平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

問題の答え~ルカの本質

2014-07-25 22:56:15 | 古代史と聖書
 先に出したイエスの磔刑に関する問題。今回は割とまともな回答が多く、やはり不勉強者の尻は叩かなくてはと実感しました。駄馬は叩かれないと動かないが、名馬は叩かれると機嫌を損ねる(ニジンスキーの凱旋門賞)という、競馬の有り様と同じです orz。

 「イエスの左右で磔になっている二人の犯罪者を特定せよ」という設問に対するヒントは、十字架の架の字にあります。下の木は、「救世主は木にかけられた」という言葉から分かるように、イエスの架けられた十字架を指します。もう少し詳しく解説すると、イエスの十字架=西暦という関係なので、旧約聖書のヤハウェを表す「ハ」+「十」=「木」なのです。だから、木はキリスト教以前のユダヤ教の暗喩でもあり、もう一つの「ハ」で表されるイエスが加われば、「ハ」+「木」=「米」となるのです。

 このように木は十字架をも意味するので、架の字は「十」+「加」と考える事ができます。また、加の字は前に「阿形のガブリエルと吽形のミカエル」であると説明しました。従って、架の字の構造と同じく、二人の罪人は右側が阿形のガブリエルで口を開き、左側が吽形のミカエルで力を込めている事になるのです。

 ところが、ルカによる福音書では、左右の犯罪者の両方共に口を開いています。片方は罵り、片方は弁護する。これでは「何が何だか分からないー」というガルパンの武部沙織状態になってしまうのでクジ引きで決めても良いのですが、やはり根拠が無いと後々に問題となります。

 この二人の犯罪者のシーンは福音書で異なり、『ヨハネによる福音書』は無視で、『マタイによる福音書』では左右の配置の記述と両者が罵ったことになり、『マルコによる福音書』もマタイと同じです。ルカだけが特別に詳しい。

 このような違いは、福音書の成立年代の違いや、磔刑の時に近くにいなかった者の聞き取り調査や、祭司(レビのマタイ)の立場からの意図的な編纂によるものと考えられます。しかし、二人の罪人が左右の十字架上で声闘し、最後に口をつぐんで黙ったのは罵った方なのです。弁護の言葉に負けたのですから吽形のミカエル。

 従って、罵った方が左の吽形のミカエルで、弁護した方が右の阿形のガブリエルという、契約の箱のケルビムと同じ構図になるのです。一見すると罵った方が悪で、弁護した方が善という構図に見えますが、そのような単純なものではなく、また右が慈悲の柱だから弁護した方がイエスの右と決め付けることはできないのです。

 ここで路加が重要になります。路加とは聖ルカの漢字表記。路加をカタカナで書けばロカ。左右を入れ替えるとカロとなり、見事に加の字が登場します。

 このように、ルカ(英 Luke)とは、加の1字で表されるケルビムの別名なのです。ケルビムを左右鏡像反転させればルカとなるのです。従って、ルカの記述も左右を入れ替えて、左が口のガブリエル。右が力(ちから)のミカエルの配置で見ることになります。

 ミカエルとガブリエルのヒエラルキーは、一般にミカエルが上と信じられています。「初めに言葉があった」という『創世記』の記述から、阿形のガブリエル初めでありヤハウェ。吽形のミカエルは終わりでありイエス。だからこそ、イエスの再臨の前に竜退治のミカエルが登場するわけで、『ヨハネの黙示録』はそれを踏まえて読まなくてはなりません。

 法隆寺の金剛力士像は、左が阿形で右が吽形。東大寺は左が阿形で右が吽形。阿吽のどちらが右かは昔から混乱しており、これは生命の樹を鏡で見るか、そのままで見るかの違いでもあるのです。

 生命の樹そのものが、左の峻厳の柱に慈悲のセフィロトがあり、右の慈悲の柱に峻厳のセフィロトがある。無闇に知識を求める者は、ここで混乱して精神の崩壊を招くことになります。知識を求めるより先に、今いる地獄からの脱出を優先させるべきです。

 ということで、正解といえば正解もあったということにしておきます。まだ上辺だけですが。イエスは、罵られた程度で赦さない心は持っていません。預言が成就する場で磔になった罪人も必要だったのです。

 パラダイスは天国ではなくて煉獄。霊体として修行する場と考えれば、罪人が悔いて死ぬ時の行く先としては高くも低くもありませんね。

    エフライム工房 平御幸
コメント (17)
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