プロテスタント系のサイトで、聖書を分かりやすく解説しているというので調べてみましたが、プロテスタント系は概して危険性を内包しています。
プロテスタントはルターの宗教革命で生まれた、カソリックに根を持つキリスト教です。従って、聖書を信仰の中心に置いているはずですが、細かく見ると随分と酷いことを教えています。例えば、アダムから始まる先祖に対する扱いです。
アダムからセツを経て、やがてノアの洪水を迎え、ノアの子孫からアブラハム、イサク、ヤコブと続き、ヤコブの別名であるイスラエルからイスラエル12部族が誕生します。聖書は、新旧ともに、このイスラエル12部族に対する導きと預言の書なのです。新約で、異邦人のために残しておけ、と書かれた部分だけが、異邦人である白人や黒人や、イスラエル以外のセム系黄色人種に関わることなのです。
ですから、本来はイスラエルの宗主国である日本に一番深く関わっているのが聖書なのです。この基本が理解されず、聖書の教えはカソリックによって誤解され、プロテスタントによって捻じ曲げられ、朝鮮カルトによって蹂躙されたのです。
カソリックやプロテスタントで一番問題になるのは、その権威付けのための儀式です。例えば、最も有名な儀式である洗礼の本来の目的は、教会に入るための、あるいはクリスチャンになるために必ず必要な通過儀礼ではありません。洗礼は、本人が罪を認めて、その罪を洗い流す儀式です。だから、罪のない幼子には必要ないとされているわけで、同じように罪のない人には必要がないのです。
悔い改めた者は、その心によって罪が赦されるので、いわゆる聖霊によって洗礼されたのと同じなのです。イエスがヨハネによって洗礼を受けたのは、それが通過儀礼だからではなく、聖霊による洗礼を教えるためなのです。最も、ノアの箱舟のように、完全に水に潜る洗礼をしても良いのですが、それで罪が無くなるとか聖霊が訪れることはありません。あくまでも、本人の心の清さだけが秤にかけられるからです。
また、教会儀式で欠かせない聖餐(パン)ですが、これも教会の権威者から授かる必要はないのです。裏で金を貯めて愛人を囲う権威者の汚れた手から受けるより、自分で祈って毎日のパンを清くする方が良いのです。祈れば清くなるし、その祈りはイエスに届きます。
教会の権威者なんて、一皮剥けばただの俗人ですから、人を教える時に自分を高めようとします。その典型的な例が、アダムからヤコブに至る祖先を貶める教えです。プロテスタントでは当たり前みたいですが、次のように教えています。驚きました。
「アダムとイブの頃は、人は神への信仰は何も分かってなかった事が分かります。そしてセト(セツ)の子エノシュ(エノス)が生まれた頃、人々は神の御名において拝むことを始めました。アブラハムを神は目をかけてくださいましたが、まだ神への信仰という点では未熟でした」
こんな出鱈目を堂々と教えているとは信じられません。そもそも、神と直接話したアダムが神を知らないわけがありません。原典を読んでも絶対に出てこない解釈です。それがどうして罷り通るのかというと、新興宗教の勧誘手口だからです。
「我々の新しい教えが正しいのだから、それ以前の福音は間違っている。だから、我々の福音を知らない先祖は神への信仰を知らない」
プロテスタントだけでなく、モルモンもこのよう↑に教えています。モルモンでは、『アブラハム書』において、「イサク(だったと思う)が異教の神を拝んで罪を犯した」とかの、聖書には書かれていない事を捏造して書いています。まあ、ミイラの枕の下に敷いていたおまじないの紙を、モルモン書を証しする聖典だと勘違いして、エジプト語も分からないのに脳内翻訳して『アブラハム書』を書いたような教会ですから。
このような、モルモンに代表される捏造や異様な教えは、全米が宗教ブームだった19世紀のアメリカに顕著なのです。新しい教会が権威付けのために、聖書を改竄して教える。モルモンもプロテスタントから出たので、『アブラハム書』もプロテスタントに共通する、先祖を下げる行為を行なっているわけです。
アダムからヨセフに至るイスラエルの祖先は、IQが220以上の大天才で、しかも預言者としても偉大でした。僕たち現代人が束になっても敵わない、真の知の巨人ばかりでした。その祖先を貶める暇があったら、少しでも奥義を理解できるように自分を磨きましょう。先祖を敬えば敬うほど、我々の目は開かれるのですから。
エフライム工房 平御幸
プロテスタントはルターの宗教革命で生まれた、カソリックに根を持つキリスト教です。従って、聖書を信仰の中心に置いているはずですが、細かく見ると随分と酷いことを教えています。例えば、アダムから始まる先祖に対する扱いです。
アダムからセツを経て、やがてノアの洪水を迎え、ノアの子孫からアブラハム、イサク、ヤコブと続き、ヤコブの別名であるイスラエルからイスラエル12部族が誕生します。聖書は、新旧ともに、このイスラエル12部族に対する導きと預言の書なのです。新約で、異邦人のために残しておけ、と書かれた部分だけが、異邦人である白人や黒人や、イスラエル以外のセム系黄色人種に関わることなのです。
ですから、本来はイスラエルの宗主国である日本に一番深く関わっているのが聖書なのです。この基本が理解されず、聖書の教えはカソリックによって誤解され、プロテスタントによって捻じ曲げられ、朝鮮カルトによって蹂躙されたのです。
カソリックやプロテスタントで一番問題になるのは、その権威付けのための儀式です。例えば、最も有名な儀式である洗礼の本来の目的は、教会に入るための、あるいはクリスチャンになるために必ず必要な通過儀礼ではありません。洗礼は、本人が罪を認めて、その罪を洗い流す儀式です。だから、罪のない幼子には必要ないとされているわけで、同じように罪のない人には必要がないのです。
悔い改めた者は、その心によって罪が赦されるので、いわゆる聖霊によって洗礼されたのと同じなのです。イエスがヨハネによって洗礼を受けたのは、それが通過儀礼だからではなく、聖霊による洗礼を教えるためなのです。最も、ノアの箱舟のように、完全に水に潜る洗礼をしても良いのですが、それで罪が無くなるとか聖霊が訪れることはありません。あくまでも、本人の心の清さだけが秤にかけられるからです。
また、教会儀式で欠かせない聖餐(パン)ですが、これも教会の権威者から授かる必要はないのです。裏で金を貯めて愛人を囲う権威者の汚れた手から受けるより、自分で祈って毎日のパンを清くする方が良いのです。祈れば清くなるし、その祈りはイエスに届きます。
教会の権威者なんて、一皮剥けばただの俗人ですから、人を教える時に自分を高めようとします。その典型的な例が、アダムからヤコブに至る祖先を貶める教えです。プロテスタントでは当たり前みたいですが、次のように教えています。驚きました。
「アダムとイブの頃は、人は神への信仰は何も分かってなかった事が分かります。そしてセト(セツ)の子エノシュ(エノス)が生まれた頃、人々は神の御名において拝むことを始めました。アブラハムを神は目をかけてくださいましたが、まだ神への信仰という点では未熟でした」
こんな出鱈目を堂々と教えているとは信じられません。そもそも、神と直接話したアダムが神を知らないわけがありません。原典を読んでも絶対に出てこない解釈です。それがどうして罷り通るのかというと、新興宗教の勧誘手口だからです。
「我々の新しい教えが正しいのだから、それ以前の福音は間違っている。だから、我々の福音を知らない先祖は神への信仰を知らない」
プロテスタントだけでなく、モルモンもこのよう↑に教えています。モルモンでは、『アブラハム書』において、「イサク(だったと思う)が異教の神を拝んで罪を犯した」とかの、聖書には書かれていない事を捏造して書いています。まあ、ミイラの枕の下に敷いていたおまじないの紙を、モルモン書を証しする聖典だと勘違いして、エジプト語も分からないのに脳内翻訳して『アブラハム書』を書いたような教会ですから。
このような、モルモンに代表される捏造や異様な教えは、全米が宗教ブームだった19世紀のアメリカに顕著なのです。新しい教会が権威付けのために、聖書を改竄して教える。モルモンもプロテスタントから出たので、『アブラハム書』もプロテスタントに共通する、先祖を下げる行為を行なっているわけです。
アダムからヨセフに至るイスラエルの祖先は、IQが220以上の大天才で、しかも預言者としても偉大でした。僕たち現代人が束になっても敵わない、真の知の巨人ばかりでした。その祖先を貶める暇があったら、少しでも奥義を理解できるように自分を磨きましょう。先祖を敬えば敬うほど、我々の目は開かれるのですから。
エフライム工房 平御幸