昨日の午後,久しぶりで平塚の市立博物館を訪れた。前に立ち寄ったのは確か一昨年の夏だったと思う。今日び日本全国津々浦々に星の数ほど存在する多種多様で玉石混淆,ニギニギしくもキラビヤカな博物館という特殊施設の群のなかにあって,ここはすこぶる地味で質素な佇まいながらもその内容の充実ぶりはなかなかに侮れないものがあり,私の好きな博物館のひとつだ。なのに最近ではついつい疎遠になっているその訳は,このごろ我が身中に横溢しているところの保守性ないし偏屈性,あるいは弱気の虫ないし旋毛曲がりの虫に由来している。それが社会的事象であれ学問的知識であれ,あるいは日常的叡智であれ井戸端的頓知であれ,なべての新しいモノに対する興味を急速に失いつつあるというテイタラクなのだ(そも博物館が古くて保守的だなどと思ったら大間違いですゼ)。こんなことではイカンイカン,とウワベでは思いつつ,ただイタズラに時は流れてゆくのである。
ま,余計な感慨なんぞはドーデモイイ。ここで特筆しておきたかったのは,昨日うかがった折に同博物館の元館長であった浜口哲一さんが先月初めに亡くなられたことを突然知らされた衝撃についてである。勿論それは私にとっての「突然の」衝撃なのだけれども,何の予告もなしに通知されたその現実に,それこそ驚天動地のごとくビックリした。 ええ~っ,何でまた? チョット早過ぎるじゃないデスカ! と。
もともと当方,浜口さんとの直接的な面識はほとんどなかったに等しい部外者であって,せいぜいの所,いろいろな会合やら講演会やらで何度か御一緒してその穏やかな謦咳に親しく接してきた程度である(それゆえ御逝去の1ヶ月も後になって初めて知ったような次第だ)。しかしながら,数10年前もの遙かな昔から現在にいたるまでの長きにわたって丁寧に丹念に書き綴ってこられた数多の著作,論説,小文,ガイド等々に関しては,いつだってほぼリアルタイムに興味深く拝見,拝読していたのであり,それら膨大な活字情報を通じ,一介の読者として学び教えられ得るところ頗る大であった(なかには若干の異議申し立てをしたい部分もないわけではなかったケレドモ。。。) そしてそのような魅力的人物が私の住まう場所からさほど遠からぬエリアに常に存在しており(所謂トコロジストとして),なおかつ周辺界隈に向けて絶えず刺激的なナチュラル・ウェーブを発信しているという事実,それは何よりも嬉しく喜ばしく有り難いことだった。改めて振り返りみれば,このザラザラした現実世界,経済至上主義ないし拝金主義の蔓延する現代社会のなかにあって,ときに正体不明で理不尽な力により頭を押さえつけられ身体を拘束され,あたら心身を消耗して周辺空気の息苦しさに呻吟している一本の脆弱な葦un roseau, le plus faible de la natureのごとき自分にとっては,彼のような人物の存在それ自体が数少ない救いのひとつだった。それは時には辺境の荒涼地における山上の垂訓であり,またある時は暗い航海の途次に見いだされるひとすじの燈台燭光であった。 Camarades, le phare! いや,決してオオゲサな言いようではなく,ああ,ここに等身大の「ナチュラルなナチュラリスト」がいる,と,心安らぐ思いを感じること度々であった。単なる路傍のゴミムシのごとき存在に過ぎない私にしてからが斯くの如しであるからして,そのような浜口さんのひととなり(ライフスタイル)から少なからぬ影響を受けた人々,あるいはその多彩で活発な言動から直接・間接に薫陶指導を受け,自称・他称のお弟子さんとなった人たちの数が相当数にのぼるとされていることは当然だろう。当の御本人からすれば,自らの興味・関心のおもむくままに,いわゆる啓蒙的な立場から周囲の人々に自然の見方,地域の見方を繰り返し繰り返し説いてきたに過ぎなかったのかも知らんが,それは結果として良質で揺るぎない「市井のナチュラリスト」を多々育成することにつながっていったのだ。
数年前に博物館を定年退職し,その後すぐに,同じ市内にある神奈川大学の理学部生物学科に新たな職を得たと聞いていた。それは勿論,そのような地位・立場を嘱望されて然るべき方でしたもの。あぁ,神大生はシアワセだなぁ,ウチの息子にも神大を勧めてやろうかなぁ,なんて当時は思ったものだった。そして,今後はその新しいポジションを基地としてどのようなナチュラル・ウェーブを配信してゆくのだろうか,と陰ながら期待していたのだ。そんな矢先の訃報である。享年62才。死因は肺ガンだという。まことに無念極まりないと思う。ただそれでも,私自身の思いとしては,刀折れ矢尽きた団塊世代の終焉,などというドタバタした幕切れでは決してなく,恐らくは自然に,あくまで自然に,静かに優しく微笑みながら安らかな眠りについていったであろうことを切に願っている。いやいや,敢えてそうは言ってみるものの,やはり浜口さんのような良い人がこうもアッサリと消えてしまうなんて何という不条理な世の中であることか,と,まるで大事なオモチャを突然取り上げられた3才児のように地団駄を踏んでしまう自分がいることも確かなのだ。ナチュラル・セレクション(自然淘汰)というのは所詮その程度の画餅,空理空論に過ぎないのか。それじゃぁまるで自然が胴元のロシアン・ルーレットではないか。翻ってこの混迷する現代社会にあって団塊世代の先頭を走りゆくヒトビトの動向を検視すれば,第93代および第94代のプライム・ミニスターをはじめとして,イッパシのエラソウなポリティシャンやらエコノミストやらビジネスマンやら,あるいはアーティストやらミュージシャンやらクリエイターやらが,それぞれ目一杯に不摂生で不養生で不健康な姿を晒しつつ,一方では世の大多数の民衆愚衆を嘲笑うかのようにノウノウと生き永らえているデハナイカ! とにもかくにも,順序が違うデハナイカ! 団塊世代のイキザマに造詣が深いとされる山口ブンケン氏あるいはザンマ里江子氏あたりは,かくのごとき苛酷で厳粛なる現実世界の有様に対して,さて,何とコメントするのだろう? 団塊世代に反省や後悔は似合わない,なんて逃げ口上は許されませんゼ!
もういい。ショーモナイ世代論なんぞは故人に対しても失礼にあたるゆえ,これ以上の詮索は止めておこう。理屈がつい先走って自らの正直な気持ちを素直に書き記せなかったことは,いつもながら我が不徳の致すところです。申し訳ない。とにかく,少なくともワタクシごとき草臥れた老兵などからすれば,浜口さんのような人格者こそ,例えば今は亡き上野益三先生や水野寿彦先生のように,あるいは現在でも御活躍のことと拝察する菅野徹さんや西村登さんのように,八十路を過ぎても尚お元気で,広く世の中に啓蒙の光を照らし与え続ける方であっていただきたかった。されど今となってはそれも叶わず,今更ながら世の無常に涙するばかりである。
心より,御冥福をお祈りいたします。 同一水系の上流域に長年住み暮らしていた者として!
ま,余計な感慨なんぞはドーデモイイ。ここで特筆しておきたかったのは,昨日うかがった折に同博物館の元館長であった浜口哲一さんが先月初めに亡くなられたことを突然知らされた衝撃についてである。勿論それは私にとっての「突然の」衝撃なのだけれども,何の予告もなしに通知されたその現実に,それこそ驚天動地のごとくビックリした。 ええ~っ,何でまた? チョット早過ぎるじゃないデスカ! と。
もともと当方,浜口さんとの直接的な面識はほとんどなかったに等しい部外者であって,せいぜいの所,いろいろな会合やら講演会やらで何度か御一緒してその穏やかな謦咳に親しく接してきた程度である(それゆえ御逝去の1ヶ月も後になって初めて知ったような次第だ)。しかしながら,数10年前もの遙かな昔から現在にいたるまでの長きにわたって丁寧に丹念に書き綴ってこられた数多の著作,論説,小文,ガイド等々に関しては,いつだってほぼリアルタイムに興味深く拝見,拝読していたのであり,それら膨大な活字情報を通じ,一介の読者として学び教えられ得るところ頗る大であった(なかには若干の異議申し立てをしたい部分もないわけではなかったケレドモ。。。) そしてそのような魅力的人物が私の住まう場所からさほど遠からぬエリアに常に存在しており(所謂トコロジストとして),なおかつ周辺界隈に向けて絶えず刺激的なナチュラル・ウェーブを発信しているという事実,それは何よりも嬉しく喜ばしく有り難いことだった。改めて振り返りみれば,このザラザラした現実世界,経済至上主義ないし拝金主義の蔓延する現代社会のなかにあって,ときに正体不明で理不尽な力により頭を押さえつけられ身体を拘束され,あたら心身を消耗して周辺空気の息苦しさに呻吟している一本の脆弱な葦un roseau, le plus faible de la natureのごとき自分にとっては,彼のような人物の存在それ自体が数少ない救いのひとつだった。それは時には辺境の荒涼地における山上の垂訓であり,またある時は暗い航海の途次に見いだされるひとすじの燈台燭光であった。 Camarades, le phare! いや,決してオオゲサな言いようではなく,ああ,ここに等身大の「ナチュラルなナチュラリスト」がいる,と,心安らぐ思いを感じること度々であった。単なる路傍のゴミムシのごとき存在に過ぎない私にしてからが斯くの如しであるからして,そのような浜口さんのひととなり(ライフスタイル)から少なからぬ影響を受けた人々,あるいはその多彩で活発な言動から直接・間接に薫陶指導を受け,自称・他称のお弟子さんとなった人たちの数が相当数にのぼるとされていることは当然だろう。当の御本人からすれば,自らの興味・関心のおもむくままに,いわゆる啓蒙的な立場から周囲の人々に自然の見方,地域の見方を繰り返し繰り返し説いてきたに過ぎなかったのかも知らんが,それは結果として良質で揺るぎない「市井のナチュラリスト」を多々育成することにつながっていったのだ。
数年前に博物館を定年退職し,その後すぐに,同じ市内にある神奈川大学の理学部生物学科に新たな職を得たと聞いていた。それは勿論,そのような地位・立場を嘱望されて然るべき方でしたもの。あぁ,神大生はシアワセだなぁ,ウチの息子にも神大を勧めてやろうかなぁ,なんて当時は思ったものだった。そして,今後はその新しいポジションを基地としてどのようなナチュラル・ウェーブを配信してゆくのだろうか,と陰ながら期待していたのだ。そんな矢先の訃報である。享年62才。死因は肺ガンだという。まことに無念極まりないと思う。ただそれでも,私自身の思いとしては,刀折れ矢尽きた団塊世代の終焉,などというドタバタした幕切れでは決してなく,恐らくは自然に,あくまで自然に,静かに優しく微笑みながら安らかな眠りについていったであろうことを切に願っている。いやいや,敢えてそうは言ってみるものの,やはり浜口さんのような良い人がこうもアッサリと消えてしまうなんて何という不条理な世の中であることか,と,まるで大事なオモチャを突然取り上げられた3才児のように地団駄を踏んでしまう自分がいることも確かなのだ。ナチュラル・セレクション(自然淘汰)というのは所詮その程度の画餅,空理空論に過ぎないのか。それじゃぁまるで自然が胴元のロシアン・ルーレットではないか。翻ってこの混迷する現代社会にあって団塊世代の先頭を走りゆくヒトビトの動向を検視すれば,第93代および第94代のプライム・ミニスターをはじめとして,イッパシのエラソウなポリティシャンやらエコノミストやらビジネスマンやら,あるいはアーティストやらミュージシャンやらクリエイターやらが,それぞれ目一杯に不摂生で不養生で不健康な姿を晒しつつ,一方では世の大多数の民衆愚衆を嘲笑うかのようにノウノウと生き永らえているデハナイカ! とにもかくにも,順序が違うデハナイカ! 団塊世代のイキザマに造詣が深いとされる山口ブンケン氏あるいはザンマ里江子氏あたりは,かくのごとき苛酷で厳粛なる現実世界の有様に対して,さて,何とコメントするのだろう? 団塊世代に反省や後悔は似合わない,なんて逃げ口上は許されませんゼ!
もういい。ショーモナイ世代論なんぞは故人に対しても失礼にあたるゆえ,これ以上の詮索は止めておこう。理屈がつい先走って自らの正直な気持ちを素直に書き記せなかったことは,いつもながら我が不徳の致すところです。申し訳ない。とにかく,少なくともワタクシごとき草臥れた老兵などからすれば,浜口さんのような人格者こそ,例えば今は亡き上野益三先生や水野寿彦先生のように,あるいは現在でも御活躍のことと拝察する菅野徹さんや西村登さんのように,八十路を過ぎても尚お元気で,広く世の中に啓蒙の光を照らし与え続ける方であっていただきたかった。されど今となってはそれも叶わず,今更ながら世の無常に涙するばかりである。
心より,御冥福をお祈りいたします。 同一水系の上流域に長年住み暮らしていた者として!