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そんな暗く悲しげな目なんてシェラらしくないのに(24日)
☆もう立ち上がるのさえ大儀なのか
今日はぼくの母の納骨の日だった。午後2時に多磨霊園なので急ぐ必要はないが、シェラのコンディションが気になって、8時半に起きた。すぐに着替え、自分のベッドで寝ているシェラに朝の散歩に出かけようと催促しても起き上がってこない。身体を持ち上げようとしても動かないのである
「もう歩けなくなっちゃったのか」と声をかけると、昨夜から泊まってシェラの近くで寝ていたせがれが、「いや、さっき水飲みに歩いていったよ」と教えてくれた。そうか、身体がだるいだけなのか。昨夜、遅くトイレ散歩に出ているのから排泄が切羽詰まってはいないのかもしれない。
なかば強引にハーネスをつけ身体を起き上がらせるとようやく、ゆっくりとだが玄関に向かった。それでも歩みは遅い。立ち止まり、じっとしている。ぼくを見上げる目が悲しげである。この数日前から目の力がなくなった。ぼくや家人に向けるときの目がいかにも悲しそうだ。
「そんな目をしないでくれ。シェラらしくないよ」
ぼくと家人は異口同音にシェラにいってきた。
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カート内で気分がすぐれないまま(25日)
ほんとうは気分が悪いだけなのだろうが、まるで自分の命の限界を悟り、別れの悲しみを感じているかのように思えてならない。この子なら、そんな感情があっても不思議ではないといえば、他人様にはただの親バカ、犬バカにしか映らないだろうが、こればかりは当事者同士にしかわからない不思議な情感である。その目の中に「さよなら」を感じてしまうからだ。
☆朝晩二度の嘔吐に気持ちが沈む
散歩の途中でシェラが吐いた。黄色い胃液の中にいつ食べたのか草の葉が混じっていた。シェラはわりと吐く子である。草の葉と胃液を吐いたからといって、いまさら珍しくもないのだが、こんなときだけに心が凍る思いだ。吐いた直後の気分の悪さがかわいそうでならない。
それでも家に戻ってからの朝ご飯はちゃんと食べてくれた。それだけでも安堵感にこちらの気持ちが軽くなる。
そして夕方の散歩はシェラをクレートではなく、カートに乗せて外へ出た。しばらく歩かせたあと、カートに乗せてスーパーまで出かけた。気分転換になってくれればと思う。カートの前をいくルイは歩けるのがうれしくて大騒ぎである。家人がカートを押し、ぼくがルイを受け持った。
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シャッターを押す瞬間、ルイが跳びかかっていた(25日)
家人が買物をすませる間、ルイを見張りながらスーパーの外で一緒に待った。ちょっと油断をするとルイがシェラに跳びつく。シェラはカートの中でずっと座ったままだった。ここでもずっと悲しげな目である。だが、そうとは知らない人々には命の火が燃え尽きようとしている犬には見えないだろう。
帰りがけ、マンションの前でカートから降ろすとすぐにウンコをしてくれた。もう一度、21.5キログラムの身体を抱き上げてカートに乗せ、家の玄関の前までくるとカートの中に吐き、出かける前に食べたおやつが出てきた。そろそろ胃腸が弱りはじめているのだろうか。
ぼくと家人は顔を見合わせ、頷きあってさらに弱ってきたシェラの様子を無言のうちに確認した。
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少しは気分転換になってくれたらよかったのだが(25日)
☆せめて17歳の誕生日を迎えようよ
まだ少し大丈夫かもしれないと思わせてくれるのが、食欲を完全には失っていないことである。ぼくたちの食事に寄ってきて何か欲しいと見上げている。肉ならば、「もっと欲しい。もっとちょうだい」とキリがない。こんなときの顔からはあの暗い表情の目は消えて、キラキラとした目になる。
だが、今日の点滴は苦労した。250ミリリットルを入れるおよそ30分ががとてつもなく長い時間に感じられた。途中でシェラが嫌がって逃げようとするからである。シェラも疲れたろうが、こちらもヘトヘトである。
それでも30分、家人とふたりで抱き締め、身体を、あるいは頭を、耳を、胸を、喉を撫でてやりながらやさしく語りかけるこの時間は、いまや至福のときである。これもまたひとつ、まもなく訪れるであろうシェラとの別れのセレモニーとなっている。
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家での点滴はかなり大変だがシェラのためならば(25日)
明日は病院へいく日である。きっと血液検査をやってもらえるだろう。好転するはずはないが、余命の時間がある程度わかるだろう。知りたくなどないが、心の準備にはやっぱり知っておいたほうがいい。
シェラの暗く悲しげな目を見るたび、せめて一緒に新しい年を迎えたいと思う。シェラと出逢ったのが95年の4月、捨てられていた子だから誕生日はわからなかったが、生後3か月くらいということで、1995年1月1日が誕生日と決めた。だから、17歳になる元旦を一緒に迎えたいのである。