第二次大戦でナチスに協力したと糾弾され、その指揮者としての活動を一時的に制限されたフルトヴェングラーですが、僕は指揮者として最大の賛辞を惜しみません。その理由は、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄(エロイカ)』の終楽章を聞いてもらえれば理解されると思っています→こちら(右クリックでリンク先を保存)。
この曲は、ベートーヴェンがナポレオンに献呈するつもりで書き上げた曲ですが、ナポレオンが皇帝の座に就いた事に反発し、献辞を消して発表されたものです。ここから分かるように、ベートーヴェンが残した他の交響曲とは性格が異なり、英雄の出現とその死という、極めて叙事詩的な構成が取られています。しかし僕は、ベートーヴェンが意図した以上に、一人の英雄像を喚起させる傑作だと思っています。そしてその英雄像とは、イエス・キリストの死と復活と再臨です。
第1楽章はイエスの出現と奇跡。実に、それまでの宗教体制を否定する思想にイエスの語りは満ちていたのです。ですから、ベートーヴェンにとっての英雄である革命家と一致するのです。第2楽章は英雄の死と葬送行進曲。この有名な旋律を、フルトヴェングラーは慟哭と言ってよい表情で指揮します。そして第3楽章ですが、この曲をベートーヴェンはどのように位置付けたのでしょうか?前章が葬送ですから繋がりません。
実は、この第3楽章を一人の人物の目を通して見ると、曲の構成が他ではあり得ないと感じます。では、その人物とは誰か?それは、死から復活したイエスを最初に見たマグダラのマリアです。このマリアは、イエスが埋葬された墓(バーバラ・スィーリング説は共同便所横)に出向き、白く輝くイエスを最初に発見した人です。しかし、イエスの余りの変身ぶりにイエスとはなかなか気が付かず、最初は天使と思ったのです。このマリアの戸惑いや、復活したイエスに出会った喜び、そして他の弟子に告げに行く道での、自分が見たものは本当にイエスだったのだろうかという疑念などなどが、続く第4楽章の途中まで見事に表現されているのです。ベートーヴェンが受けた霊感は、ナポレオンなどという俗物ではなくて、イエスという本当の英雄のために授けられたものだったのです。
さて、ベートーヴェンという人間は『運命』交響曲や第九の印象が強く、一般にその繊細さやメロディの美しさが充分に理解されていません。それで今回は、『英雄』の終楽章を紹介し、ベートーヴェンとフルトヴェングラーのコラボが生み出した、奇跡の音楽を楽しんで頂こうと思います。僕はこの終楽章を『イエスの再臨』とひそかに呼んでいます。それは、6分50秒過ぎから始まる舞曲のような優雅さと、8分50秒過ぎの『ヨハネの黙示録』に出てくる第七のラッパを連想させる金管の響きが、イエス再臨の日の救いを思わせるからです。特に、6分50秒過ぎのオーボエとクラリネットとホルンによる優しさは比類がありません。涙が出るほどの美しさです。
さて、このような名曲と名指揮者のコラボは奇跡と言ってよいので、小澤征爾盤を聞いた時は本当に落胆しました。小澤征爾も奈良文化会館でチャイコフスキーなどを聴いた時は良かったのですが、『英雄』の解釈は凡人のそれですね。願わくば、この名曲に相応しいフィギュア・スケーターが現れて、ババア好みの陳腐な選曲を馬鹿にするような傑作を滑って欲しいと思っています。でも、僕のような感性を持ったスケーターは出ないでしょうから諦めていますが…。
エフライム工房 平御幸
この曲は、ベートーヴェンがナポレオンに献呈するつもりで書き上げた曲ですが、ナポレオンが皇帝の座に就いた事に反発し、献辞を消して発表されたものです。ここから分かるように、ベートーヴェンが残した他の交響曲とは性格が異なり、英雄の出現とその死という、極めて叙事詩的な構成が取られています。しかし僕は、ベートーヴェンが意図した以上に、一人の英雄像を喚起させる傑作だと思っています。そしてその英雄像とは、イエス・キリストの死と復活と再臨です。
第1楽章はイエスの出現と奇跡。実に、それまでの宗教体制を否定する思想にイエスの語りは満ちていたのです。ですから、ベートーヴェンにとっての英雄である革命家と一致するのです。第2楽章は英雄の死と葬送行進曲。この有名な旋律を、フルトヴェングラーは慟哭と言ってよい表情で指揮します。そして第3楽章ですが、この曲をベートーヴェンはどのように位置付けたのでしょうか?前章が葬送ですから繋がりません。
実は、この第3楽章を一人の人物の目を通して見ると、曲の構成が他ではあり得ないと感じます。では、その人物とは誰か?それは、死から復活したイエスを最初に見たマグダラのマリアです。このマリアは、イエスが埋葬された墓(バーバラ・スィーリング説は共同便所横)に出向き、白く輝くイエスを最初に発見した人です。しかし、イエスの余りの変身ぶりにイエスとはなかなか気が付かず、最初は天使と思ったのです。このマリアの戸惑いや、復活したイエスに出会った喜び、そして他の弟子に告げに行く道での、自分が見たものは本当にイエスだったのだろうかという疑念などなどが、続く第4楽章の途中まで見事に表現されているのです。ベートーヴェンが受けた霊感は、ナポレオンなどという俗物ではなくて、イエスという本当の英雄のために授けられたものだったのです。
さて、ベートーヴェンという人間は『運命』交響曲や第九の印象が強く、一般にその繊細さやメロディの美しさが充分に理解されていません。それで今回は、『英雄』の終楽章を紹介し、ベートーヴェンとフルトヴェングラーのコラボが生み出した、奇跡の音楽を楽しんで頂こうと思います。僕はこの終楽章を『イエスの再臨』とひそかに呼んでいます。それは、6分50秒過ぎから始まる舞曲のような優雅さと、8分50秒過ぎの『ヨハネの黙示録』に出てくる第七のラッパを連想させる金管の響きが、イエス再臨の日の救いを思わせるからです。特に、6分50秒過ぎのオーボエとクラリネットとホルンによる優しさは比類がありません。涙が出るほどの美しさです。
さて、このような名曲と名指揮者のコラボは奇跡と言ってよいので、小澤征爾盤を聞いた時は本当に落胆しました。小澤征爾も奈良文化会館でチャイコフスキーなどを聴いた時は良かったのですが、『英雄』の解釈は凡人のそれですね。願わくば、この名曲に相応しいフィギュア・スケーターが現れて、ババア好みの陳腐な選曲を馬鹿にするような傑作を滑って欲しいと思っています。でも、僕のような感性を持ったスケーターは出ないでしょうから諦めていますが…。
エフライム工房 平御幸