恐らくほとんどの方が御存じないものと思われるが,私どもの住まう当盆地の南側に連なる渋沢丘陵の一角に,現在,大規模霊園の建設が計画されている。その面積は約20ヘクタール,墓地区画数約1万5000基,駐車場約1,000台分といった規模だそうな。開発面積は 正確には 198,838平方メートルということで,これは県のアセス条例(神奈川県環境影響評価条例)においては「墓地,墓園の造成」をおこなうに際してその面積が20ヘクタールを超える場合は事前の環境アセスメント調査が必要とされていることから,その要件を免れるために20ヘクタール以下ギリギリに抑えたというわけだろう。ま,よくある話で,そのことの是非については今ここでは問わない。むしろ問題なのは,土地改変の種目内容が何であれ,このような大規模開発計画の事前手続きがきわめて秘密裏に着々と行われているというマギレモナイ事実だ。それをチェックする「審査官」としての行政当局も,あるいは「お目付役」としての新聞等のマスコミ系報道機関も,その開発計画を当面は人々に広く周知しないことを暗黙のうちに諒としているというナサケナイ現実だ。イタズラに平地に乱を起こすのは得策でないとでも思っているのか,いかにもコソクな心証が関係各位に見え隠れしている。
当の霊園は,予定通りに進めばこの夏にも工事が着工されて2年後には完成の運びとなるらしいが,以上のような次第で,計画地に隣接する栃窪,峠,渋沢などのごく限られた地権者らを除き,盆地内外に住まっている大多数の住民はこの霊園造成計画の存在自体を全く知らないままでいるようだ。ほんの数日前,神奈川新聞の地域版に『霊園着工,延期を ノスリ生息 と秦野の3団体』なるタイトルで三段記事が掲載されたことがメディアによる初めての情報提供ではなかっただろうか。それとて,ごく一部の行動的環境至上主義者(いわゆるサトヤマ・エコロジスト)による行政への突き上げがローカルな神奈川新聞(公称発行部数:23万部)に一過性の記事として取り上げられただけの話であって,大手シンブン各紙は未だに一切報道していないようなので(読んでませんので推測デスガ),大部分の人々は今後もそのことを知らないままでいるうちに,アレヨアレヨというまに工事が始まってしまうのであろう。
実は私自身も,この開発計画を知ったのはつい2ヶ月ほど前の3月下旬のことだった。いつものように渋沢丘陵のそこかしこを自転車で徘徊していた折,ある日突然,当該地域内の農道小径の路傍に《特定環境創出行為の計画の概要》なる立て看板が設置されているのに出くわし,それを読んで初めて計画内容を承知した次第だ。どうも最近では個人的な情報収集アンテナを押し入れの奥の方に仕舞い込んだままで,なるべく世俗的雑音を自らに取り込まぬようにしていることもあって,ハズカシナガラそれは全く「寝耳に水」の事柄だった。あぁメンボクナイ。ただし,その地域一帯は長らく某大手ゼネコンの管理地となっていたようなので,いずれそのうち何らかの形で開発の「魔の手」が襲いかかってくるのかも知れないなぁ,などと薄々危惧してはいたのだケレドモ。
大規模霊園という施設それ自体は,現代社会の要請に時宜良く応えた,いわば時代のニーズに合致したものとして,ソレナリニ「望ましかるべき」ウツワモノなのだろう。なにしろ,高齢化社会に向けてまっしぐらの我が国の現状である。高齢化の進行とは,すなわち「ゆりかご」よりも「墓場」の方に重きを置いた社会構造の変化である。「姥捨て山」の存在が必要悪,もとい,生態遷移の避けられぬ帰結と受け取られたのは遙か昔の話であって,今では「終わりよければすべてよし」的なライフスタイルを誰もが望むようになってきたわけだ。当地における一般的状況を見ても,特養老人ホームも,老人デイサービス施設も,老人介護支援センターも,老人福祉センターも,各種取り混ぜて次々と建設されているし,町中の大道から路地裏にいたるまで老人送迎車両が日々めまぐるしくも危なっかしくも右往左往しているし,加えて,それらの先を見据えたものとして,そこらのお寺の墓地に毛の生えたようなごく小規模な「霊園」も盆地内外の各地にいつのまにか乱立している。ウチなどにも最近では新規墓地御案内(=客引き)の電話がかなり頻繁にかかってくる。ったくもう,彼らは当方の身元年齢情報を一体どこから仕入れているのか知らん。
その一方で,規模が大きく価格もリーズナブルな公営霊園としては,県西部エリアには小田原市の久野霊園と平塚市の土屋霊園があるくらいだ。当然ながらそれら公営霊園に「入居」するのは極めて困難な所業であって,それは例えば昭和30年代における当時の最先端生活様式を象徴するウツワとしての新築公団住宅への入居抽選などと比べても格段に厳しい,それこそ天文学的数値の「当選確率」とのことである。私事ながら,小田原,足柄方面に住まっていた私の兄と母は,今から8年前と4年前,それぞれの没後に公営の霊園に入ることを望まれたのであったが結局それは叶わず,やむなく伊勢原方面および小田原方面にある民間の小規模霊園に安住の地を求めざるをえなかった。
そういう意味では,現在の社会情勢のなかにあって,大規模霊園の建設というものは,例えばゴッタ煮的狭小密集住宅団地や閉鎖的工業団地や,ゴミ焼却場や産廃処分場などのメイワク施設や,あるいは昨今異常なまでにモテハヤサレテいる太陽光発電ないし風力発電等のトンチンカン施設や,はたまた怪しげなレジャーランドの建設などと同一に論じることはできない。それは,地域にとって必要性が高く,かつ将来性のある土地利用形態であって,十分に意義のある土地開発なのである。行政当局における情報発信トーンダウンも,そのような大義名分を踏まえたという面も多分にあるのかも知れない(と,少しは好意的解釈も付加しておく)。ちなみに,私自身は大規模霊園の建設自体には基本的に賛成の側に与するものである。
そこで問題となってくるのは,渋沢丘陵というサトヤマ・エリアにおいて「緑地=自然」と「霊園=開発」とを天秤に掛けた場合の環境的な重量バランス,それに対する地域内評価ならびに地域内コンセンサスの方途だろう。ある地域を静的な固定化されたものとしてではなく,動的な変化のある棲み場(ニッチ)としてとらえ,そこに加えられるさまざまなインパクトに対処しようとする場合,その場所を生かすも殺すも,その価値を高めるも貶めるも,最終選択責任はあくまでそこに住まう「住民」が主体となるべきなのであり,そしてその評価コンセンサスは,スベカラク将来を見据えたうえでの「現在」を基準としなくてはならない。それゆえに,これはあまり言いたくないことだが,この期に及んで猛禽類(ノスリ)なんぞを突然持ち出してアーダコーダと傍から茶々を入れるのは,いささか問題を歪小化し,形骸化することになるのではアルマイカと懸念するものである。猛禽本位ではなく,あくまで住民本位。住民のシアワセは猛禽のシアワセと決して等値ではないのだ。さらに述べれば,そもそも私個人としては,杓子定規な生態系理論をことさら振りかざすサトヤマ・エコロジストの考え方は基本的に相容れない。ワシタカ!ワシタカ!と連呼し,崇め奉る,まるで古代ゾロアスター教のようなその姿勢はチョット御勘弁願いたいと常々思っている。「生物多様性のシンボル」「食物連鎖の頂点」などというキャッチコピーを錦の御旗に掲げるのは,それこそ二昔も三昔も前の古びた手法であろうかと思う。とは申せ,彼らの土地や自然に対して注がれる「愛」の強さには学ぶべきものがあることも確かであって,願わくば,もちっと「正しい愛」を育んでいただきたいものである,と,今後の事態の推移を盆地の一隅より興味深く見守ってゆきたいと思っている次第だ。
。。。とまぁ,以上は例によって老人戯言(ジジイノタワゴト)として軽く読み流していただきたく存じます。エラソウナ物言いは平に御容赦下さい。さてと,それではこれから本題に入ることにいたしましょう。 え,本題だって? まだ続くのかよ! などと申すなかれ。こちらも多分は例によってドーデモイイ話なのではありますケレドモ,いかんせん乗りかかった舟と観念されて,出来ますれば引き続き読み流して下されんことを切に望む次第であります。
さて,当の霊園計画地は,渋沢丘陵の八国見山(標高319.4m)から竹山(標高307.8m)へと南北に続く尾根道のドマンナカに位置しており,この尾根筋を根こそぎ削り取り東西の谷を埋め立てて造成が行われるということだ。以前にも記したことがあるが,実はこのあたり一帯の丘陵地は私の自転車散策におけるお気に入りのトレイル・フィールドなのである。その土地が近々消滅してしまうであろうことに,個人的にはかなり淋しい気持ちを抱かざるをえない。思い起こせば今から40年以上も昔のこと,横浜市の南部から横須賀方面にかけて連なる三浦丘陵地域において,大規模宅地開発造成による樹木の伐採,土地の掘削・埋立といった緑地侵食が次々と進行してゆくさまを,当時そのエリアに住まう貧乏学生の身であった自分は,それこそ日々刻々と目の当たりにしていたのであった。高度経済成長期マッタダナカの時代,土地開発は輝ける未来を切り拓く正義であり,まるで戦車軍団のようなブルドーザー群には旭日旗が掲げられているかのごとくであり,行政,住民の誰もがそれらの宅地造成を手放しで歓迎していた。その頃の私は現在のように自転車ではなく徒歩で丘陵地を散策,というか,農道・小径・ケモノ道の別なくところかまわず踏破していたのであるが,自らが足跡を印したそれらのルートが,すぐ背後から迫ってくるモンスターに端から徐々に喰われてゆくように,日に日に消滅していったのである。されどもしかれども,そのことに対して何らかの戦いを挑むことも抵抗することも敵わず,ただただムキになって残された山道を歩き続けるばかりだったのである。。。
同じような苦い思いを心に抱いていた人々は,昔も今も,少ないとはいえ恐らく幾人かはおられるだろうと思う。時代の「真っ当な」変化に対する得も言われぬ居心地の悪さ。分かっているのに,分かっているけど,それにしても何とかならないものか,と。 けれど歴史は繰り返されるのだ。 そんなわけで,ここでひとつ未来予想図的な提案を以下に示しておくことにしたい。ま,半分はヴィジョン,半分はイリュージョンですが。
現在,当盆地周辺地域にはゴルフ場が数多く立地しているが,これらの存在は,山麓地や丘陵地を日々自転車で走り巡り,かつゴルフなんぞというヘンテコ遊戯とは全く無縁の私などからすると実に鬱陶しい土地囲い込み(エンクロージャー)としての存在である。広大な開放的空間がムダに人々の通行往来を阻害している。のみならず,最近では獣害防止柵で周囲をガッチリと囲んでしまったものだから,ケモノたちの自由な往来をも阻害するようになった。まことに由々しき事態である。そもそも慢性デフレ経済下の今日,ゴルフ場というシロモノはこんなに数多く必要とされているのだろうか? それ以前に,現在それらは商売として成り立っているのか? 獣害防止柵の外から(あるいは時々は柵内に潜り込んで)観察する限りでは,実際の利用者数(対面積比)はまことに微々たるものだ。特に平日など,その広大な開放緑地空間内にはまったくといってよいほど人気がなく,気持ちのよいくらいに閑散として鳥獣の楽園と化している。同じエリアにあって平日休日を問わず老若男女多くの人々でいつも賑わっている県立秦野戸川公園などと比べると,彼我の違いは実に甚だしい。それゆえ,昨今の社会情勢を勘案すれば,新たな霊園創設のために緑濃い丘陵地を切り開いて大規模造成をおこなうよりも,数多存在するゴルフ場のひとつくらいを一旦廃業させてそれを大規模霊園へと種目転換した方が得策ではないか。いやむしろ地域全体のシアワセのためには積極的にゴルフ場が霊園に転用されて然るべきではなかろうか。と,前々からそんな風に思っていた。
インターネットで検索すると,ゴルフ会員権の売買相場というのを即座に知ることが出来る。取引業者により多少の相違はあるが,例えばウチと同じ町内にあって拙宅から自転車で5分足らずのところの《秦野カントリー倶楽部》は,現在の売買相場が5~17万円程度とある。今から20年以上前のバブル景気時にゴルフ会員権を「転がして」いた人物を身近に知っていた者からすると,これは何とも呆れるほどの価格である。もうタダ同然ではないか! ついでに近在の別のゴルフ場の売買相場についても記しておくと,同じくウチから自転車で10分圏内のところにある《大秦野カントリークラブ》は2~20万円,《東京カントリー倶楽部》は5~20万円,自転車20分圏内の《小田原ゴルフ倶楽部松田コース》は御相談(値が付かないのか?),《レインボーカントリー倶楽部》が150~205万円,さらに自転車30分圏内まで広げると《チェックメイトカントリークラブ》が35~75万円,《レイクウッドゴルフクラブ》が,おー,ここは凄いゾ 1,400万円もする。それからそのお隣の《平塚富士見カントリークラブ》は360~440万円,と,大体そんなところである。
売買相場から察すれば,《秦野CC》,《大秦野CC》,《東京CC》などのゴルフ場は十分に廃業・転換の候補地となりうるだろう。なかでも《東京カントリー倶楽部》,ここは西向きの斜面にあって,正面には大きく立派な霊峰・富士の姿を望むことができ,まさに西方浄土を崇めるに相応しい大変素晴らしい場所だと思う。面積も約140ヘクタールと広大で,何万基,何十万基の墓地を区画したところで残存緑地もタップリと確保できるだろうし,レイアウトもお好み次第だ。東名高速道の秦野中井インターから車で約10分の距離と交通の便も良く,また,すぐ近くには棚田で有名なナガヌキの里地里山エリアも隣接しており,さらに県道70号でヤビツ峠を越えれば宮ヶ瀬ダム方面にも抜けられるなど,墓参とからめたレジャー行楽の利便性も高い。大規模霊園としてのさまざまな好条件を備えた,まさに「終の棲家」として絶好のロケーションではないか! さぁ,善は急げ。時の前髪を掴むのは早い者勝ちだゾ!
。。。なんて,以上はあくまで老人性妄想(イリュージョン50%)でありますからして,関係者各位におかれてはくれぐれも気を悪くなさらぬように。 あ,それとも既に水面下ではこのような企てが画策されているのでしょうか? であれば尚更のこと,一刻も早くその実現に向けて行政も動き出して欲しいモンであります。現行のアセス条例改正だとか新条例の策定だとか課題は山積しているだろうが,決して不可能ではないと思う(ヴィジョン50%)。シアワセとはそうやって求め,掴み取ってゆくものだ。クロイワ某は何をモタモタしておる! (頓首)