☆撫でてくれと呼びにくる
シェラがやっぱりおかしい。
昨夜は明け方まで何度も起こされた。ぼくのベッドの横へきて悲しげに吠えるのだ。そして、鼻でぼくの腕をすくい上げ、撫でろとばかりしつこく催促する。いっとき、首まわりを撫でてやると満足してその場に寝転び、静かになる。
「トイレにいきたいんじゃないの?」と家人はいうが、そうじゃないのがぼくにはわかる。催促の方法がまったく違うからだ。
こんなとき、トイレかと思って外へ連れていけば、むろん、ついてくる。だが、それは外へいこうというぼくのコマンドに従うだけのこと。昨夜のような、寝ているぼくに起きて欲しいのには別の理由があるはずだ。
病気や怪我をしたとき同様、口がきけたらいいのにとしみじみ思う。家人にではなくぼくに訴えたい何かがあるから何度も起こしにくるはずだ。もしかしたら、どこかが痛いのかもしれない。身体のそんな不調をわかって欲しくてきているではなかろうか。口がきけたらいいのにとしみじみ思う。
むぎだって、苦しさをぼくたちに伝える術(すべ)さえあったら……と、臍(ほぞ)を噛む思いでいる。
☆今夜も迎えに出てくれた
結局、シェラの心の内……ぼくに何を訴えたかったのかをわかってやることができないまま朝を迎えていた。
シェラの気持ちや今朝の行動に結びつくかどうかはわからないが、昨日、ぼくが会社から帰ってきたとき、シェラは玄関のすぐ近くに寝そべっていた。シェラが迎えに出ているなどというのは記憶にないくらい珍しい。それはずっとむぎの役目だった。
「そうか、シェラ、迎えに出ていてくれたのか」
ぼくはうれしくなってそういいながら着替えなどあとまわしにしてリビングルームでシェラを撫でてやった。
「きょうはたまたまいつもむぎがいたところで寝てただけでしょう」
家人はシェラの内なる寂しさを認めたくないのである。シェラの感受性を否定しているのではなく、シェラが寂しさのあまり死に急ぐような結果を恐れているのだ。自分が味わっている寂しさをシェラもまた感じていてほしくないのだろう。
むぎの死以来、シェラの顔つきがすっかり変わり、それも精悍になったと喜んでいる矢先だった。だけど、ぼくはやっぱりシェラの内なる喪失感の存在を感じざるを得ない。
ぼくがいましがたの午後10時近くに帰ってきたきょうだって、シェラは玄関の前にいた。きのうもきょうも目の前に立つまで、ぼくが帰ってきたことに気づかない。
もう、音で何かを知る手立てを失くしてしまっているのである。聴力は、おそらくは正常だった当時の10パーセントにも満たないはずだ。ゼロではないが、ほとんど聞こえていない。
☆ともに支えあっていこうな
そんな衰えへの不安からぼくを起こしにきたのか、それともやっぱりむぎがいない寂しさなのか、たとえイヌといえども、その行動には必ずやしかるべき理由があるはずだ。しかし、その答えを得ることはできない。
もう、理由なんてどうでもいい。
ともに老いを迎えた同士、傷を舐めあい、励ましあいながら、しばしの余生を生き抜いていきたいだけである。
こうして一緒にいられる時間は、もうたいして残っていないのだから。
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