昨日の昼頃,唐突に梅雨が明けたということだ。人によっては悲喜コモゴモかも知らんが,何はともあれメデタイことである。で,昨日午後,小田原方面に仕事で一寸出掛ける用があったので,梅雨明け記念として自転車で行って参りました。ただし,あんまり暑いんで酒匂川CRなどを経由しちゃいましたが。
用事を終えてからの帰路は,最初は国道1号を二宮町押切まで走って,そこから中村川沿いの県道709号を遡上し,中井の丘陵を越えて盆地内の家まで帰ろうかと考えていた。それが,国府津駅前あたりを通過したとき急に気が変わって,久しぶりに国府津の山越え経由で帰ってみようかナと思った。
東海道線をくぐって駅裏の住宅地を抜けると,すぐにミカン山農道の急坂に取り付くことができる。二本あるうち新しい方の西山農道を選択した。斜度勾配はいわゆる激坂レベルなれど,路面はキレイで幅員も広く,またクルマもほとんど通らないといった,要するに「楽チン激坂」というヤツだ。ゆっくりじっくりペダルを漕いでりゃそのうち上まで登れるんじゃネ?という感じで,あまり手応えはないけれども,グングン高度を稼いでゆくエレベーション感覚がそれなりに快感である。
標高160mほどでミカン農道は一旦ピークに達する。振り返れば眼下には相模湾の美しい夕景が一望できる。海から吹き上げる南風が汗をタップリかいた全身に心地よい。ああ,とうとう夏になっちゃったヨ~。幾つになっても夏の到来はココロを騒がせる。こうして季節はズンズンと巡ってゆくのだ。季節の方にしてみれば人の心情など知ったこっちゃないんだケレドモ。
一息ついたあと,そこからは北東にゆっくり下って上町,沼代方面へと向かう。下り坂だからといって決して過度のスピードは出さない。むしろ,爽やかな夕風を切りながら,猛禽類が滑空するように伸びやかに,丘陵地の風景に溶け込むように穏やかに,スィーッとゆるやかに下ってゆく。上町の集落におりる少し手前のヘアピンカーブからの眺めもまた,なかなかに気持ちのよい風景だ。相も変わらずワタクシの抱えている基本テーマであるところの大磯丘陵の自然地理ならびに歴史地理の複合的相貌,それらの新旧混在ぶりの現状の一断面がシッカリと俯瞰できる見事な眺望である。
東方に目を向けると,数100m先には起伏に富んだ緑のメドウに囲まれたなかに何かの工場らしき古い建屋群を見ることができる。風景全体のなかで,そこいらはまるでイングランドの片田舎のような牧歌的な雰囲気を醸し出しており,さらに遠方に望見される郊外住宅の密集した家並みや,あるいは南の方角に広がる近年造成された工業団地の人工的なたたずまいなどに比べると,その古びた建物の一角だけが,どこか異次元的な存在を主張しているかの如きである。景観のサンクチュアリ,とでも言うべきか。 それにしても,あれはいったい何の工場なのだろうか?
この山道は過去に何度か走っており,そのたびにその不思議な建物のことは気になってはいたのだが,これまでは特に深く追求することはしていなかった。けれど昨日は,帰宅後にさっそくPCに向かってちょっと調べてみた。まず電子地図から住所地番の見当をつけ,それを頼りにネット検索を行う。すると,その工場はどうやら『窪沢木工所』という会社らしい,とすぐに判明した。ただし,当の会社のHomePageは約10年前に更新を止めており,また,ネットの検索ではその会社に関する二次情報はまったく得られなかったことから,恐らく会社自体は既に廃業してしまい,建物の方も現在では廃墟と化しているのだろうと推測された。 ネット上に断片的に残されている会社のHPの冒頭には次のように書かれている。
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私ども(株)窪沢木工所も大正6年に設立以来、この80年の間に色々な木の製品を作ってきました。戦前の家具工場から、戦中の無線機の木箱、戦後は駐留軍の特注家具の生産、昭和40年代頃から輸出に転じてハイチ盆とサラダボールを、昭和50年代後半からは国内向けの小田原漆器と木製家庭用品など、その時代に流されながらも「木の文化」の継承と常に新しい提案のためを真剣に取り組んできました。そして 生活に潤いを与えてくれる木の工芸品の生産を一貫して貫いてきました。常に伝統の技術と新しい価値観に対応しながら、これからも元気にモノ作りをしていきたいと願っております。
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人に歴史あり。そして土地に歴史あり。この由緒ある建造物,長い歴史に刻まれた趣ある景観もまた,いわゆる無名者たちの紡いだ夢の跡として,やがては巨きな歴史の流れのなかに埋もれ消え去り忘れられてゆく運命にあるのだろう。インターネットというメディアはしばしば「時代を映す鏡」などと称されるが,それとて決して万能なものではない。けれどもされども,この美しい風景がムザムザ消えてしまうのは,私ごとき老兵の身からすると少しモッタイナイ気がする。頗るハカナイ思いがする。人と夢とが寄り添えば「儚い」という文字になる,と,かつて戯れに歌ったのは小椋佳であるが,このような地味で慎ましく秘やかなる歴史的風景を少しでも残しておきたいと願う「語り部」はどこかにおらぬのだろうか? そもそも風景は文化ではないか。 小田原市教育委員会は何をしておる!
用事を終えてからの帰路は,最初は国道1号を二宮町押切まで走って,そこから中村川沿いの県道709号を遡上し,中井の丘陵を越えて盆地内の家まで帰ろうかと考えていた。それが,国府津駅前あたりを通過したとき急に気が変わって,久しぶりに国府津の山越え経由で帰ってみようかナと思った。
東海道線をくぐって駅裏の住宅地を抜けると,すぐにミカン山農道の急坂に取り付くことができる。二本あるうち新しい方の西山農道を選択した。斜度勾配はいわゆる激坂レベルなれど,路面はキレイで幅員も広く,またクルマもほとんど通らないといった,要するに「楽チン激坂」というヤツだ。ゆっくりじっくりペダルを漕いでりゃそのうち上まで登れるんじゃネ?という感じで,あまり手応えはないけれども,グングン高度を稼いでゆくエレベーション感覚がそれなりに快感である。
標高160mほどでミカン農道は一旦ピークに達する。振り返れば眼下には相模湾の美しい夕景が一望できる。海から吹き上げる南風が汗をタップリかいた全身に心地よい。ああ,とうとう夏になっちゃったヨ~。幾つになっても夏の到来はココロを騒がせる。こうして季節はズンズンと巡ってゆくのだ。季節の方にしてみれば人の心情など知ったこっちゃないんだケレドモ。
一息ついたあと,そこからは北東にゆっくり下って上町,沼代方面へと向かう。下り坂だからといって決して過度のスピードは出さない。むしろ,爽やかな夕風を切りながら,猛禽類が滑空するように伸びやかに,丘陵地の風景に溶け込むように穏やかに,スィーッとゆるやかに下ってゆく。上町の集落におりる少し手前のヘアピンカーブからの眺めもまた,なかなかに気持ちのよい風景だ。相も変わらずワタクシの抱えている基本テーマであるところの大磯丘陵の自然地理ならびに歴史地理の複合的相貌,それらの新旧混在ぶりの現状の一断面がシッカリと俯瞰できる見事な眺望である。
東方に目を向けると,数100m先には起伏に富んだ緑のメドウに囲まれたなかに何かの工場らしき古い建屋群を見ることができる。風景全体のなかで,そこいらはまるでイングランドの片田舎のような牧歌的な雰囲気を醸し出しており,さらに遠方に望見される郊外住宅の密集した家並みや,あるいは南の方角に広がる近年造成された工業団地の人工的なたたずまいなどに比べると,その古びた建物の一角だけが,どこか異次元的な存在を主張しているかの如きである。景観のサンクチュアリ,とでも言うべきか。 それにしても,あれはいったい何の工場なのだろうか?
この山道は過去に何度か走っており,そのたびにその不思議な建物のことは気になってはいたのだが,これまでは特に深く追求することはしていなかった。けれど昨日は,帰宅後にさっそくPCに向かってちょっと調べてみた。まず電子地図から住所地番の見当をつけ,それを頼りにネット検索を行う。すると,その工場はどうやら『窪沢木工所』という会社らしい,とすぐに判明した。ただし,当の会社のHomePageは約10年前に更新を止めており,また,ネットの検索ではその会社に関する二次情報はまったく得られなかったことから,恐らく会社自体は既に廃業してしまい,建物の方も現在では廃墟と化しているのだろうと推測された。 ネット上に断片的に残されている会社のHPの冒頭には次のように書かれている。
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私ども(株)窪沢木工所も大正6年に設立以来、この80年の間に色々な木の製品を作ってきました。戦前の家具工場から、戦中の無線機の木箱、戦後は駐留軍の特注家具の生産、昭和40年代頃から輸出に転じてハイチ盆とサラダボールを、昭和50年代後半からは国内向けの小田原漆器と木製家庭用品など、その時代に流されながらも「木の文化」の継承と常に新しい提案のためを真剣に取り組んできました。そして 生活に潤いを与えてくれる木の工芸品の生産を一貫して貫いてきました。常に伝統の技術と新しい価値観に対応しながら、これからも元気にモノ作りをしていきたいと願っております。
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人に歴史あり。そして土地に歴史あり。この由緒ある建造物,長い歴史に刻まれた趣ある景観もまた,いわゆる無名者たちの紡いだ夢の跡として,やがては巨きな歴史の流れのなかに埋もれ消え去り忘れられてゆく運命にあるのだろう。インターネットというメディアはしばしば「時代を映す鏡」などと称されるが,それとて決して万能なものではない。けれどもされども,この美しい風景がムザムザ消えてしまうのは,私ごとき老兵の身からすると少しモッタイナイ気がする。頗るハカナイ思いがする。人と夢とが寄り添えば「儚い」という文字になる,と,かつて戯れに歌ったのは小椋佳であるが,このような地味で慎ましく秘やかなる歴史的風景を少しでも残しておきたいと願う「語り部」はどこかにおらぬのだろうか? そもそも風景は文化ではないか。 小田原市教育委員会は何をしておる!