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一台の自転車が,坂道をユックリユックリ登ってゆく

2009年07月20日 | 自転車ぐらし
 我が相棒のMTBがリフレッシュされてからというもの,自転車で坂道を登るのが以前にも増して好きになってしまった。年齢的なものを勘案すると,これは「ヤバイヨ,ヤバイヨ」と言うべき事態だろうか。

 今年の三月半ば頃だったか,冬の終わりとともに重いコートを脱ぎ捨てるようにMTBのタイヤを2.3インチのブロックから1.75インチのスリックに替えた。以来,原則としてスリックタイヤで通している。ただし,悪路が主体の道を走るときには元のブロックタイヤに履き替える。例えば水無川のずっと上流,源次郎沢出合あたりに野暮用でときどき出掛けることがあるのだが,あの戸沢デコボコ林道を走るには,やはりブロックタイヤでないと心許ない。往路は一寸苦労するけれども,帰り道の凸凹下りなんか結構楽しいものである。

 ちなみに,「坂道が好き!」とは申しても,基本的には軟弱ライダーたるワタクシのことでありますからして,昨今,本邦各地の著名な坂道に頻繁に出没するといわれる所謂「坂バカ」諸兄姉などとは,もちろんレベルが違います。別にこちとらヒルクライム・レースを目指して本格的山岳道路をヒイコラ登攀するわけでもなく,あるいは,○○坂制覇!などと気負って激坂巡りにウツツを抜かしているわけでもない。私にとって坂とは,ツーリングにおけるラギッド・ルートにあらずして,休日におけるトレーニング・コースにもあらずして,ましてや修業の場なんかじゃ更々なく,あくまで日常生活圏内に存在するところの若干の地形的起伏,日々の行動範囲のなかで半ば意識的に組み込まれたスローピング・ロードに過ぎないのである。仮にそれをして修業鍛錬の場じゃアルマイカ!と云われるのであれば,身体鍛錬ではなく単なる精神鍛錬の場であるとでも抗弁しておこう。そんなわけで坂道の距離はあまり長くない方がいい(せいぜい1kmくらいか)。

 ま,小理屈はドーデモイイ。とにかく坂が好きになっちゃんだからショーガナイ。幸いなことに,盆地暮らしをしている身にとって家の近所に坂道はいくらでもある。むしろ平坦な道を探すのに苦労するくらいだ。A地点からB地点に移動する際,途中に気に入った坂道があれば,少しぐらい遠回りをしてでもその坂を経由して走る。ただし,それなりに登り甲斐のある坂道ではあっても,クルマの通行量の多い主要幹線だとか,バス路線道路だとか,リッパでリッチな自転車乗りがウジャウジャ往来する道だとかは一寸遠慮させていただいている。いや別に761峠を目の敵にしているわけではございませんが(あ,してるか)。

 私がお気に入りの坂道をひとつ挙げてみれば,例えば次のような場所である。当盆地の西端に柳川・八沢地区という鄙びた山麓農村地域がある。そこは盆地東端の名古木地区と並んで,いわゆる里地里山エリアとして本邦「サトヤマ・メンバーズ」の面々にはよく知られたところである。個人的にはどちらかといえばナガヌキよりもヤナガワの方を好んでおり,自転車で出掛ける頻度も後者の方が多い。

 初夏のある一日。 国道246号の旧道を西に向かって酒匂川水系四十八瀬川に架かる甘柿橋を渡り,すぐに右折するといきなり急坂が現れる。名前を馬場坂(ばんば坂)という。ほんの400mほどの短い坂だが,これが結構な急勾配である。車重15kgのMTBでは押して上る方が却って大変なので,ここは目一杯のインナーローギアで無理矢理漕ぎ上ってゆく。昔はウマもヒトも大変だったのだなぁ,などと往時を偲びつつ,ユックリユックリ登ってゆく。たまに上から坂を下りてくる地元民とすれ違うことがあり,おお,頑張るねぇ,とネギライの言葉を掛けられたりする。はぁ,どうも~,なんて青息吐息で答えたりして,それもまぁ一応の地域交流であります。

 この坂を上りきると,三廻部方面から国道246号へと通じている市道に出合う。そこの信号を渡った先では,トンガリ屋根の上小学校やホッコリ田んぼの生きものの里などがある濁沢上流域の小盆地のほうには下らずに,左の丘陵に向かって尾根筋のまんなかを通る坂道を再び上ってゆく。最初のうちは傾斜も比較的緩やかだが頂上付近にある牛小屋直下の短い区間はこれまた急勾配の坂である。喘ぎながら尾根筋のテッペンに出るとその先はほぼ平坦な道となり,前方にはDOCOMOのアンテナ塔が建っている。そのアンテナ塔の脇から再び急な坂をクネクネ下って濁沢の谷間にある禅寺・宗渕寺下の道に出る。左に行けば湯ノ沢団地へと通じる荒れた林道になるが,そこは右に折れて川沿いを少し上り,本八沢への入口を左に曲がる。

 ここからはじまる本八沢を抜ける坂道もまた,かなりの急勾配である。いや,前二本の坂よりも格段にキツイ坂だ。しかも道は直線的で,幅員も狭く,かつ距離もやや長い。何でまたこんな場所にが形成されたのかと訝しく思うほどに,急な尾根筋に家々が寄り集まっている。

 数年前,はじめてこの道をクロスバイクで辿ったときには,ハズカシナガラ二度続けて登り半ばで挫折してしまった。一度目は途中の火の見櫓付近まで,二度目はの上手にある神社付近まででいずれも体力気力が萎えてしまい,荒い呼吸を整えながら山の中腹から見渡せる牧歌的な山里の風景をしばし愛でたのち,再び来た道をスゴスゴと引き返したものだった。ただ,その後は自らの脚力ならびに心肺機能がアップしたのか,あるいは坂道を登る要領がウマクなったのか,何とか上りきって山向こうの松田町・萱沼の方に下ることができるようになった。それでもなお,この坂道が未だ手強い急坂として私の前に立ちはだかっていることに変わりない。息を切らせて汗かきながらも,それでも途中で止まらないようにペダルを回し続ける。ヒトやクルマとはほとんどすれ違うことのない静かな山道で,たまに農作業の軽トラが道端に停まっているくらいだ。山の斜面には果樹や野菜の畑地がへばりつくように広がっている。そんななかを走りながら,頭のなかでは,この道がかつて辿ってきた歴史,八沢と萱沼という山を隔てた二つのをめぐる経済的,文化的交流のことなどを想像してみたりする。モータリゼーション以前の時代,少なくとも昭和初期頃までは,この山間の小径は両を繋ぐかけがえのない道だったであろう。物資の往来や人的交流もそれなりにあったに違いない。こちら側の娘がこの急な坂道を越えてあちら側の家へと嫁いでいったことがあったかも知れない。時には間で不幸な諍い事が起こったかも知れない。喜びも悲しみも幾年月。急坂がキツイのはどこの坂道でも,あるいは昔も今も同じことだが,恐らく昔の人は,ヨッコラショ,ヨッコラショと声に出して自らを励ますように,時にはコンチクショー,コンチクショーと自らに鞭打ちながら急な坂道を上っていたのだろう。山里の地で人々が連綿と織りなしてきたそんな知られざる暮らしぶりに思いを馳せつつ,老人一名はユックリユックリMTBで山道を漕ぎ登ってゆくのであった。

 山を越えた反対側にある萱沼の隠れ里のごとき雰囲気が私は好きだ(隣接するゴルフ場のことは敢えて申すまい)。この近在では曽我丘陵の古怒田や皆瀬川上流の八丁などとともにお気に入りの山里のひとつである。実は,この界隈の里地里山エリアは,死んだ兄貴が今から30年以上も前に鉄砲担いで独りで歩き回っていた地域なのだ。ずっと昔の記憶をたどってみると,兄から時折聞かされた冬場の猟についての断片的な話のなかで,古怒田とか沼代とか赤田とか,あるいは八沢とか柳川とか萱沼とか弥勒寺とかいう地名が語られることがあった。要するに,老いたる私は若き日の兄の狩猟フィールドを今あらためて自転車で歴訪しているのである。旧い思い出を想像力で膨らませながらのセンチメンタル・ジャーニー,それはある意味で,志半ばにして死んでしまった兄に対する心ばかりの「供養」としての行為なのかも知れない。 なお,兄の狩猟趣味については,若き日の伊藤礼センセイ(@こぐこぐ自転車)の高邁趣味と一脈通じるところがあったように思われる(高等遊民と貧乏人という彼我の差が歴然とあったとは云え)。そのことはいずれ項を改めて記録しておきたいと考えている。

 最後に蛇足を一言。ワタクシ的には柳川・八沢地区における上記の三つの坂道を『シャカリキ!』(曽田正人)になぞらえて,本八沢坂 (距離:1200m,平均斜度:14%)が一番坂,馬場坂(距離:400m,平均斜度:12%)が二番坂,そしてDOCOMOアンテナ坂(距離:250m,平均斜度:10%)が三番坂,なんぞと見立てているのであります。 ッタクモゥ,相も変わらず他愛ないジジイの繰り言かぃ!

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