平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

小姉君はモーセの妻チッポラ

2018-06-28 06:45:57 | 古代史と聖書
飛鳥昭雄氏や中山市朗氏が『未来記』で騒ぐものだから、中山市朗氏の『聖徳太子の「未来記」とイルミナティ』を読みながら、聖徳太子関係の洗い直しをしているところです。

飛鳥昭雄氏は基本的に素直派。『未来記』も聖徳太子も実際に存在したとして、漫画家らしく構図を考えるタイプ。中山市朗氏は人から聞いたことを信じつつ、自分で文献や地図や伝説を確かめ、もっとも破綻のない理論を構築するタイプ。学者ではなくロマン派ですね。

僕の場合は、謎に遭遇すると様々な仮説を立て、視点を頻繁に変えながら、その必然性を理由を考える。必然性こそが謎を解く鍵と考える。また、普通の人では見過ごす些細な事が気になって仕方なくなる。

中山市朗氏は聖徳太子の系図に疑問を持ち、蘇我氏の娘とされる、欽明天皇妃・小姉君(おあねのきみ)や、用明天皇の皇后・穴穂部間人(あなほべのはしひと=小姉君の娘)は物部氏ではないかと疑う。これは慧眼→蘇我氏の系図

というのも、物部氏はモーセ直系の祭司で、物とは「牛を拝む事なかれ」から来ているからです。牛・勿=物。

モーセは偉大な預言者であり、祭司レビ族でもあるのに、子孫は兄のアロン系の祭司に駆逐されてしまった。その理由は、モーセの妻が黒人系の穴居人、ミデヤン人だったからです。ミデヤン人は、民数記でイスラエルに滅ぼされているので、イスラエルの中で立場が弱かった。

しかし、モーセの血統は祭司向き。しかも、レビ族はヤキンという人物を排出するくらい金属精錬に強かった。それで、アロンの祭司より早く日本に来て基盤を作り、まず青銅器で出雲を支配して大国主命を出した。中央では製鉄で武器を作り、石上神宮を建てて物部氏となった。

ところが、南ユダ王国の末裔が新羅(新ローマ)経由で日本に来ると、ユダ族に付帯したアロン系の祭司である秦氏に国譲りを迫られた。大国主の国譲りとは、旧約聖書のモーセ系祭司の物部氏が、新約聖書のアロン系祭司の秦氏に国家祭司を譲ったことを意味するのです。

仏教を巡る物部氏と蘇我氏の対立も、日本書紀に書かれるような内容ではなかったと僕は思っています。なぜなら、聖徳太子の信仰したのはミトラ教(弥勒信仰)で仏教ではなかったからです。

ミトラ教は牛を拝み、また燔祭として捧げる。これが、モーセ系の牛を拝むことを禁じる物部神道と対立することになる。物部氏と蘇我氏+聖徳太子の対立は、廃仏派と崇仏派の対立ではなくて、牛を拝むミトラ教と牛を拝まないモーセ系の対立だった。日本書紀は意図的に歪めているのです→聖徳太子ゆかり太秦広隆寺の牛祭

さて、聖徳太子の父・用明は首字音訳でイエスの父ヨセフ。同じく聖徳太子の母・穴穂部間人はマリア。聖徳太子自体は厩戸皇子でイエスという構図になっています。これは、ミトラ=弥勒の救世主教の聖徳太子では、日本書紀の都合が悪かったからです。なぜなら、日本書紀は唐に見せるために書かれたもので、それで唐で公認された景教(ネストリウス派キリスト教)の救世主に聖徳太子を重ねて描写するしかなかった。ミトラ教の聖徳太子は抹殺されたのです。

日本書紀は、南ユダ系の秦氏ではなく、北イスラエル系の中臣=藤原氏の手で書かれた。中臣神道はオン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラの奥義を授かり、マナセとエフライム族に付帯したレビ族で、北イスラエルで生まれた仏教にも通じていた。唐の意向で仏教を中心とする天武以降の政権には都合が良かったのです。

話を戻すと、物部氏の祖先はモーセであり、それでモーセの妻チッポラを小姉として登場させた。チッポラは小鳥という意味で、小さい姉なのはチッポラには妹がいたから。映画の『十戒』には妹がたくさん出てきます (^=^;

チッポラは穴に住む穴居人だったから、チッポラ=小姉君の娘である穴穂部間人に穴が付く。もっとも、アナホベとはアンク十字架のヒエログリフの正しい読み方で、穴に穂という構造だからアナホ。穴穂部間人関係で穴太(あのう)という地名も出てくるそうですが、モーセの妻チッポラが穴居人だったことに関係していると思います。

ただ、チッポラは美人かと言われれば(´ε`;)ウーン…かも。色黒で出っ歯でおしゃべりでせわしなく、猿のような顔をした素朴な人だったと僕は思っています。母親の姉がそういう顔で息子がモーセのように吃りだから。ちなみに、モーセはギョロ目でがっしり体型 (^ω^)

追加

コメントにあったように、出雲大社の祭神の大穴牟遅(おおあなむち 別名・大国主命)は、モーセ系だから穴居人の穴が付く。また、牛を拝む勿(なかれ)から大物主とも呼ばれる。

大国主命=大穴牟遅の父親が素盞鳴尊(スサノオのミコト)なのは、スサノオは牛頭天王と同一で、牛頭天王こそ頭に角が生えたと誤訳された(実際は光)モーセそのものだから。モーセの子であるゲルションは外少と書くことが出来、ここからスサノオの後に少彦名命(すくなびこな)が登場することになる。スクナビコナはゲルションだったのです。

スサノオ(モーセ)→スクナビコナ(ゲルション)→大国主=オオアナムチ(ゲルションの子孫)→物部氏


物部氏の布留は、天理教が譲り受けて教会を作りました。これは、旧約の物部神道と新約の天理教という関係だから可能だったのです。その証拠に、天理教は五弁の梅紋で、梅は「食べる事なかれの木=イブの食べた樹の実」で、物の「牛を拝む事なかれ」と同じ構造になっています。ちなみに、フルとはベツレヘムの旧名。

四天王寺は丑年に建立開始。聖牛ミトラの弥勒信仰で、牛を拝むことを禁じる物部氏には受け入れられない。しかし、物部氏の祖先は牛頭天王のモーセでこちらも牛。物部氏は牛を拝んでいたわけではないが、物部氏を滅ぼした秦氏は慰霊に牛を利用した。それが、四天王寺の牛頭天王を祀る儀式で物部氏の鎮魂が目的。対して、広隆寺の奇祭・牛祭はミトラ教の祭り。どうやら、正体不明の牛頭天王を創り出したのは、ミトラの牛を隠したい秦氏みたいですね。

     平御幸(Miyuki.Taira)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする