いわゆるサトヤマにおける,いわゆるエコロジストの漫画的動向

2002年05月26日 | サトヤマ,サトヤマ
 少し前の話題になるが,朝,食事をとりながらノンビリと新聞に目を通していると,地方版のページの比較的大きなスペースに『棚田の風景 取り戻そう』,『山あいの荒れ地視察』,『豊かな水辺にイモリ』,『来月から下草刈り』などといったチマチマしたタイトルが目にとまった。記事の内容をよく読んでみれば,そこには概略次のようなことが書かれていた。


◆ 当市を中心に活動している某NPO法人(自然との付き合い方を考える市民の集団)が,荒れ果てた棚田の復元に向けて動き出した。

◆ 同会主催者は,市内某所に作り手がいなくなって荒れ放題になっている棚田があることに目をつけ,「棚田を復元して本来あった風景に戻すことで,ホタルなどの生き物たちもより多く戻ってくるのでは」(原文ノママ)と考えた。

◆ 現地の予備視察に同行した県立博物館のエライサンからは「イモリがこんなにたくさん生息している場所は県内でも少ない。水資源が潤沢であることの証だ!」などという有り難い御墨付きまで頂戴した。

◆ となれば,後はもうヤルッキャナイデショ。というわけで,当のNPOでは,現在,棚田作り活動に参加し一緒に汗を流す人を募集している。年間参加費は一人1,500円,ただし小学生は1,000円。


 放棄水田を復元する。それも,そんじょそこらの郊外・里地でよく見かける市街化調整区域などに中途半端に取り残された,いわゆる市場経済原理によって爪弾きにされた廃田なんかじゃない,わざわざ山間地の奥まったところ,それも恐らく交通アクセスの極めて悪い急斜面の雑種地において,かつては細々と耕作されていたと思われる僅かな棚田,いわば歴史的必然としての「廃田」を,御苦労様にも発掘もとい復元しようという。要はそれだけの微笑ましいエピソードである(首謀者は「シジフォスの神話」にでも囚われているのだろうか)。多分15人くらいは参加するのかも知れない。ただし,その全てが顔見知りの関係者のような気がする。記事の大きさに比較して情報のコスト・パフォーマンスが極めて低い,有り体に言ってイデオロギーの提灯持ちに過ぎないのだが,ま,新聞ジャーナリズムの実状なんて所詮そんなもんでしょう。

 ところで,そもそも「棚田の復元」なる大仰なイベントというかセレモニー,それは一体「誰が」,「何のために」行う行為であるのか,当該記事をものしたチョウチン・レポーター氏はとくと承知しておられるのだろうか。そんなことが少々気になった(いや,性分でして)。一応のタテマエとしては,自然や環境に対して深い理解と関心を有する(と自負している)ごく一部の先進的市民が,環境のことなんかには全く無知で無関心な大多数の一般市民(=愚衆)を啓蒙するために行う有難い文化的活動,などと理解しているのかな(おっと,またぞろ「環境エリート」の出番か)。

 しかしながら,当のNPO諸氏はそんな一方的解釈に対して多分にコソバユイ思いを感じているだけだろう。「俺たちゃ,単にやりたいからやるだけさ」とか何とかブツブツ呟いたりして。しかり,ごく素直に考えれば判ることだが,要するにそれは,タナダノフクゲンというお題目にかこつけた単なる「野遊び」の一種に過ぎないのであって,キャンプ,野外バーベキュー,渓流釣り,あるいは市民農園,家庭菜園作り等々のヴァリエーションである。もちろん,そのような休日のレクリエーション,純粋プレジャーとして野外で汗を流す行為自体は決して恥ずべきものではない。それは,室内アスレチックや単調なジムナスチックなどからは得られない,多様性に富んだフィジカルな喜びを人々にもたらすであろう。さらに,心掛けによっては「豊かな感性」,「独創的な創造力」なんてシロモノを育むことになるかも知れない。

 ただし,そこで少々引っかかるのは「小学生は1,000円」という料金設定だ。親は自らの嗜好の赴くままに十二分に道楽を楽しめばそれでいいのだが,子の方は原則として親を選べない。特に小学校低学年くらいでは尚更のことだ。さればこそ,そのような休日レジャーに我が子を半ば無理矢理引きずり込む,といった親の自己満足的「悪のり」が発生することを主催者側が多少なりとも織り込み済みであることに,いささかの嫌悪感ないし危惧感を抱かざるを得ない。本来ならば,好事家オヤジが日曜日の息抜きに一人でコッソリとパチンコ屋に出掛けるように,自分ひとりでコッソリと参加すればいいことではないかと思うのだが。

 大人に命ぜられるがままに参加を強いられる子供にとっては,単に学校の授業時間が余計に増えたようなもの,それも本来楽しかるべき休日に充てられたウンザリする補習授業みたいなものだろう。あるいは「江戸時代の拷問」(後ろ向きの思想)とさえ言っていいかも知れない。それを「未来を見据えた環境教育」(前向きの幻想)なんぞにすり替えようとするイジマシイ目論見。友達といっしょにワイワイやる学校での総合学習の方が,子供らにとってはよっぽど楽しいだろうに!

 さらに,話の勢いでエラソウナ御託を並べさせていただくが,NPO諸氏がターゲットにしている土地は決して山奥の孤立したシャングリラではない。恐らくかつての耕作者のうち少なからぬ方々は今でもその付近に住まっているだろうし,彼ら自身が苦渋の末に放棄した水田の跡地に,ある日突然見ず知らずの他人が大勢でノコノコやってきて,「啓蒙」の御名のもとに封印された「夢の跡」を再び翻弄し蹂躙する。彼らはそれをどういった思いで眺めるだろうか。静かな山里に,要らぬ不幸のタネが蒔かれてゆく。世間から半ば忘れられた孤独な存在であるところの老人たちの弱みにつけ込んだ,それは極めてデリカシーに欠ける,礼儀をわきまえない行為ではあるまいか。

 実生活の裏付けのない土地利用改変ないし景観形成,そんなものは単なる趣味道楽としての箱庭造園でしかない。加えて「棚田」という特殊形式の農業の存在を安易に受け入れること自体が,農業制度の歴史的変遷に対する無理解と農民に対する階級的抑圧とを容認している。抑圧といって不適当であれば蔑視と言い換えてもいい。さらに,棚田にホタルが戻ってくるなどというが,ホタルだって人の子(ん?),そんなにお人好しではありませんゼ。生態遷移の原理からいっても自然環境復元技術の理屈からみても,棚田を作ればホタルが戻るなんて,そんな「虫のいい話」などありはしない。どうしてもホタルを呼び戻そうとするならば,例えば東京・目白の椿山荘や鶴巻温泉の陣屋旅館におけると同様のシステム(会員制ホタル狩りサイト,とか)を構築せねばならない。それは結果オーライの世界,一種のカリカチュアであるが,つまるところ,そうならざるを得まい。今は亡き小林秀雄が最も忌み嫌ったところの「田山花袋的な世界」における善良な人々,彼らは決して「柳田国男的な世界」から風景を眺めることはないだろう。彼らにとって自然は「ロマン」以外の何物でもないのだから。

 いやいや,品のない言辞をいたずらに弄しても詮無いことだ。すべてはどうでもいいことである。ま,勝手におやり下さい。ただ願わくば,どこぞでカヌー道楽をやっている「サラリーマン転覆隊」みたいに,その看板を「中年サトヤマ探検隊」とか「野あそびオヤジ連」とでも掛け換えて下されば一層有難いのだが。そして望むべくは,そういう類のオアソビは本来ならばゼロからスタートしていただきたい。未開の山中に決死の覚悟で分け入り,額に汗して手にマメを作って木を切り倒し,草を刈り,鳥獣虫魚を駆逐し,地ならしをし,水を通し,タネを蒔く,そういうところから始めていただきたい。それこそ自然との付き合いを考えるアウトドア・ライフの極み,開拓精神の継承ってもんでしょう。

 もっとも,そうとなれば小学生には一層な負担となるのは目に見えている。ここはやはり,何度も言うようだけれど,自分ちの前のドブサライでも一生懸命に続けていた方が,世間に対して社会に対してどれだけ「啓蒙」になることか知らん。
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