この墓は西陵古墳といわれています。
そしてもう一つの名称が
「西のニサンザイ古墳」といわれています。
今からちょうど5年前に
堺市の古墳群を歩きました。
その時に「ニサンザイ古墳」を
歩いたこともあり、
その時のこの名前の古墳が
淡輪にあると知りました。
そこはどんな古墳なのかなあ、
と抱いた疑問がちょうど5年ぶりに
問題解決となりますね。
ではなぜ「ニサンザイ」なのかというと、
両古墳とも同じ理由で、
「ミササギ(陵)」が転訛し、
「ミサンザイ」から「ニサンザイ」に
変化していったということなんだそうです。
変わった転訛をするんですねえ。
まるで「doiron」が「ホイコーロー」に
転訛しているみたいですなあ。
ここは全長210mの前方後円墳です。
堀もあってかなり大型ですねえ。
では、この古墳はどこから
見ていくのがいいのでしょうか。
府道から海の方に左折して
歩いていきますと、
あああの堀の近くのところに
看板が立っているようです。
あぜ道を通って近づいていきましょう。
そこにはこの西陵古墳の
案内板が立っていました。
ふむふむ、ここは新羅を責めた
紀小弓が現地で病没し、
持ち帰られてここに埋められた
墓というのが説だそうです。
もう少し中までいけますねと
歩いていきますと、
あ、こんな門があり解放されていますよ。
これは是非とも入っていかねば
ならないでしょう。
でもねえ、お墓やからねえ。
一人で入っていくのは
ちょっと勇気を奮い立たせないといけませんね。
こんな山道を容器にあるいて行きますと
ここがどうも前方部の山頂ですかねえ。
何となく広くなっているのが
雰囲気を出していますねえ。
でも道標も洞も何もなかったのは残念です。
手を合わせてお参りだけして
出ていきました。
でもまあこういう墓はなんか
神秘的でいい感じですねえ。
ひとがあまり入らないだろうし、
深い緑も神秘的な感じに残されています。
田んぼの中のノビルの花を
見ながら元の道の方へと
出ていきましょう。
田園地帯の中を通る田舎道もいいですねえ。
やがて南海電車を踏切で超えて、
淡輪の村中の方へと入っていきます。
で、この淡輪なんですが
泉州以南の人なら読めますよねえ。
「たんのわ」と読むのですが、
ではこの名前の由来は何でしょうか。
それが先ほどの西陵古墳の
案内板の中にあったのです。
あの紀小弓が埋められた墓
というのが日本書紀の中で
「田身輪邑(たむのわのむら)」とあります。
鎌倉時代の武士の名前が
「淡輪」の語源になっているようです。
そしてこの方向に行かれた時は、
是非府道の橋の名前に
注目しておいてください。
「田身輪橋」という名前の橋が
架かっていますからね。
その淡輪の村の中に入っていって
まず目につくのが「船守神社」です。
ここは、先ほどから登場していた
紀氏(きのし)の一弓の子孫である
紀船守氏を祭神とする神社だ。
境内には大阪府の巨木の一つである
クスノキがある。
幹は6.24mで樹齢は800年という。
神社を色々と眺めていると
一人の男性が近づいてきて、
いろいろと話をしてくれた。
どうも今の氏子代表なんだそうだ。
「わしが氏子代表をしているときに、
このクスノキが倒れたりしないか
心配やねん」という。
そして神社の横にある小屋について、
「これはだんじりですか?」
ときくとやぐらなんだそうだ。
そんな風に神社周りのことを
色々聞くことができたのは、
タイミングがよかったのかもしれないね。
とても風情のある神社でした。
このあと近くの西教寺なんかを回りながら、
淡輪駅前の村中を
くねくねと歩いていきます。
そしてそのあとたどりついたのが、
先日電車でジダンに
いろいろと聞いていた
宇度墓古墳でした。
続く