愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

むぎ、シェラより先に旅立ててよかったね

2012-02-19 10:34:42 | 残されて

クルマのなかでのむぎはたいていこんなふうに張りついていた

☆わんこたちの心の深さをあらためて知る
 ルイの食欲が復活しつつある。まだ完全ではなく、そのときどきによってムラがあるのはしかたなかろう。シェラを失くして受けた心の傷がそう簡単に癒されてしまうとも思えない。やっぱり、それなりの時間が必要だろうから。

 言葉が通じない分、そして、ぼくたち人間がわんこよりも鈍感な分、彼らのそのときそのときの心模様を、彼らがぼくら人間の心の動きを素早く理解するようにはわかってやれない。そんな人間の鈍感さは、なまじ言葉というコミュニケーション・ツールを得たがゆえの、人間たちの退化のあらわれとも思える。
 老犬と幼犬の深淵なまでの心の交流を目の当たりにして、ぼくはそれを確信した。彼らの心の深さは人間の想像を絶するものがある。

 わが家のむぎが去年の3月にシェラよりも先に不帰の旅に発ったのは、いまにして思えば、むぎのためにはむしろよかったのだと思う。
 シェラに依存して12年間を生きてきたむぎが、この1年近くのシェラの衰えに絶望していたのではないかとぼくたちは思っていたが、これは正しかったと思えるようになった。わずか3、4か月しかシェラとともに過ごしてこなかったルイにして、シェラの死を前にしたとき、大好きなご飯が食べたくなくなるほどのショックだったのだから。

 ルイの食欲減退は愛は、シェラの死で、ぼくたちの心がルイから離れたからでは断じてない。あれは、ルイ自身がシェラの死を悟り、それが何を意味するのかを感じたあげくの心の慟哭である。ぼくたち以上に寂しさに打ちひしがれていたのだ。


隙さえあれば、むぎはシェラに寄り添っている(キャンプでの昼下がりで)

☆時間で解決できない哀しみだってあるだろう
 もし、これがむぎだったら……?
 シェラが先立ち、むぎが遺されたときのことを想像すると、背筋が凍りつく。ルイの哀しみの比ではないはずだ。むぎは絶望に心をズタズタに引き裂かれ、確実にシェラのあとを追ったろう。まさしく、「絶望死」である。
 ぼくたちのほうも悶死するむぎをどうにもできずにただオロオロして見守るしかなかっただろう。そして、去年の3月以降よりもさらに深い哀しみにくれて過ごすことになっていたはずだ。

 ようやくルイがエサを食べるようになったとはいえ、心の傷が完全に癒えてはいない。これまでのルイの回復は、時間が傷を癒してくれたのだろうし、ぼくたちの愛情もまた少しはルイに通じてくれたからだと信じたい。

 昨日の朝の散歩は家人もいっしょだった。彼女が朝の散歩につきあった記憶がぼくにはない。17年前、シェラを迎えて以来、朝はいつもぼくだけで散歩に出かけてきた。4年後にむぎが加わってからも同じだった。
 それが昨日にかぎって、「いっしょにいこうかな」といいだした。天気がよかったのも理由のひとつだろうし、シェラを喪って、どこかで自分なりに気持ちをきりかえる動きをすべきだという衝動でもあったろう。

 歩きはじめてしばらくは、家人もいるというのでルイが喜んでしつこく彼女に跳びついてなかなか前に進めなかった。空は晴れ上がって快適だったが、風は極寒の冷たさである。それでも起きぬけの散歩は気持ちいい。
 ぼくたちは、いまの地に引っ越してきた10年ばかり前、まだ若かったシェラとむぎを連れてときたま出かけていた川沿いの公園を目指した。彼女は知らないが、ぼくとシェラやむぎはこの公園でオスのキジに出逢っている。『桃太郎』の絵本に描かれたような、それは美しい姿のキジだった。


やっぱりむぎはシェラより先に逝ってよかった(むぎが旅立ちのひと月前)

 この辺りの道は、ぼくのみならず家人もまたシェラとむぎを連れて夕方の散歩に使っていた。いく先々にシェラとむぎの記憶がしみついている。ふたりのことを思い出し、胸に痛みを感じるのはいま少し覚悟しなくてはならない。それもまた、やがて時間が解決してくれるだろう。

 もし、むぎがシェラに遺されてしまったら、時間が解決するより先に絶望がむぎの命の灯火を吹き消していただろう。いや、むぎの嘆きは時間でなんとかなるようななまやさしいものではなかったはずだ。

 むぎ、きみはやっぱりシェラより先に逝けてよかったんだね。


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