(写真左)
三ノ鳥居をくぐったところに「一ツ石」というのが参道の真ん中に。
走馬・競馬のスタート位置だったことから「勝負石」とも呼ばれています。
駐車場のところには桜が1本だけ咲き始めていました。3/16日時点・・・
「手水舎」 歩いて来られたのでしょうね、山歩きの格好ですやん。
「南総門」 手前には樹齢700年以上のカヤの巨木が。
「本殿」 珍しい八幡造りという社殿建築様式です。
現在の社殿は1634年徳川三代将軍家光の造営によるもの。
檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は前後二棟からなり、その軒に接する所に
織田信長寄進の「黄金の樋」が架けられている。
本殿から弊殿、舞殿、楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊がある。
本殿をはじめ建物全てを丹漆塗で施し、随所に当時の名匠の彫刻が
刻まれており壮麗な社殿である。
左甚五郎の作と伝わる「目貫きの猿」もあるのですが、普段は見られない?
平成の大修造も一段落、本殿はピカピカ鮮やかになっていました。
さて、タイトルにした「三づくし」を、いってみよぉ~!('∇^d)
「伊勢神宮」「賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)または春日大社」とともに
日本三社のひとつです。
「宇佐神宮(大分)」「筥崎宮(福岡)または鶴岡八幡宮(鎌倉)」とともに
日本三大八幡宮のひとつ。
「門戸厄神東光寺(兵庫)」「天野明神(和歌山)」とともに
日本三大厄除の一社でもあります。
御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・比大神(ひめおおかみ)・
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、この三神を総称して
「八幡三所大神(八幡大神)」と言います。
9月15日に行われる「石清水祭」は、上賀茂神社・下鴨神社の「葵祭」、
春日大社の「春日祭」とともにとともに日本三大勅祭のひとつに数えられます。
勅祭とは、天皇の使者(勅使)が執り行う祭祀のことです。
そして、この男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流する地でもあります。
別に石清水八幡宮さんが「三」に拘っている訳じゃないでしょうが、
これだけ「三」が出てくるとやりたくなるよね「三づくし」。(^_^ゞ
本殿は築地塀に囲まれ、ぐるっと裏まで回れます。
「信長塀」 本殿の周囲に巡らせている塀は、織田信長寄進によるもの。
「西総門」と「北総門」。「東総門」は、撮るのを忘れたw
門や塀もそうですが、ここの建造物はほとんどのものが国指定重要文化財。
「水若宮社」(写真上)、「住吉社」と校倉(下)
他にも末社が並んでいました。10以上あったと思います。
校倉には所蔵量全国一を誇る石清水八幡宮の古文書類が収まっているのかな?
お宮参りの何かかな・・・
八幡御神矢(破魔矢)は厄除け?お正月には巨大破魔矢が南総門に飾られる。
末社・竈神殿(そうじんでん)、台所守護神。
かつて石清水八幡宮では源義家が元服し、平清盛が舞を舞い、織田信長・
豊臣秀吉が所領を寄進し、徳川家康・家光が社殿の修復をしたという・・・
そして、この八幡の地は古戦場としても名高い。
南北朝時代の八幡の戦い(後村上天皇・南朝 vs 足利義詮・北朝)
山崎の戦い(明智光秀 vs 羽柴秀吉)の決戦場、天王山は三川合流の地。
川を挟んで男山があります。
幕末、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍がここの境内に陣をしき、新政府軍を
迎え撃ちました。男山中腹で両軍が激突、戦いは熾烈を極めたといいます。
この戦渦により頓宮など多くの寺や摂社を焼失しています。
トップ写真をおみくじにしましたが、ここのおみくじはちょっと珍しい
「平」というのがあります。(他の神社でも出るところがあるようですが)
吉でも凶でも無いってこと?「未分(いまだわかれず)」というのも
あるようだし。勝手に平和、平穏の「平」ってことにしましょ♪(^_^ゞ
源平の時代から室町、戦国、そして幕末と、戦乱を見てきたからこそ
何事もない「平」な時が一番幸せだと言えるのかも知れませんしね。
ちなみにここの高札「謡曲弓八幡と石清水八幡宮」には
謡曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
八幡大菩薩は源氏の氏神、弓矢の守護神であるから弓と矢と幡の三つの兵具に
訳して弓矢幡と名づけたとある。
この祝言は弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめる
のである。作者世阿弥は平和論者である・・・
と言うようなことが書かれていました。
2014.3/16、石清水八幡宮にて。
勧請されたもので、八幡市(やわたし)男山(鳩ヶ峰、標高143m)山上に
鎮座する。都の裏鬼門(南西)を守護する神社として、表鬼門(北東)の
延暦寺とともに重要視されてきました。
国家鎮護の神として歴代天皇が参詣するなど、伊勢神宮に次ぐ「天下第二の
宗廟」として信仰を集め、武家からは守護神として崇敬。源氏はもとより、
平氏、足利、織田、豊臣、徳川と天下人たちの手厚い保護を受けてきました。
一ノ鳥居(写真左)表参道の入口です。額には「八幡宮」の文字。
八の字をよく見ると八幡大神の神使である鳩が一対向かい合った絵文字に。
私はここから入ったことが無い。いつも山上の駐車場までクルマで登ります。
だから二ノ鳥居も見ずに、三ノ鳥居(写真右)を見ることに。
一度まともに表参道から参拝しないとね。表参道は結構急勾配のようですが・・・
もう1つのルートとして、ケーブルが京阪電車八幡市駅の近くから男山山上駅
まで通っています。これは経験済み。(^_^ゞ
石灯籠の参道の先に南総門が見えます。
表参道の坂(写真左)
三ノ鳥居をくぐったところに「一ツ石」というのが参道の真ん中に。
走馬・競馬のスタート位置だったことから「勝負石」とも呼ばれています。
駐車場のところには桜が1本だけ咲き始めていました。3/16日時点・・・
「手水舎」 歩いて来られたのでしょうね、山歩きの格好ですやん。
「南総門」 手前には樹齢700年以上のカヤの巨木が。
「本殿」 珍しい八幡造りという社殿建築様式です。
現在の社殿は1634年徳川三代将軍家光の造営によるもの。
檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は前後二棟からなり、その軒に接する所に
織田信長寄進の「黄金の樋」が架けられている。
本殿から弊殿、舞殿、楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊がある。
本殿をはじめ建物全てを丹漆塗で施し、随所に当時の名匠の彫刻が
刻まれており壮麗な社殿である。
左甚五郎の作と伝わる「目貫きの猿」もあるのですが、普段は見られない?
平成の大修造も一段落、本殿はピカピカ鮮やかになっていました。
さて、タイトルにした「三づくし」を、いってみよぉ~!('∇^d)
「伊勢神宮」「賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)または春日大社」とともに
日本三社のひとつです。
「宇佐神宮(大分)」「筥崎宮(福岡)または鶴岡八幡宮(鎌倉)」とともに
日本三大八幡宮のひとつ。
「門戸厄神東光寺(兵庫)」「天野明神(和歌山)」とともに
日本三大厄除の一社でもあります。
御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)・比大神(ひめおおかみ)・
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、この三神を総称して
「八幡三所大神(八幡大神)」と言います。
9月15日に行われる「石清水祭」は、上賀茂神社・下鴨神社の「葵祭」、
春日大社の「春日祭」とともにとともに日本三大勅祭のひとつに数えられます。
勅祭とは、天皇の使者(勅使)が執り行う祭祀のことです。
そして、この男山は、木津川・宇治川・桂川の三川が合流する地でもあります。
別に石清水八幡宮さんが「三」に拘っている訳じゃないでしょうが、
これだけ「三」が出てくるとやりたくなるよね「三づくし」。(^_^ゞ
本殿は築地塀に囲まれ、ぐるっと裏まで回れます。
「信長塀」 本殿の周囲に巡らせている塀は、織田信長寄進によるもの。
「西総門」と「北総門」。「東総門」は、撮るのを忘れたw
門や塀もそうですが、ここの建造物はほとんどのものが国指定重要文化財。
「水若宮社」(写真上)、「住吉社」と校倉(下)
他にも末社が並んでいました。10以上あったと思います。
校倉には所蔵量全国一を誇る石清水八幡宮の古文書類が収まっているのかな?
お宮参りの何かかな・・・
八幡御神矢(破魔矢)は厄除け?お正月には巨大破魔矢が南総門に飾られる。
末社・竈神殿(そうじんでん)、台所守護神。
かつて石清水八幡宮では源義家が元服し、平清盛が舞を舞い、織田信長・
豊臣秀吉が所領を寄進し、徳川家康・家光が社殿の修復をしたという・・・
そして、この八幡の地は古戦場としても名高い。
南北朝時代の八幡の戦い(後村上天皇・南朝 vs 足利義詮・北朝)
山崎の戦い(明智光秀 vs 羽柴秀吉)の決戦場、天王山は三川合流の地。
川を挟んで男山があります。
幕末、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍がここの境内に陣をしき、新政府軍を
迎え撃ちました。男山中腹で両軍が激突、戦いは熾烈を極めたといいます。
この戦渦により頓宮など多くの寺や摂社を焼失しています。
トップ写真をおみくじにしましたが、ここのおみくじはちょっと珍しい
「平」というのがあります。(他の神社でも出るところがあるようですが)
吉でも凶でも無いってこと?「未分(いまだわかれず)」というのも
あるようだし。勝手に平和、平穏の「平」ってことにしましょ♪(^_^ゞ
源平の時代から室町、戦国、そして幕末と、戦乱を見てきたからこそ
何事もない「平」な時が一番幸せだと言えるのかも知れませんしね。
ちなみにここの高札「謡曲弓八幡と石清水八幡宮」には
謡曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
八幡大菩薩は源氏の氏神、弓矢の守護神であるから弓と矢と幡の三つの兵具に
訳して弓矢幡と名づけたとある。
この祝言は弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめる
のである。作者世阿弥は平和論者である・・・
と言うようなことが書かれていました。
2014.3/16、石清水八幡宮にて。