昨日の午前,ある電気部品を年末急ぎ調達する必要が生じたので,自転車に乗って電気屋さんへと買い出しに出かけた。当盆地においては,大型家電店といえばヤマダYAMADAかノジマNOJIMAの二者択一である。私の場合,基本的には後者を第一に選択し,手に入らないときはショーガナイので前者の方に回る(特に深い意味はございません)。昔は他にもラオックスLaOXとかダイクマDAI-KUMAとかの店舗があったのだが,昨今の社会経済情勢を鑑みればマーケットとしての魅力に乏しいローカルエリアにおける家電量販店の閉店,撤退は時代の流れ,いつのまにやら消えてしまった。それに代わって大型ホームセンターがポコポコと幾つも新規立地参入してきたけれども,やはり餅は餅屋で,家電製品(特にパーツ類)の品揃えにおいてはイマイチ,イマニなのである。恐らく現在では多くの人々がインターネット経由でアマゾンAmazonとかヨドバシYodobashiとかを利用するようになっているのだろう(かく申す私とて,急を要しないときはそうしている)。ああ,そのうちヤマダも消えるかも知れないな。せめてノジマだけでも残って欲しいものだが。
そのノジマ秦野店は,県道62号(平塚秦野線)と県道705号(堀山下秦野停車場線)とが交わる河原町交差点のすぐ近くにある。この河原町交差点というのがまた渋滞イライラポイントとして当地ではつとに有名な場所で,年がら年中クルマが糞詰まり状態になっている。そのせいもあってか,まことに剣呑かつ無礼な右折車・左折車をしばしば見かける。横断歩行者が常に危険に晒されている実にイヤな交差点のひとつだ。私は自転車でしか通らないのだが,通過の際,前後左右のバカ・ドライバーの挙動をシッカリ注視すること怠りない。よっぽど酷い輩に対しては罵声を浴びせたりもする。ただしマイムmimeで(藁)。
交差点の北東角は,土地が中途半端に「余った」のだろうか,小公園として整備されている。その公園の鉄柵の手摺り越しに,すぐ下を流れる金目川を見渡すことができる。二級河川ではあるが,河道や河畔の状態は雑然として荒んでおり,いわゆる「親水的」とはほど遠い,ほとんど見捨てられたような川筋だ。しかしながら,個人的な思いを吐露すると,そんな川をボンヤリ眺めているのが私は好きなのだ。つかのま,剣呑な道路交差点のことなんぞ忘れて川の風景を無心に眺める。巨岩・大小礫・異形ブロックなどが無造作に配置された河道,瀬と淵とを複雑に形作る澄んだ水の流れ,水辺の草叢や灌木の枝葉が風に優しくそよぐさま,ありふれた水鳥が何かを求めて水面をじっと見つめている姿,などなどの情景を いつまでもいつまでも飽きずに眺める。五感を通して受け止められたそれらの風景の総体は,我が記憶の奥底に沈んで眠っているであろう何かを呼び起こすための扉のような,そんな心持ちがする。ノスタルジア,だろうか。あるいは,センチメンタル・ジャーニーだろうか。でも,その扉を開けるカギは どこにある?
少し下流の先には西沢という名の小渓流が金目川に合流している。そこはホトケドジョウ Lefua echigonia が数多く生息している愛らしい細流なのだけれども,そう言ったところで,やはり本流と同様に人々からはほとんど見向きもされない流れなのである。けれど,ホトケドジョウたちにしてみれば,そんなニンゲン世界の身勝手な事情などにはお構いなしに,その場所で,その流れのなかで,毎年毎年,生まれ,生長し,世代交代を繰り返し,春・夏・秋・冬,日々ひっそりと生きながらえている。いのちが ずっと続いている。
トラフィック・ロード。カレント・ウェイ。道路の流れ,河水の流れ。そして,遺伝子の川。そう,やはり何かを思い出そうとしているのだ。老いたるアタマは,ソレナリニ必死で何かを探しているンだ (やれやれ!)
そのノジマ秦野店は,県道62号(平塚秦野線)と県道705号(堀山下秦野停車場線)とが交わる河原町交差点のすぐ近くにある。この河原町交差点というのがまた渋滞イライラポイントとして当地ではつとに有名な場所で,年がら年中クルマが糞詰まり状態になっている。そのせいもあってか,まことに剣呑かつ無礼な右折車・左折車をしばしば見かける。横断歩行者が常に危険に晒されている実にイヤな交差点のひとつだ。私は自転車でしか通らないのだが,通過の際,前後左右のバカ・ドライバーの挙動をシッカリ注視すること怠りない。よっぽど酷い輩に対しては罵声を浴びせたりもする。ただしマイムmimeで(藁)。
交差点の北東角は,土地が中途半端に「余った」のだろうか,小公園として整備されている。その公園の鉄柵の手摺り越しに,すぐ下を流れる金目川を見渡すことができる。二級河川ではあるが,河道や河畔の状態は雑然として荒んでおり,いわゆる「親水的」とはほど遠い,ほとんど見捨てられたような川筋だ。しかしながら,個人的な思いを吐露すると,そんな川をボンヤリ眺めているのが私は好きなのだ。つかのま,剣呑な道路交差点のことなんぞ忘れて川の風景を無心に眺める。巨岩・大小礫・異形ブロックなどが無造作に配置された河道,瀬と淵とを複雑に形作る澄んだ水の流れ,水辺の草叢や灌木の枝葉が風に優しくそよぐさま,ありふれた水鳥が何かを求めて水面をじっと見つめている姿,などなどの情景を いつまでもいつまでも飽きずに眺める。五感を通して受け止められたそれらの風景の総体は,我が記憶の奥底に沈んで眠っているであろう何かを呼び起こすための扉のような,そんな心持ちがする。ノスタルジア,だろうか。あるいは,センチメンタル・ジャーニーだろうか。でも,その扉を開けるカギは どこにある?
少し下流の先には西沢という名の小渓流が金目川に合流している。そこはホトケドジョウ Lefua echigonia が数多く生息している愛らしい細流なのだけれども,そう言ったところで,やはり本流と同様に人々からはほとんど見向きもされない流れなのである。けれど,ホトケドジョウたちにしてみれば,そんなニンゲン世界の身勝手な事情などにはお構いなしに,その場所で,その流れのなかで,毎年毎年,生まれ,生長し,世代交代を繰り返し,春・夏・秋・冬,日々ひっそりと生きながらえている。いのちが ずっと続いている。
トラフィック・ロード。カレント・ウェイ。道路の流れ,河水の流れ。そして,遺伝子の川。そう,やはり何かを思い出そうとしているのだ。老いたるアタマは,ソレナリニ必死で何かを探しているンだ (やれやれ!)