平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

平御幸のデッサン講座~第9回 毒リンゴと焼きリンゴ

2012-07-03 01:53:53 | Weblog
 前回までは主にデッサンについて書いてきましたが、今回は着彩について述べたいと思います。

 ここで言う着彩とは、透明水彩を使う静物画です。なぜ透明水彩に限定するのかというと、透明水彩はその名の通りに透明度が高くて、下の色を消してしまうことはありません。この性質を積極的に利用し、下塗りと上塗りという方法で、色彩に厚みを持たすことができます。これは、不透明水彩の代表であるポスターカラーとは正反対です。

 ポスターカラーは混色して使いますが、誰でも同じ色を作ることが出来るように、混ぜ合わせる色の番号と分量が指定されています。これはペンキも同じです。この厳密さがあるからこそ、デザイン側と印刷側で色の共通認識が出来たのです。パソコン時代の現在では、RGBやCMYの三原色の割合で色指定されますが。

 このように、透明水彩は重ね塗りが前提とされるもので、ホワイトなどの一部を除いて、下の線や色がマスクされることはありません。重ねるという意味では、画像編集ソフトのレイヤーと同じですが、レイヤーは層という意味なので、アニメのセルと考え方が同じです。レイヤーは透過度を自由に決められるので、透明水彩のように下位レイヤーの線や色が見えるように使うこともできます。

 透明水彩は下の線や色が透けて見える。この性質は日本画でも同じです。日本画の場合は、岩絵の具の粒子が大きければ、下に描いたものが粒子の間から透けて見えます。粒子が細かくなると、不透明に近付きますが、岩絵の具はガラスに色を付けたものが多いので、自然に半透明の性質を有する色もあるのです。牡蠣や蛤の貝殻から作られる胡粉などは完全に不透明で、中国の黄砂である黄土も不透明に近いです。

 日本画の技法は、最初に補色などを下塗りしておきます。百合の花の葉を塗る時は、はじめに朱色を薄く塗っておくのです。こうすることにより、色に深みが出てきます。また、下塗りの色を変えることで、最初から位置関係や立体感などを強調することが出来るのです。例えば、遠くの葉は青く下塗りをし、手前の葉は黄色く下塗りしておけば、それだけで遠近感が出るのです。下塗りだけで空間や質感が出るのが理想です。

 このように下塗りを施した上に、いわゆるモチーフの固有色を重ねて行きます。もっとも、固有色という考え方は固定観念につながるので好ましくないのですけど。例えば、リンゴは赤いという固定観念があれば、初心者はリンゴを真っ赤にします。しかも、立体感をつけようと必死になるので、青や緑に茶色を影と陰の部分に使います。こうして、この初心者は立派な毒リンゴを完成できました。めでたし、めでたし。

 ところが、中にはへそ曲がりの初心者がいて、リンゴは単純に赤いのではないと気が付きます。しかし、技術がないので、赤が強調されないように必死になった結果、見事な焼きリンゴが出来上がります。めでたし、めでたし。

 失敗したのになぜ、めでたいのか?それは、毒リンゴと焼きリンゴの描き方を学んだからです。これを経験則と言います。この経験則の積み重ねと反省が、やがて本物のリンゴに結実するようになるのです。もっとも、リンゴは石膏のブルータスよりも難しいので、本当にみずみずしいリンゴを描くのは至難の業ですが。デッサン力が露骨に出るモチーフの代表です。

 ということで、今回のまとめ。

1.着彩は透明水彩を用いるので下塗りが必要
2.下塗りの段階で立体感や空間が表現できるようにする
3.固有色にとらわれ過ぎると失敗する
4.固有色は、石膏像の白さと同じように、感じさせるという態度が必要
5.毒リンゴと焼きリンゴになったら、次回に経験を活かす

 透明水彩や岩絵の具の使い方は、基本的に鉛筆デッサンの技法と同じなのです。大きなトーンを塗って、細部を描き、またトーンを大きく見直す。しかし、中には古典的な技法で、輪郭線を描いて塗りつぶすという人もいます。これを否定するわけではありませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵に色面(しきめん)を見ることの出来る目と感性が必要です。名画は例外なく、目を細めて見れば、色面による色彩構成にもなっているからです。

     エフライム工房 平御幸
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平御幸のデッサン講座~第8回 グレーと灰色

2012-07-02 19:38:53 | Weblog
 初心者のデッサンは、階調表現が出来ないので、コントラストの強いギラギラか、反対に全体が均一の灰色になります。これをオーディオに例えると、高音と低音が突っ張ったドンシャリと、どこにもアクセントがなくてボケた音という感じです。

 コントラストが強い人は中間階調が使えず、ぼけた灰色の人は中間の色ばかりで描いているのです。しかし、この中間階調ばかりの灰色は、いわゆるハーフトーンとは根本的に違います。デッサンの理想であるハーフトーンと灰色はどこが違うのか?

 初心者の石膏デッサンは、石膏を白く描こうとして、結果的にぼけた階調になります。石膏は白いのだから、鉛筆でも木炭でも薄く少なめに使うと思いがちです。でも、石膏は白く描いてはならないのです。白く感じさせるように描くのが正解です。白いから白く描くのと、白を感じさせるように描く事の違い。絵は大半が錯覚で出来ているという命題を思い出してください。錯覚で白く感じさせるのがデッサンなのです。

 新聞紙は白くて、印刷された字は黒い。実は、これも間違いです。デッサンする目が慣れてくると、文字はグレーに引きこまれます。新聞紙も白ではなくて、明るいグレーに見えてきます。このような目というか脳の働きで、階調も固定されないで変化するのです。だから、グレースケールの階調があったとしても、それも絶対ではなくて、見え方や感じ方が変化するものなのです。

 さて、ここまでは前置きです。ここから本題に入ります。レオナルド・ダ・ヴィンチには、『聖ヒエロニムス』や、『東方三博士の礼拝』という未完の作品があります。礼拝は仏教では「らいはい」と読み、その他では「れいはい」が正しいようです。

 この2つの作品は共にセピア調ですが、実は基本的にグレーなのです。グレーの上から、光を表現する明るいセピアがコーティングされた感じです。実際にはどうか分かりませんが、少なくともデッサンの技法的にはグレーなのです。この時代のグリーンは、黒と黄色の混色で作られたので木の葉が黒っぽいのですが、制作の初期段階でこれだけ強い色を置くことで、階調のダイナミックレンジを確保しているのです。水墨画の、濃い墨の色の部分と同じです。

 レオナルド・ダ・ヴィンチがなぜグレーで描き始めるのかというと、それはグレーの持つ自在性にあると考えられます。僕は日本画の岩絵の具で実験していたのですが、グレーにしておけば、あらゆる色彩に移行できるのです。なぜかと言うと、グレーは灰色の単色ではなく、実はすべての色が混在した色と位置付けられるからです。

 グレーにはすべての色が含まれる。だから、グレーから他の色に移行しやすい。これが、デッサンの階調なら石膏像は白く感じられ、墨絵なら「墨に五彩あり」となるのです。これが応用されたのが、モノクロ写真に着彩するカラー化です。しかし、パソコンのプリンターは、本来は黒のないカラープリントでも黒を使うので、色彩が黒ずんで見えるのです。グレースケールの作品に色を描き加えるのと、最初から黒も交えてカラープリントするのでは大きな違いがあるのです。

 ということで、今回のまとめ。次回は、毒リンゴと焼きリンゴ。

1.良いデッサンはハーフトーンであり、石膏を白く感じさせる
2.立体感や空間が表現できれば、その作品はハーフトーンになっている
3.グレーはすべての色に移行しやすい
4.グレーのハーフトーンと灰色は違う
5.ハーフトーンも強い(黒い)色を使うから階調のダイナミックレンジが広がる

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平御幸のデッサン講座~第7回 センスの嘘

2012-07-01 03:40:54 | Weblog
 絵を描くことに尻込みする人の大半は、自分には絵心がないと信じています。別の言葉では美術的センスです。しかし、僕はこの言葉は嘘だと思っています。なぜかと言うと、僕が浪人して新美に入った時に、武田先生から「色感が悪い」とか「感覚がない」とか言われ、日本画の16人中の最下位も何度もあったからです。

 このように言われると大抵の人は凹みますが、僕は神の声が聞こえるので、黙々と自分の絵の完成を目指しました。もちろん、欠点は欠点として認識するのは当然です。そして、夏期講習の後で、隣の代々木ゼミナールから生徒が何人か移って来ました。新美のデッサンの評判を聞いて、石膏デッサンを学びに来たのです。ちなみに、代々木は芸大の平山教授が先生を送り込んでいた私塾的な性格もありました。その割には合格率が低かったですけど。

 それで、代々木から来た一才年上の佐々木という人が、僕の着彩を褒めるのです。新美の評価とは正反対です。更に、秋になると芸大大学院の現役学生が、実戦用の先生にとしてやって来ました。要するに、芸大に絞った傾向と対策と情報集めの要員です。この先生も、代々木から来た生徒と同じく褒めるのです。そして試験前にはとうとう、先生から僕が入りそうだと名指しされたのです。何のことはない。僕の絵は試験向きだったのです。

 この年には、新美に見切りをつけた何名かが、試験直前に代々木に移っています。節操無いですが、この移った連中は合格しました。移らないで合格したのは、順番が低い生徒ばかりでした。新美の優等生は嫌われたのです。僕は着彩の試験で、指が全く動かなくなり、実力の半分も出せませんでした。見えざる神の手ですね。実際、僕はやり残したことがあったので、もう一年の浪人生活はラッキーでした。

 それで、センスの話に戻しますが、畑違いの考古学者は絵の上手な人が多いのです。少なくとも、芸大の芸術学部の連中よりは達者です。ツタンカーメンの墓を発掘したハワード・カーターは、実に詳細な記録を描いて残しています。ここから、絵の上手い下手は、仕事で必要とされるかどうかで決まるといっても過言でないのです。毎日描いていたら上達します。

 しかし、色弱や色盲はどうしようもありません。緑の変化が少ないとかの色弱気味なら芸大に入れますが、強度の色弱では無理です。また、脳の欠陥で形が取れないとか、手に汗をかく体質で木炭デッサンが出来ないなどの、肉体に由来する欠陥は改善が難しいです。

 色に関して言えば、色彩心理学の応用で改善できます。色は霊の病気の度合いを表すので、霊を清めて、霊の糧となる生活を続ければ良いのです。色は色の道ですから、男女関係にだらしないとかは、すぐに表に出ます。清い人は色も清いのです。

 余談ですが、面白い話を一つ。聖書にも度々登場しますが、封建時代に王様に仕えた家臣には、処女を集めるという難題が申し渡されることもありました。自己申告は通用しません。処女でなかったら首が飛ぶのです。これらの不幸な家臣たちは、どのようにして処女を見分けたのでしょうか?乱暴なことはしないで、庭先から馬を眺めるように処女を見極めたのです。

 僕は、何かの雑誌で読んだ記憶があるのですが、この見分け方は当たっていると思います。観察する時に、乙女の目と首を見るようです。と書けば、好奇心から答えを推理して書き込む人がぞろぞろと出そう。その好奇心を、絵を描く方に向ければ上達します。退屈は猫をも殺すらしいですが、好奇心は上達の母なのです。そういえば、昔に「私は好奇心の強い女」というタイトルの映画があったような。

 絵は、霊格や性格を映す鏡ですから、取り繕っても誤魔化しは効きません。ジブリの絵ですら、最近の作品は気持ち悪いのです。だから、センスがどうのこうのではなく、霊格を高める修行と位置付けることで、結果的に良い作品を残すようになるのです。もちろん、絵が変われば、副次的に服装のセンスも変わります。自己表現という意味では、絵もファッショんも一緒なのですから。

     エフライム工房 平御幸
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