☆シェラのパピィ写真がない
いま、「欲しいな」と思うのは、シェラが子供のころの写真である。
ルイを見ていると、幼犬のころのシェラに重なる。忘れていたシェラの姿がよみがえる。あの当時のシェラに写真でいいからもう一度逢いたい。いまのシェラからは想像もできないような、ちっちゃな目、それも極端に垂れ目で、お世辞にも美形とは言い難い……あきらかに不細工な顔で、クマの子のような真黒な毛のコロコロしたブサ可愛いかったころのシェラに……。
当時、カメラを持っていなかったわけではないが、まだ、デジタルカメラの時代ではなく、普通のフィルムカメラだった。あまり熱心に写真を撮っていなかったし、写しても面倒がってなかなかDPEに出していなかったりする。
もし、いまのようなデジタルカメラがあったなら、三匹のネコたちとの笑い転げるような楽しい日々の思い出のいくつかを記録することができただろう。
ぼくがデジタルカメラをはじめて手に入れて、そろそろ10年になるだろうか。デジタルカメラを持ったからといって熱心にシェラやむぎの写真を撮ってきたわけではない。いまにして思えば、もっとたくさんの写真を撮っておけばよかったと思う。
近年になって、ようやく数だけは揃い、シェラとむぎの写真だけでも数千枚はあるだろうが、それでもまったく足りない。この二倍、三倍あってもじゅうぶんではない。
☆もっとシェラの写真を撮っておこう
だれのための写真かというと、まったくぼく自身のための写真である。
すでにむぎはいなくなってしまった。シェラに残された時間はわずかである。ぼくの時間もさして長くはないが、たぶん、シェラよりも長いだろう。
むぎやシェラのいないぼくだけの時間を慰めてくれるのは彼らとの思い出である。それを補強してくれるのが彼らの写真だ。
これからはルイが加わるが、はたしてルイがぼくより先に逝くとは限らない。さしあたって必要なのはシェラとむぎの写真である。すでに、むぎの写真を新たに加えるのは不可能となってしまった。せめて、まさにいまの、シェラの晩年の写真だけはたくさん欲しい。
ぼくにとってのシェラの顔は、遠い過去のものではなく、老犬になって穏やかさに包まれた顔だからである。手元にいつもカメラを置き、ことあるごとにシェラの表情を撮りためておきたいと思う。
ぼくの死後、わんこたちの写真のデータなど消えてしまっても一向にかまわない。わんこたちの写真ばかりじゃなく、数は少ないが、ぼく自身の写真だってなくなったほうがいい。
写真なんてしょせんは幻影、必要なときだけ再現できればそれで事足りる。だから、デジタルの時代になって、消えやすいデータ写真は理想的だとぼくは思っている。
ぼくにせよ、わんこたちにせよ、かつてこの世に在(あ)ったという痕跡を残す必要などなにもない。この世の現象など、すべてはデジタルデータにも似たはかない幻影でしかないとぼくには思えてならない。
喜びも悲しみも過ぎてしまえばどこにも見当たらないのだから。
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