東急東横線の桜木町駅がMM21線の開業に伴い来年1月で廃止になる,というニュースが先頃報じられていた。はぁ,左様ですか。現在の私にとっては全くの他人事に属する話題ではあるけれども,何を隠そう,今を去ること10数年前には「桜木町駅←→中目黒駅」間の通勤定期所有者だったこともあるのだ。
当時,JR関内駅下車徒歩1分,地下鉄関内駅のほぼ真上に位置する場所に住んでおり,そこから中目黒駅近くに事務所を構える小さな会社まで,始発駅から座って楽して通勤するために,毎日毎日,関内から東横線桜木町駅までの約10分の道のりを歩いて通っていた。
朝の7時45分頃,某オンボロ雑居ビル4階の住まいを出て,そそくさと階段を下り,表通りの舗道を桜木町方面へと向かって足早に歩きだす。ビル1階のドラッグストア,上海亭,北京飯店の前を過ぎ,中央信託銀行の角で関内大通りの信号を渡り,文具のマルタン,それから三井信託銀行ビルを過ぎて,馬車道交差点の信号を渡り,クレジットの丸井,小さな金物屋(カギ屋),欧風中華料理屋,ウナギの「わかな」の裏口,フードショップの明治屋,日立コンピュータの真新しいオフィスビル,かなり草臥れた中小企業センタービル,エキゾチックなファサードの横浜指路教会,古風な門構えの歯科医院,ペンシルタイプのスカイビル,地下にライオンビアホールのあるサッポロビルなどなど,もうあらかた記憶がアイマイになってしまったが,その通りは関内地区を東西に走る主要幹線のひとつ尾上町通りなわけで,朝の喧騒にざわめくそんなオフィス街を坦々と通過した後,ダルマ船が水面に重なりあうように浮かぶ大岡川に架かる大江橋を渡り,吉野家の先からゴールデンセンターの地下通路をくぐって東横線桜木町駅へと辿り着く。そして8時10分発の急行の前から4両目の隅の席にちゃっかり座って一息入れる,といったルーチンであった。
夜の帰り路は,その日によって野毛に立ち寄ったり,関内の相生町や本町へと向かったり,日ノ出町方面に足を伸ばしたり(^_^;),といろいろだったけれども,少なくとも朝の通勤に関してはルートも時間も全くといっていいほど変わることがなく,約2年半の間,コマネズミのようなゴミムシのような歩行が飽くことなく律儀にも続けられた。それは1980年代の半ば,あの忌まわしき「横浜博覧会」が開催される少し前のことである。
そんなわけで,桜木町界隈には数え切れないくらいの思い出がある。ただし,それらの多くは屈折した苦い思いで彩られており,例えばヤハギ・トシヒコ先生描くところのダンディズムなるものとは雲泥の差があった。といって,修業時代のヤマザキ・マサヨシ選手などとも方向性は全く異なっていたわけで,要するに,どこにでも存在しうる無名者の単独歩行が永劫運動のように繰り返されていたに過ぎなかった。
以下は,その頃さる知人に宛ててしたためた近況報告の一節である。
============ ココカラ ===========
(前略) ....過日,目黒銀座の映文堂書店にて立ち読みをいたしておりました。関川夏央と谷口ジローの凸凹コンビが物すところのセンチメンタル・ハードロマンなんぞを探していたのです。その少し以前に『西風は白い』という比較的初期の作品を読んで,その物語り構成のタッチにいたく感心してしまい,他の作品もいろいろと読んでみたくなったからです(そうそう,映文堂は2週間ほど前に潰れちまいましたよ,資金繰りがつかなくなったとかで。あはは,4年でダメになっちゃいました,と主人がせいいっぱいの笑顔で答えていたのが印象的でした。身辺に淋しいことがまたひとつ増えました)。
で,件の凸凹コンビのことですが,恐らくは私とほぼ同世代であろう関川夏央は,そのストーリー・メイキングに当たって一体誰の影響を受けたのだろう。どんなジャンルから影響を受けたのだろう。文学,映画,音楽? サルトルやカミュではない。チャンドラーやハメットもちょっと違う。もちろんビートルズやボブ・ディランなんかじゃない。それは恐らく“第三世界”そのものだったのでしょう。その,所謂真正直なまでに不幸な世界の在りようを自己の裡でいったん相対化し,改めてそれを劇画的に脚色することで,この脳天気なまでに幸せそうな私共の世間に対して搦手から異義申し立てをしたかったに相違ありません(あぁお前たち,そんな眼でこの社会を見るんじゃない....)
そこへ,竹の子族風の少女が4人,いや少女などというのはオコガマシイ,単なるこまっちゃくれたガキどもではありますが,それらの一団がドカドカと本屋に入ってきた。私のすぐ後ろの狭い通路をすり抜け,マンガ本のコーナーに向かいました。連中のひとりが宮沢賢治の絵本を手に取って眺め,一言いわく。
「あっ,『猫の事務所』がある。アタシ,これ好き。」
そうか,そうか。こんなガキにも,竃猫の悲しみが多少なりとも共感を覚えさせるものであるとすれば,宮沢賢治の遺した仕事も確かにこの現在に密やかに息づいていると言えるのかもしれない。そして関川夏央は,きっとそんな竃猫の意志を継承し,何とかしてそれをこの現在に生かそうと自らを精一杯ピエロに擬したのでありましょうか。曖昧な記憶の糸がそんな一点の情景を今の私に思い起こさせます。
その夜の帰り路,桜木町の駅を降り,薄暗い舗道を家に向かって歩いている途中,大江橋を渡って角を曲がったすぐのところで,目の前の路上に何か小さな黒い塊があるのが目に止まりました。そっと近づいてよおく見ると,それは一匹のヒキガエルでした。道の隅でじっと動かずにうずくまっていた。その傍らには,その朝私が会社に出掛ける時に確かに見た,恐らくは自動車に引き潰されたにちがいないカエルの死体がありました。そう,そのヒキガエルは死んでしまった仲間のそばでうずくまってじっとしていたのでした。恋人かオトモダチか,あるいは親兄弟か,それはわからない。昨日までいっしょに遊んだり笑ったりしていた者が,あるとき突然急に動かなくなってしまった。(どうしよう,どうしよう) そのシーンは私にえも言われぬ何かを語りかけているようでした。彼の国に,ダニエル・ギシャールという日本ではほとんど紹介もされず従って全く売れもしなかった歌唄いがおります。Un jour de la vie,訳せば「人生のある一日に」とでもいった題の,本国ではちょっとはヒットした歌もあったっけ。そのヒキガエルをみていると,何故だか急にギシャールのことを思い出した。今頃どうしているんだろう。地味で渋いカエルみたいな声をした,何となく曇りガラスのように屈折した男だった。でも,私は彼とその歌が好きだった。そして,ひとり夜道を歩きながら,ミットモナイと承知しつつも,思わず彼の声を真似て小声で口ずさんでしまった。何やら,葬送歌風に。
Un jour de la vie, a rester au lit
Malgres les soucis, ca ne me deplait pas.....
ヒキガエルの悲しみ,竃猫の悲しみ。まるで心が風邪をひいたような,突然の意味のない酩酊。そう,それは今年2月の終わり頃のことでした。
天職という言葉が信じられる時代はとうに過ぎ去ってしまった,と小林秀雄が書いたのはかなり昔のことです。爾来,私は自らにとっての最適職業の探求に情熱を傾けることを基本的に放棄してしまった。それよりも,中島みゆきが唄う,この暗い時代を泳ぐ脆弱な小魚の群れのなかにあって,自らがその魚群のどのポジションにあるのかを常に見極めつつ,その周辺環境中にバランスを保って定位することに心を砕いてきたと言ってもいいでしょう。ちょうど,春先に海から河川に遡上してきたサクラマスの産卵親魚が,中流域の淵の深みで,まるで哲学でもするように流れの上手に向かってじっと定位し続けているように。なぜならば,私たちの生活が常に複数の“関係”によって成り立っている限り,それらの関係がどのように成就し,錯綜し,破綻し,或いは崩壊するかは,決して自らの裁量だけでは決定しえないことなのですから.... (後略)
============ ココマデ ===========
いささか気恥ずかしい思いとともに改めて振り返ってみれば,すこぶる情調的ながら,多分に偏狭的ながら,それでも「歌」はいつの時代にもワタクシのココロノササエになっていたことが窺い知れる。何せ,ダニエル・ギシャール Daniel Guichardを約10年間も引きずっていたわけだから。
つけ加えれば,さらに時代を遡って,いまだ路面電車が走っていた頃の1960年代初頭の桜木町・関内界隈についても,ほんの少しくらいは知っている。その頃は川崎市のほぼ中心部,税務署のすぐ裏に住んでいたのだが,ある事情により,関内尾上町通りの裏手,常盤町だか住吉町だかにあったボタン屋やらネーム屋やらに時折出掛けていた(ヘンリー・ミラーの少年時代をイメージしていただきたい)。あるときは京浜東北線に乗って川崎駅から桜木町駅まで,またあるときは第一京浜国道をボロ自動車に便乗して。川崎という目一杯雑然としたゴッタ煮的寄り合い集落都市で日常を暮らしている者がたまに訪れる横浜・関内という洗練された都市。個々の造作はいささか古び草臥れてはいるものの,揺るぎない歴史に裏打ちされた確固とした様式を示すその街のたたずまいは,子供心にも鼻にツンとくるような「都会の匂い」を感じさせた。つかのま,見知らぬ異国をさまよう浮浪児にでもなった気がした。大江橋のたもとを鉄輪を軋ませながらカーブを描いて通り過ぎる市電のはるか先には横浜公園の深い緑と平和球場,それから進駐軍のカマボコ体育館までもが望まれた。馬車道界隈はファンキーな裏町の香りを目一杯漂わせて輝いていたし,伊勢佐木町や吉田町はまだ見たこともない上海租界地の相貌を空想させたし。あるいはその頃,桜木町駅前でヤハギ少年とすれ違ったことがあるのかも知れぬ。そして当時の自分は,確かコニー・フランシスなどのアメリカンポップスを好んでいたように思う。
少年期に経験した高度成長時代に入る前の古き横浜と,壮年の一時期を過ごしたバブル経済直前の右肩上がりの活気に満ちた横浜とが,いま私の記憶のなかでシンクロしている。なるほど確かに,人が生まれ,成長し,やがて老いさらばえるように,街は生まれ,街は発展し,そして街は滅びてゆく。
てなわけで,サヨウナラ,桜木町駅!
当時,JR関内駅下車徒歩1分,地下鉄関内駅のほぼ真上に位置する場所に住んでおり,そこから中目黒駅近くに事務所を構える小さな会社まで,始発駅から座って楽して通勤するために,毎日毎日,関内から東横線桜木町駅までの約10分の道のりを歩いて通っていた。
朝の7時45分頃,某オンボロ雑居ビル4階の住まいを出て,そそくさと階段を下り,表通りの舗道を桜木町方面へと向かって足早に歩きだす。ビル1階のドラッグストア,上海亭,北京飯店の前を過ぎ,中央信託銀行の角で関内大通りの信号を渡り,文具のマルタン,それから三井信託銀行ビルを過ぎて,馬車道交差点の信号を渡り,クレジットの丸井,小さな金物屋(カギ屋),欧風中華料理屋,ウナギの「わかな」の裏口,フードショップの明治屋,日立コンピュータの真新しいオフィスビル,かなり草臥れた中小企業センタービル,エキゾチックなファサードの横浜指路教会,古風な門構えの歯科医院,ペンシルタイプのスカイビル,地下にライオンビアホールのあるサッポロビルなどなど,もうあらかた記憶がアイマイになってしまったが,その通りは関内地区を東西に走る主要幹線のひとつ尾上町通りなわけで,朝の喧騒にざわめくそんなオフィス街を坦々と通過した後,ダルマ船が水面に重なりあうように浮かぶ大岡川に架かる大江橋を渡り,吉野家の先からゴールデンセンターの地下通路をくぐって東横線桜木町駅へと辿り着く。そして8時10分発の急行の前から4両目の隅の席にちゃっかり座って一息入れる,といったルーチンであった。
夜の帰り路は,その日によって野毛に立ち寄ったり,関内の相生町や本町へと向かったり,日ノ出町方面に足を伸ばしたり(^_^;),といろいろだったけれども,少なくとも朝の通勤に関してはルートも時間も全くといっていいほど変わることがなく,約2年半の間,コマネズミのようなゴミムシのような歩行が飽くことなく律儀にも続けられた。それは1980年代の半ば,あの忌まわしき「横浜博覧会」が開催される少し前のことである。
そんなわけで,桜木町界隈には数え切れないくらいの思い出がある。ただし,それらの多くは屈折した苦い思いで彩られており,例えばヤハギ・トシヒコ先生描くところのダンディズムなるものとは雲泥の差があった。といって,修業時代のヤマザキ・マサヨシ選手などとも方向性は全く異なっていたわけで,要するに,どこにでも存在しうる無名者の単独歩行が永劫運動のように繰り返されていたに過ぎなかった。
以下は,その頃さる知人に宛ててしたためた近況報告の一節である。
============ ココカラ ===========
(前略) ....過日,目黒銀座の映文堂書店にて立ち読みをいたしておりました。関川夏央と谷口ジローの凸凹コンビが物すところのセンチメンタル・ハードロマンなんぞを探していたのです。その少し以前に『西風は白い』という比較的初期の作品を読んで,その物語り構成のタッチにいたく感心してしまい,他の作品もいろいろと読んでみたくなったからです(そうそう,映文堂は2週間ほど前に潰れちまいましたよ,資金繰りがつかなくなったとかで。あはは,4年でダメになっちゃいました,と主人がせいいっぱいの笑顔で答えていたのが印象的でした。身辺に淋しいことがまたひとつ増えました)。
で,件の凸凹コンビのことですが,恐らくは私とほぼ同世代であろう関川夏央は,そのストーリー・メイキングに当たって一体誰の影響を受けたのだろう。どんなジャンルから影響を受けたのだろう。文学,映画,音楽? サルトルやカミュではない。チャンドラーやハメットもちょっと違う。もちろんビートルズやボブ・ディランなんかじゃない。それは恐らく“第三世界”そのものだったのでしょう。その,所謂真正直なまでに不幸な世界の在りようを自己の裡でいったん相対化し,改めてそれを劇画的に脚色することで,この脳天気なまでに幸せそうな私共の世間に対して搦手から異義申し立てをしたかったに相違ありません(あぁお前たち,そんな眼でこの社会を見るんじゃない....)
そこへ,竹の子族風の少女が4人,いや少女などというのはオコガマシイ,単なるこまっちゃくれたガキどもではありますが,それらの一団がドカドカと本屋に入ってきた。私のすぐ後ろの狭い通路をすり抜け,マンガ本のコーナーに向かいました。連中のひとりが宮沢賢治の絵本を手に取って眺め,一言いわく。
「あっ,『猫の事務所』がある。アタシ,これ好き。」
そうか,そうか。こんなガキにも,竃猫の悲しみが多少なりとも共感を覚えさせるものであるとすれば,宮沢賢治の遺した仕事も確かにこの現在に密やかに息づいていると言えるのかもしれない。そして関川夏央は,きっとそんな竃猫の意志を継承し,何とかしてそれをこの現在に生かそうと自らを精一杯ピエロに擬したのでありましょうか。曖昧な記憶の糸がそんな一点の情景を今の私に思い起こさせます。
その夜の帰り路,桜木町の駅を降り,薄暗い舗道を家に向かって歩いている途中,大江橋を渡って角を曲がったすぐのところで,目の前の路上に何か小さな黒い塊があるのが目に止まりました。そっと近づいてよおく見ると,それは一匹のヒキガエルでした。道の隅でじっと動かずにうずくまっていた。その傍らには,その朝私が会社に出掛ける時に確かに見た,恐らくは自動車に引き潰されたにちがいないカエルの死体がありました。そう,そのヒキガエルは死んでしまった仲間のそばでうずくまってじっとしていたのでした。恋人かオトモダチか,あるいは親兄弟か,それはわからない。昨日までいっしょに遊んだり笑ったりしていた者が,あるとき突然急に動かなくなってしまった。(どうしよう,どうしよう) そのシーンは私にえも言われぬ何かを語りかけているようでした。彼の国に,ダニエル・ギシャールという日本ではほとんど紹介もされず従って全く売れもしなかった歌唄いがおります。Un jour de la vie,訳せば「人生のある一日に」とでもいった題の,本国ではちょっとはヒットした歌もあったっけ。そのヒキガエルをみていると,何故だか急にギシャールのことを思い出した。今頃どうしているんだろう。地味で渋いカエルみたいな声をした,何となく曇りガラスのように屈折した男だった。でも,私は彼とその歌が好きだった。そして,ひとり夜道を歩きながら,ミットモナイと承知しつつも,思わず彼の声を真似て小声で口ずさんでしまった。何やら,葬送歌風に。
Un jour de la vie, a rester au lit
Malgres les soucis, ca ne me deplait pas.....
ヒキガエルの悲しみ,竃猫の悲しみ。まるで心が風邪をひいたような,突然の意味のない酩酊。そう,それは今年2月の終わり頃のことでした。
天職という言葉が信じられる時代はとうに過ぎ去ってしまった,と小林秀雄が書いたのはかなり昔のことです。爾来,私は自らにとっての最適職業の探求に情熱を傾けることを基本的に放棄してしまった。それよりも,中島みゆきが唄う,この暗い時代を泳ぐ脆弱な小魚の群れのなかにあって,自らがその魚群のどのポジションにあるのかを常に見極めつつ,その周辺環境中にバランスを保って定位することに心を砕いてきたと言ってもいいでしょう。ちょうど,春先に海から河川に遡上してきたサクラマスの産卵親魚が,中流域の淵の深みで,まるで哲学でもするように流れの上手に向かってじっと定位し続けているように。なぜならば,私たちの生活が常に複数の“関係”によって成り立っている限り,それらの関係がどのように成就し,錯綜し,破綻し,或いは崩壊するかは,決して自らの裁量だけでは決定しえないことなのですから.... (後略)
============ ココマデ ===========
いささか気恥ずかしい思いとともに改めて振り返ってみれば,すこぶる情調的ながら,多分に偏狭的ながら,それでも「歌」はいつの時代にもワタクシのココロノササエになっていたことが窺い知れる。何せ,ダニエル・ギシャール Daniel Guichardを約10年間も引きずっていたわけだから。
つけ加えれば,さらに時代を遡って,いまだ路面電車が走っていた頃の1960年代初頭の桜木町・関内界隈についても,ほんの少しくらいは知っている。その頃は川崎市のほぼ中心部,税務署のすぐ裏に住んでいたのだが,ある事情により,関内尾上町通りの裏手,常盤町だか住吉町だかにあったボタン屋やらネーム屋やらに時折出掛けていた(ヘンリー・ミラーの少年時代をイメージしていただきたい)。あるときは京浜東北線に乗って川崎駅から桜木町駅まで,またあるときは第一京浜国道をボロ自動車に便乗して。川崎という目一杯雑然としたゴッタ煮的寄り合い集落都市で日常を暮らしている者がたまに訪れる横浜・関内という洗練された都市。個々の造作はいささか古び草臥れてはいるものの,揺るぎない歴史に裏打ちされた確固とした様式を示すその街のたたずまいは,子供心にも鼻にツンとくるような「都会の匂い」を感じさせた。つかのま,見知らぬ異国をさまよう浮浪児にでもなった気がした。大江橋のたもとを鉄輪を軋ませながらカーブを描いて通り過ぎる市電のはるか先には横浜公園の深い緑と平和球場,それから進駐軍のカマボコ体育館までもが望まれた。馬車道界隈はファンキーな裏町の香りを目一杯漂わせて輝いていたし,伊勢佐木町や吉田町はまだ見たこともない上海租界地の相貌を空想させたし。あるいはその頃,桜木町駅前でヤハギ少年とすれ違ったことがあるのかも知れぬ。そして当時の自分は,確かコニー・フランシスなどのアメリカンポップスを好んでいたように思う。
少年期に経験した高度成長時代に入る前の古き横浜と,壮年の一時期を過ごしたバブル経済直前の右肩上がりの活気に満ちた横浜とが,いま私の記憶のなかでシンクロしている。なるほど確かに,人が生まれ,成長し,やがて老いさらばえるように,街は生まれ,街は発展し,そして街は滅びてゆく。
てなわけで,サヨウナラ,桜木町駅!