図書館の中で傍若無人に振る舞い騒いでいる中学生の悪ガキ・グループに対して,その悪しき態度を注意・叱責したプータロウ(もといホームレスのヒト)が,その後,ガキ共の執拗かつ陰惨な仕返しにあって撲殺された,という何ともやりきれない事件が少し前にあった。
公共図書館の内部における悪ガキとプータロウ(もとい無宿者)との混在という図式は,とりわけ今の時代,今の季節にあっては,本邦各地においてごくごく日常的に見られる光景ではなかろうかと思う。私が住まうこの地方小都市の市立図書館などでも,“丹沢下ろし”の冷たく吹きすさぶ冬場になると,そんな彼らによく出くわす。いずれも「日溜まり」を求めてどこからともなく集まってくる野良猫のようなものだ。もっとも,善良で慎しみ深い一般市民の大多数は(ハズカシナガラ私自身を含めて)そんな彼らに対して概して寛容の態度で接する,というか見て見ぬふりを決め込んでいる。公共図書館という静的環境の場において,有り体に言えば前者は騒音の,後者は悪臭の発生源として少々好ましからざる存在なのではあるが,環境公害としてはかろうじて許容範囲にあるからかも知れない。
ところで,市民の正当な権利としての図書館利用という観点に立って考えれば,今回の事件における絶対的な非は悪ガキ達の側にあり,プータロウ(もとい浮浪者)の方にないことは明らかだ。「市民」というものをどのように定義づけるかについてはいささか議論の余地があるだろうが,その土地に生活の拠点を持ち,その土地の日々の営みに深く係わり,その土地の日常風景に欠くことの出来ぬ存在であるところの者を市民であるとすれば,プータロウ(もとい路上生活者)諸君は,例えば毎日々々都心方面へと延々片道2時間近くの通勤を強いられているサラリーマン諸氏などよりもよっぽど立派な市民たるべき資格を有しているのではないかな。彼らほど町の現況を,そこに住む人々の暮らし向きやその変化の実状を,直に体感的に理解している者はいない。市政モニターに推挙したいくらいだ(ま,玉石混淆ではありますけど)。
こんな言い方をすると,え,プータロウが市民だって? 大体彼らはゼーキンを一銭も払ってないじゃないか! なんていう不平不満がどこからともなく即座に返ってくるかも知れないが,そのように声高に反論する輩は,さて,自らはどれほどの立派な「納税者」であるのだろうか? 町のあるべき姿なんぞ何~んにも考えておらず,義務と権利を秤にかけて行政に対する自己主張を行う気力も気概もなく,もっぱら己がコンペイトウ・ハウスのこと,私的な趣味・道楽のことなどに執着するばかりで,結果,徒に町を汚すことに寄与しているといったところが大多数だろう(誰のことじゃ?) そんなわけで不肖ワタクシ,あくまでプータロウの側に与したい。
しかしながら,まだ年端もゆかない中学生の子供らは,そのようなプータロウの行為が許せなかった。その風体,その注意のし方というよりも,多分は存在自体が断じて許せなかった(動物行動学的な視点から眺めれば,両者は実に類似点が多いのにもかかわらず,だ)。そして,気に入らない野良猫を石もて追い払い,棒杭で撃つようにして殺人を犯した。実にオロカナ話である。
彼らは一体何を勘違いしていたのだろうか? どのようなデーモンに取り憑かれていたのだろうか? それは恐らく,公共図書館という立派で小綺麗で端正で,同時に十分に閉鎖的・密室的な場所が,少年達にとっては非常に居心地のいい空間でありえたことから生じた誤解である。ウルサイ親や教師たちのシガラミから解放された,仲間内の誰かの家の子供部屋のような,あるいは職員室から遠く離れた校舎の裏手にあるクラブ室のような,秘密のサロン的な場所であったがゆえに発生した錯覚である。これがもし,例えば河川敷に広がるヨシ原の繁みの怪しげな一隅だとか,もしくは山麓地の人気ない畑作農地の路傍だとかで発生したトラブルであったなら,恐らくストーリーの展開はまた違ったものになっていただろう。反語的に言えば,図書館が犯罪を生みだした,ということにもなろうか。
そこで思うのだが,今回の不幸な出来事を機に公共図書館の「あり方」について多少なりとも疑問を投げかけた者は,マスコミ・デンパ関係の有識者諸氏のなかに果たしてどれほどおられただろうか。実に心許ない気がする(少なくと私自身は未見であった)。
一般的な事実として,とりわけ1980年代以降,全国各地の少なからぬ市町村において土木主導行政による箱モノ優先政策の一成果としての豪華図書館が数多く建設されたこと,これは間違いない。それこそ吹けば飛ぶような貧乏自治体にしてからが,ナンタラカンタラ助成金を頼みの綱として分不相応にゴージャスな図書館を建設している(当地もその例にもれない)。そして,大多数の善良な市民はそのようなウツワモノを「文化振興」の美名のもとに無条件で容認し,積極的に歓迎しつつ受け入れた。まさにこういった形で市民権を得てしまったところに現在の図書館の不幸があると思われる。
はっきり言おう。大部分の公共図書館は,その設計思想,その経営理念,その運営形態において根本的に多くの誤謬を抱えている。具体的にどこが間違っているのかは敢えて申すまい。ワタクシごときが外野席からとやかく口出しするまでもなく,実は当の図書館職員たち,とりわけ館長自身が最もよく承知しているに相違ないから。
折しも数日前の新聞記事に,近年,全国各地の地方自治体においては緊縮予算のあおりを受けて公共図書館の「図書購入費」が減り続けている,とのレポートがあった。日本図書館協会によると,公立図書館1館当たりの「年間資料費」は1992年の約1600万円をピークに減少し続け,昨年では約1300万円ほどになっているという。「予算減で四苦八苦」,「存在価値危ぶむ声も」などという少々穏やかでない見出しも付けられていた。ま,箱モノ行政のツケ,さらに申せば殿様商売のツケが今になって現れたという訳ですな。過度に文化を標榜するがゆえの二律背反ですな。
当地に即して一言だけ余計を述べれば,その格好だけはすこぶる洒落ているが使い勝手の極めて悪い今の図書館の建物などにはキッパリと見切りをつけて,とっとと何処かに移転するがよかろうと思う。そして新たな建物は基本的に質実剛健・実用本位を旨とすべし。マッチ・ボックス・スタイルで十分である。例えば神奈川県立川崎図書館や目黒区立守屋図書館などが良い規範となろう。昨今の少子化の影響を受けて各地の小中学校は空き教室だらけみたいだし,移転候補地はいくらでもありましょう。そもそも公共図書館は,居心地のいい悠々サロンや極楽ヘルスセンターなんかじゃ決してない。そこは老若男女を問わず「知」との出会いの場,戦いの場である。しかり。すべからく敷居は高くせねばならない。で,移転後に残された洒落た建物はどうするの? そうさな,市立美術館にでもするがよろしかろう。ロケーションからしても風呂屋のギャラリーよりもよっぽどマシじゃないかな。
おっと,何やら随分と品のない無茶苦茶な論法になってしまった(年度末超多忙期のなせる業である)。要するに何に対してブツブツ文句を言っているのかと申せば,件の悪ガキ共を反面教師として認めることもせずに,単に小手先だけの図書館改革をやろうとしたって所詮無駄なこった,ということだ。『読んだ本はきちんと元に戻す。先進国では常識です。さて,あなたの文化度は?』なんて歯の浮くようなキャッチ・コピーを閲覧室のあちこちに貼り付けて悦に入っている場合じゃないでしょ! ってことだ。今さら一般市民に媚びるように理解を求めたって,そりゃアナタ,少々遅すぎる。かつてベルナール・ディメ Bernard Dimet がいみじくも言ったように,人は借りたお金を返す段になってようやっと何かを学ぶ,って訳さ。
公共図書館の内部における悪ガキとプータロウ(もとい無宿者)との混在という図式は,とりわけ今の時代,今の季節にあっては,本邦各地においてごくごく日常的に見られる光景ではなかろうかと思う。私が住まうこの地方小都市の市立図書館などでも,“丹沢下ろし”の冷たく吹きすさぶ冬場になると,そんな彼らによく出くわす。いずれも「日溜まり」を求めてどこからともなく集まってくる野良猫のようなものだ。もっとも,善良で慎しみ深い一般市民の大多数は(ハズカシナガラ私自身を含めて)そんな彼らに対して概して寛容の態度で接する,というか見て見ぬふりを決め込んでいる。公共図書館という静的環境の場において,有り体に言えば前者は騒音の,後者は悪臭の発生源として少々好ましからざる存在なのではあるが,環境公害としてはかろうじて許容範囲にあるからかも知れない。
ところで,市民の正当な権利としての図書館利用という観点に立って考えれば,今回の事件における絶対的な非は悪ガキ達の側にあり,プータロウ(もとい浮浪者)の方にないことは明らかだ。「市民」というものをどのように定義づけるかについてはいささか議論の余地があるだろうが,その土地に生活の拠点を持ち,その土地の日々の営みに深く係わり,その土地の日常風景に欠くことの出来ぬ存在であるところの者を市民であるとすれば,プータロウ(もとい路上生活者)諸君は,例えば毎日々々都心方面へと延々片道2時間近くの通勤を強いられているサラリーマン諸氏などよりもよっぽど立派な市民たるべき資格を有しているのではないかな。彼らほど町の現況を,そこに住む人々の暮らし向きやその変化の実状を,直に体感的に理解している者はいない。市政モニターに推挙したいくらいだ(ま,玉石混淆ではありますけど)。
こんな言い方をすると,え,プータロウが市民だって? 大体彼らはゼーキンを一銭も払ってないじゃないか! なんていう不平不満がどこからともなく即座に返ってくるかも知れないが,そのように声高に反論する輩は,さて,自らはどれほどの立派な「納税者」であるのだろうか? 町のあるべき姿なんぞ何~んにも考えておらず,義務と権利を秤にかけて行政に対する自己主張を行う気力も気概もなく,もっぱら己がコンペイトウ・ハウスのこと,私的な趣味・道楽のことなどに執着するばかりで,結果,徒に町を汚すことに寄与しているといったところが大多数だろう(誰のことじゃ?) そんなわけで不肖ワタクシ,あくまでプータロウの側に与したい。
しかしながら,まだ年端もゆかない中学生の子供らは,そのようなプータロウの行為が許せなかった。その風体,その注意のし方というよりも,多分は存在自体が断じて許せなかった(動物行動学的な視点から眺めれば,両者は実に類似点が多いのにもかかわらず,だ)。そして,気に入らない野良猫を石もて追い払い,棒杭で撃つようにして殺人を犯した。実にオロカナ話である。
彼らは一体何を勘違いしていたのだろうか? どのようなデーモンに取り憑かれていたのだろうか? それは恐らく,公共図書館という立派で小綺麗で端正で,同時に十分に閉鎖的・密室的な場所が,少年達にとっては非常に居心地のいい空間でありえたことから生じた誤解である。ウルサイ親や教師たちのシガラミから解放された,仲間内の誰かの家の子供部屋のような,あるいは職員室から遠く離れた校舎の裏手にあるクラブ室のような,秘密のサロン的な場所であったがゆえに発生した錯覚である。これがもし,例えば河川敷に広がるヨシ原の繁みの怪しげな一隅だとか,もしくは山麓地の人気ない畑作農地の路傍だとかで発生したトラブルであったなら,恐らくストーリーの展開はまた違ったものになっていただろう。反語的に言えば,図書館が犯罪を生みだした,ということにもなろうか。
そこで思うのだが,今回の不幸な出来事を機に公共図書館の「あり方」について多少なりとも疑問を投げかけた者は,マスコミ・デンパ関係の有識者諸氏のなかに果たしてどれほどおられただろうか。実に心許ない気がする(少なくと私自身は未見であった)。
一般的な事実として,とりわけ1980年代以降,全国各地の少なからぬ市町村において土木主導行政による箱モノ優先政策の一成果としての豪華図書館が数多く建設されたこと,これは間違いない。それこそ吹けば飛ぶような貧乏自治体にしてからが,ナンタラカンタラ助成金を頼みの綱として分不相応にゴージャスな図書館を建設している(当地もその例にもれない)。そして,大多数の善良な市民はそのようなウツワモノを「文化振興」の美名のもとに無条件で容認し,積極的に歓迎しつつ受け入れた。まさにこういった形で市民権を得てしまったところに現在の図書館の不幸があると思われる。
はっきり言おう。大部分の公共図書館は,その設計思想,その経営理念,その運営形態において根本的に多くの誤謬を抱えている。具体的にどこが間違っているのかは敢えて申すまい。ワタクシごときが外野席からとやかく口出しするまでもなく,実は当の図書館職員たち,とりわけ館長自身が最もよく承知しているに相違ないから。
折しも数日前の新聞記事に,近年,全国各地の地方自治体においては緊縮予算のあおりを受けて公共図書館の「図書購入費」が減り続けている,とのレポートがあった。日本図書館協会によると,公立図書館1館当たりの「年間資料費」は1992年の約1600万円をピークに減少し続け,昨年では約1300万円ほどになっているという。「予算減で四苦八苦」,「存在価値危ぶむ声も」などという少々穏やかでない見出しも付けられていた。ま,箱モノ行政のツケ,さらに申せば殿様商売のツケが今になって現れたという訳ですな。過度に文化を標榜するがゆえの二律背反ですな。
当地に即して一言だけ余計を述べれば,その格好だけはすこぶる洒落ているが使い勝手の極めて悪い今の図書館の建物などにはキッパリと見切りをつけて,とっとと何処かに移転するがよかろうと思う。そして新たな建物は基本的に質実剛健・実用本位を旨とすべし。マッチ・ボックス・スタイルで十分である。例えば神奈川県立川崎図書館や目黒区立守屋図書館などが良い規範となろう。昨今の少子化の影響を受けて各地の小中学校は空き教室だらけみたいだし,移転候補地はいくらでもありましょう。そもそも公共図書館は,居心地のいい悠々サロンや極楽ヘルスセンターなんかじゃ決してない。そこは老若男女を問わず「知」との出会いの場,戦いの場である。しかり。すべからく敷居は高くせねばならない。で,移転後に残された洒落た建物はどうするの? そうさな,市立美術館にでもするがよろしかろう。ロケーションからしても風呂屋のギャラリーよりもよっぽどマシじゃないかな。
おっと,何やら随分と品のない無茶苦茶な論法になってしまった(年度末超多忙期のなせる業である)。要するに何に対してブツブツ文句を言っているのかと申せば,件の悪ガキ共を反面教師として認めることもせずに,単に小手先だけの図書館改革をやろうとしたって所詮無駄なこった,ということだ。『読んだ本はきちんと元に戻す。先進国では常識です。さて,あなたの文化度は?』なんて歯の浮くようなキャッチ・コピーを閲覧室のあちこちに貼り付けて悦に入っている場合じゃないでしょ! ってことだ。今さら一般市民に媚びるように理解を求めたって,そりゃアナタ,少々遅すぎる。かつてベルナール・ディメ Bernard Dimet がいみじくも言ったように,人は借りたお金を返す段になってようやっと何かを学ぶ,って訳さ。