インターネットのもたらす未来 (何とも憂鬱な...)

1998年08月01日 | 日々のアブク
 このWeb Pageを開いてからちょうど一年が過ぎた。仕事の合間の手スサビとはいえ,いわゆる世俗的趨勢の尻馬に便乗するがごとくに日々のあれやこれやを臆面もなくウダウダと書き散らし,結果,通算すればかなり多くの時間を費やしてきた。それらは私に何をもたらしたか? ほんの少しの自己満足と決して少なからぬ眼精疲労。何とも忸怩たる思いを禁じ得ない。

 インターネットという新しい通信媒体ないし交流手法,それは確かに,私をして“現代社会”,そう,このやけにコンガラガッテそれこそ正体不明になっちまった現代社会ってぇものを,新しい視点,新しい切り口から改めて見直させ,そしてつい最近までは半ば休眠状態にあった社会に対する私の興味・関心を再度掘り起こす機会を提供した。

 インターネットのWWW自体が現代社会の縮図である,ってか? なるほど,世間には出来のいい人悪い人,自己主張の上手い人下手な人,嘘をつく人つかない人,マジメな人フマジメな人,まぁ,実にいろんな人々が居りますことよ!(上記の「人」を「組織」と置き換えるも可)

 ネット・サーフィンによるWWWの閲覧巡回はすこぶるオモシロイ。しかしそれらは結局のところ,社会レベルにおいてはテクニカルな情報論,個人レベルにおいてはメンタルな情報論に帰結するんじゃないかと思う。組織論と世代論,といってもよい。

 私にはもともと未来社会を予見する能力や洞察力なんぞゼンゼンありはしないが,少なくとも現在の社会が情報技術を上手にコントロールできず,逆に情報に強引に引っ張られる形で,確実にアブナイ未来へと向かっていることだけは体感できる。

 つまり,こういうことだ。例えば今日の夕方,女子高生とおぼしきオネーチャンが「ケータイ」でヒャラヒャラ話をしながら,家のすぐ前の道をカッタルソウニ歩いて通り過ぎていった。そのだらしないバカ声とは対照的に,これがなかなかキレイなオネーチャンなんだ(眩しい醜さ,とでもいうような)。その傍らの空き地では,何が面白いのかあっちこっちの白砂をかき集めてタカシが一心不乱に砂ダンゴなどを製作しており,その腰には「ポケット・ピカチュウ」がブラブラと揺れている(今日びの子供らの悲しい拠り所の象徴でもあるかのように)。また,アキラはアキラで,どぎつく着色された「ボーアイス」を口いっぱいにほおばり,これも一心不乱にチュウチュウ吸っている(その怪しかるらむ成分はワタクシには到底理解できない)。そうして父は,道端のコンクリート塀に座って子供らを監視しながら,すぐ頭上を横切る高圧送電線をボンヤリと見上げる。すると,空から電磁波が,悪魔の申し子たる電磁波,電磁波,電磁波が間断なく私たちの上に降りそそいでくる(多分そういうことになっている,らしい)。可視できない情報,可視できない世代,可視できない未来。要するに,かくのごとき社会になっている訳です。

 20世紀の中頃のとある日曜日の午前,愛されるということは人生最大の驚愕である。と,そんな風に歌った誠実な詩人がかつていたと思うが,20世紀の終末に近づいた今,私の人生における最大の驚愕は何であったのかを,そろそろ整理する必要があるようだ。それは,自分自身と家族,そして社会(ごくごく狭い社会ではございますが)に対する一種の清算事業である。そして,インターネットWWWに関して申せば,これまでの苦い経験を踏まえて,もう少し仕事サイドにシフトしたWeb Pageを作ってみようかなんぞと目論でいるわけでして(しかし何とも懲りない奴!)。

 現在の心境? それは,そうさな,例えば35才の宮沢賢治が母木光に宛てた次のような手紙の心情に近い,とだけ書いておきましょう(エラソウニ!)
 

     .....どうかもう私の名前などは土をかけて,きれいに風を吹かせて,
    せいせいした場処で,お互い考えたり書いたりしようではありませんか。
    こんな世の中に心象スケッチなんというものを,大衆めあてで決して書い
    ている次第でありません。全くさびしくてたまらず,美しいものがほしくて
    たまらず,ただ幾人かの完全な同感者から『あれはそうですね』という
    ようなことを,ぽつんと云われる位がまずのぞみというところです.....
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