さて,と。 またもや自転車の話である。はじめに断っておくが,バカバカしい話である。つまり。。 その。。。 それは自転車というものがバカバカしいのでは勿論なくって,語り手たる私自身の存在というものがバカバカしいことの謂な訳でして (のっけから苦しいイイワケだ)
ここでは自転車の「重さ」と「スピード」の話をする。 昨今ハヤリのロードバイクの世界においては,車重7~8kgという軽量バイクが一般的,というか,ほとんど主流になっているらしい。なかには7kgを下回る,まるでハリガネ細工のようなフラジャイルな自転車に乗って悦に入っているヒトビトも少なからず存在するとのことだ。しかし何ですな,いくら高性能・高品質素材をふんだんに用いて作られているからといって,例えば車重6kgの自転車に体重60kgの人間が乗って時速60kmで一般道路を突っ走るなんてぇことは良識と分別ある市井人のすることではないように思う。それじゃあまるで,快楽と危険とを天秤にかける一種曲馬団に類する輩と見なされても致し方ないと思う。もっとも,それがどのようなジャンルであれ,趣味の世界が時とともに先鋭化し特化してゆくことは世の習い。潤沢な(?)余剰資金が湯水のごとく投入され,それによって当該マーケットが賑わい,拡大化する。そのこと自体は社会経済の活性化にとって多分好ましいことなのだろう。そう,金(カネ)本位制の世界においては,ですけどネ。 オレが稼いだ金をオレが自由に使ってどこが悪い! それはまるで資本主義経済の最先端を突っ走る隣りのタマゲタ君,ではないか,GDP世界第二位の社会主義超大国における傲慢無礼な新興ブルジョワジーの所作と同狢でございましょう。もちろんそれが法治国家において認められたマットウナ権利であることは重々理解してはおりますが(ボーゲン95%の言い草,何卒御寛恕下さい)。
ブルジョワども! 奴らはまるで去勢された豚のようだ
年を取れば取るほど どんどんマヌケになってゆく
Les bourgeois, c'est comme les cochons!
Plus ça devient vieux, plus ça devient bête
若き日のジャック・ブレルJacques Brelの痛烈な叫びが思わず口をついて出てしまう今日この頃,皆様いかがお過ごしでしょうか? ブレルが死んで今年ではや28年。その間オマエはいったい何をしてきたのだ!などと改めて自らに問い糾すことがせめてもの自省というものでありましょう。 で,どなた様もお元気でしょうか? はい。お元気だから毎日自転車に乗っているのです。
いっぽう,そのようなタマゲタ君の対極にあって現在ビンボーまっただなかにあるワタクシが日々乗り回している自転車といえば,車重が約16kgのガッシリした(しばしば,ドンクサイ,と指摘されたりもする)MTBで,ママチャリ連中などとは親和性が高いが,ロードバイク社中御一行様とはその外観および中身において明らかに一線を画している。近在の道路を走っていても,平坦地の場合はパピーッ!という感じで一瞬のうちにローディーに追い抜かれ,また,山道の場合でもアスファルト舗装路の登りではサクッ!と簡単に先を越される。ちなみに,こちらの得意とする未舗装道路での状況については,あいにく敵方は全くといっていいほど侵入して来ないので比較検討不能である。いやいや,地点間移動において同じエネルギー利用システムを行使するもの同士ゆえ,敵(エネミ)などといっては失礼だろう。ここは階級(クラス)ないし階層(ヒエラルキ)が全く異なる,と申しておきましょうか。バラモンとシュードラ,あるいはセルシオとヴィッツ。ああ,何とでも喩えるがよろしい。ただやはり,我ら自転車人は日頃競輪場バンクや自動車サーキットコースを走っているわけじゃないのであるからして,そのような一般道路パピーッ!走行に潜む危険性については十分に留意されたい。交通事故というのは常に他者を巻き込む可能性を孕んでいるわけであるからして。
ひとつ,その危険性を具体的に示してみよう (例示サンプルはあくまで架空のものでアリマス)。
例1) 体重60kgのタカチホハルカが 車重6kgのトレックに乗って 時速40kmで1時間走る
例2) 体重60kgのイシダジュンイチが 車重1600kgのフェラーリに乗って 時速150kmで1時間走る
例3) 体重60kgのワタクシが 車重16kgのジャイアントに乗って 時速15kmで1時間走る
ここで,体重:W,車重:G,時速:Vt 走行距離:Dとすると,道路交通危険度RTDは以下の式で表される。
RTD = W/G*Vt^2*D
単純かつテキトーな式で恐縮です。各サンプルを式にあてはめると,ワタクシ@Giantの危険度は13,000ガバチョ, イシダジュンイチ@Ferrariの危険度は126,000ガバチョ,そして タカチホハルカ@Trekの危険度は640,000ガバチョとなる(単位は仮称)。すわわち,タカチホハルカの道路交通危険度はイシダジュンイチの10倍,ワタクシの50倍にも及ぶのである! 改めてローディー諸兄姉の自重を切に望むものである。
おっといけない。この調子で数理学的検討を進めてゆくと,話がバカバカしいのをパピーッと通り越して何処かトンデモナイ方向へと突っ走って行きそうだ。で,私自身のMTBのことに話を戻すと,この鈍重なる愛車,日常メンテナンスは比較的こまめに行ってはいるものの,何分にも毎日乗り続けて約5年を経過した現在となっては,かなりの黄昏感,クタビレ感がボディ全体から滲み出ていることは否めない。最近ではちょっと無理をすると車体のどこかからミシミシあるいはキシキシという異音が聞こえる。カラダのどこかが悲鳴をあげている(さて,一体どこなんだ?)。更年期障害というのはこういうものなのだろうか。自転車だってニンゲンだぃ!
加えていつも1~2kg,時には5kg以上の荷物を付加(車体に括り付けたり,あるいは直接背負ったり)しているものだから,自転車全体としてのヴォリュームは巷間のママチャリとさして変わることがない。むしろ,我がMTBの2.3インチ幅広ブロック・タイヤは舗装路走行においてはママチャリの細身スリック・タイヤをはるかに上回る摩擦抵抗を発生させ,非力な老人ライダーにとっては少なからぬ負荷ストレッサーとなる。かてて加えて,この冬以来およそ半年近くのあいだに様々なメンタル・ストレス・コンプレックスを抱え込んだがゆえのことか,我が身体の中枢部すなわち腹部周辺にまで2kg程度の重量負荷が追加付与されちまった次第だ(さすがに,これは何とかせねばナと思っているが)。
ママチャリに対する当方のアドバンテージといえば,せいぜいのところ,前3段,後8段の変速ギアが付いていることくらいだろうか。平地での走りはもっぱら彼らとドッコイドッコイだが,坂道となればこっちのモンである。例えば数日前のこと,県央の海老名市方面に所用があって自転車で出掛けたのだが,その帰り路,国道246号の善波の長い坂道を桜坂交差点から上っているとき,《太郎の力石》のすぐ上あたりで通学自転車に乗った高校生3人組に一気に追い抜かれた。部活帰りの体育会系青少年(バスケ部?)といった外見で,前カゴに大きなバッグを積み,ジャージ姿の体躯もたくましく,何やら3人で坂道自転車競争している様子であった。お互い快活に言葉を投げ合いながらシャカリキきになって漕ぎ上ってゆき,当方はあっという間にぐんぐん離されてしまった。いやぁ,若い子のパワーにはカナワナイナー,などと思いながら,こちらはいつものペースで坦々と上っていった。
ところが,そのうちに一旦大きく引き離された彼我の距離が徐々に縮まってきて,ついに《SHALLOW善波堂》を過ぎたあたりで彼らのうち2名を捕らえて抜き返したのである。その段階では両人ともかなり疲れている様子で,もはや戦意喪失,というか全身ヘロヘロ状態の漕ぎになっていた。そして,先行していた残る1名も,峠のトンネルのすぐ手前,《矢倉沢往還》への下り口付近で遂に追い抜くこととなった。ワタクシとしては何やら円谷幸吉をトラックの最終コーナーで満を持してサッと追い抜くベイジル・ヒートリーの気分でありました(古い!) ちなみに善波峠における私のゴールは246号の新善波トンネルではなく,ラブホ街を抜けた先の旧善波隧道の方と決めている。キラビヤカなネオンの森を通り抜けて,薄暗くヒンヤリと静まりかえった古い隧道の中をゆっくりと走り,それから坂をカーブしながら下っていって盆地の風景が視界に広がるとき,ああ,今日も無事で帰ってこれたナ,と,いつもホッとした気持ちになる。たとえそこが坂道だらけの土地であろうとも,道路整備状況がすこぶる立ち後れた地域であろうとも,やはり我が町は有難きかな。
おっと,追い抜いた自転車高校生たちのことを忘れていた。彼らも何とか無事で盆地の町に帰ってきたのかな。まぁ,とにかく若気の至りというか,ペース配分をゼンゼン知らないわけですね,彼らは。今後さらに精進して善き自転車人になって欲しいと切に願うものである。それから一言,国道を仲間と走るときは決して横列併走しないように! トラックの運ちゃんに怒鳴られ煽られるくらいならまだしも,事故を起こしちゃ元も子もないゾ。
以上,ママチャリに対するMTBのアドバンテージを例示しただけとは言いながら結局のところオノレの他愛ない自転車自慢を述べたに過ぎないデハナイカ!と受け取られることを密かに恐れるものである。ワタクシの本心としては,そもそも親愛なる同志たちと競う気などはさらさらない。 ないんだケレドモ。。。 例えば,また別の時,別の場所にて,やはりMTBに乗って斜度5~6%の長い坂道を登っているとき,前をゆく電動アシスト自転車(車重は推定30kg,しかもリア・キャリアに小さな子供を乗せている!)になかなか追いつけないことがあったりして,少々気をそがれてメゲたりもするのだ(ヤッパ,競っているか?それも低レベルで)。いやまったく,世間にはいろんな自転車がある。いろんな自転車乗りがいる。それはそれで大変良いことだと思う。で,ヤットコサットコその電動自転車に追いついて,追い抜きざまにチラリと横を見れば,乗っているのは南米はインディオ系の精悍な風貌の若いオカアチャンである。バッテリーの力を一部借りているとはいえ,実に力強く安定した,逞しいと言えるほどの漕ぎっぷりだ。山岳王ルイス・ヘレラの親戚筋かも知らん。後部シートにチョコンと座っている日焼けしたクリクリ眼のかわいらしい男の子も安心して母親の自転車に身を任せているようだ。ヨシヨシ,振り落とされないよう,オカアチャンにしっかり掴まっているんだよ! いかなる理由があろうかは知らねども,遠く地球の裏側の国からはるばる海を越えて極東の島国へとやってきて,風土も習慣も人々の暮らしぶりもまったく異なるこの盆地の小さな町に住み,さまざまな不安や苦悩,期待や希望,喜びや悲しみを抱えつつも,毎日々々を自転車に乗りながら健気に暮らしている母と子,そんな人たちを身近でふと眺めるとき,私の涙腺は不覚にもダラシナク緩んでしまうのだ。この涙は一体ドコカラクルノダロウ? そしてこれが自転車をめぐるトーワク,ということなのかナ?
駄言はさておき。 それにしても,自転車はいいなぁ。 昨今のディープでタイトな世界,鬱屈とした世情,閉塞的かつ皮相的な世論のなかにひとり身を置いて孤立する私にとって,日常風景のなかでさりげなく目にするさまざまな自転車の姿,それはたとえば若い女子事務員が昼下がりの工業団地内の淀んだ空気をスーッとかき分けるように自転車に乗って軽やかに風を切って通り過ぎてゆく風景であったり,あるいは年配の農家のオバチャンが河岸段丘を斜めに切る緩やかな坂道をユックリユックリユックリ汗かきながら一生懸命漕ぎ上ってゆく風景だったり,あるいはまた小学校低学年とおぼしき元気いっぱいの男の子たち数名がそれぞれカラフルなMTBモドキに乗って河川敷のデコボコ道を実に楽しげにローリングしている遊びの風景だとか,そういった自転車風景の書き割りを眺めるとき,なぜだろう,自転車というものがたまならく愛おしくなってくるのだ。古い記憶がよみがえるのかも知れない。それはかつて,日々の暮らしのなかで自転車がとても重宝がられ,大事にされ,なくてはならない身近な用具としていつも傍らにあった社会。狩猟民族における馬,農耕民族における牛,イヌイットにおける犬のように,自転車というものが家族にとって共同体にとって愛すべき家畜(アニマル・ドメスチーク)のような存在,まことに頼りがいのある一心同体の相棒としていつも傍らにあった,そんな社会のことだ。都会といわず田舎といわず,人々の生活のなかに自転車がごく自然にとけ込み,町の幹線道路や路地裏,村の街道や畦道,野山の細道や畑道など,さまざまな道を自転車が自在闊達に往来する。自転車が暮らしの潤滑剤として,地域内を結ぶ単純素朴なネットワーク・ツールとしての重要な役割を担っている。それよりも何よりも,自転車に乗って走ること自体がとても愉快で楽しいんだ!
思い起こせば,この国だってほんの半世紀ばかり前までは世の中全体がそんな風にして成り立っていた筈ではないか。そのような生活様式,暮らしぶりを再び望むのは夢物語だろうか? 今更そんな後戻りなど無理だって? いや,そんなことは決してあるまい。ひとそれぞれが虚心坦懐になって過去の歴史に学び,出来うる限りの衆智を集め,よりよい日々の暮らしと望ましかるべき未来の方途を地道に探ってゆけば,いつかきっと,自転車にとっての「正しい道」は見出せるに違いないと思う(フン,甘っチョロイ考えだ!などと申すなかれ) ただし! クルマ偏重社会から脱クルマ社会への移行という基本理念の検討,ならびに喫緊の課題としての現行の劣悪な生活道路のインフラ整備等の交通体系の基本政策に対する取り組みを全くないがしろにして,ただひたすらに高速道路無料化などという馬鹿げたお題目の実現に腐心している限りなくオロカナル現政権(こればっか)には,そのような社会変革は一切期待できない。そのことだけはハッキリしている。あの最小不幸ソーリのいつだって眠たげな答弁は,私にはすべてお経に聞こえる。それもアホダラ経。とっとと政治家なんか辞めて御遍路三昧でもするがよろしい。さらに閣僚のお仲間うちでも,たとえば仕分けの大将・枝野ダイジンや財務の大将・野田ダイジンの弛んだ二重アゴと体脂肪タップリの体躯,あのような御姿を見せつけられるだけで,彼らが自転車のことなんてこれっぽっちも考えていないことは実に明白である(プリウスにでも乗ってふんぞり返っているのか?)
いっぽうで,それじゃあJCA(日本サイクリング協会)会長・谷垣禎一氏が総理大臣になればそのような自転車復権,シアワセな自転車暮らしが多少は近づくのかと言えば,それもまた安易な期待に過ぎないだろう(ワーストを捨ててベターを取る,くらいは言えるかも知らんが)。そもそも,右も左も,富む者も貧しき者も,カシコイ者もオロカナ者も,あまりにも現実のクルマ社会に対する反省がなさすぎるのだ。 しかり。今は決して自転車ブームなんかじゃない。今はまさに自転車にとって苦難の時代なのである。
あれれ? バカバカしい話であったはずが,最後は無理してモットモラシク纏めようとしてしまったゾ。いかん,いかん。まぁ,それもまた私自身のバカバカシサの証明なのではございましょうが,それにしても相も変わらずツマラヌ話題しか提示できなくて恐縮しきりであります。 さて,と。 反省を兼ねてナイトランにでも出掛けるとするかナ。
ここでは自転車の「重さ」と「スピード」の話をする。 昨今ハヤリのロードバイクの世界においては,車重7~8kgという軽量バイクが一般的,というか,ほとんど主流になっているらしい。なかには7kgを下回る,まるでハリガネ細工のようなフラジャイルな自転車に乗って悦に入っているヒトビトも少なからず存在するとのことだ。しかし何ですな,いくら高性能・高品質素材をふんだんに用いて作られているからといって,例えば車重6kgの自転車に体重60kgの人間が乗って時速60kmで一般道路を突っ走るなんてぇことは良識と分別ある市井人のすることではないように思う。それじゃあまるで,快楽と危険とを天秤にかける一種曲馬団に類する輩と見なされても致し方ないと思う。もっとも,それがどのようなジャンルであれ,趣味の世界が時とともに先鋭化し特化してゆくことは世の習い。潤沢な(?)余剰資金が湯水のごとく投入され,それによって当該マーケットが賑わい,拡大化する。そのこと自体は社会経済の活性化にとって多分好ましいことなのだろう。そう,金(カネ)本位制の世界においては,ですけどネ。 オレが稼いだ金をオレが自由に使ってどこが悪い! それはまるで資本主義経済の最先端を突っ走る隣りのタマゲタ君,ではないか,GDP世界第二位の社会主義超大国における傲慢無礼な新興ブルジョワジーの所作と同狢でございましょう。もちろんそれが法治国家において認められたマットウナ権利であることは重々理解してはおりますが(ボーゲン95%の言い草,何卒御寛恕下さい)。
ブルジョワども! 奴らはまるで去勢された豚のようだ
年を取れば取るほど どんどんマヌケになってゆく
Les bourgeois, c'est comme les cochons!
Plus ça devient vieux, plus ça devient bête
若き日のジャック・ブレルJacques Brelの痛烈な叫びが思わず口をついて出てしまう今日この頃,皆様いかがお過ごしでしょうか? ブレルが死んで今年ではや28年。その間オマエはいったい何をしてきたのだ!などと改めて自らに問い糾すことがせめてもの自省というものでありましょう。 で,どなた様もお元気でしょうか? はい。お元気だから毎日自転車に乗っているのです。
いっぽう,そのようなタマゲタ君の対極にあって現在ビンボーまっただなかにあるワタクシが日々乗り回している自転車といえば,車重が約16kgのガッシリした(しばしば,ドンクサイ,と指摘されたりもする)MTBで,ママチャリ連中などとは親和性が高いが,ロードバイク社中御一行様とはその外観および中身において明らかに一線を画している。近在の道路を走っていても,平坦地の場合はパピーッ!という感じで一瞬のうちにローディーに追い抜かれ,また,山道の場合でもアスファルト舗装路の登りではサクッ!と簡単に先を越される。ちなみに,こちらの得意とする未舗装道路での状況については,あいにく敵方は全くといっていいほど侵入して来ないので比較検討不能である。いやいや,地点間移動において同じエネルギー利用システムを行使するもの同士ゆえ,敵(エネミ)などといっては失礼だろう。ここは階級(クラス)ないし階層(ヒエラルキ)が全く異なる,と申しておきましょうか。バラモンとシュードラ,あるいはセルシオとヴィッツ。ああ,何とでも喩えるがよろしい。ただやはり,我ら自転車人は日頃競輪場バンクや自動車サーキットコースを走っているわけじゃないのであるからして,そのような一般道路パピーッ!走行に潜む危険性については十分に留意されたい。交通事故というのは常に他者を巻き込む可能性を孕んでいるわけであるからして。
ひとつ,その危険性を具体的に示してみよう (例示サンプルはあくまで架空のものでアリマス)。
例1) 体重60kgのタカチホハルカが 車重6kgのトレックに乗って 時速40kmで1時間走る
例2) 体重60kgのイシダジュンイチが 車重1600kgのフェラーリに乗って 時速150kmで1時間走る
例3) 体重60kgのワタクシが 車重16kgのジャイアントに乗って 時速15kmで1時間走る
ここで,体重:W,車重:G,時速:Vt 走行距離:Dとすると,道路交通危険度RTDは以下の式で表される。
RTD = W/G*Vt^2*D
単純かつテキトーな式で恐縮です。各サンプルを式にあてはめると,ワタクシ@Giantの危険度は13,000ガバチョ, イシダジュンイチ@Ferrariの危険度は126,000ガバチョ,そして タカチホハルカ@Trekの危険度は640,000ガバチョとなる(単位は仮称)。すわわち,タカチホハルカの道路交通危険度はイシダジュンイチの10倍,ワタクシの50倍にも及ぶのである! 改めてローディー諸兄姉の自重を切に望むものである。
おっといけない。この調子で数理学的検討を進めてゆくと,話がバカバカしいのをパピーッと通り越して何処かトンデモナイ方向へと突っ走って行きそうだ。で,私自身のMTBのことに話を戻すと,この鈍重なる愛車,日常メンテナンスは比較的こまめに行ってはいるものの,何分にも毎日乗り続けて約5年を経過した現在となっては,かなりの黄昏感,クタビレ感がボディ全体から滲み出ていることは否めない。最近ではちょっと無理をすると車体のどこかからミシミシあるいはキシキシという異音が聞こえる。カラダのどこかが悲鳴をあげている(さて,一体どこなんだ?)。更年期障害というのはこういうものなのだろうか。自転車だってニンゲンだぃ!
加えていつも1~2kg,時には5kg以上の荷物を付加(車体に括り付けたり,あるいは直接背負ったり)しているものだから,自転車全体としてのヴォリュームは巷間のママチャリとさして変わることがない。むしろ,我がMTBの2.3インチ幅広ブロック・タイヤは舗装路走行においてはママチャリの細身スリック・タイヤをはるかに上回る摩擦抵抗を発生させ,非力な老人ライダーにとっては少なからぬ負荷ストレッサーとなる。かてて加えて,この冬以来およそ半年近くのあいだに様々なメンタル・ストレス・コンプレックスを抱え込んだがゆえのことか,我が身体の中枢部すなわち腹部周辺にまで2kg程度の重量負荷が追加付与されちまった次第だ(さすがに,これは何とかせねばナと思っているが)。
ママチャリに対する当方のアドバンテージといえば,せいぜいのところ,前3段,後8段の変速ギアが付いていることくらいだろうか。平地での走りはもっぱら彼らとドッコイドッコイだが,坂道となればこっちのモンである。例えば数日前のこと,県央の海老名市方面に所用があって自転車で出掛けたのだが,その帰り路,国道246号の善波の長い坂道を桜坂交差点から上っているとき,《太郎の力石》のすぐ上あたりで通学自転車に乗った高校生3人組に一気に追い抜かれた。部活帰りの体育会系青少年(バスケ部?)といった外見で,前カゴに大きなバッグを積み,ジャージ姿の体躯もたくましく,何やら3人で坂道自転車競争している様子であった。お互い快活に言葉を投げ合いながらシャカリキきになって漕ぎ上ってゆき,当方はあっという間にぐんぐん離されてしまった。いやぁ,若い子のパワーにはカナワナイナー,などと思いながら,こちらはいつものペースで坦々と上っていった。
ところが,そのうちに一旦大きく引き離された彼我の距離が徐々に縮まってきて,ついに《SHALLOW善波堂》を過ぎたあたりで彼らのうち2名を捕らえて抜き返したのである。その段階では両人ともかなり疲れている様子で,もはや戦意喪失,というか全身ヘロヘロ状態の漕ぎになっていた。そして,先行していた残る1名も,峠のトンネルのすぐ手前,《矢倉沢往還》への下り口付近で遂に追い抜くこととなった。ワタクシとしては何やら円谷幸吉をトラックの最終コーナーで満を持してサッと追い抜くベイジル・ヒートリーの気分でありました(古い!) ちなみに善波峠における私のゴールは246号の新善波トンネルではなく,ラブホ街を抜けた先の旧善波隧道の方と決めている。キラビヤカなネオンの森を通り抜けて,薄暗くヒンヤリと静まりかえった古い隧道の中をゆっくりと走り,それから坂をカーブしながら下っていって盆地の風景が視界に広がるとき,ああ,今日も無事で帰ってこれたナ,と,いつもホッとした気持ちになる。たとえそこが坂道だらけの土地であろうとも,道路整備状況がすこぶる立ち後れた地域であろうとも,やはり我が町は有難きかな。
おっと,追い抜いた自転車高校生たちのことを忘れていた。彼らも何とか無事で盆地の町に帰ってきたのかな。まぁ,とにかく若気の至りというか,ペース配分をゼンゼン知らないわけですね,彼らは。今後さらに精進して善き自転車人になって欲しいと切に願うものである。それから一言,国道を仲間と走るときは決して横列併走しないように! トラックの運ちゃんに怒鳴られ煽られるくらいならまだしも,事故を起こしちゃ元も子もないゾ。
以上,ママチャリに対するMTBのアドバンテージを例示しただけとは言いながら結局のところオノレの他愛ない自転車自慢を述べたに過ぎないデハナイカ!と受け取られることを密かに恐れるものである。ワタクシの本心としては,そもそも親愛なる同志たちと競う気などはさらさらない。 ないんだケレドモ。。。 例えば,また別の時,別の場所にて,やはりMTBに乗って斜度5~6%の長い坂道を登っているとき,前をゆく電動アシスト自転車(車重は推定30kg,しかもリア・キャリアに小さな子供を乗せている!)になかなか追いつけないことがあったりして,少々気をそがれてメゲたりもするのだ(ヤッパ,競っているか?それも低レベルで)。いやまったく,世間にはいろんな自転車がある。いろんな自転車乗りがいる。それはそれで大変良いことだと思う。で,ヤットコサットコその電動自転車に追いついて,追い抜きざまにチラリと横を見れば,乗っているのは南米はインディオ系の精悍な風貌の若いオカアチャンである。バッテリーの力を一部借りているとはいえ,実に力強く安定した,逞しいと言えるほどの漕ぎっぷりだ。山岳王ルイス・ヘレラの親戚筋かも知らん。後部シートにチョコンと座っている日焼けしたクリクリ眼のかわいらしい男の子も安心して母親の自転車に身を任せているようだ。ヨシヨシ,振り落とされないよう,オカアチャンにしっかり掴まっているんだよ! いかなる理由があろうかは知らねども,遠く地球の裏側の国からはるばる海を越えて極東の島国へとやってきて,風土も習慣も人々の暮らしぶりもまったく異なるこの盆地の小さな町に住み,さまざまな不安や苦悩,期待や希望,喜びや悲しみを抱えつつも,毎日々々を自転車に乗りながら健気に暮らしている母と子,そんな人たちを身近でふと眺めるとき,私の涙腺は不覚にもダラシナク緩んでしまうのだ。この涙は一体ドコカラクルノダロウ? そしてこれが自転車をめぐるトーワク,ということなのかナ?
駄言はさておき。 それにしても,自転車はいいなぁ。 昨今のディープでタイトな世界,鬱屈とした世情,閉塞的かつ皮相的な世論のなかにひとり身を置いて孤立する私にとって,日常風景のなかでさりげなく目にするさまざまな自転車の姿,それはたとえば若い女子事務員が昼下がりの工業団地内の淀んだ空気をスーッとかき分けるように自転車に乗って軽やかに風を切って通り過ぎてゆく風景であったり,あるいは年配の農家のオバチャンが河岸段丘を斜めに切る緩やかな坂道をユックリユックリユックリ汗かきながら一生懸命漕ぎ上ってゆく風景だったり,あるいはまた小学校低学年とおぼしき元気いっぱいの男の子たち数名がそれぞれカラフルなMTBモドキに乗って河川敷のデコボコ道を実に楽しげにローリングしている遊びの風景だとか,そういった自転車風景の書き割りを眺めるとき,なぜだろう,自転車というものがたまならく愛おしくなってくるのだ。古い記憶がよみがえるのかも知れない。それはかつて,日々の暮らしのなかで自転車がとても重宝がられ,大事にされ,なくてはならない身近な用具としていつも傍らにあった社会。狩猟民族における馬,農耕民族における牛,イヌイットにおける犬のように,自転車というものが家族にとって共同体にとって愛すべき家畜(アニマル・ドメスチーク)のような存在,まことに頼りがいのある一心同体の相棒としていつも傍らにあった,そんな社会のことだ。都会といわず田舎といわず,人々の生活のなかに自転車がごく自然にとけ込み,町の幹線道路や路地裏,村の街道や畦道,野山の細道や畑道など,さまざまな道を自転車が自在闊達に往来する。自転車が暮らしの潤滑剤として,地域内を結ぶ単純素朴なネットワーク・ツールとしての重要な役割を担っている。それよりも何よりも,自転車に乗って走ること自体がとても愉快で楽しいんだ!
思い起こせば,この国だってほんの半世紀ばかり前までは世の中全体がそんな風にして成り立っていた筈ではないか。そのような生活様式,暮らしぶりを再び望むのは夢物語だろうか? 今更そんな後戻りなど無理だって? いや,そんなことは決してあるまい。ひとそれぞれが虚心坦懐になって過去の歴史に学び,出来うる限りの衆智を集め,よりよい日々の暮らしと望ましかるべき未来の方途を地道に探ってゆけば,いつかきっと,自転車にとっての「正しい道」は見出せるに違いないと思う(フン,甘っチョロイ考えだ!などと申すなかれ) ただし! クルマ偏重社会から脱クルマ社会への移行という基本理念の検討,ならびに喫緊の課題としての現行の劣悪な生活道路のインフラ整備等の交通体系の基本政策に対する取り組みを全くないがしろにして,ただひたすらに高速道路無料化などという馬鹿げたお題目の実現に腐心している限りなくオロカナル現政権(こればっか)には,そのような社会変革は一切期待できない。そのことだけはハッキリしている。あの最小不幸ソーリのいつだって眠たげな答弁は,私にはすべてお経に聞こえる。それもアホダラ経。とっとと政治家なんか辞めて御遍路三昧でもするがよろしい。さらに閣僚のお仲間うちでも,たとえば仕分けの大将・枝野ダイジンや財務の大将・野田ダイジンの弛んだ二重アゴと体脂肪タップリの体躯,あのような御姿を見せつけられるだけで,彼らが自転車のことなんてこれっぽっちも考えていないことは実に明白である(プリウスにでも乗ってふんぞり返っているのか?)
いっぽうで,それじゃあJCA(日本サイクリング協会)会長・谷垣禎一氏が総理大臣になればそのような自転車復権,シアワセな自転車暮らしが多少は近づくのかと言えば,それもまた安易な期待に過ぎないだろう(ワーストを捨ててベターを取る,くらいは言えるかも知らんが)。そもそも,右も左も,富む者も貧しき者も,カシコイ者もオロカナ者も,あまりにも現実のクルマ社会に対する反省がなさすぎるのだ。 しかり。今は決して自転車ブームなんかじゃない。今はまさに自転車にとって苦難の時代なのである。
あれれ? バカバカしい話であったはずが,最後は無理してモットモラシク纏めようとしてしまったゾ。いかん,いかん。まぁ,それもまた私自身のバカバカシサの証明なのではございましょうが,それにしても相も変わらずツマラヌ話題しか提示できなくて恐縮しきりであります。 さて,と。 反省を兼ねてナイトランにでも出掛けるとするかナ。