昔話を少々。 今を遡ること40数年前,まだハイティーンだった頃に「図書月販」という会社の横浜支店で数ヶ月間アルバイトをしたことがあった。百科事典や文学全集,美術全集などの,いわゆる重厚長大本のセット販売を業としていた会社である。現在の世情からすれば百科事典を月賦販売するなんてまさに噴飯モノの時代錯誤といえるかも知らんが,いえいえ,1960年代の高度経済成長期マッタダナカの当時においては,一般庶民の生活様式および人生目標は物心ともに単純かつ純粋な上昇志向が是とされていたのであり,言葉を換えれば世の中は唯物史観的楽観主義で満ち満ちていたのであり,それゆえに豪華全集本に代表される立派な書籍というモノが家庭内における揺るぎなきステイタス,新・三種の神器(カー・クーラー・カラーテレビ)に彩りを添える知的オプションのごとき存在であったところで全く不思議はなかったわけであります(多分ネ)。またそれに答えるかのように出版業界の方もまさにイケイケドンドンの古き良き時代,全集モノにはかなり力を入れていたように思う。ちなみに,この会社はのちに「ほるぷ」と社名変更した。そちらの名前であればご存じの方もおられるのではないだろうか。一時は年商250億円ほどの規模にまで成長したとのことだが,今から10年ばかり前に倒産してしまったらしい。毎度お定まりの出版業の栄枯盛衰である。
で,私が従事したアルバイトの内容であるが,月々の割賦代金支払いが滞っている顧客に対する「取り立て」のお手伝いようなものであった。つまり,結構無理して(=見栄張って)百科事典なんぞを購入しちゃったものの,その後の月々の支払いに汲々としている方々も少なくなかったわけで,その点では百科事典の割賦販売といえども,その基本システムにおいては英語教育教材とか羽毛布団,あるいは大理石の壺などのアヤシゲナ割賦販売と同類なのでありました。
未収金の処理決済業務そのものについては当然ながら社員の仕事である。すなわち,支払いを滞納している個々の顧客に対して正社員(ないし契約社員)が会社の事務所から電話等で滞納理由を聴取し,先方の諸事情を斟酌しつつも改めて契約内容を追認してその履行を迫り,さらには現実的な対応策を協議し,それでもって今後の方針が決まると次には私たちバイトの出番。滞納顧客の自宅や勤務先などを直接訪問して,焦げ付いていた未収金の一部ないし全額を回収してくるという段取りだった。ようするに単なる集金係のアルバイトなわけだ。
バイトのメンバーは計5名,高校生の私を除くとすべて大学生で,青山学院大,昭和医大,専修大,山脇学園短大という内訳であった。最初の3人は男である。専修大のオニーサンが山脇短大のオネーサンをナンパしようと盛んにモーションを仕掛けていたことなど,今でも懐かしく思い出す。
同社横浜支店の営業テリトリーは相模川以東の神奈川県東部で,その地域内を適当に区分けしてバイトのそれぞれに担当エリアが割り振られた。私が担当になった地域は県央の相模原から大和,藤沢にかけての小田急江ノ島線の沿線で,特に多かったのは南林間から中央林間,東林間にかけての一帯である。その辺りは私にとってそれまで一度も訪れたことがない,かろうじて名前を知っている程度の未知の場所であった。当時住んでいた横浜市鶴見区の自宅から,毎日,バスと電車を乗り継いでその初めての土地に出掛け,そして地図をたよりにテラ・インコグニタを歩き回る。それ以前にやったことのあるバイトは学校管理人と家庭教師くらいだったので,そのような外交員モドキの仕事はなかなかに新鮮な労働だった。
その沿線一帯は,今から約80年前,昭和初期の時代に「林間都市構想」なる旗印のもと電鉄資本により開発されたのだという。さらにまた,はるか地質時代にまで歴史をさかのぼれば,その土地は新生代第四紀更新世の後期,今から10万年~6万年前にかけて富士山,箱根火山などから噴出された火山灰が堆積して形成された関東ローム層に由来する洪積台地なのである。旧石器から縄文にかけての時代には台地の辺縁に人々が居住するようになり,石器や土器,貝塚などの生活痕を示す遺跡が近隣各地で発掘確認されているというが,その後,古代から中世にかけての時代においては,乾性の火山灰土壌からなる台地は当時の農耕民族の生活には不向きであったためかほとんど手つかずのままで放置され,常緑広葉樹(シラカシ群集)の森が広がる,いわば不毛に近い土地であっただろうと想像される。柳田國男流にいえば,勇壮なる関東武士の活躍する表舞台としてふさわしい広大な原野ないし荒蕪地だったに違いない。
さらに時を経て近世の江戸から明治初期にかけての時代になると,台地上の原野も徐々に人手が加わって農地の開墾なども行われるようになり,それとともに自然植生であったシラカシの原生林は伐採されて薪炭林としての雑木林(その主体は夏緑高木林のクヌギ・コナラ群集)へと置き換わっていった。これが現在でも散在的な林分として見られる相模野の雑木林である。また,この地域には東海道の脇往還道として利用されていた矢倉沢往還が台地上を東西に横切っていることから,江戸時代に盛んであった「大山詣で」の人々が雑木林や畑のなかを通じるその道を繁く往来していたものと思われる。台地のつきる先,遠く西の彼方には彼らの目指す相州大山の立派な山容を望むことができたかも知れない。かつて三河田原藩の文人・渡辺崋山も一泊したという「鶴間の宿」あたりは、一時さぞ賑わっていたことだろう。
そのような歴史的変遷を有する相模野の台地に広がる雑木林を切り開いて,1930年代に小田急沿線の駅を中心に住宅地,公園,文化施設,学校などが次々と作られていった。開発面積は300ha以上に及んだという。当時としては特筆すべき大規模都市計画である。しかしながら,太平洋戦争前の不安定な時代背景や,東京都心部からはやや離れすぎている事情などもあって,その壮大な計画は結局のところ頓挫してしまった。何年か前に大和市にある郷土資料館で 『幻の林間都市計画-雑木林に画かれた夢の一大都市』 という名の企画展が催されたらしい。ユメがマボロシとなってやがては消えさりゆく物語,これもまた土地に刻まれたひとつの宿命なのでありましょう。
話を戻すと,私が集金アルバイトをおこなっていた1960年代の東林間,中央林間,南林間などの林間都市は,恐らくは上記のような戦前のユメとマボロシの林間都市計画の残像ないし面影がいまだ色濃く反映されていた一寸風変わりな住宅街であったように記憶している。むしろ開発計画が途中で挫折したことが幸いしてか,その頃は現在に比べて雑木林がまだ多く存在しており,まるで旧軽井沢の別荘地を思わせるかのような静かで落ち着いた郊外住宅地といった雰囲気があった。それまでに東京区部,川崎市,横浜市などのアーバナイズド・レジデンシャル・エリア(住宅密集地域)でしか暮らしたことのない自分にとっては,そこは何やら緑豊かな北ヨーロッパの住宅地に迷い込んだような,どこか硬質で冴え冴えとした異国の空気を感じさせた。ちなみに,それは中央林間駅に田園都市線が伸延するよりもずっとずっと以前のことで,第四の山の手だとかキンツマだとかラサールイシイ?だとかの小洒落た世俗的ステイタスなんぞとは全く無縁の世界の話でありました。
冬の良く晴れた日,冷たく乾いた空気を身体全体に受けながら,そのような欧風住宅街の閑散とした道路を歩いていると,道を曲がった先で突然に,うっすらと雪をかぶった丹沢山塊の峰々が彼方に望まれたりすることがあった。それは意外に真近にあるように見えて,きれいに区画された街路の奥にしつらえた端正な屏風絵のように町並みの遠景を飾っていた。道路の場所によっては丹沢大山の左肩背後に真っ白な富士山の頭の一部がチョコンと見えることもあった。ああ,ほんとうに丹沢が近いんだなぁ。何だか住むにはいい所だなぁ。こんな場所で地味に優雅に暮らすって,いったいどんなジンセイだろうかなぁ。。。
とまぁ,そんな風にして1960年代後半の冬の一時期,高校生の私は《林間都市》を彷徨していたのである。そりゃまぁ,誰にだって叶わぬ夢はございましょう。あれから幾星霜。最近では自転車でその界隈をときおり走ることがある。特に目的地があるわけではない。敢えていうなら相模原から座間,大和,綾瀬,藤沢にかけての相模野の台地上のあちこちをユックリユックリ自転車で走ること自体が目的だったりする。クルマの煩雑な往来をテキトウに回避して走っていれば,それは大変に気持ちのよい街中サイクリングである。ただ現在では悲しいかな,世代交代に伴う旧式家屋の改変や別途新たに発生した数多のチマチマ宅地開発などにより,中央林間や南林間の昔からの町並みも当時からだいぶ様変わりしてきており,田園都市線つきみ野あたりの「中の上」といった感じのキラビヤカな家々に比べると,いささか草臥れ感,歪小感が目立っているようである。しかしながらさりながら,見知らぬ路地や四つ辻などで,ふいに奇妙に懐かしい感覚がよみがえってきたりすることがある。既視感とまではゆかなくとも,ふと躓いた拍子に何か大切なことを思い出しかけていたような気持ちになって,一寸もどかしく思うことがある。 ああ,なんだかサケの母川回帰みたいな,あるいは人生双六みたいな感じだなぁ。 なんてホンワカ気分にひたりながら師走の町を自転車でユックリユックリ彷徨している老人一名なのでありました。 (コレ,そこの女子中学生たち,後ろ指は差さないように!)
で,私が従事したアルバイトの内容であるが,月々の割賦代金支払いが滞っている顧客に対する「取り立て」のお手伝いようなものであった。つまり,結構無理して(=見栄張って)百科事典なんぞを購入しちゃったものの,その後の月々の支払いに汲々としている方々も少なくなかったわけで,その点では百科事典の割賦販売といえども,その基本システムにおいては英語教育教材とか羽毛布団,あるいは大理石の壺などのアヤシゲナ割賦販売と同類なのでありました。
未収金の処理決済業務そのものについては当然ながら社員の仕事である。すなわち,支払いを滞納している個々の顧客に対して正社員(ないし契約社員)が会社の事務所から電話等で滞納理由を聴取し,先方の諸事情を斟酌しつつも改めて契約内容を追認してその履行を迫り,さらには現実的な対応策を協議し,それでもって今後の方針が決まると次には私たちバイトの出番。滞納顧客の自宅や勤務先などを直接訪問して,焦げ付いていた未収金の一部ないし全額を回収してくるという段取りだった。ようするに単なる集金係のアルバイトなわけだ。
バイトのメンバーは計5名,高校生の私を除くとすべて大学生で,青山学院大,昭和医大,専修大,山脇学園短大という内訳であった。最初の3人は男である。専修大のオニーサンが山脇短大のオネーサンをナンパしようと盛んにモーションを仕掛けていたことなど,今でも懐かしく思い出す。
同社横浜支店の営業テリトリーは相模川以東の神奈川県東部で,その地域内を適当に区分けしてバイトのそれぞれに担当エリアが割り振られた。私が担当になった地域は県央の相模原から大和,藤沢にかけての小田急江ノ島線の沿線で,特に多かったのは南林間から中央林間,東林間にかけての一帯である。その辺りは私にとってそれまで一度も訪れたことがない,かろうじて名前を知っている程度の未知の場所であった。当時住んでいた横浜市鶴見区の自宅から,毎日,バスと電車を乗り継いでその初めての土地に出掛け,そして地図をたよりにテラ・インコグニタを歩き回る。それ以前にやったことのあるバイトは学校管理人と家庭教師くらいだったので,そのような外交員モドキの仕事はなかなかに新鮮な労働だった。
その沿線一帯は,今から約80年前,昭和初期の時代に「林間都市構想」なる旗印のもと電鉄資本により開発されたのだという。さらにまた,はるか地質時代にまで歴史をさかのぼれば,その土地は新生代第四紀更新世の後期,今から10万年~6万年前にかけて富士山,箱根火山などから噴出された火山灰が堆積して形成された関東ローム層に由来する洪積台地なのである。旧石器から縄文にかけての時代には台地の辺縁に人々が居住するようになり,石器や土器,貝塚などの生活痕を示す遺跡が近隣各地で発掘確認されているというが,その後,古代から中世にかけての時代においては,乾性の火山灰土壌からなる台地は当時の農耕民族の生活には不向きであったためかほとんど手つかずのままで放置され,常緑広葉樹(シラカシ群集)の森が広がる,いわば不毛に近い土地であっただろうと想像される。柳田國男流にいえば,勇壮なる関東武士の活躍する表舞台としてふさわしい広大な原野ないし荒蕪地だったに違いない。
さらに時を経て近世の江戸から明治初期にかけての時代になると,台地上の原野も徐々に人手が加わって農地の開墾なども行われるようになり,それとともに自然植生であったシラカシの原生林は伐採されて薪炭林としての雑木林(その主体は夏緑高木林のクヌギ・コナラ群集)へと置き換わっていった。これが現在でも散在的な林分として見られる相模野の雑木林である。また,この地域には東海道の脇往還道として利用されていた矢倉沢往還が台地上を東西に横切っていることから,江戸時代に盛んであった「大山詣で」の人々が雑木林や畑のなかを通じるその道を繁く往来していたものと思われる。台地のつきる先,遠く西の彼方には彼らの目指す相州大山の立派な山容を望むことができたかも知れない。かつて三河田原藩の文人・渡辺崋山も一泊したという「鶴間の宿」あたりは、一時さぞ賑わっていたことだろう。
そのような歴史的変遷を有する相模野の台地に広がる雑木林を切り開いて,1930年代に小田急沿線の駅を中心に住宅地,公園,文化施設,学校などが次々と作られていった。開発面積は300ha以上に及んだという。当時としては特筆すべき大規模都市計画である。しかしながら,太平洋戦争前の不安定な時代背景や,東京都心部からはやや離れすぎている事情などもあって,その壮大な計画は結局のところ頓挫してしまった。何年か前に大和市にある郷土資料館で 『幻の林間都市計画-雑木林に画かれた夢の一大都市』 という名の企画展が催されたらしい。ユメがマボロシとなってやがては消えさりゆく物語,これもまた土地に刻まれたひとつの宿命なのでありましょう。
話を戻すと,私が集金アルバイトをおこなっていた1960年代の東林間,中央林間,南林間などの林間都市は,恐らくは上記のような戦前のユメとマボロシの林間都市計画の残像ないし面影がいまだ色濃く反映されていた一寸風変わりな住宅街であったように記憶している。むしろ開発計画が途中で挫折したことが幸いしてか,その頃は現在に比べて雑木林がまだ多く存在しており,まるで旧軽井沢の別荘地を思わせるかのような静かで落ち着いた郊外住宅地といった雰囲気があった。それまでに東京区部,川崎市,横浜市などのアーバナイズド・レジデンシャル・エリア(住宅密集地域)でしか暮らしたことのない自分にとっては,そこは何やら緑豊かな北ヨーロッパの住宅地に迷い込んだような,どこか硬質で冴え冴えとした異国の空気を感じさせた。ちなみに,それは中央林間駅に田園都市線が伸延するよりもずっとずっと以前のことで,第四の山の手だとかキンツマだとかラサールイシイ?だとかの小洒落た世俗的ステイタスなんぞとは全く無縁の世界の話でありました。
冬の良く晴れた日,冷たく乾いた空気を身体全体に受けながら,そのような欧風住宅街の閑散とした道路を歩いていると,道を曲がった先で突然に,うっすらと雪をかぶった丹沢山塊の峰々が彼方に望まれたりすることがあった。それは意外に真近にあるように見えて,きれいに区画された街路の奥にしつらえた端正な屏風絵のように町並みの遠景を飾っていた。道路の場所によっては丹沢大山の左肩背後に真っ白な富士山の頭の一部がチョコンと見えることもあった。ああ,ほんとうに丹沢が近いんだなぁ。何だか住むにはいい所だなぁ。こんな場所で地味に優雅に暮らすって,いったいどんなジンセイだろうかなぁ。。。
とまぁ,そんな風にして1960年代後半の冬の一時期,高校生の私は《林間都市》を彷徨していたのである。そりゃまぁ,誰にだって叶わぬ夢はございましょう。あれから幾星霜。最近では自転車でその界隈をときおり走ることがある。特に目的地があるわけではない。敢えていうなら相模原から座間,大和,綾瀬,藤沢にかけての相模野の台地上のあちこちをユックリユックリ自転車で走ること自体が目的だったりする。クルマの煩雑な往来をテキトウに回避して走っていれば,それは大変に気持ちのよい街中サイクリングである。ただ現在では悲しいかな,世代交代に伴う旧式家屋の改変や別途新たに発生した数多のチマチマ宅地開発などにより,中央林間や南林間の昔からの町並みも当時からだいぶ様変わりしてきており,田園都市線つきみ野あたりの「中の上」といった感じのキラビヤカな家々に比べると,いささか草臥れ感,歪小感が目立っているようである。しかしながらさりながら,見知らぬ路地や四つ辻などで,ふいに奇妙に懐かしい感覚がよみがえってきたりすることがある。既視感とまではゆかなくとも,ふと躓いた拍子に何か大切なことを思い出しかけていたような気持ちになって,一寸もどかしく思うことがある。 ああ,なんだかサケの母川回帰みたいな,あるいは人生双六みたいな感じだなぁ。 なんてホンワカ気分にひたりながら師走の町を自転車でユックリユックリ彷徨している老人一名なのでありました。 (コレ,そこの女子中学生たち,後ろ指は差さないように!)