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いわれのある誹謗中傷 (生きるという病気)

1999年06月01日 | 日々のアブク
 今日の今日まで,このweb pageにおいては他人に対するあからさまな誹謗中傷の類は極力控えてきたつもりであるが(ヲイヲイほんとか?),そんな穏健派に属する私でも,ごくごくたまには陰でこそこそとヒボーやチューショーの一つ二つも放ってみたくなることだってありますわいな。例えば冷たい雨のしとしと降り続く晩春の夜半など,PCの前にぼんやりと座って,これまでの決して短かからぬ来し方のあれこれをつらつら思い浮かべたりしていると,吉田拓郎のように,じゃなかったアントワーヌ・ポルの《通行人》のように,得も言われぬホロ苦い悔恨の情が遥か記憶の底からフツフツと湧き上がってくる。所詮ニンゲンなんてララーラーララララーラー,風にそよぐ水辺の葦のごとし,いやまったく実に弱いもんです(誰がニンゲンじゃ?)。そんなときは“そのまっくらな巨きなもの”を振り払うように,当面の敵役,目の上のタンコブ,路上の不法投棄物に対して少々遠慮がちに毒づいてみたりする。いや,ほんの少々だけ(期間限定)。言ってみればウダツの上がらない営業マンのストレス解消,ゲーセンのモグラ叩きみたいなもんでありましょうか(誰がモグラじゃ?)。

 最近,ある公的機関から刊行された冊子を閲見する機会を得た。それはかなり以前に私自身が少なからず関わっていたワーキングの成果品の一部であるが,とうに忘れかけた今頃になってようやく陽の目を見たようだ。冊子とはいえ100ページを越えるヴォリュームである。その刊行物の冒頭で,某地方において某分野の権威と自他共に崇め奉られている某エライ・センセイが,その某分野に対する関心・寄与・足跡・業績等々を表向き控えめにその実誇らしげに開示しており,あまつさえ,自らは当該主題に関する基本理念の指導・助言・監修ならびに全体の総論となる1章を執筆したなどと,これまた誇らしげに示していた。「いやぁ,他の章に比べてテンションが高いねー,気合いが入ってるねー。ちょっと格調が高くて他と馴染まないような気もするけど,これはこれでいいんだろうなぁ。」とか何とか,これは内輪の席で自らが執筆したと称する箇所に対しての御感想(自画自賛)である。

 以下にそのエライ・センセイの「執筆箇所」の一部を原文のまま引用する。左側がセンセイが執筆したと主張される冊子の文章,右側が実際にセンセイが書かれたオリジナルの原稿である。すなわち,右側のセンセイの原稿を私が加筆・修正して左側の文章とした。リライトする際,なるべくセンセイの御機嫌を損ねぬよう,オリジナルで生かせる部分は出来るだけ生かしたつもりである(その分,要らぬ手間が余計にかかった)。


  ◆センセイが執筆したとされる冊子の文章

    (期限切れにつき,削除)

  ◆センセイのオリジナル原稿

    (同じく,削除)

 
 もちろん,こんなことは学界,官界,政界,産業界,出版通信業界,さらには芸能界などなど,ありとあらゆる世界で慣例的にまかり通っている一般常識である。その事実を認めるに当然やぶさかではない。そして,私のリライトが適切であったかどうか,それも人によって意見が分かれるところだろう(単なるヨケイナオセワであると指摘されるかも知れない)。

 むしろ問題の所在は,ワーキングの成果が印刷物として公開されたという事実が一方にあり,他方その事実に対する某エライ・センセイの受け止め方,ないし取るべき態度の如何についてなのである。自らが提供したモノに対する対価を要求すること自体は,それはそれで正当な行為であり,A(供物)=B(見返り)のバランスが適正である限りは何の文句を言われる筋合いはないだろう(適正かどうか改めてよーく考えてみよう)。しかし,基本的なスタンスとして,裏方を含めた関係者の様々な苦労なぞ何処吹く風,“オレガ,オレガ”の意識が少々強すぎるのではないかと思うのは,果たして私の僻目であろうか。

 実は私自身のことなどはどうでもいい。この件に関しては単なるゴーストライターとしての役回りに過ぎないのだから。しかし私と一緒に長期間にわたり作業を行ってきた関係者たち,とりわけ,某エライ・センセイの元に遠路はるばる何度も何度も足を運び,そのたびにセンセイの気まぐれ(朝令暮改・立腹・約束反古・弁解等々)を相手に辛い思いを重ねてきた渉外担当者の血の滲む苦労(などという言い回しが決して大袈裟ではない),そのような苦労を傍らで見続けてきただけに,ここはやはりどうしても遠山の金さんないし桃太郎侍の気分にならざるを得ない。 Merde! Va t'en!

 卑近な例(身近な卑しい事例)を引き合いに出せば,昨今,ある特定のテレビ・週刊誌等を盛んに賑わしている「サッチー・ミッチー論争」の,その一方の当事者のメンタリティに類似するものを本件の某エライ・センセイに感じてしまうのは,果たして私の僻目であろうか。これを要するに“エライさん”が“エライ”を上手にコントロール出来なくなると,それこそ始末に負えなくなることの証左である。元極道作家の阿部譲二氏がどこかの雑誌コラムで極めてまっとうに怒っていたが,サッチーネタを小出しにバラ撒いて食っている奴等とそれに食らいつく雑魚ども,そして当のサッチー本人,いずれも実にサイテーだよ!極道以下だよ! というわけで,以上は“エライさん”に対する一般論としてお読みいただきたい。もし言葉が過ぎたところなどありましたら平に御容赦をお願いする次第であります(後出しジャンケン)。

 それにしても「サッチー」とかいうキモチワルイ呼び方はいいかげん止めにしたらどうだろう。浮浪者を「ホームレスの人たち」,被差別民を「地区住民」というのと同じで,本質を直視することを意図的に避けた言い方だ。ああいう輩は,通常「クソババア」と軽蔑を込めて呼び捨てるのが筋ではないか(もちろん本人の前でそうは言えませんけど)。

 きりがないので以上でモグラ叩き終り。あーすっきりした。これで明日からまた頑張れるかな(で,誰がモグラじゃ?)。
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