クルマの免許を取得してから,はや半世紀近くになる。最初に取ったのは大学在学中のときで,四ツ輪ではなく二輪の「原動機付自転車免許」だった。当時,大学から3kmほど離れた町外れにある禅寺の一隅に下宿しており,そこから歩いて通学していた。自転車が欲しいなぁ,などとは思っていたのだが,いかんせん懐の方が極めて寂しかった(中古自転車だってソレナリノ値段はしたのです)。それが,ひょんなことから50ccの中古バイクを知人から無償で譲り受けることになった。HONDAの《リトルホンダP25》という車種である。今では知っている人もほとんどおられないだろうが,これはペダルでエンジンを始動する方式の軽量ミニバイクで,ガス欠になると,いや別にガソリンが残っている状態でも構わないが,ギアをニュートラにすればペダルを漕いで自走することができた(今,ネットでその緒元を調べてみたら,車重は45kgとなっていた。そんなに重かったか知らん?) いずれにしてもタダで手にいれることができるなんて大変に有難い。ただし!我国の道路交通法を遵守するためには当然ながら運転免許証が必要なのだ。それで,一夜漬けの勉強をして横浜・二俣川にある県の自動車免許試験場まで出掛けて試験を受け,即日免許皆伝となった。
このリトルホンダというバイクは,現在ではクラシック・バイクとしての価値がソコソコにあるらしく,ネット取引などもしばしば行われているようだ。取引相場は10~15万円ほどにもなるらしい。蓼食う虫も好き好き,世間には物好きが少なからず居るものである。ちなみに約40年前の当時だってこのバイクは周囲からソコソコに珍しがられたものだ。もちろん,チープでエキセントリックなバイク(=安っぽくて頼りなさ気なヘンテコ・バイク)という意味で,デスガ。ただそれはそれで自分のような貧乏学生にはお似合いだとソレナリニ気に入っており,結構チョコチョコと乗り回していた(下り坂や,急がない時は,当然エンジンOFFにして)。ま,誰にでも恥ずべき時代はあるものです。結局そのバイクは一年ばかり使用した後,大学を離れる際に別の知人に差し上げてしまった。
四輪免許については,大学在学中は「普通自動車免許」を取るなんてぇことは,それこそ高嶺の花だった。ようするに免許取得に金がかかりすぎるし,仮に無理して免許を取ったところでクルマを所有すること自体が夢のまた夢の話であった。だいたい,当時の大学生,少なくとも私の周囲にいた大学生の普通免許所有率は恐らく10%以下,ましてやクルマ所有率は1%以下だったのではないだろうか(近隣エリアのリッチな私立大学生については統計データに含まれず,デスガ)。
普通免許を取ったのは会社勤めを始めた初年度のことだ。仕事上の必要に迫られ,やむなく自腹を切ったという次第である。就職早々仕事は質・量ともに非常にハードだったのだが,そのなかで何とか時間を工面して会社帰りに私鉄沿線駅近くにある夜間教習所に時々通い,確か取得期限の6ヶ月ギリギリセーフで取ることが出来たように思う。ただし,勤め人になったからといっても相変わらずの貧乏暮らしには変わりなく,マイカーなんぞを所有できる身分ではとてもなかった。免許を取ってから最初に公道を運転したのはレンタカーのハイエース・ロングバンによる調査行である。調査器材等の荷物を山のように積んで,都内目黒区から東名高速経由で愛知県渥美半島の先までの長距離をオソルオソル走った。単独運転だった。今にして思えば信じられないくらいにムチャをしたものである。
クルマで一番の遠出をしたのは厳冬期の東北・岩手県で,東京から三陸海岸の釜石市近郊まで,この時は二人で運転を交代しながら往復した。30年以上前のことで,東北自動車道は確か埼玉県・岩槻から宮城県・古川までの区間が開通していたように思う。これもハードでタイトな調査工程で,吹雪舞う東北道をかなり無理してスッ飛ばした。途中,雪道のなかでタイヤ・チェーンが切れてしまったり,相棒が風邪ひいて熱をだしたりして,改めて振り返ればやはり非常に無茶苦茶なドライブであったと思わざるを得ない。若さ,というよりもむしろクルマに対する過信(という名の無知),クルマ社会に対する依存(という名の隷属)からくる愚行(=暴走行為)だったのだろう。我が恥ずべき時代その二,である。
そんな調子で5~6年は会社の仕事としてクルマの運転を続けていたのだが,その後,新入社員のなかで優秀なドライバーが何人か現れるとともに,私自身は年功序列で優秀な?助手席ナビゲーターへと移行することが多くなり(何しろ当時はカーナビなんてものはなかった訳で),それとともにクルマの運転からは徐々に遠ざかっていった。
その後しばらくして,所帯を持ち子供が生まれたのを契機に状況は一転し,ふたたび頻繁にクルマの運転を行うようになった。とにかく碌々考えもせずにクルマを新車で購入しちゃったりしたのだ! 家庭というモノはオソロシイもんである。子供らがまだ小さかったころは,休日には家族そろってクルマであちこちに出掛けた。だいたいは県内各地の観光地,行楽地が多かったが,ときには静岡,愛知,山梨などへと遠出をすることもあった。個人的には束の間の休息日に行楽地への往復運転手を勤めることは少々苦痛であったのだけれども,それはそれ,世間一般のオトーサンの宿命であると甘受し,ヒトナミの生活様式を模倣追従するに身を任せた。ただし,そのような苦役的運転手としてのお役目も,子供らの成長とともに徐々に少なくなっていった。それはまた,私自身のなかでクルマというものに対する存在意義を見出せなくなってゆく過程,さらにはクルマそのものの存在自体を否定してゆく過程とほぼ並行していた。しょせん我らは二足歩行の中型哺乳類なのである,なんちゃって。。。
とまれ,この間幸いなことにずっと無事故・無違反の優良ドライバーであった。過去にたった一度だけ,クルマの運転中に警官に呼び止められたことがある。それは忘れもしない1978年のことで,その年の夏のある日,愛知県渥美郡渥美町(現在の田原市)の福江港魚市場でイワシを大量に仕入れ,それをトロ箱に入れて軽トラックの荷台に積み込み,国道259号を東へと向かって急いでいたのである。そのイワシは養殖ウナギの餌にするためのものであった。国道のバイパスを軽トラで,恐らく60km/hくらいで走っていたと思う。バイパス出口付近で,路傍に立っていた警官に誘導棒で合図され一旦停止を命じられた。
- おいおい,オニイサン。ちょっと飛ばしすぎじゃないかい?
- あ,スミマセン。 後ろに積んであるイワシが傷むとマズイので,つい飛ばしてしまいました。
- そうか,そりゃ大変だ。ま,今日のところは見なかったことにするけど,でも規則は規則なんだから,一応は守んなさいよ。
- はぁ,わかりました。ありがとうございます!
イナカのオマワリサンは地元民に対しては基本的に寛容だったのである。これが伊良湖岬に向かう観光客であったなら,問答無用で違反切符を切られていたことだろう。お陰でワタクシの免許証は汚れずに済んだのでありました。 あぁ,あれから30余年の歳月が。。。
ところで,最後にクルマを運転したのはいつのことだろう? ほとんど思い出せないくらい前のことになってしまったが,多分は今年七回忌を迎えた兄の三回忌の法要のときではなかったかと思う。そして現在では自動車免許証は自らの身分証明書(写真入り)として所有しているに過ぎない。いわゆる優良ペーパードライバーを続けているのであり,今後もクルマのハンドルを握ることはまずないだろう。実はもうひとつ,身分証明書代わりになるものとしては「二級小型船舶操縦士免許」を持っている。ただし,双方の更新手続きに係わる手数料や手間を比較すると自動車免許証の方がかなり安いし簡単だし,加えて,船舶免許の方はこの先おそらく仕事で操船することはないだろうし,ましてやプレジャーボートで遊ぶなんてことも想像できないので,小型船舶免許は次回の更新時(来年6月)をもって放棄するつもりでいる。
もっとも,それをいうなら自動車免許の方だって,例えば「住民基本台帳カード(顔写真付き)」を新たに申請所有すれば不要になるのではないか,ということに最近になって遅まきながら気がついた次第である。住基カード・システムそのものの是非についてはさておき,現世のトレンドである金(カネ)本位制社会からリタイアした人々,あるいは階級的競争社会からドロップアウトした人々,さらには現代クルマ社会からフェイドアウトした人々など,すなわち世にひっそりと暮らす幾多の寄る辺なき民草(当然ワタクシも含まれる)にとって,対外的に自らのアイデンティティを示す手段としてそれは有益なツールであると思う。私の普通自動車免許は,現在ゴールド免許を更新中ゆえ,有効期限が平成27年までとなっている。よし,その段階でクルマの免許はキッパリと放棄しよう! (それまで生き永らえておれば,デスケド。。。)
結局,生まれてくるときもハダカなら死にゆくときもハダカ,免許なんてしょせん儚い世渡りの通行手形に過ぎないのだ。なんて,年の暮れにそんなタアイノナイことを考えているのであります。ったくもう,ゴールは近そうだゾ!
このリトルホンダというバイクは,現在ではクラシック・バイクとしての価値がソコソコにあるらしく,ネット取引などもしばしば行われているようだ。取引相場は10~15万円ほどにもなるらしい。蓼食う虫も好き好き,世間には物好きが少なからず居るものである。ちなみに約40年前の当時だってこのバイクは周囲からソコソコに珍しがられたものだ。もちろん,チープでエキセントリックなバイク(=安っぽくて頼りなさ気なヘンテコ・バイク)という意味で,デスガ。ただそれはそれで自分のような貧乏学生にはお似合いだとソレナリニ気に入っており,結構チョコチョコと乗り回していた(下り坂や,急がない時は,当然エンジンOFFにして)。ま,誰にでも恥ずべき時代はあるものです。結局そのバイクは一年ばかり使用した後,大学を離れる際に別の知人に差し上げてしまった。
四輪免許については,大学在学中は「普通自動車免許」を取るなんてぇことは,それこそ高嶺の花だった。ようするに免許取得に金がかかりすぎるし,仮に無理して免許を取ったところでクルマを所有すること自体が夢のまた夢の話であった。だいたい,当時の大学生,少なくとも私の周囲にいた大学生の普通免許所有率は恐らく10%以下,ましてやクルマ所有率は1%以下だったのではないだろうか(近隣エリアのリッチな私立大学生については統計データに含まれず,デスガ)。
普通免許を取ったのは会社勤めを始めた初年度のことだ。仕事上の必要に迫られ,やむなく自腹を切ったという次第である。就職早々仕事は質・量ともに非常にハードだったのだが,そのなかで何とか時間を工面して会社帰りに私鉄沿線駅近くにある夜間教習所に時々通い,確か取得期限の6ヶ月ギリギリセーフで取ることが出来たように思う。ただし,勤め人になったからといっても相変わらずの貧乏暮らしには変わりなく,マイカーなんぞを所有できる身分ではとてもなかった。免許を取ってから最初に公道を運転したのはレンタカーのハイエース・ロングバンによる調査行である。調査器材等の荷物を山のように積んで,都内目黒区から東名高速経由で愛知県渥美半島の先までの長距離をオソルオソル走った。単独運転だった。今にして思えば信じられないくらいにムチャをしたものである。
クルマで一番の遠出をしたのは厳冬期の東北・岩手県で,東京から三陸海岸の釜石市近郊まで,この時は二人で運転を交代しながら往復した。30年以上前のことで,東北自動車道は確か埼玉県・岩槻から宮城県・古川までの区間が開通していたように思う。これもハードでタイトな調査工程で,吹雪舞う東北道をかなり無理してスッ飛ばした。途中,雪道のなかでタイヤ・チェーンが切れてしまったり,相棒が風邪ひいて熱をだしたりして,改めて振り返ればやはり非常に無茶苦茶なドライブであったと思わざるを得ない。若さ,というよりもむしろクルマに対する過信(という名の無知),クルマ社会に対する依存(という名の隷属)からくる愚行(=暴走行為)だったのだろう。我が恥ずべき時代その二,である。
そんな調子で5~6年は会社の仕事としてクルマの運転を続けていたのだが,その後,新入社員のなかで優秀なドライバーが何人か現れるとともに,私自身は年功序列で優秀な?助手席ナビゲーターへと移行することが多くなり(何しろ当時はカーナビなんてものはなかった訳で),それとともにクルマの運転からは徐々に遠ざかっていった。
その後しばらくして,所帯を持ち子供が生まれたのを契機に状況は一転し,ふたたび頻繁にクルマの運転を行うようになった。とにかく碌々考えもせずにクルマを新車で購入しちゃったりしたのだ! 家庭というモノはオソロシイもんである。子供らがまだ小さかったころは,休日には家族そろってクルマであちこちに出掛けた。だいたいは県内各地の観光地,行楽地が多かったが,ときには静岡,愛知,山梨などへと遠出をすることもあった。個人的には束の間の休息日に行楽地への往復運転手を勤めることは少々苦痛であったのだけれども,それはそれ,世間一般のオトーサンの宿命であると甘受し,ヒトナミの生活様式を模倣追従するに身を任せた。ただし,そのような苦役的運転手としてのお役目も,子供らの成長とともに徐々に少なくなっていった。それはまた,私自身のなかでクルマというものに対する存在意義を見出せなくなってゆく過程,さらにはクルマそのものの存在自体を否定してゆく過程とほぼ並行していた。しょせん我らは二足歩行の中型哺乳類なのである,なんちゃって。。。
とまれ,この間幸いなことにずっと無事故・無違反の優良ドライバーであった。過去にたった一度だけ,クルマの運転中に警官に呼び止められたことがある。それは忘れもしない1978年のことで,その年の夏のある日,愛知県渥美郡渥美町(現在の田原市)の福江港魚市場でイワシを大量に仕入れ,それをトロ箱に入れて軽トラックの荷台に積み込み,国道259号を東へと向かって急いでいたのである。そのイワシは養殖ウナギの餌にするためのものであった。国道のバイパスを軽トラで,恐らく60km/hくらいで走っていたと思う。バイパス出口付近で,路傍に立っていた警官に誘導棒で合図され一旦停止を命じられた。
- おいおい,オニイサン。ちょっと飛ばしすぎじゃないかい?
- あ,スミマセン。 後ろに積んであるイワシが傷むとマズイので,つい飛ばしてしまいました。
- そうか,そりゃ大変だ。ま,今日のところは見なかったことにするけど,でも規則は規則なんだから,一応は守んなさいよ。
- はぁ,わかりました。ありがとうございます!
イナカのオマワリサンは地元民に対しては基本的に寛容だったのである。これが伊良湖岬に向かう観光客であったなら,問答無用で違反切符を切られていたことだろう。お陰でワタクシの免許証は汚れずに済んだのでありました。 あぁ,あれから30余年の歳月が。。。
ところで,最後にクルマを運転したのはいつのことだろう? ほとんど思い出せないくらい前のことになってしまったが,多分は今年七回忌を迎えた兄の三回忌の法要のときではなかったかと思う。そして現在では自動車免許証は自らの身分証明書(写真入り)として所有しているに過ぎない。いわゆる優良ペーパードライバーを続けているのであり,今後もクルマのハンドルを握ることはまずないだろう。実はもうひとつ,身分証明書代わりになるものとしては「二級小型船舶操縦士免許」を持っている。ただし,双方の更新手続きに係わる手数料や手間を比較すると自動車免許証の方がかなり安いし簡単だし,加えて,船舶免許の方はこの先おそらく仕事で操船することはないだろうし,ましてやプレジャーボートで遊ぶなんてことも想像できないので,小型船舶免許は次回の更新時(来年6月)をもって放棄するつもりでいる。
もっとも,それをいうなら自動車免許の方だって,例えば「住民基本台帳カード(顔写真付き)」を新たに申請所有すれば不要になるのではないか,ということに最近になって遅まきながら気がついた次第である。住基カード・システムそのものの是非についてはさておき,現世のトレンドである金(カネ)本位制社会からリタイアした人々,あるいは階級的競争社会からドロップアウトした人々,さらには現代クルマ社会からフェイドアウトした人々など,すなわち世にひっそりと暮らす幾多の寄る辺なき民草(当然ワタクシも含まれる)にとって,対外的に自らのアイデンティティを示す手段としてそれは有益なツールであると思う。私の普通自動車免許は,現在ゴールド免許を更新中ゆえ,有効期限が平成27年までとなっている。よし,その段階でクルマの免許はキッパリと放棄しよう! (それまで生き永らえておれば,デスケド。。。)
結局,生まれてくるときもハダカなら死にゆくときもハダカ,免許なんてしょせん儚い世渡りの通行手形に過ぎないのだ。なんて,年の暮れにそんなタアイノナイことを考えているのであります。ったくもう,ゴールは近そうだゾ!