Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「初期伊万里の小皿」と「くらわんか手の小皿」

2020年05月09日 14時58分00秒 | 古伊万里

 ここのところ、コロナ騒ぎで、図書館も休館中で本も借りられず、従って本を読むことも出来ませんので手持無沙汰です。

 そこで、少々、古伊万里の紹介作業に精をだしています(^^;

 今回は、「初期伊万里の小皿(伊万里 染付網目文(?)小皿)」と「くらわんか手の小皿(伊万里 染付くらわんか手小皿)」の紹介をしたいと思います。

 

 先ずは、「初期伊万里の小皿(伊万里 染付網目文(?)小皿)」の紹介です。

 ところで、この小皿の表面に描かれた文様が簡略化され過ぎていていて、何が描かれているのか分かりません。それで、この小皿の表示をどうしようかと迷ったところですが、網目を簡略化したのかな~と思い、「網目文(?)」としてみました(-_-;)

 

伊万里 染付網目文(?)小皿 (表面)

製作年代:江戸時代前期

口径:12.5cm  高さ:3.4cm  高台径:4.0cm

 

 

伊万里 染付網目文(?)小皿 (裏面)

 

 

 続いては、「くらわんか手の小皿(伊万里 染付くらわんか手小皿)」の紹介です。

 ところが、これまた、表面に描かれた文様が、花なのか蝶なのか分かりません(><)

 それで、普通ならば、その表示を、「伊万里 染付くらわんか手〇〇文小皿」とすべきところですが、止むを得ず、「〇〇文」の部分を除き、「伊万里 染付くらわんか手小皿」としました。

 両方の小皿とも、文様が簡略化され過ぎていて、紹介者泣かせです(-_-;)

 

伊万里 染付くらわんか手小皿 (表面)

製作年代:江戸時代中期

口径:12.8cm  高さ:3.6cm 高台径:7.5cm

 

 

伊万里 染付くらわんか手小皿 (裏面)

高台内にも、何やら「銘」が書いてありますが、

例によって、何と書かれているのか分かりません(-_-;)

 

 

 この小皿には、前の「伊万里 染付網目文(?)小皿」とは違い、側面にも何やら文様が描かれていますが、これまた簡略化され過ぎていて、何が描かれているのか判然とはしないところではありますけれど、たぶん、これは、「唐草繋ぎ文」であろうと思います。

伊万里 染付くらわんか手小皿 (側面)

 

 

 なお、この「伊万里 染付くらわんか手小皿」につきましては、以前、今では既に止めてしまっている拙ホームぺーの「古伊万里への誘い」にも紹介しているところですので、ここで、再度、次に、その紹介文を引用したいと思います。

 

 



<古伊万里への誘い>

 

 <その1>

「古伊万里バカ日誌150 古伊万里との対話(くらわんか手の小皿)」・・・(平成28年11月1日登載)

登場人物
  主    人 (田舎の平凡なご隠居さん)
  くらわんか (伊万里染付くらわんか手小皿)

  

・・・・・プロローグ・・・・・

 主人は、先日、骨董市で「くらわんか手の小皿」を買ってきたところである。
 しかし、主人は、「くらわんか手」については、江戸時代に、波佐見で大量に生産された粗製の安価な食器だったということくらいしか知らず、詳しいことは分からないようである。
 そこで、先日買ってきた「くらわんか手の小皿」と四方山話をしながら、「波佐見焼」について調べてみようと思い立ったようである。

 


 

主人: 骨董の世界、古伊万里の世界では、よく仲間内では、「くらわんか」とか「くらわんか手」とかいうことが盛んに言われるんだが、それは、波佐見で生産された下手な粗製の安価な食器だったと言われるくらいで、詳しいことはよくわからないんだよね。

くらわんか: 長いこと古伊万里を勉強していてもわからないんですか。

主人: これまで、古伊万里といえば生産地の「有田」を中心として語られているし、「本」も「有田」を中心として書かれているんだよ。「有田」以外の生産地のことにはほとんど触れていないからね。
 それで、今日は、「波佐見」を生産地とする波佐見焼について調べてみようと思うんだ。 

くらわんか: どのようにして調べるんですか?

主人: 「本」を捜しても波佐見焼のことを書いているものはないようだから、もっとも、私の勉強不足のためにその存在を知らないのかもしれないが、他の別な方法によるしかないね。
 ここは、やはり、最新の情報を得るにはインターネットだろうね。

 

 (インターネットで調査)

 

 いろいろ調べてみたが、これが一番詳しいかな。

くらわんか: どのようなものですか。

主人: 長崎県窯業技術センターという所が作っている「長崎県窯業技術センター」というホームページがあるんだが、そこの「やきもの基礎知識」というサイトに、「波佐見焼振興会・三川内陶磁器工業協同組合」という所が発行した「やきものプロ養成講座(2007)」というものが載せてあるんだ。なかなか詳しいよ。

くらわんか: どんなことが書いてあるんですか。

主人: まず、「波佐見町の位置と概要」というのが書いてある。
 要約すると次のようになるかな。 

 

         「波佐見町の位置と概要」

波佐見町は、長崎県の中央北部に位置し、長崎県佐世保市・川棚町、佐賀県有田町・武雄市・嬉野市に隣接する県境の町で、山あいの盆地となっており、その山々から発する小河川が多く存在し、また、町の南東部の丘陵一帯からは磁器の原料となる陶石を産出するので、やきもの生産に欠かせない燃料(木々)、水(小河川)、土(陶石)という三つの条件が揃った、窯業には非常に適した環境を持つ町といえます。

 

 もっとも、この地域一帯は、波佐見町に限らず、窯業には極めて適していたようで、有田、波佐見、佐世保の三川内はそれぞれほぼ隣接し、窯業が盛んだったものね。ただ、江戸時代には、有田は鍋島藩に属し、波佐見は大村藩、佐世保の三川内は平戸藩に属していたので、現在のように自由な行き来はなかっただろうから、それぞれある程度の独自性を保ちながら発展していったんだろうね。

くらわんか: そうですか。次にはどんなことが書かれているんですか。

主人: 次には、「波佐見焼について」という表題で書かれている。次に、その全文を紹介しよう。 

 

          「波佐見焼について」

 波佐見の窯業は、江戸時代初期、今から約400年前に始まり、以降、一度も途絶えることなく続けられてきました。現在、波佐見町の人口は15,679人、世帯数は4,641世帯を数えますが(2004年3月末)、町の就業人口約8,500人のうち窯業関係者は約4割を占め、110社程の窯元が、日々多くのやきものを生産しています。とくに、和食器の出荷数は国内全体の13%にも及び、長崎県下では最大、全国でも第3位の実績を誇っています。
 波佐見町は、400年という長い歴史に培われた窯業の伝統を保持しつつ、現在もなお「やきものの町」として生き続けているのです。
 ところが、波佐見で生産されたやきもの、「波佐見焼」は、残念ながら、全国的に知れ渡っているとは言えません。それは、江戸時代には当時の積出港の名を取り「伊万里焼」と、そして、明治時代以降は、積出駅の有田の名を取り「有田焼」と称されてきたためです。「伊万里焼・有田焼」の中には、実は多くの「波佐見焼」が含まれているのです。

 

 このように、「古伊万里」を生産地毎に分類すると、「古伊万里」の中には多くの波佐見焼が含まれるわけだ。ただ、普通、特に研究者は、肥前地域一帯で焼かれた磁器を総称して「古伊万里」と言っているので、「古伊万里」を生産地別というか窯別に分類する意義は少ないようだね。

くらわんか: 次はどのようなことが書かれていますか。

主人: 次には「波佐見焼のあけぼの」というのが紹介されているが、そこは飛ばして、その次の「磁器の誕生」というのを紹介しよう。

 

            「磁器の誕生」

 豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役(1592~1598)の後、参加した九州各地の大名達は多くの朝鮮李朝の陶工を日本へ連れ帰りました。その陶工達によって、様々な新しい窯業技術が肥前へもたらされます。中でも磁器生産の技術は、肥前窯業界を大きく前進させることになりました。以前まで輸入にたよる他なかった磁器は、李朝陶工の力添えによって、初めて国内で、肥前で、生産できるようになったのです。
 当時、波佐見の地は大村氏が領有していましたが、領主である大村喜明(よしあき)公も、多くの李朝陶工を連れ帰りました。その一人である李祐慶(りゆうけい)によって、慶長4年(1599)に築かれたと言い伝えられている窯が、波佐見にはあります。それが、村木地区に所在する畑ノ原窯跡です。
 畑ノ原窯跡は、昭和56年(1981)に発掘調査が行われ、窯の部屋数約24室、全長約55.4mを測り、当時としては巨大な規模を持つ窯であったことが判明しています。出土した製品は、陶器(溝縁皿(みぞぶちざら))を主体とするものの、僅かですが磁器も含まれ、陶器と磁器と同時に焼成していたことがわかりました。畑ノ原窯跡は、波佐見における磁器の誕生、さらには、国内磁器生産開始期の様相を知る上で、非常に重要な窯であると言えます。
 畑ノ原窯跡出土品の様々な特徴から、李朝の陶工が深く係わっていたことは推測されますが、「李祐慶」という名前の人物が実在したかどうかはわかっていません。また、操業年代は、これまでの多くの研究成果に基づくと、1610~1630年代頃と考えられ、言い伝えどおり、慶長4年(1599)に開窯を求めることは難しくなってきました。
 しかし、畑ノ原窯跡は、そのすぐ側にある古皿屋窯跡・山似田窯跡と同じく、波佐見の地で最初に磁器焼成に成功した窯であることは間違いありません。波佐見では、以降、磁器生産を推し進めていきますが、その礎を築いたという点で、最も記念すべき窯と言えるでしょう。

 

 波佐見における「磁器の誕生」は以上のような状況だったようだね。
 これまで、「磁器の誕生」については、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に鍋島軍によって連れて来られた李参平を頭とする陶工集団によって有田で始められたという話は有名だが、波佐見においても同様な話があったんだね。これまでの古伊万里に関する本には、波佐見におけるその辺のことが書かれていなかったから、私は分からなかったよ。

くらわんか: なるほど、磁器の誕生については、波佐見においても、有田においても、同じ様なスタートをきったことが分かりましたが、その後、両者はどのような経過をたどるんでしょうか。 

主人: それについては、この「やきものプロ養成講座(2007)には次のように書かれているね。

 

           「青磁の時代」

 寛永14年(1637)、佐賀藩の有田・伊万里では、藩による窯場統合によって、陶器生産を主体とした窯が廃止され、以降は磁器の生産が主流となります。大村藩の所領であった波佐見もほぼ同様の動きをみせます。
 1630~1650年代、有田の窯では、染付を多く生産し、また、色絵も焼き始めていますが、波佐見の場合、青磁を中心に生産しました。
 当年代を代表する窯として、三股(みつのまた)地区に所在する二基の窯、三股古窯跡、三股青磁窯跡があげられます。三股地区は、磁器の原料である陶石を豊富に埋蔵している地区で、畑ノ原窯跡などの陶工達が磁器の本格的な生産を始める為に、この地へ移動したと考えられています。磁器を作るためには、やはり、その原料が近くにあった方便利でしょう。
 平成9年(1997)、三股青磁窯跡の発掘調査が行われ、大量の青磁が出土しています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・技術的に、肥前でトップレベルの青磁であったことは間違いありません。また、この窯で生産されたと考えられる青磁は、滋賀県彦根城家老屋敷跡、東京都汐留遺跡龍野藩脇坂家屋敷跡、新潟県高田城跡、宮城県仙台城跡など、主に富裕な人々の住居跡から出土しており、当時、かなりの高級品であったと思われます。
 磁器生産が始まりたかだか二十数年の後、今から約350年も昔に、波佐見では非常に優れた青磁を生産していたのでした。

 

くらわんか: なるほど。その時点では、有田の窯では染付を中心に生産し、色絵も焼き始めましたが、波佐見では青磁を中心に生産したんですね。それも、高級な青磁を。そうしますと、「古伊万里」のうちでも古い手の上手の青磁は、有田で作られたものよりは波佐見で作られたものの方が多いということになりますね。 

主人: そういうことだね。
 ところで、そうこうしているうちに、有田も波佐見も未曽有の海外輸出の時代を迎えることになるんだよね。その辺の事情については、「やきものプロ養成講座(2007)」は次のように書いているよ。

 

           「海外輸出の時代」

 17世紀の中頃、中国では明朝から清朝へと政権が交代しますが、清朝の支配に反対する人々が各地で内乱を起こします。その結果、多くの窯が壊され、また、他国との貿易を禁止してしまい、やきものの輸出は完全に途絶えてしまいました。それまで、中国のやきものを世界中に運んでいたオランダ東インド会社などの貿易商人達は、その代わりに、力をつけつつあった肥前のやきものに目をつけます。このようにして、肥前のやきものの海外輸出が始まりました。17世紀後半の肥前窯業界は、輸出品の増大によって、これまでにない活気をみせることになります。
 波佐見でも、海外からの注文が殺到し生産が追いつかなくなったのでしょう、寛文年間(1661~1673)を中心に、次々と新たな窯が開かれていきます。また、寛文6年(1666)、大村藩は三股(現永尾地区)に皿山役所を設け、やきもの生産の直接的な管理を行うことになります。
 波佐見で焼かれた海外輸出品には、青磁の大皿と染付の大碗・鉢があります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これらの製品は、長崎出島を通じ、インドネシアなど、主に東南アジア諸国へ大量に運ばれて行ったと考えられています。
 波佐見焼が荒波を越えて海外へ運ばれていた時代、海外輸出時代は、17世紀中頃から末頃まで、約40年間続きます。この時代、輸出景気の追い風にのり、大村藩の支援を受けることによって、波佐見は磁器の大生産地へと発展を遂げました。

 

くらわんか: このような、海外輸出で活気を呈した状況は、古伊万里に関する本にも載っていますが、それは、ほとんど有田の状況が述べられているにすぎませんよね。波佐見も同じような状況にあったんですね。

主人: そうなんだね。でも、何時の時代でもそうだけれど、景気の良い話はいつまでもは続かなかったようだね。
 その次に波佐見に到来したのが、お前が作られた「くらわんか」の時代なんだね。「やきものプロ養成講座(2007)」では、「「くらわんか」の時代」という表題で、次のように書いているよ。

 

         「「くらわんか」の時代」

 17世紀の末頃に中国の内乱がおさまると、中国のやきものは再び世界中へ輸出されることになります。質・量ともに肥前のやきものを上回る中国のやきものは、海外の市場を急速に奪い返していきました。その結果、肥前窯業界は、輸出品から国内向けのやきもの生産へと方向転換していきます。それは、赤穂浪士の討ち入りがあった元禄年間(1688~1703)のことです。波佐見の窯も海外輸出品の生産をやめ、国内向けの磁器、とくに安い日用食器を生産するようになりました。 

 

 ところで、この安い日用食器のことは「くらわんか手」と呼ばれているんだが、その「くらわんか手」の由来については、よく古伊万里に関する本にも書いてあるし、このホームページの「古伊万里バカ日誌65 古伊万里との対話(くらわんか皿)」にも書いているくらいなので、有名な話なんだけれど、この「やきものプロ養成講座(2007)」にもその由来のことが書かれているので、その部分も次に紹介しておこう。

 

         「「くらわんか手」の由来」

 江戸時代、大坂・京都間の重要な交通手段として、淀川を行き来する三十石船が利用されていました。この船に小舟で近づき、「あん餅くらわんか、酒くらわんか」とかけ声をかけながら、酒や食い物を器に盛って売る商いが繁盛していました。小舟はそのかけ声から「くらわんか舟」、使われた器は「くらわんか茶碗」と呼ばれ、この器は、食べ飲みした後、淀川へポイと投げ捨てられていたそうです。(注)  その後、いつの頃にか、江戸時代の使い捨てされるぐらいの安い日用食器を総称して、「くらわんか手」と呼ぶようになったと言われています。

(注) この点の真偽は定かではないが、20年ほど前までは、淀川の川べりから輝いたくらわんか茶碗や皿が、たくさん採集されていた。

 

くらわんか: 「くらわんか手」の由来については分かりました。それでは、その「くらわんか手」というのは何時頃から何時頃まで作られていたんですか。また、その特色はどのようなところにあるんですか。

主人: それについては、「やきものプロ養成講座(2007)」の続きを紹介しよう。

 

        「「くらわんか」の時代」(続き)

 元禄の頃から幕末まで、波佐見では安い日用食器「くらわんか手」を大量に生産し続けました。後述する窯の数や大きさから考えれば、その生産量は全国一であったと考えられます。当時の波佐見は、まさに「くらわんか」の時代であったのです。
 平成3年(1991)に中尾地区の中尾上登窯跡の発掘調査が行われましたが、窯の部屋数33室程、全長160mに及ぶ、世界最大規模の登窯であったことが判明しました。この部屋数は、天保年間(1830~1843)頃にまとめられた『郷村記』の数値とほぼ一致をみています。
 『郷村記』によれば、天保年間頃、波佐見では全長100mを越える巨大登窯が8基存在し、全体で年間48,446俵のやきものを生産していたことがわかります。1俵当り何個のやきものが詰められていたかは定かではありませんが、膨大な量であったことは間違いありません。
 「くらわんか」の時代、波佐見では、碗・皿をはじめ、様々な種類の磁器が生産されていました。量産品のため丁寧なつくりではありませんが、素早い筆使いによって生き生きとした模様が描かれ、やや灰色がかった釉色やぼってりとした量感に素朴な温かみが感じとれます。これらのやきものは、三越浦(みつごえうら)(長崎県川棚町)や伊万里津(佐賀県伊万里市)から船で全国中へ運ばれ、当時の多くの人々に愛用されていました。全国の江戸時代の遺跡からほぼ確実に波佐見焼が出土することは、そのことを如実に示しています。波佐見焼は、江戸時代のベストセラー商品だったのです。
 江戸時代の終わりから明治、大正時代にかけて、波佐見では海外輸出用の酒や醤油をいれる瓶が量産されていました。コンプラ瓶です。
 仲買(なかがい)を意味する「コンプラドール(Comprador)」というポルトガル語に由来する長崎出島の商人─コンプラ仲間─が取り扱っていたことから、そう呼ばれるようになりました。コンプラ瓶には「JAPNSCH ZAKY(ヤパンセ サキ)」もしくは「JAPANSCH ZOYA(ヤパンセ ソヤ)」というオランダ語が書かれています。意味は、前者が「日本の酒」、後者が「日本の醤油」であり、出島からヨーロッパや東南アジア諸国へ向けて大量に積み出されていきました。ロシアの文豪トルストイも一輪挿しとして愛用していたと伝えられています。
 「くらわんか」の時代の波佐見は、世界に類をみない巨大な登窯を築き上げ、膨大な量の磁器を生み出していました。この大量生産によって、やきもの1個当たりの値段を下げ、それまで高価であった磁器を庶民が購入できる安い品物へと変えていったのです。磁器を庶民に広く普及させるのに大きな功績を残し、また、日本のやきもの文化へ多大な影響を与えたと言えるでしょう。現在、私たちは普段なにげなく磁器の器を使っていますが、その礎を築いたのは、実は波佐見なのです。

 

 

くらわんか:: 私達「くらわんか手」は、ずいぶんと長い間、しかも大量に作られていたんですね。

主人: そうだったんだね。私も知らなかったよ。
 今日は、お前と四方山話をするというよりは、波佐見焼の勉強会のようになってしまったね。

 

 


追記 (H28.11.4) 

 この記事をアップしてから間もなく、ブログ「エレトップ森川天」の管理人の「森川天」さんが、わざわざご所蔵の陶片の中から、この「くらわんか」小皿によく似た陶片を選び出してくれ、詳しい解説までしてくれました。また、この小皿が作られたと思われる窯跡の写真まで紹介してくれました。

 それによりますと、この小皿は、「くらわんか手」の最初の頃の作品で、その頃は、蛇の目釉剥ぎをしていなかったとのことです。


 その解説や写真は、↓ のURLにあります。大変に参考になります。是非、ご覧ください。

 森川天さん、ありがとうございました。

       http://blogs.yahoo.co.jp/moriei8503/36321387.html

: 現在、ヤフーブログは廃止されていますので、↑ のURLをクリックしても、その画像や解説は見ることが出来ません。)

 

 


 

<古伊万里への誘い>

 

 <その2>

「古伊万里ギャラリー222 伊万里染付くらわんか手小皿」・・・平成28年11月1日登載

 

 
 

 「やきものプロ養成講座(2007)」(波佐見焼振興会・三川内陶磁器工業協同組合発行)によると、「くらわんか手」は、波佐見で、元禄頃から幕末までの長期間にわたり、大量に生産されたとのこと。

 この「くらわんか手」の特徴については、このホームページの「古伊万里バカ日誌65 古伊万里との対話(くらわんか皿)」では、

① まず、胎土が悪いね、胎土の質が。それに釉薬の質も悪いから、出来上がった物はネズミ色っぽくなっていて汚らしい。
② 素焼の手間を省き、生掛け焼成としている。
③ 歩留まりを良くするために分厚く成形されている。分厚い成形にして高台のヘタリを防止し、針支えをする手間を省いている。
④ また、窯の焼成効率を高めるために重ね焼きしている。そのため、見込みを蛇の目状に釉ハギしている。
⑤ 絵付けは簡素で、最低限の簡単なものにしている。

としている。 

 また、同じような表現ではあるが、同じく、このホームページの「古伊万里ギャラリー168 伊万里染付くらわんか手小皿」では、

① 成形が厚手で、その分手取りも重い。
② 陶石に鉄分を多く含むため、鼠色がかった地肌である。
③ 重ね積みして焼成するため、熔着防止用に、見込みを蛇の目状に釉剥ぎしている。
④ 高台が小さい。
⑤ 絵付けは粗雑である。

としている。 

 「くらわんか手」の特徴としては、概ね、こんなところであろう。 

 ただ、普通、「くらわんか手」では、重ね積して焼成するため、溶着防止のために、見込みを蛇の目状に釉ハギするのであるが、この小皿に関しては、見込みに蛇の目状の釉ハギがないことである。 

 これは、多分、重ね積して焼く際に、一番上に(天場に)置くことを予定して作られ、そのようにして焼かれたからだと思っている。

 普通、「くらわんか手」の場合は、このホームページの「古伊万里ギャラリー130 伊万里色絵くらわんか手中皿」(↓ の写真2枚参照)や、

「古伊万里ギャラリー130」に掲載の「伊万里色絵くらわんか手中皿」(表面)

口径:19.1cm 高さ:4.1cm 高台径:9.1cm

 

「古伊万里ギャラリー130」に掲載の「伊万里色絵くらわんか手中皿」(裏面)

 

 

同じく、このホームページの「古伊万里ギャラリー168 伊万里染付くらわんか手小皿」(↓ の写真2枚参照)のように、

「古伊万里ギャラリー168」に掲載の「伊万里染付くらわんか手小皿」(表面)

口径:12.4cm 高さ:3.7cm 高台径:5.2cm

 

 

「古伊万里ギャラリー168」に掲載の「伊万里染付くらわんか手小皿」(裏面)

 

 

見込みを蛇の目状に釉ハギしている場合が多いのである。 

 また、この小皿の場合は、高台内に、意味不明な文字のようなものが書かれているところも普通の「くらわんか手」とは異なる特徴をもっているといえようか、、、。

 なお、この小皿の製作年代であるが、「くらわんか手」の早い時期、元禄に近いのではないかと思っている。
 これは、全くの私の私見であって、何の根拠もない、私の独断と偏見であることをお断りしておく(^^;)

 ところで、この小皿に描かれた文様であるが、花を描いたのか、蝶を描いたのか、さっぱり分からないので、「染付くらわんか手○○文小皿」とすることが出来ないため、単に、「染付くらわんか手小皿」と表示した。

  

 


追記 (H28.11.4) 

 この記事をアップしてから間もなく、ブログ「エレトップ森川天」の管理人の「森川天」さんが、わざわざご所蔵の陶片の中から、この「くらわんか」小皿によく似た陶片を選び出してくれ、詳しい解説までしてくれました。また、この小皿が作られたと思われる窯跡の写真まで紹介してくれました。

それによりますと、この小皿は、「くらわんか手」の最初の頃の作品で、その頃は、蛇の目釉剥ぎをしていなかったとのことです。


 その解説や写真は、↓ のURLにあります。大変に参考になります。是非、ご覧ください。

 森川天さん、ありがとうございました。

     http://blogs.yahoo.co.jp/moriei8503/36321387.html 

: 現在、ヤフーブログは廃止されていますので、↑ のURLをクリックしても、その画像や解説は見ることが出来ません。)

 

 



 

 

 過去に存在した拙ホームぺーの「古伊万里への誘い」での紹介は、以上のとおりですが、今度は、次に、「初期伊万里の小皿(伊万里 染付網目文(?)小皿)」と「くらわんか手の小皿(伊万里 染付くらわんか手小皿)」の二つの皿を並べて対比してみてみたいと思います。

 

       くらわんか手の小皿(表面)      初期伊万里の小皿(表面)

 

 

くらわんか手の小皿(裏面)      初期伊万里の小皿(裏面)

 

 

 これら二つの皿を並べてみますと、両者は非常に似ていて、なかなか区別が難しいですよね。

 本当のところを白状すると、私にもよく分からず、今では、不得意分野です(><)

 昔は、簡単だったんですがね(^-^;

 昔は、両者ともに「初期伊万里」といわれるものでした。ただ、「初期伊万里の小皿」のほうは典型的な初期伊万里で、「くらわんか手の小皿」のほうは、それよりも新しく、初期伊万里といえるかどうかのぎりぎりの時代のものかもしれない、というような感じで捉えられていました。

 古伊万里も、研究が進んできますと、なかなか難しくなってきました(><)

 

 それはともかく、ここで、両者の違いについて考察してみたいと思います。

① まず1点目ですが、初期伊万里小皿のほうが、胎土の質が良く、釉薬の質も良いようです。それに反し、くらわんか手の小皿は、陶石に鉄分を多く含むためか鼠色がかった地肌になっていることが分かります。

② 2点目としては、両者ともに、歩留まりを良くするために分厚く成形し、分厚く成形することによって高台のヘタリを防止して針支えをする手間を省いているんですが、初期伊万里小皿のほうが、口縁から底のほうに行くにしたがってだんだんと厚く成形されているので、くらわんか手の小皿よりも手取りが重いようです。

③ 3点目は、両者ともに、窯の焼成効率を高めるために重ね焼きしているので、熔着防止用に見込みを蛇の目状に釉ハギしている場合が多いですが、くらわんか手の小皿の場合は、その初期の頃の作品の場合には、見込みを蛇の目状に釉ハギしていないようです。

④ 4点目は、初期伊万里小皿のほうが、くらわんか手の小皿に比して高台が小さくなっています。まさに、初期伊万里の特徴の三分の一高台の特徴を備えています。

 その他、両者の違いについては、まだまだ、いろいろと挙げることが出来るようですが、典型的な違いというのは、以上のようなところでしょうか。

 

 



追記 (令和2年6月1日)

 その後、令和2年6月1日に、別な「くらわんか手の小皿」を紹介するに当たり、ここで「初期伊万里の小皿」として紹介した小皿も、やはり、江戸後期の「くらわんか手の小皿」であろうと思うようになりました(-_-;)

 ここに、謹んで訂正いたします(-_-;)


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
不あがりさんへ (Dr.K)
2020-05-13 11:50:28
不あがりさんは波佐見焼が好きでしたよね。
ホント、昔は、波佐見焼の多くが初期伊万里に紛れ込んでいましたよね。
お陰で、昔は高かったですが、今は安くなりましたよね。
でも、そうはいっても、中身までは安くなったわけではありませんから、今買ったほうが得ですよね(^-^;

今回、再紹介しました、波佐見焼の色絵皿は珍しいかなと思います。
以前でも、波佐見焼の色絵ものは珍しかったと思います。
返信する
大好きです。 (不あがり)
2020-05-13 10:44:56
Dr.K様へ
私は波佐見大好きです。生地が灰色っぽくて、絵付けも野暮ったいですよね。これは少し前まで初期伊万里とされておりましたから、高くて届かない品物でしたが。逆に今は手に入りやすくなりました。そして持った時に、ズシッとした手取りに私は惹かれます。元々私は生まれ育ちが悪い男ですから。下手という所が近いです(笑)。凄く私に合っている気がするのです(笑)。それと今回の品物も魅力的です。そして色絵のついた波佐見はかなり貴重な品物と思いますし。同じく私は凄く惹かれます。この所具合が悪かったのですが。これを拝見して癒されました。感謝しております。有難うございます。
返信する
酒田の人さんへ (Dr.K)
2020-05-09 21:38:09
初期伊万里も、昔は、案外、簡単だったように思います。
というのは、初期伊万里に似たようなものは、高く売れますから、全て、初期伊万里にされていたからです。
それに、初期伊万里の典型的なものは、天狗谷のものとされてきました。
ところが、そのうち、古伊万里の研究が進み、天狗谷のものは、実は、最初期のものではないことが分かり、混乱が始まりました。
更には、波佐見焼のかなりのものが、初期伊万里の中に紛れ込んでいることも分かってきて、ますます混乱が深まりました。
私も、古伊万里を集め始めた頃に勉強して覚えたことが身に染み付いていて、新しい研究結果になかなか馴染めず、不得意分野になってしまっています(-_-;)
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Dr.kさんへ (酒田の人)
2020-05-09 21:05:00
思わばワタシも、伊万里に興味を持ち始めた頃は、表だけ見ても「初期」と「くらわんか」が判らなかったように思います。
ウチにはいまだに「くらわんか」も「初期」もありません。
どちらも伊万里を収集する上では避けて通れない存在ですが
ずっと避けているうちに20年以上経ってしまいました。

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遅生さんへ (Dr.K)
2020-05-09 19:18:55
波佐見焼については、最近知りました。
これまで、古伊万里に関する本には、波佐見焼について触れていないんですよね。
せいぜい、「くらわんか手」に関連して触れているくらいですものね。

私も、少し前までは、両者とも、初期伊万里だと思ってました。
田舎では、今でも、それで通るのではないかと思います(-_-;)

「以前の波佐見焼の色絵につづいて、今回の小皿は波佐見染付の名品です」とのお褒めにあずかり、嬉しい限りです。
名品とまではいかないにしても、今回の小皿が波佐見くらわんか手の初期のころの物(初期くらわんか)と知って喜んでいます(^-^;
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Unknown (遅生)
2020-05-09 18:45:15
波佐見焼について、たいへん勉強になりました。
ものすごい量の陶磁器が焼かれていたのですね。

伊万里がどんどん技術革新を重ねていったのに対して、波佐見は、ゆっくりとした歩みですね。遅生としては、親近感を覚えます(^^;

今回の2枚の小皿、高台以外は、本当に区別がつきません。わたしなら、両方とも初期伊万里にしてしまいそう(^.^)

以前の波佐見焼の色絵につづいて、今回の小皿は波佐見染付の名品ですね。
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