歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

裸足にて立つザビエルの辻説法 / 雪の比叡に望む大學

2020-01-08 |  宗教 Religion

  裸足にて立つザビエルの辻説法   
        雪の比叡に望む大學
 
 上智大学がザビエルの遺志にもとづいて建学されたという話をよく聞きますが、これは、彼の書簡や当時のイエズス会宣教師の記録に基づくものです。スペイン出身の司祭で日本に帰化された結城了悟師の「ザビエル」史伝には、時代を隔てて受け継がれた宣教師の精神と日本の文化を大切に思う気持ちに溢れています。この本の表紙のザビエル像は、結城了悟師が館長をつとめておられた日本26聖人記念館にあるものですが、いかにも東洋の使徒にふさわしいイメージだと思いました。
 都を目指したザビエルの目的のひとつは比叡山に行くことでした。このときの彼は貧しい托鉢僧の身なりで(アッシジのフランシスと同じく)裸足で雪道を歩くという苦行を自らに課していました。そのときの乞食同然のザビエルの姿は、布教許可を獲得するという彼の目的には全くかなわないものでしたが、それでも堺の商人たちとの出会いと彼らの助力が後の日本布教に大いに手助けとなりました。時の権力者に贈呈する高価で珍しい進物や、西欧の王侯の使節と見まがうばかりの豪奢な装いをする南蛮の宣教師のイメージとは程遠い、このときのザビエルの乞食姿のほうに、私は惹かれます。
 
 さて、私も古希を三年過ぎて、どれだけ新しいことができるかどうかわかりませんが、とりあえず本年の予定を次のように立ててみました。
 
① 今年は、西田幾多郎の講演・講義記録(岩波文庫に収録予定)の編輯・注解をして、年内の刊行を目指します。
② Handbook for Buddhist Christian Studies(Routledge)の出版が決まったので、日本の東西宗教交流学会のこれまでの対話の歴史を踏まえて寄稿する予定です。
③ 今年六月のキリスト教文化研究所「茶道とキリスト教」の企画。キリスト教の日本文化のなかでの開花という観点から「茶道の哲学」をテーマとして講演する予定。
④ 細川ガラシャを主人公としたバロック・オペラの監督・演出を引受けました。ウイーン初演(1698)に忠実な上演(来年3月)をめざします。この楽劇の蘇演は、聖典礼と詩編を統合したキリスト教の典礼音楽や楽劇、受難劇のあらたな創作のための一つの資料となるでしょう。
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中村哲医師の言葉ー「平和医療奉仕活動(PMS)」会報から

2019-12-04 |  宗教 Religion
 南蛮医アルメイダについての記事をザビエルの命日に書いた翌日に中村哲医師の訃報に接し愕然とした。
日本政府が米国政府の意向を忖度して海外派兵を実質的に容認しはじめてから、アフガニスタンでの純然たる平和活動に困難が生じてきたことを師は以前から警告していた。それだけに「アフガニスタンの人々のために奉仕活動をして、アフガニスタンの人によって殺害されたとしても、決して彼らを恨んではいけない」という医師の言葉がなお一層、耳朶に残る。 
 昨年9月のペシャワール会会報(137)に中村哲医師は「温暖化と旱魃と戦乱の関連」を指摘したあとで、次のように言っている。
『最近の研究で、東部アフガンの過去60年間の気温上昇は約1.8度、他の地域の約二倍の速さで温暖化が進行しているという恐るべき報告もあります。今思い返すと、2000年に始まる大干ばつの顕在化は、世界を席巻する「気候災害」の前ぶれでした。既に海水面上昇による島嶼の水没、氷河の世界的後退、北極海の氷原融解などが伝えられ、陸上では台風とハリケーンの巨大化、森林火災の頻発、大規模な洪水と干ばつなどが各地で報ぜられていました。それでも、責任の所在がはっきりしない「気候変化」は真剣に問題にされにくく、C02削減を敵視する経済至上主義も、依然として根強いものがあります。
それは自然を無限大に搾取できる対象と見なし、科学技術信仰の上に成り立つ強固な確信です。実際、近代的生活は、産業革命以来の大量生産=大量消費の流れの上にあり、それを一挙に覆す考えは、多くの人々にとって俄かには受け入れ難いものがあるからです。
だが問題の先送りはおそらく許されないでしょう。放置すれば事態は不可逆の変化になり得ます。温暖化と千ばつと戦乱の関係は、もはや推論ではありません。治安悪化の著しい地帯は、完全に干ばつ地図と一致します。その日の食にも窮した人々が、犯罪に手を染め、兵員ともなります。そうしないと家族が飢えるからです。――
 一連の動向は世界の終末さえ連想する絶望的なものがあります。干ばつの克服は、生易しいものではありませんが、力を尽くして水の恩恵を実証し、希望を灯し続けたいと考えています』
http://www.peshawar-pms.com/kaiho/137nakamura.pdf
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「大切に燃ゆる(Taixetni moyuru)」-ザビエルとアルメイダの心

2019-12-03 |  宗教 Religion
 東野利夫著『南蛮医アルメイダー戦国日本を生き抜いたポルトガル人』に、ザビエルとの出会いを語る次のような「南蛮医」アルメイダの言葉が引用されている。
『ある日、突然インドの俗僧のような黒衣をまとい、腰帯も長衣もつけていないみすぼらしい人がこの島(モルッカ諸島)にあらわれました。彼の行動を見てみますと、現地人たちをさかんにイエズス会に改宗させようとして働いているのです。どうして南方のこんな野蛮で未開な僻地の島々にまで来て、何のためにあんなに命がけで改宗の仕事に従事しているのか。彼の行動は、不思議であり、私には謎のような人物に見えました。そのとき彼はしばしば、アモール(愛)ということばを話していました。この日本では「アモール」という言葉はありません。この「アモール(愛)」に相当する言葉は、「Taixet(大切)」であると、あとになってから知りました。この黒衣をまとった人物こそフランシスコ・ザビエルでした・・・・・
 そしてこのザビエル師の行動の中から、ひとつのたしかな心の安らぎになるような生き方を教えられました。それは「Taixetyni moyuru(大切に燃ゆる」というものでした。
私はこのザビエル師の処世の信条である「大切に燃ゆる」という生き方に強く心を動かされました。そのころ私は帆船の船主という身分で万に届くほどの莫大なクルサド貨幣を獲得していましたが、なぜか心の中は空しく、強い罪悪感のようなものがうごめいていました。私はこのことについてザビエル師に告解しました』
『一五五四年夏、ドアルテ・ダ・ガーマらの船主たちと共同経営で、四隻の商船に財貨ー唐生糸、絹織物、琥珀織を満載し、日本に向かったところ、まもなくひどい暴風雨に遇いました。
 そのとき生まれて初めて自然の脅威と神の恐ろしさに戦慄しました。勇壮だった私の帆船の大きな白布はずたずたに破れ、マストは捻れるように折れ曲がり、竜骨だけがむきだしに残りました。マストの下方には船員や雇用兵たちが溺死しないようにしかりと躰をマストにくくりつけていましたが、最後の祈りのまま、無慚な姿で息絶えていました。その悲惨な光景を見た瞬間、それまで私が執拗に憧れ求めたもの、それがどんなに儚い幻のようなものであったかということが一瞬のうちに私の全身を貫きました。そのときザビエル師がつねづね申されていたマタイの言葉が大きく耳底で聞こえました。(一五五五年九月一五日付フロイスの書簡)
 ここでいうマタイの言葉とは、「人、もし、全世界を得るとも、その魂を失わば何の益があろうか」(16:26)であろう。
 アルメイダは、貿易商人として成功する前、一五四六年に母国で外科医の資格を取得していたので、回心後に豊後に、社会から見捨てられた人々のための病院を作ることを発願する。
『私が豊後に来て Nossa Senhora da Piedade (慈悲の聖母の住院)のため病院を創りたいと思ったのも、ひとつにはそれまでのおろかだった私のデウスに対するせめてもの贖罪のようなものでした。
 私が南の香料の島でザビエル師からこの目で学んだ「大切に燃ゆる(Taixetni moyuru)」これが病院j創設の発願の動機になったように思います。・・・・
 私は「病める人間」の治療には「肉体の薬」と「魂の薬」の二通りの薬を併用しなければならないということを知りました。しかし、現在の私の力では、少しばかりの肉体の薬を与えることしかできません。必ず死ぬ運命にある人間の治療には「魂を癒やす薬」こそ最高の薬だと思っています。』
(ガゴ、トルレス、ビレ等、アルメイダの書簡)
 使徒行伝と福音書を書き残したルカも、パウロによって「愛する医師ルカ」(コロサイ4-14)と呼ばれているように医者であった。時代は変わって、パウロやルカの時代ではなく日本の戦国時代であったが、アルメイダもまた、当時のイエズス会の宣教師を財政的に援助するために全財産を抛って当時の日本社会で差別されていた人々を修養する病院を豊後(いまの大分県)に創設したのである。
 残念ながら、アルメイダの病院は庇護者の大友宗麟の失脚につづく反キリシタン勢力によって破却され、アルメイダの名前もながらく本国と日本の双方で忘れ去られたが、20世紀になって、おおくの研究者の共同作業によってアルメイダの歴史的な事蹟が明らかとなった。現在大分県には、アルメイダの名前を冠した立派な病院がある。西洋医学を日本にはじめて紹介し、日本人の漢方医とともに国境を越え、身分の差別を越えて、人道的な医療活動に従事したアルメイダにたいする敬意がこめられていると言って良いだろう。
http://www.almeida-hospital.com/
 
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「被爆マリア」に祈るフランシス教皇(長崎のミサ)

2019-11-24 |  宗教 Religion
 
 
長崎でのミサで祭壇に置かれた「被爆マリア像」に祈るフランシス教皇です。(Vatican Newsの中継からの録画) この被爆マリア像は、浦上天主堂の原子野の瓦礫の中から発見された木製のマリア像。三つに割れた痛々しいお姿を被爆者でカトリック信徒の西村勇夫さんが修復されたものとのことです。
 この祈りに接した後で、「フランシス教皇とともに祈るロザリオの祈り」(Praying the Rosary with Pope Francis, Libreria Edition Vaticana)をあらためて読みました。
 ロザリオの祈りは、「喜びの秘義(Joyful Mysteries)」「光の秘義(Luminous Mysteries)」「苦しみの秘義(Sorrowful Mysteries)」「栄えの秘義(Glorious Mysteries)」の四つの黙想と共に行う祈りです。
 このなかの「苦しみの秘義(sorrowful misteries)」は、わが子イエスの受難に遭遇した「悲しみの聖母」を黙想する祈りです。しかし、被爆マリア像を見ていると、マリアはキリストの受難を、そばで歎き悲しむだけにとどまらず、キリストと同じような受難の道も選ばれたような気がします。聖母マリアは、理不尽にも原爆によって命を絶たれた無数の母親と共に苦しむことをあえて選ばれ、「天の栄光」のうちに入ることよりも、むしろ焼跡の瓦礫の中に、苦しみの姿のままでとどまられた―そういう思いがわき起こってくるのを抑えることができませんでした。
 私は、永井隆博士が亡くなる直前に描いた「十字架の道行」の画が収録された次の本を座右の書の一つとして置いています。
 
 
永井博士自身が書いた画に、キリシタン殉教史の研究者でもあった結城了吾神父が解説されたこの本には、最晩年の彼の言葉と祈りが収録されています。
「三日目。学生の死傷者の措置も一応ついたので、夕方、私は家に帰った。ただ一面の焼灰だった。私はすぐに見つけた。台所のあとに黒い塊を。―それは焼け尽くした中に残った骨盤と腰椎であった。そばに十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに―運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻がかさかさと燐酸石灰の音をたてていた。私はそれを「ごめんね、ごめんね」と言っているのだと聞いた。」
 
「屋敷の東北の隅の灰の中をていねいに探していたら、ついに見いだした。わが家の祭壇の十字架を。木の台はもちろん焼けてなくなっていたが、青銅のキリストだけはそのまま型も狂わず傷もつかず残っていた。これは徳川禁教時代からひそかに伝えられた由緒あるものである。私はいっさいの財産を失ったが、この十字架ひとつだけは失わなかった」(『ロザリオの鎖』)
 
結城了吾神父は、永井博士の「十字架の道行」の最後(15留)を、博士の次の短歌で結んでいます。 
「白ばらの花より香り立つごとく この身をはなれのぼりゆくらむ」
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「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」─ 聖グレゴリオの家教会音楽科 特別講義

2019-10-19 |  宗教 Religion
「聖ベネディクトの戒律」と道元禅師の「永平大清規」:聖グレゴリオの家、教会音楽科講義(2019/10/16)
田中 裕
はじめに
 
道元には、主著『正法眼蔵』とおなじく重要な一連の実践的著作として『永平大清規』がある。「清規」とは「修道者が守るべき規則」のことで、「清」とは「清衆」つまり修行道場で共同生活をする修道僧を意味する。『永平大清規』と呼ばれる一連の著作は、宋から帰国した道元の道場となった深草興聖寺で出家者や在家者のために制定した規則に始まり、後に帝都を離れて山林に修行場を求めた道元が、越前吉峰寺、大仏寺(永平寺)にて著述した最晩年のものまで含む。
 「聖ベネディクトの戒律」が単に修道会の規則にとどまらず、今日のカトリック教会では、世俗の中で福音伝道する献身者(オブラーテ)にも読まれているのと同じく、道元の「清規」もまた、出家者だけでなく、在家にあって「菩薩行」をおこなう人の生活の指針として読まれてきた。
 道元を高祖とする曹洞宗の峰岸正典老師は、ドイツのオッティリエン修道院とのあいだでの東西霊性交流を1979年から現在まで続けて実践されているが、同修道院でベネディクト会士と共同生活した経験を踏まえて、ベネディクト会の修道院と道元の清規にしたがう禅の修道生活に通底するものを次のように要約している。
  • 早朝起床、坐禅・朝課・朝食。午前は作務・坐禅・勤行・昼食。午後は作務・坐禅・晩課・夕食。夜坐そして入眠という修行道場の一日と早朝起床・全体での祈り・個人の祈りミサ・朝食。労働・昼の祈り・昼食小憩後労働・夕方の祈り・夕食・夜の祈り・入眠といった修道院のサイクルはよく似ている。
  • 「時の勤行、四時の坐禅」という定めを持つ修行道場と「聖務日課」に規定される修道院ではきわめて似た時間意識とリズムにおいて一日が過ごされている。加えて生涯をかけての修行・修道を志すという共通性もある。
  • また、「我を張らない(無我)」ということは禅の修行の眼目であるが、修道士も自己を極端に主張してはならない。聖ベネディクト会則では「謙遜の実践」が「修道の全課程に欠かせない」ことが示されている。
  • 集団での坐禅や祈りという宗教的行を務め、作務・労働をするという形態の中に、信仰対象や宗教共同体への自己帰入が希求されている。こうした希求は、諸々の宗教的行為において身体を通じて表現され、自らを小さなものとして、大いなるものに対して畏れと敬意を表す。
  • 聖ベネディクト会則(第七章)でも修道士は神への謙遜という「こころ」を日常生活の中で「かたち」に表すことを要請されている。禅でも身体的行為には「仏作仏行」としてより積極的な意味がある
  • 修行道場と修道院において最終的に求められているものが、教義の学術的理解というよりも、むしろ宗教的実践、求道(辨道)であり、生涯を通じて行じられる「生き方としての宗教」が大切にされている。換言すれば、修行僧と修道士は宗教的な生き方を宗教共同体の中で深めようとする者同士として本交流において邂逅したのであり、だからこそ、異なった信心や信仰体系を持つ宗教者同士といえども、両者の間に深い共感が生まれたと言えよう。[1]
また、イエズス会の門脇佳吉神父は、道元の清規に従って生きる「行道」のことばの実践にこそ、自然環境破壊を克服するエコロジーの実践を導く「形而上学」があることを強調してつぎのように云っている。[2]
道元は、第一に、自然と人間を結ぶ原初的な関係を道(仏の御いのち)のはたらきによって根拠づけ、自然の全体と人間の渾身の感覚的結びつきを中心に含みながらも、知恵によって形而上学的エコロジーともいうべき道理を確立したのである。このようなエコロジーは知恵に基づくから、西洋世界にも通用するだけでなく、西洋のエコロジー神学の抽象性を克服し、自然と人間との感覚的結びつきを大切にすると共に、知恵(sapientia)による「道なるキリスト」のはたらきでそれを根拠づけることによって、形而上学的エコロジーの確立に道を開くのである。
 
永平大清規にみられる道元の修道論
 
永平大清規とは、道元(1200-1253)の定めた次の六つの清規をさす。
『典座教訓』、嘉禎3年(1237):僧院で台所仕事を司る典座の心得と作法。
『辨道法』、 寬元3年(1245):僧堂における坐禅中心の修道生活の規範
『赴粥飯法』、寬元4年(1246):僧堂で粥(朝食)と飯(昼食)を喫するときの作法 
『衆寮箴規』、宝治3年(1249):修行僧が看経(読書)や行茶(喫茶の行礼)を行う「衆寮」での規則と誡め 
『對大己法』、寬元2年(1244):「大己」(目上の人)への礼法。謙遜の誡め。 
『知事清規』、寬元4年(1246):僧院で様々な業務を担当する指導者(知事)の責務と選任の仕方 
 
 ここでは、とくに、道元が宋に留学僧として聞法の旅に出たときに出会った阿育王寺の老典座との対話が収録されている『典座教訓』に注目したい。そこには、在家と出家の区別を越えた道元の修道論の原点が明確に示されているからである。
 嘉定十六年癸未(みずのとひつじ)(1223)の五月中、慶元府に停泊する船内で、道元が日本船の船長と話をしていたおり、一人の老僧がやってきた。年は六十歳程度である。まっしぐらに船に来て、日本人に尋ねて椎茸を買い求めた。道元は彼を招待して茶をふるまい、その所在を尋ねたところ、阿育王山の寺の典座和尚ということであった。以下、道元と老典座との問答を『典座教訓』に記された通りに再現してみよう。
老典座: 私の出身は西蜀(四川省)です。郷里を離れて四十年になりまして、今年で六十一歳です。これまであちこちの修行道場をあらかた経験してきました。先年、孤雲道権禅師が住持している阿育王寺を訪ね、正式に修行することになりましたのに、無為に過ごしてしまいました。ところが去年の夏の修行期間の後、阿育王寺の典座に任ぜられました。明日は端午の日なので、一つご馳走しようと思ったものの適当なものが何もありません。麺汁を作ろうと思うのですが、椎茸がなかった。そこで特別にやってきて椎茸を買い求め、各地より集まった雲衲[3]に供養するつもりです。
道元:いつ頃阿育王寺を出てきたのですか? 老典座:昼食の後です。
道元:阿育王寺はここからどれくらいの距離ですか? 老典座:三十四五里[4]です。
道元:いつ寺へ帰るのですか? 老典座:今しがた椎茸を買いましたので、すぐに帰ります。
道元:今日は期せずしてお会いし、のみならず船内でお話しすることができました。これは素晴らしいご縁ではございませんか。私道元が典座禅師にご馳走いたしましょう。
老典座:いけません。私がもし管理しなかったら、明日の食事が駄目になってしまうでしょう。
道元:阿育王寺には、典座寮の仲間で、朝昼の食事を理解・会得している人がいるでしょうに。典座和尚が一入不在であっても、何の不備がありましょうか。
老典座:私は老年にてこの職に就いたのです。つまり、おいぼれの弁道です。どうして他人にその職務を譲れましょうか。それに来るときに、一泊の許可を得て来ませんでした。
道元:典座和尚はご高齢であられる、どうして坐禅弁道したり、語録を読んだりしないのですか。典座職務に煩わされ、ひたすら肉体労働をして、どんないいことがあるというのですか?
老典座:(大笑いして)
 外国の好青年よ、あなたはまだ弁道というものを解っていないし、まだ文字というものを知らないのです。(外国好人、未了得弁道、未知得文字在)
道元:(老典座のその言葉を聞いて、ハッと自分を恥じ畏れおののき)
文字とはどういうものでしょうか、弁道とはどういうものでしょうか?(如何是文字、如何是弁道)
老典座:あなたが質問したところを見過ごさずにいれば、そういう人(文字を知り弁道を体得した人にならないということがどうしてありましょう。(若不蹉過問処、豈非其人也)
道元:(その意味が解らず)・・・・・
老典座:もし解らなかったならば、後日いつか阿育王寺に来てください。一つ、文字の道理について語り合いましょう。(そう話した後、すぐに起ち上がって)日が暮れてしまった。急いで帰ろう。(と言って帰ってしまった)
その年の七月、道元は天童山景徳寺で修行をしていた。時にあの典座がやって来て、道元に会って
「夏の修行が終わったので典座職を退いて、郷里に帰ることにしました。たまたま同門の者が、あなたがここにいる、と言っているのを聞きました。どうして来て会わないでいられましょう」と言った。
道元は小躍りして喜び感激し、彼を接待して会話をした折、先日の船内における文字・弁道の因縁について聞いてみた。
老典座:文字を学ぼうとする人は、文字の意味を知ろうとするし、弁道に努める人は、弁道の意味を会得しようとします。
道元:文字とはどういうものですか? 老典座:一、二、三、四、五
道元:弁道とはどういうものですか? 老典座:「世界は何一つ秘蔵しません(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)[5]
 
道元は、23歳の時に宋で出会った老典座から学んだことについて、『典座教訓』のなかで次のように云っている。「私が多少なりとも文字を知り弁道を会得できたのは、この典座の大恩のおかげである。これまでの経緯を亡き師匠、明全禅師に話したところ、明全禅師はただただ大変に喜ばれた」
 
参考資料ー「蓮の露」の良寛と貞心尼との相聞歌
 
 道元没後約五百年、永平録の「ことば」を読み、感涙にむせて書物を濡らしてしまったという体験[6]を漢詩「讀永平録」に詠んだのは良寛であったが、彼の漢詩や短歌には道元からまなんだ「ことば」がさりげなく読み込まれている事が多い。とくに良寛の弟子になることを志願した貞心尼とのあいだに交わされた次の相聞歌は有名である。(のちに貞心尼自身が編纂した歌集「蓮の露」に収録されている)
 
貞心尼:(師常に手鞠をもて遊び給ふると聞きて奉るとて)
これぞこれ ほとけのみちに あそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ
良寛:(御かへし)
 つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを 十とおさめて またはじまるを[7]
貞心尼:(はじめてあひ見奉りて)
きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬゆめかとぞおもふ
良寛:(御かへし)
 ゆめのよに かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに[8]
 
菩薩の修道について
 
道元は在家出家を問わず「菩薩戒」を重要視した。小乗仏教のこまごまとした戒律ではなく、戒律の精神を生きること、とくに菩薩として生きる大乗仏教徒は、大乗にふさわしい戒律を生きるべきであるという伝教大師最澄の教えにしたがい、入宋にさいして小乗仏教に由来する「具足戒」を道元は受けなかった。男性出家者の場合は250戒、女性出家者の場合は348戒もある小乗仏教由来の戒律は、「・・・すべからず」という微に入り細をうがつ禁止条項をふくむ小乗仏教由来の戒律であり、道元の生きていた時代には単なる建前だけの慣行にすぎず、厳密にそれをまもるものは少なかった。
さらに「人は本来仏である」とか「一切の衆生は悉く仏の本性をもっている」という大乗仏教の根本的な教えは、戒律の事実上の無視を正当化する危険があった。道元は、労働を仏道修行に必要な修行として取り入れた百丈慧海、それにもとづく「禅苑清規」を参考にしつつ、日本の修行僧に適した清規を制定したのである。戒・定・慧を三学とする仏教の修道は、坐禅(只管打坐)を根本とし、禅定によって生まれる(あらゆる二元性と対立を越える無差別の)智の働きと、(一切の衆生を救済しようとする)菩薩行をすすめる「菩薩戒」にもとづくものとなった。
道元の修道論の根本的な特徴は、「修行は仏になるために行うのであって、一度悟りを開いて仏になればもはや修行は必要ない」と考えるのではなく、「本来人は仏であるからこそ修行するのである」というところにある。修行を証(悟り)の手段と見る二元的な見方を越えた「修証一等」ないし「本証妙修」が道元の修道論の根本であるが、従来見落とされてきたことは、修行は自分一人が成仏するためにするのではなく、一切の衆生が救われることを願って為されるのであるという「菩薩」の誓願があると云うことである。このような「大悲」の「誓願」が道元の坐禅の背景にあること、道元が「禅宗」という呼び名を拒否して、普遍的な救済をめざす大乗仏教の根本精神に立ち返るべき事を説いたことは、とかく禅宗の一つの宗派である「曹洞宗」の開祖として道元を位置づける仏教史家の陥穽ではないだろうか。
 
在家の修道者の行道の手引き─菩提薩埵四攝法について
 
 在家の信徒のために道元は様々な修道の手引きを残している。普通、在家の仏教信徒に要求されるものは、(1)不殺生(2)不偸盗(3)不邪淫(4)不妄語(5)不飲酒 の所謂五戒であるが、これらは消極的な戒律である。ところが道元は、菩薩道の実践を積極的なにするために、「・・・するな」という戒律ではなく「・・・・しよう」という積極的な「法」を説いた。それが「菩提薩埵四攝法」である。「摂法」とは「他者を真理に導く四つの法」というだけでなく、「四つをばらばらに実践するのではなく一つの統合的な法として実践しよう」という提言である。
その四摂法とは、(一)布施(ふせ)、(二)愛語(あいご)、(三)利行(ウぎよう)(四)同事(どうじ)である。
 布施とは、不貧(ふとん)(むさぼらないこと)である。むさぼらないとは、「人の気に入ろうとしないこと」、また「人の感謝をむさぼらないこと」である。道元は、「自分が捨てるつもりであった財物を、見知らぬ人に施すように、気前よく布施をする」ことを勧める。現在では、布施とは専ら在家者が出家者に与えることだけを指す意味となったが、道元の云う「布施」には在家と出家の差別はない。与えるものが軽少であるかどうかが問題なのではなく、それが相手の役に立つかどうかが問題なのである。道元は与える者と与えられる者を差別する二元性を突破して次のように云う。
「〔布施は〕自分を本当の自分とし、他者を本当の他者とするのである。布施の現わす力は、遠く天界や人間界にも及び、悟りを得た賢聖たちにも通じる。」
「舟を浮かべ、橋を渡すのも、布施の行いである。さらに深く学ぶならば、生きることも死ぬことも布施である。暮しの道を立てることも、生産に携わることも、布施でないものはない。」
「アショーカ大王がわずか半箇のマンゴーで数百の僧たちを供養して、供養の力の広大さを示したことを、布施をする人たちは、よくよく学ぶべきである。」
「衆生のこころを動かすことはむずかしい、そのため一財でも与えて、道が成就するまで導いて行くのである。それは必ず布施によって始めるべきである。そのため布施は、求道者が完成すべき六つの行為(布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧)の一番はじめにあるのである。」
仏教の伝統では「愛」ということばは「執着」を示すものとして否定的な含意があった。しかし道元は「愛」に肯定的な意味をこめて「愛語」を「布施」とともに菩薩の法と考えた。
 道元の云う「愛語」とは、さしあたっては、「人に会った時に 慈愛の心を起して、やさしいことばをかけること」である。決して暴言や悪言を用いず、「お大切に」とか「御機嫌いかがですか」といって相手の安否を問うことを意味するが、それだけに留まらず、「愛」の「ことば」に深い宗教的な含意があることを述べている。
「仇敵どうしを柔らげ、徳のある人たちを仲よくさせるには、愛語がその基本である。向かいあって愛語を開く人は顔を歓ばせ、心を歓ばせる。蔭で愛語を聞く人は、肝に銘じて忘れない。愛語は愛心より起り、愛心は慈非心をもととしているのである。愛語が天をも回らす力を持っていることを知りなさい。愛語は、相手の長所をほめる以上のことなのである。」
西洋近代の功利主義は、自利と利他の計量比較によって「利」の最大をめざす社会倫理を構築しようとしたが、道元の云う「利行」は、自分の利益と他人の利益の差別、身分の高低による差別を越えた宗教的徳として語られている
 「利行というのは、身分の高い人に対しても低い人に対しても、相手の利益になることをすることである。例えば相手の遠い未来や近い未来に気をくばって、その人の利益になることをするのである。昔、ある人は籠のなかの亀を助け、ある人は病気の雀を介抱した。彼らはなんの報酬も期待せず、ただ利行をするという気持にかられて、それをしたのである。」
「怨みを持ったものに対しても親しいものに対しても、同じように利益を与えなさい、それが自分をも他人をも利することなのである。もしそのことがわかれば、草木風水に対しても、休むことのない利行がなされるであろう。真理の道を知らない人々を救うために、ひたすら努めなさい。」
日本人の社会倫理では、自分だけが特別であろうとしないこと、が重んぜられる。このような、出る釘は打たれる、ことを用心するような消極的な処世訓とは違って、道元の云う「同事」は、次のように他者に対する積極的な関わりを求める菩薩行である。
 「同事ということがわかれば、自分も他人も一体となるのである。白楽天の唱った「琴・詩・酒」は、人を友とし、天を友とし、神を友としている。人は琴・詩・酒を友としている。琴・詩・酒は、琴・詩・酒を友としている。人は人を友とし、天は天を友としている。このような道理を学ぶことが、同事ということを学ぶことである。」
 「同じ事をするということは、作法にかなった事、おごそかな事をすることであり、すぐれた態度を持つことである。それには、他入を自分の方へ回心させて、自分と同じことをさせることもあろうし、自分が他人と同じ事をすることもあろう。自他の関係は、時に応じて自由自在なのである。」
「管子がいっている。「海が大きいのは、水を拒まないからである。山が高いのは、土を拒まないからである。すぐれた君主が多勢の人を治めているのは、入をいとわないからである」。海が水を拒まないことが同事なのである。更には、水が海を拒まないことを知るべきである。」
「人が集まって国となり、勝れた君主を待ち望んでいる。しかし勝れた君主が勝れているのは、人をいとわないからだということを知る人は稀である、そのため人は、勝れた君主にいとわれないことばかり望んで、自分たちが勝れた君主をいとわないことには気がつかない。しかし、同事ということは、君主の方からも、凡人の方からも、両方からなされることである。
「従って、求道者たちは、それ(四摂法)を行うことを願うのである、どうかあなたがたも、柔和な顔をして、すべてのことに向かいなさい。これら四つの行いが、それぞれ四つの行いをふくんでいるから、それは十六の行いである。」
 
黄泉にまで下る菩薩の道ー道元の最後の在家説法と遺偈
 
建長五年(1253)、道元は波多野義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念の邸で病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、その館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる(建撕記巻下などの伝承による)。そこには次のような言葉がある。
「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」
僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、宗教的な廻心〔轉法輪〕の場所であり、「完全な平和(般涅槃)」に入る場所であるというのが、道元の最期の在家説法の趣旨であろう。[9]
その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)
五四年照第一天(五四年第一天を照らす)
打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千(三千大世界)を触破す)咦(にい)
渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し 活きながら黄泉に陥つ)
道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。
如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 咦 従来生死不相干
(六六年の生涯、罪犯は天に満ちている。この肉体を打って、活きたまま黄泉の国に陥る。従来の生死は相干しない)
孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉
(八三年の私の生涯は夢幻のようだ。一生の罪犯は弥天を覆っている。そして今私は足下に糸なくして去り、虚空を踏まえ翻って地下の泉に没する)
如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての坐禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。
 
いわゆる仏祖の坐禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)
 
如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。
 面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠  
 
愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん
草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん
 
もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。
 
脚注
 

[1] 「宗教研究」84巻4輯「宗教的共感の源泉ー東西霊性交流の場合」pp.205-6(2011)

[2] 「正法眼蔵三参究ー道の奥義の形而上学」岩波書店271頁(2008)

[3]雲衲とは衲(のう)(継ぎはぎだらけの僧衣)を纏った雲水(禅僧)のこと

[4] 當時の中国の1里はだいたい540メートルくらい。老典座は19キロ位の道のりを徒歩でやってきた。

[5] 「弁道(辯道、辨道)」とは「修道がなんであるかをわきまえる」ことと「修道に精進する」ことの二つの意味がある。「文字」とは、先覚者によって書きしるされた真理のことばである。

「世界は何一つ秘蔵しない(徧界曾(かつ)て蔵(かく)さず)」とは、森羅万象すべてが何一つとして「道」を説く対象にならぬものはないことを云う。「典座教訓」のなかで、特殊な少数の人にしか体験できない非日常的な場所に奇蹟や神秘を求めることをせず、台所仕事のような日常茶飯の世界の只中に顕現する真理の「ことば」を聴き、その「ことば」に活かされ生きる事を求めている。

[6] 春夜蒼茫二三更….慕古感今労心曲 一夜燈前涙不留 湿尽永平古仏録…..(読永平録)

[7] 「手鞠遊び」に興じる良寛に入門を願い出た貞心尼の歌への返歌。

「突きて見よ、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやここのと)を十とおさめてまた始まるを」は、道元の典座教訓の中の「文字(ことば)」についての問答を踏まえている。始(一)と終(十)がある手鞠遊びは10回ついただけでは終わらない。常に初心に返って修行を繰返す遊びの中に、「清規」の「ことば」に活かされ生きる修道の心を詠込んだ歌である。

[8] 道元の『正法眼蔵』に「夢中説夢」という巻があるが、そこでは、我々が堅固な実在だと思っている世界が、じつは夢の如き虚仮の世界であり、真の仏法の世界は、虚仮の世界の住人から見ると逆に「夢」のごとく見えるという言葉がある。顛倒世界においては、真実を説くものは役に立たない夢想家と見なされるが、道元は、むしろ「夢の中で夢を説く」ことの意義を理解しなければ、仏道はわからないと明言している。良寛の貞心尼への返歌も、「夢の中で夢を語る」ことの大切さをさりげなく示した歌と言って良いであろう。

[9]病中でありながら在家説法を続けていた道元によせて、私は、なぜか宮沢賢治が病死する直前まで農民の相談に乗っていたことを思い出した。晩年の道元は厳しい出家主義の立場であったといわれることが多いが、私は、道元は最期まで在家の信徒のことを忘れていたわけではないと思う。

 

参考文献

ポケット版 「聖ベネディクトの戒律」 古田堯訳  ドン・ボスコ社

 
 
道元禅師の「典座教訓」を読む  秋月龍珉著 春秋社
 
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キリスト教と日本人の心─内村鑑三の上杉治憲(鷹山)論

2019-10-07 |  宗教 Religion

「伝国の辞」と「視民如傷」-人民のための共和政治

参考文献:上杉治憲(鷹山)(1751-1822)の米沢藩政改革についての一次資料は、新貝卓次編輯『羽陽叢書』(明治15-16年、山形県刊行)であるが、内村鑑三が直接に依拠したのは、民権派の機関紙『朝野新聞』の主筆川村惇(1862-1930)著の『米沢鷹山公』であったと思われる。明治5年に西郷従道(西郷隆盛の実弟)と共に東北地方を視察し、米沢の地で名君として尊敬されていた上杉鷹山公の藩政改革の事蹟を知って大きな感銘を受けた川村惇が、『羽陽叢書』を抜粋要約して、全国の一般読者向けに纏めた著書が『米沢鷹山公』(明治26(1893)年、朝野新聞社)であった。そして内村鑑三の『代表的日本人』によって、米沢藩の窮状を救った鷹山公が、封建時代の日本の模範的な啓蒙君主として、欧米の読者に初めて紹介されることとなった。[1]

 1伝国の辞:日本史に於ける独自の共和政治の理念の表明

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私(われわたくし)すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

右三条御遺念有間敷候事   

これは天明五巳年(1785年)二月七日に上杉治憲(鷹山)が、次の藩主となるべき上杉治広に伝えた「伝国の辞」である。そこには、国家の歴史的な継続性、国家に属する人民の私物化の禁止、国家人民のために君主が立てられたのであって、君主のために国家人民が立てられたのではないこと、の三箇条が、米沢藩主の忘れてはならぬ心得として語られている。[2]

 2 「視民如傷」人民の父母たる君主の責務

鷹山の座右の銘は「視民如傷」であったが、これは江戸米沢藩邸で暮らしていた若き日の治憲が儒学の師、細井平洲から学んだ言葉であった。出典は『春秋左氏傳─哀西元年』の「臣聞國之興也、視民如傷、是其福也:其亡也、以民為土芥、是其禍也」あるいは、『孟子─離婁章句下』の「文王視民如傷、望道而未之見」と思われる。この言葉は、「病人を憐れむように民を良くいたわる」という意味に解されることが一般的であるが、内村鑑三は、「Be ye as tender to your people as to a wound in your body(民をいたわること、汝の体の傷のごとくせよ)」と英訳している。君主が人民の苦しみを、他ならぬ自分自身の体の「傷」として視るという視点は、それまでの漢学者の読み方を越えた新しい解釈と云って良いだろう。

 

3 滅亡の危機に直面した米沢藩の再建

米沢藩は、関ヶ原の合戦後、上杉景勝が当主の時(慶長六(1601)年)に徳川幕府によって米沢に移され、一二〇万石の大名から三〇万石に減封された。しかし、名家としての体面を保つために家臣団の数を減らさなかった為に、米沢藩は深刻な財政危機に直面し、負債が年々増加していった。夭折した三代目藩主上杉綱勝の後継者を決めるに際しての不手際が幕府によって咎められ、吉良上野介の長男が、養子として上杉家の家督を継ぐときに、一五万石に減封された。このとき、一二〇万石当時と変わらぬ数の家臣の給与の総額が一三万三千石に達し、歳入の九割近くが人件費となる異常な事態となり、米沢藩の負債の総額は、二十万両(現在の通貨で二百億円位)にもおよんだ。

しかしながら、米沢藩の重臣達は、格式と儀礼を重んじ、名家の体面を保つための出費を削減せず、領地の農民の年貢を厳しく取り立てる以外の方策を持ち合わせていなかった。生活苦のために領民の他藩への逃亡が絶えず、また間引きによる人口減によって、農民の数が著しく減少したために、第8代藩主重定は、藩の財政破綻を救うために領地を幕府に返上する案も検討したほどであった。

この時点で嫡男に恵まれなかった上杉重定は、日向国高鍋藩(上杉家と母方が遠縁であった)の次男が、きわめて英邁な子供であることを聴き、その子供が10歳になったときに、重定の娘、幸姫の婿養子に迎えた。これが後に第9代藩主となった上杉治憲(鷹山)である。 

4 治憲の誓詞

江戸桜田の米沢藩邸にて二歳年下の幸姫と共に暮らしながら、儒者の細井平洲から将来の藩主に相応しい教育を受けた後、十六歳で元服し、従四位下に叙せられ弾正大弼に任官し、翌年、明和4年(1767)十七歳のときに治憲は江戸藩邸にて上杉家の家督を継いだ。

治憲はこのときに秘かに米沢本国の春日神社に使を送って、つぎのような誓詞を奉納した。[3]

一 文学壁書之通 無怠慢相務可申候 武術右同断(文武の修練は定めに随い怠りなく励むこと)

二 民之父母之語 家督之砌 歌にも詠候へば[4]此事第一思惟可仕事(民の父母となることを第一の務めとすること)

三 居上不驕則不危 又恵而不費と有之候語 日夜忘間敷候

  次の言葉を日夜忘れぬこと 「贅沢(に驕ること)無ければ危険なし」「施して浪費するなかれ」

四 言行不斉 賞罰不正 不順無礼之様 慎可申候 

言行の不一致、賞罰の不正、不実と虚礼、を犯さぬようつとめること

右以来堅相守可申候 若於怠慢仕者 忽可蒙神罰 永可家運尽者也 仍如件

これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、

家運を永代にわたり消失されんことを。 

5 自分自身の生活を改めることから藩の改革を始める

十七歳で家督を継いだ治憲は、藩政改革に熱心で藩主にも直言できる家臣を江戸藩邸に集めて、彼らの意見を聴取し、議論をつくさせた。その後に、江戸家老をはじめとして藩邸に居るすべての家臣を、身分の上下を問わず集めて、自らの決断を告げたのである。

彼は、まず藩主である自分自身が率先して無用な支出を切り詰めることから始めた。それまで1050両あった藩主の江戸仕切料(江戸での生計費)を209両に減額、奥女中を五十人から九人に減らし、一汁一菜、木綿着用という粗衣粗食の生活に徹したのである。更に名藩としての体面を保つための一切の虚礼(年間の祝事、神社仏閣の公的参拝などの煩瑣で形式的な宗教行事や贈答の儀礼的習慣など)を中止または延期することを宣言した。

 6 国元の重臣達の反発

江戸でのこのような治憲の改革の開始宣言は、米沢藩をそれまで取り仕切ってきた国元の重臣達の反発を買うことは必至であった。日向高鍋藩という小藩から婿養子として藩主となった元服したばかりの青年の藩政改革宣言は、高家筆頭の吉良家とも縁の深い上杉家の格式と礼法を重視するこれまでの慣例を無視するものと国元の重臣達は判断したからである。しかし、そのような重臣達の保守的な態度では、壊滅の危機に直面している米沢藩の現実を救うことはできないというのが、江戸藩邸にて治憲の考えに賛成して共に改革を開始した少数の家臣達の考え方であった。そこには家臣相互の反目もあった。

二年後、十九歳で自領の米沢にお国入りしたときの治憲については様々なエピソードが伝えられている。たとえば、領内の土地の荒廃と領民の逃亡離散による過疎化を直接目にした治憲は、藩政改革の容易ならざる事を覚悟したが、たまたま籠中の煙草盆の死灰の中に僅かに残る火を吹き立て、それを火鉢の炭に次々と移すことができたことを経験して、

「一身の辛苦を厭はず経営怠るなくんば、一国もまたかくの如く挽回の運に向かうべし」

という教訓を得たこと。また、あまりにも簡素なお国入りに藩の国家老達は、眉をひそめ上杉家の伝統に相応しい格式を守ることを若き藩主治憲に求めたことなど、国の重臣達の意向を無視して性急に改革を進めた若き藩主に嫌がらせがあったことを様々な資料が伝えている。 

7 治憲の新しい統治方式と国元の重臣達の造反

治憲は、自分の意向を無視しようとした重臣達に臆することなく、それまでの慣例を破り、足軽に至るまでのすべての家臣を自分の居城に招集して、藩政の窮乏の実態をあるがままに告げた。そして破産に瀕した藩の改革実現のためには、藩主になったばかりの自分の能力には限界があることを率直に認めたうえで、藩士全員の協力がどうしても必要なことを説いた。このように身分の上下に関係なく、すべての家臣を集めて、その前で、率直にあるがままの現実についての情報を公開したうえで、家臣団の協力を要請するというのが治憲の治世の新しい流儀であった。

治憲の大胆な藩政改革に対して、のちに七人の保守的な老臣が造反したが、当時22歳の治憲は春日神社に参り、平和的な解決の道を祈願したあと、家臣全体を集め、自分の政治が天意に反していないかどうか尋ね、その場にいた大多数の家臣から、治憲の改革に賛同するとの回答を得た後で、造反した老臣たちを処分した(二名に切腹、五名に隠居閉門と知行一部召上げを命ずる厳しくも果断な措置であった) 

8 藩政改革の基本

治憲の藩政改革の基本方針は、人民の幸福こそが統治の目的であるということ、それを実現する正しい統治のためには能力のある人材を適材適所に登用することが必要であること、単なる倹約や年貢の厳しい取立てによって財政を改善するのではなく、積極的な施策と投資によって人民の生活の安定を図ることにあった。 

9 敬天と愛民の心―仁愛と正義の実現

治憲は「民の父母」となる行政を実行するために、郷村の頭取、次席、群奉行を新たに任命するに際して次の文を書いて与えた。

〇 赤子之生無有知識、然母之者、常先意得其所欲焉、其理無他、誠然而已矣 誠生愛、愛生智

赤坊の生命は知識をまだもたないが、母親は子供の欲求を常に先に会得して世話をするものである。その理由はほかでもない、誠(内村鑑三の英訳はsincere heart=まごころ)が自然にそうさせるのである。誠が愛を生み、愛が智を生む

(Sincerity begets love, and love begets knowledge)

〇 唯其誠矣、故無不及、吏之於民、与此何異哉、誠有子愛民之心、則不患其才智之不及也。

唯その誠があるだけで、及ばないということはないのだから、官吏の民に応接する場合でも、これと何が異なっているだろうか。誠にあなたに愛民の心があるならば、才智の及ばないことを患う事はないのである。

治憲は、領内を十二分して十二人の教導の任にあたる出役を配し彼らに「飲食のこと、衣服のこと、婚姻のこと、法事のこと、葬式のこと、家屋修繕のこと、孤独を憐れむこと、孝行のこと、産業のこと」など、一々明細に人民を教える方法を示した。[5] また、教導出役の下に「廻村横目」という警察官を置き、「出役は地蔵の慈悲を主とし、内に不動の忿怒を含むべく、横目は閻魔の忿怒を表し、内に地蔵の慈悲を含むべし」と教えた。 

12 治憲の社会事業ー農地の開墾整備と治水灌漑・社会保障制度の充実・産業の振興・教育改革・医療改革など

〇米沢藩の産業政策として、領内から荒蕪地をなくすために、大地を神聖に扱い、農業を奨励するために「土地崇拝」の儀式である「籍田の礼」をおこない、土地の荒廃をふせぐための漆の木や楮の木を植えさせた。

〇十一里にわたる水路をもうける灌漑事業と、山に二百間のトンネルを掘ることによって河川の流れを変える事業を黒井という算術家を新たに登用して実現させ、荒蕪地を良田に変えることに成功した。

〇農民には伍什組合を設けて相互補助にあたらせた。その「仰出」の文には

「老いて子なく、幼くして父母無く、或ひは貧にして養子に疎く匹偶に遅るる、或ひは片輪にて身過しのなり難き、或ひは病気にて取り扱いの行立ち難き、死して葬をなし難き、又は火難に雨露を凌ぎ難き、変災に遇ふて家の立ち難き、かかるよるべなき者あらんには其の五人組身に引き受けての養ひあるべく、五人組にて行き届き難きは、住人組より力を任せ、十人組の力に及び難きは一村の救に其難儀を除き其の生涯を遂げしむべく候」

とあるが、これは伍什組合という治憲の考案した独自の相互補助組織による社会福祉政策の先蹤といえよう。

〇領地を日本一の生糸生産地にするために、奥向きの費用二百九両より五十両を削って、桑の植樹や養蚕業を奨励し、それによって米沢織の名を今日高めるに至った。

〇 藩校を再興し興譲館と名づけて、かつての師細井平洲を招き館長とし、奨学金を設置して、若き人材の育成に努めた。

〇 藩の医師を杉田玄白につかせて西洋医学を学ばせ、病院を設立した。また公娼制度を廃止して藩の風紀を正した。

 

13 家督の禅譲ー権力の座に長く居座らないこと

治憲は、天明5年(1784年)三十四歳の時に家督を前藩主の実子治広に譲って隠居した。これは権力の座に長く居座ることが、国家を私物化する悪弊を生むという彼の信念に基づくものであった。「伝国の辞」を遺して隠居した後も、治憲は新藩主を補佐指導したが、享和2年(1802年)に剃髪し「鷹山」と号した。文政5年(1822年)に七十歳で逝去した後も、彼は「鷹山公」として領民から名君として記憶され敬愛された。



[1] 米国のケネディ大統領が「最も尊敬する日本人は誰か」という質問に対して、上杉鷹山の名前を挙げたときに、その場にいた日本の新聞記者は上杉鷹山の名前を知らなかったというエピソードがある。

[2] 「伝国の辞」とともに、鷹山の歌「為せば成る為さねばならぬ何事も為らぬは人の為さぬ成りけり」も次の藩主に伝えられたが、これは『書経』太甲下編で殷の第四代帝王の大甲に補佐役の伊尹(いいん)が述べた忠言「弗慮胡獲、弗為胡成慮」(慮(おもんばか)らずんば胡(なん)ぞ獲ん、為さずんば胡(なん)ぞ成らん)」に由来する。

[3] 江戸の米沢藩邸に居た治憲が秘かに奉納したこの誓詞は、百二十五年後の明治二十四年八月にはじめてその存在が一般に知られた。

[4] 「受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母(ちゝはゝ)」という治憲直筆の書一幅が、現在米沢の上杉神社の宝物館稽照殿に遺されている。

[5] 内村鑑三が、十二人の「教導出役」を基督教の教区の巡回説教師に擬えている事に注意したい。

「神の国」を地上に実現しようとした最も貴重で勇敢な実例として、フィレンツェのサヴォナローラ、英国のクロムウェル、英国を追われて新天地アメリカに渉ったクエーカー教徒のウィリアム・ペンに匹敵する人物として上杉鷹山を位置づけているからである。基督教精神にもとづく人民のための革命を志した三名の英傑が夢見た「敗者をいたわり、おごるものを砕き、平和の律法を築く」王国によく類似した共和国が、「真のサムライ」である上杉鷹山によって、異教国の日本にもかつて存在したことを欧米の読者に伝えることが内村鑑三の鷹山論の執筆の目的であった。

 

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ザビエル上陸記念碑と福昌寺のキリシタン墓地

2019-09-06 |  宗教 Religion
  鹿児島のザビエル聖堂で9月2-3日に開催されたカトリック神学会の終了後、ザビエル上陸記念碑(写真)や、島津家の嘗ての菩提寺、福昌寺の山林にあるキリシタン墓地(浦上村から薩摩に流謫されたキリシタンの墓地)など、キリシタンの関連遺跡を巡りました。
 
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ペトロ岐部とシドッチ-「 十字架の道を行く旅人の心」

2019-07-01 |  宗教 Religion

 ペトロ岐部とシドッチー「十字架の道を行く旅人の心」

 

田中 裕

 1「隠れキリシタン」ではなく「隠れたるキリスト者」

「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的であるが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味する以上、決して特殊な言葉ではない。そこで、この講演では、「隠れたるキリスト者Hidden Christian」という用語を使うことによって、原始キリスト教の宣教の基本精神との関係の中で日本のキリシタンの歴史を再考したい。そのために、まず「隠れたるキリスト者」の三つの意味を区別したうえで、歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づける。

1-1 隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-
迫害の中で隠れた所にいます神に祈る-「マタイ福音書の初代キリスト者の祈り」

あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)

ステパノのように信仰告白すれば、殉教する危険にさらされていた當時のキリスト者の一人がマタイ福音書の書記者であった。「奥の部屋にはいって」祈るというところ、日本の隠れキリシタンとおなじではないだろうか・

1-2 隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)   
-非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)

「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」 「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)


 フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教であった。

1-3  隠さたるキリスト者-C (Hidden Christian-C) ─時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者、あるいは「隠されたキリスト者」

たとえば細川ガラシャ(1563-1600)の場合、彼女がキリシタンであったと云う事実は、島原の乱以後の厳しい鎖国時代には隠されていた。たとえば儒者黒沢宏忠の「本朝列女傳」(1668)は、夫の名誉のために自決した「細川忠興孺人(夫人)」を「細川内室、當時節女、婦而有儀・・」と頌えているが、林羅山の弟子筋に当たるこの著者が、「細川内室」が「ガラシャ」という洗礼名をもつキリシタンであったことを知ったならばさだめし仰天したことであろう。


 ペトロ・カスイ・岐部の場合も長きにわたって「隠されたキリスト者」ないし「隠された日本人司祭」といえよう。たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及するのみで、彼がいかなる人物であったかは書いていない。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、ペトロ岐部の名前は見当たらない。彼が難民としてマカオに脱出した後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、潜伏を余儀なくされたキリスト者達を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになった。

2-1 十字架の道を行く旅人ペテロ岐部カスイー地球に架けられたロザリオ

 このペトロ岐部の往路(求法の旅)帰路(伝法の旅)を見ると、全体が地球に架けられた大きなロザリオに見える。このロザリオに沿って、かれは地上を旅しつつ、十字架の道行きをしたのである。その逗留地ーマカオ、ゴア、バクダード、エルサレム、ローマ、リスボン、マニラ、アユタヤ・・・の諸都市は、そのままロザリオの数珠であろう。                  

 1582(天正10) 本能寺の変 天正少年遣欧使節日本出発(8年後に帰国)

1587(天正15) 豊後国浦部(大分県国東半島)でペトロ岐部誕生。岐部一族は大友氏の水軍衆の家系。大友宗麟の死去と秀吉の宣教師追放令直後の政治的・宗教的混乱の中で、父のロマノ岐部は宣教師の代役として領民に受洗する資格を得ていた。

1593(文禄2) 大友義統が豊後の国を秀吉に召し上げられ、父ロマノ岐部は所領を失い牢人となる。1600(慶長5) 石垣原での大友家再興のための合戦に敗れたロマノ岐部は、13歳の息子ペトロ岐部を長崎のイエズス会セミナリオに入学させるも、セミナリオが火災で焼失したため、翌年、肥後の有馬に移新築された有馬セミナリオに移住。

1606(慶長16)、セミナリオ卒業時に、将来イエズス会士となるための仮誓願をたて、「カスイ」という号を名乗り同宿として神父の補佐として働く。この号は、おそらく「活水(生ける水 aquaviva)」で、當時のイエズス会の総長のClaudio Aquavivaの苗字を頂き諱としたものであろう。

1614(慶長14)江戸幕府の吉利支丹禁令、教会堂の破壊、宣教師国外追放。

1615 (元和元) ペトロ岐部、日本人司祭となることを志して、長崎からマニラ経由でマカオに渡る。

1617 (元和3) マカオで現地人の日本人難民に対する反感と差別に出会い、三人の同宿と共にマカオを脱出、インドのゴアに到着。ゴアから海路リスボンをめざした同宿と別れて、単身、ホルムズ海峡を渡り、陸路でバクダード・ダマスカス経由、エルサレムに行く。

1619(元和3)エルサレム着。オスマントルコの支配下にあったが、フランシスコ会の聖地教会で巡礼。1620(元和6)パレスチナからヴェネチアを経てローマに到着。11月司祭となり、イエズス会に入会。聖アンドレア修練院に入り、コレジョ・ロマーノで倫理神学を学ぶ。

1622(元和8) 6月に帰国願いを出して、ローマを去り、バルセロナ・エヴォラ経由でリスボンに行き11月リスボンの修練院で誓願をたてる。

1623(元和9) 3月リスボンを出発。喜望峰・モザンビーク経由でインドに戻る。当時の日本は将軍家光ののもと、江戸の大殉教。各藩が幕府の命により厳しい迫害を開始。

1624(寛永元)  ゴア到着。 仙台大殉教。1625(寛永2)マカオ到着。1627(寛永4)2月マカオを去り、マラッカ海峡でオランダの海賊船に遭遇、5月にシャムのアユタヤに行く。

1627(寛永4) アユタヤからマニラに渡る。

1630(寛永7) 六月ルパング島出発、七島海峡で難破するも帰国がかない坊津に上陸後、長崎へ。(出国後15年が経過。ペトロ岐部43歳)

1633(寛永10)長崎で厳しい迫害。フェレイラ神父棄教。ペトロ岐部は長崎を去り東北に行く。

1639(寛永39) 仙台領内でポルロ・式見両神父と共に捕縛され、大目付井上筑後守政重の屋敷で査問を受ける(将軍家光、柳生但馬守、沢庵和尚も同席、棄教した沢野忠庵ことフェレイラ神父とも再会)。

棄教を拒否したため、小伝馬町の牢屋で殉教。(H。チースリックと五野井隆史の考証による)

 3 ザビエルの初心に還ることー「純一なる愛の働き」

 3-1 旅行く人(homo viator)の心

ペトロ岐部とシドッチに共通する精神として Homo Viator (旅ゆく人)の心をあげたい。万里を遠しとせず命がけで求道/伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであった。日本に普遍のキリスト教を伝えた最初の宣教師ザビエルの「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」[1]という祈りは、諸王のなかの王なるキリストに対する忠誠を誓いつつ、他者のために十字架の道を行くキリストに倣う心を表現したものである。西洋の騎士道精神とキリストの出会いの所産ともいうべきものであったが、それは日本の戦国時代、中世から近世へと移行する転換期の武将たちの儒教的な「士道」の精神に直接訴えかけるものでもあった。

 そして、ポルトガルやスペインのような大帝国の国家主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めてエルサレム経由でペテロの殉教の地であるバチカンに巡礼の旅をしたペトロ岐部もまた、ザビエルと同じく「十字架の行道」を志した人であった。

彼はマカオで難民生活の苦渋を味わったのちに、ゴアに行き、現地の信徒組織の人々からの支援だけをたよりに、陸路を一人でエルサレムまで旅をした最初の日本人であった。そして彼は、使徒ペテロと同じく祖国日本の迫害のさなかにある切支丹のもとへと帰還の旅に出る。帰国後も国内を潜伏しつつ旅を続け、東北で逮捕され江戸の切支丹屋敷で糾問される。そこで彼は将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守と対面している。岐部は、殉教者として、「キリストの法の真理」を証言するために徳川幕府の権力者と対面したといって良いだろう。 

 3-2 シドッチの旅と新井白石との対話

 江戸時代に来日した「最後の宣教師」としてのシドッチもまた、「旅する人」であり、キリスト教の真理を証言するために殉教した人であった。 

 新井白石の『西洋紀聞』とあわせ読むべき資料として、徳川実紀ー文昭院殿御実紀(十九世紀前半に編輯された江戸幕府の公式史書 全517巻)がある。その宝永6年11月22日(1709)の条に、シドッチを「行人」と呼んでいる箇所がある。

 ローマ法王の密使としてシドッチは来日したのであったが、途中長崎に立ち寄ったときに、当時ローマ・カトリック諸国と敵対していたオランダ人によって、彼が持っていたローマ法王の署名入りの手紙(通行手形)を没収され、単なる密入国の宣教師として処理されることとなった。そのため、正式の国信を持っていないことが江戸の裁判で問題とされたのである。しかし、白石は、シドッチがみずから「行人」と名乗っていたことに注目し、「行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て」と幕府に進言した。つまり、「行人」であるシドッチを処刑することは正しくない。シドッチの言葉が真実であることの徴があるまで待つようにと白石が述べたので、シドッチは切支丹屋敷の中で、みずからの信仰を捨てることなく遇されたというのである。

 「行人」とは訓で「こうじん」と読めば、「旅人」であり、「ぎょうにん」と読めば「修行者」を意味するが、シドッチは自らをそのような「旅人であり修行者」であると白石に言っていたらしい。私は、さらに「修証者(あかしをするひと)」という意味を付け加えたい。すなわち殉教を意味するギリシャ語の原義は「証をする」という意味であり、その覚悟がなければ波濤万里を超えて日本まで旅することはなかったであろうから。「修証一等」とは、中国にまことの仏法を求めて旅に出た道元の言葉であるが、江戸時代の寺請制度のなかで身分を保障され体制化した仏教には、このような求法/伝法の旅の精神は失われてしまったのではないだろうか。ザビエル、ペトロ岐部、そしてシドッチに共通するものは、まさにキリスト教的な「修証一等」の精神であり、国家権力と妥協せずに「キリストの真理」を証しする「旅ゆく人」の精神である。 

3-3 シドッチと長助・はる夫妻の殉教

シドッチによってキリスト教信仰を告白した長助はる夫妻にかんする新井白石の記述によると

「正徳四年甲午の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりしといふ夫婦のもの〈此教師は、黒川寿庵といひしなり。番名はフラソシスコ=チュウアンといひしか。奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ〉、自首して、「むかし二人が主にて候もの世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず。年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」と申す。まつ二人をば、其所をかへてわかち置かる。明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。ここに至て、其真情敗れ露はれて、大音をあげてののしりよばはり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじぎ由をすすむる事、日夜に絶ず。……此年の冬十月七日に、彼奴なるものは、病し死す。五十五歳と聞えき。其月の半よりローマン人も身病ひすることありて、同じき二十一日の夜半に死しぬ。其年は四十七歳にやなりぬべき。」    

 二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「授戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。

一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。

 ここで注目すべきは、「此ほど彼国人の我法のために身をかへり見ず万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。」という文である。「我が法のため」とはキリスト教のためと云うことであるが、長助・はる夫妻は、キリスト教を「我法」と呼び、自首して信仰告白をすることによって殉教の意思を表したと云うことである。浦上の隠れキリシタンが、自らキリスト者であることを名乗り出たのは、明治維新の直前であったが、長助とはるもまた、信仰告白をして殉教した「隠れたキリスト者」であったと思う。

 

                                                                                        



[1] 「ああ、神よ、私はあなたを愛します!私を救けてくださるから、愛するのではありません、あなたを愛しないものを永遠の劫火に罰するから、愛するのでもありません。私の主、イエスよ、あなたは、私が受けなければならない罰の全てを、十字架の上で受けて下さいました。釘付けにされ、槍で貫かれ、多くの辱めを受け、限りない痛み、汗、悩み、そして死までも、私のため、罪人なる私のために、忍んでくださいました。どうして、私が、あなたを愛しないわけがありましょうか。ああ、至愛なるイエスよ、永遠にあなたを愛します、それは、あなたが天国に私を救ってくださるからではありません、永遠に罰せられるからでもありません、何か報いを希望するからでもありませんただ、あなたが私を愛してくださったように、私もあなたを永遠に愛するのです。それは、あなただけが私の王であり、私の神であるからです

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「行人」としてのシドッチー(旅ゆく人にして修行/修証する人)

2019-03-22 |  宗教 Religion
ザルツブルグの国際シンポジウムで私はザビエルとペトロ岐部に共通する精神として Homo Viator (旅ゆく人)の心を指摘した。万里を遠しとせず命がけで伝道の旅を続けることはパウロやペテロのような初代のキリスト者の精神を受け継ぐものであった。「普遍のキリスト教」の最初の宣教師ザビエルの「純一なる愛の働き Actus Puri Amoris」という祈りは、西洋の騎士道精神とキリストの出会いの所産ともいうべきものであるが、それは日本の戦国時代、中世から近世へと移行する転換期の武将たちの儒教的な「士道」の精神に直接訴えかけるものであった。
 そして「普遍のキリスト教」をもとめて、ポルトガルやスペインのような大帝国の国家主義に汚染されたキリスト教ではなく、使徒継承の本物のキリスト教を求めてエルサレム経由でペテロの殉教の地であるバチカンに巡礼の旅をしたペトロ岐部もまた、「旅する人」であった。彼は難民となったキリスト者の日本人であり、マカオで難民生活の苦渋を味わったのちに、ゴアに行き、現地の信徒組織の人々からの支援だけをたよりに、陸路を一人でエルサレムまで旅をした最初の日本人であった。そして彼は、ペテロと同じく祖国日本の迫害のさなかにある切支丹のもとへと帰還の旅に出る。帰国後も国内を潜伏しつつ旅を続け、東北で逮捕され江戸の切支丹屋敷で糾問される。そこで彼は将軍家光、その顧問役であった沢庵禅師、柳生但馬守と対面している。岐部は、殉教者として、「キリストの法の真理」を証言するために将軍と対面したのである。
 
 最後の宣教師としてのシドッチもまた、旅する人であり、キリスト教の真理を証言するために殉教した人であった。
 
 新井白石の『西洋紀聞』とあわせ読むべき資料として、徳川実紀ー文昭院殿御実紀(十九世紀前半に編輯された江戸幕府の公式史書 全517巻)がある。その宝永6年11月22日(1709)の条に、シドッチを「行人」と呼んでいる箇所がある。
 ローマ法王の密使としてシドッチは来日したのであったが、途中長崎に立ち寄ったときに、当時ローマ・カトリック諸国と敵対していたオランダ人によって、彼が持っていたローマ法王の署名入りの手紙(通行手形)を没収され、単なる密入国の宣教師として処理されることとなった。そのため、正式の国信を持っていないことが江戸の裁判で問題とされたのである。しかし、白石は、シドッチがみずから「行人」と名乗っていたことに注目し、「行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て」と幕府に進言した。つまり、「行人」であるシドッチを処刑することは正しくない。シドッチの言葉が真実であることの徴があるまで待つようにと白石が述べたので、シドッチは切支丹屋敷の中で、みずからの信仰を捨てることなく遇されたというのである。
 「行人」とは訓で「こうじん」と読めば、「旅人」であり、「ぎょうにん」と読めば「修行者」を意味するが、シドッチは自らをそのような「旅人であり修行者」であると白石に言っていたらしい。私は、さらに「修証者(あかしをするひと)」という意味を付け加えたい。すなわち殉教を意味するギリシャ語の原義は「証をする」という意味であり、その覚悟がなければ波濤万里を超えて日本まで旅することはなかったであろうから。
 「修証一等」とは、中国にまことの仏法を求めて旅に出た道元の言葉であるが、江戸時代の寺請制度のなかで身分を保障され体制化した仏教には、このような求法/伝法の旅の精神は失われてしまったのではないだろうか。
  ザビエル、ペトロ岐部、そしてシドッチに共通するものは、まさにキリスト教的な「修証一等」の精神であり、国家権力と妥協せずに「キリストの真理」を証しする「旅ゆく人」の精神である。
 
   資料ー「徳川実紀」宝永6年11月22日(1709)の条
 
「我国に其法を施さむと希ふ所は、昔は彼国より常に此邦に来り、其教稍ひろまりしに、中頃我国この教を厳禁ありし後、彼国人こゝにいたることを得ず、むかしは唐にても此禁をごそかなりしかど、今は禁の開たるのみならず、清王使して賜物あるに至り、その外諸国ともに、むかしは禁じたるも、今は用ゆる所少からず。さればいかにもして、こゝに此教を再興せむ事、先師の宿志なりとて、こたび其国主、衆人の中より使とすべきものを薦挙せしめければ、我その選にあたり、万里の風濤をしのぎこゝに渡り来りしは、全く法のために冤を訴ふる所なり。この禁除かれんことは、もとより願ふ所といへども、もし我言の用ひられずして、極刑に処せらるゝとも、そは時の至らざることをしれば、国のため法のため更にうらむる所もなしと申す。君美つばらに共申処の教意、并に地理のことども、二冊に注記し奉りければ、やがて備中守由松、八郎左衛門信尹もて、我国耶蘇の法禁ずること年久し。 今蛮人彼国の使にて、法のために冤を訴ふるよし申すといへども、もし彼国の信使ならば、いかんぞ国信とすべきものを帯来たらず、いつはりて我国人の様をなして来りたるや。たとひいふ所実にもせよ、共事跡はうたがふべし。 しかれども既に行人と称す。行人は、礼に於て誅すべからず。後日其言の徴あるを待て。よろしく処決すべきものなりと諭告せられ。彼者幽閉せられしとなり。」
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Arai Hakuseki and Giovanni Battista Sidoti -2-

2019-03-22 |  宗教 Religion

The record of Shidoti’s trial after Chosuke and Haru’s confession of Christian faith according to the official document, Nagasaki Jitsuroku Taisei 長崎実録大成 (The Great Collection of Nagasaki’s Accurate History) edited by Tanabe Mokei 田辺茂啓(1688-1768).

 (Japanese Texts)

宝永五戌子年十一月九日、薩摩より異人送来る。則永井氏、按ずるに、邏媽録に載る注進状によれば、永井讃岐守は此頃在府中なれば、駒木肥後守の誤り也。別所氏立会にて被遂穿鑿処、彼者イタリア国ロウマの者、名ヨアンバツテレス、苗字シロウテ、宗旨キリステアンカツトウリコと云。身の長五尺八九寸、鼻筋高く色白く髪黒し。日本風俗の如く月代を剃り、当六月頃より、薩州領屋久島に来居たる由、書籍の如き物八冊持居る。日本詞を書写したる物と見えたり。日本詞と蛮語取換て云述る。其訳分明に通達し難し。先其身切支丹宗門の由、願かましき事もなく、唯宗門を勧め入る様の事而已を云出す。食物は薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て、飢を凌し由也。長崎来着の後は、和蘭陀人食物の如きを食す。段々御検議の趣、江府言上有之。

一、宝永六年九月二五日、御下知に依て、彼異人牢輿にて、検使両人下役四人、通詞今村源右衛門に外に二人、町使六人、都合二十六人相添う、江府へ差遣さる。於江府小日向に。前々より有之切支丹屋敷に差置かる。彼異人、毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置。按ずるに、外国通信事略に、月俸のことを載せず、こは新井君美が著書なれば、其実を得し事論なし。扨又、附添の人数は、其翌寅三月長崎に帰省す。

二、正徳四年三月、右の異人御咎のことありて詰牢に移さる。その趣、前年牢番の者両人に、切支丹宗門を勧め入れたるよし、御聞に達し、宗門御改、横田備中守警護者数十人引連られ、通事名村八左衛門通弁にて、御書付を以て、只今迄馳走を加え差置る処、御制禁の邪宗門を授けたる段、不届至極なりとて、此度牢詰に移さる。彼異人其年の冬月極寒の砌、凍死せしとなり。

 (commentary)

〇資料一から、シドッチの姓をシロウテ、名をヨアンバツテレスと姓名を逆にしてはいるが、彼が「宗旨キリステアンカツトウリコ」、即ちカトリックのクリスチャンであることは正しく理解していることが分かる。「薬物と覚しき丸薬一つを三十日に一度用て」とあるは聖体のことであろう。

〇資料二から、シドッチは、おそらく新井白石の配慮で、「毎日二汁五菜の御料理被仰付、金二〇両五人扶持被下置」という破格の良い待遇をキリシタン屋敷で与えられていたことが分かる。転び伴天連では無いシドッチが、キリスト教を信奉したままで、このような厚遇を以て遇せられたことは、異例であったことがわかる。長助とはる夫妻は、キリスト教の生きた信仰を目の前にして、自分たちが嘗て踏み絵を踏んだことを恥じ、司祭にその罪を告白し、キリスト教に立ち返ったわけである。『西洋紀聞』では彼らが自ら進んで「自首」し、「此ほど彼国人(シドッチ)の、我法(これは夫妻が正しいと思っていた基督の法)のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ(信仰告白)。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」とある。つまり、基督の「法」を受けた以上、それを秘密にして、はっきりと言い顕わさないことは、国家の恩に背くことになるから、あえて信仰告白をして、国家の法によって罰せられることを選択したというのである。 

〇資料三から、正徳4年3月に、シドッチを査問したのが、宗門御改 横田備中守であり、通訳が名村八左衛門であったことがわかる。シドッチの死因は、ここでは「凍死」とされている。 

〇二次資料では、シドッチが長助とはるに「洗礼」を授けたとするものが多いが、一次資料では「受戒」(「西洋紀聞」)、「ご禁制の邪宗門を授けたる段」(長崎実録大成)とあり、「洗礼」とは書いていない。一般に「受戒」とは仏教では、戒律を受けて出家すること、あるいは在家者が菩薩戒を受けて、篤信の信徒となることを意味する。私は、「受戒」をうけたとは、シドッチに懺悔(コンヒサン)して、キリスト教信仰に立ち返ったという意味だと解釈する。モーゼの旧法(十戒)と基督の新法(神への敬愛と隣人愛)をあらためて受けたという意味であろう。  

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Arai Hakuseki and Giovanni Battista Sidoti

2019-03-21 |  宗教 Religion

Arai Hakuseki’s manuscript of Record of Things Heard From the West (西洋紀聞) in his own handwriting.(National Archives of Japan, Cabinet Library Jap. 32551 3-1)-- The date of Sidoti’s death and Records about Chosuke & Haru --

It was in the winter of Shotoku 4 that an elderly slave couple, Chōsuke(male) and Haru(female), who had once served an apostate Christian prisoner (his name may be Kurokawa Jyuan, or Francisco Johan in his native Language) , surrendered themselves to the office, saying, “We were previously taught the (Christian) Law by our master during his life-time, but we didn’t consider it right to betray the Great Prohibition of the country.  But after long years elapsed, we encountered the person who had come here for the Law after traveling ten thousand of miles from abroad in spite of the dangerous risk, and then was captivated at last.  Seeing this person, we feel ashamed of being frugal of (mundane) short life. Fearing of going through hell for a long time, we have received the Law from him, and are Christians now. If we don’t confess these things, it would look like a treachery to the benevolence of the country. As we have confessed our faith, you should punish us according to the Law of the country.”  The husband and wife were separated and confined for the time being. On March next year, the Roman (Sidoti) was investigated through the help of a translator who accompanied the Dutch Envoy, and was sent into prison on the grave charge of secretly giving Christian Law to the couple concerned.  And it came to pass that he (Sidoti) cried loudly the names of the couple from the bottom of his heart encouraging them incessantly to confirm their faith and not to change their fortitude until death. …….On October 7 of this year, the husband slave became sick and died at the age of 55 according to the report. Since the middle of October the Roman had also suffered from sickness and died at midnight on the 21th of the same month. His age may be 47.  (Translated by Yutaka Tanaka)

Note about the exact date of Sidoti’s death

 Japanese historians agree that Sidoti died in 1714. The reason why some commentators in the past wrongly thought that he died in 1715 is partly due to Arai Hakuseki’s error in his hand writing. He writes “It was in the winter of Shotoku 4 that an elderly slave couple…..” (at the beginning of the above citation), and , “On March next year, the Roman (Sidotti) was investigated through the help of a translator who accompanied the Dutch….”According to Hakuseki’s diary, he met the Dutch Envoy to Edo (Tokyo) at Asakusa on March 3 in Shotoku 4 (1714).  So “On March next year” is Shotoku 4 (1714) and not Shotoku 5 (1715)

 

Note about the exact translation of "受戒"

Previous (second-hand)literatures say that Chosuke and Haru were baptized by Sidoti.
 "受戒" is originally a Buddhist term which literally means "to receive Law or Commandment”, that is “to become monk” or “to become a devoted believer (in the case of lay persons)”.
According to Kobinata Diary, they were former Christians forced to apostatize before they met Sidoti. (小日向志:又此夫婦、同宿受庵より教誡をも受けしものなれば、転びけれども永く山屋敷に禁固せられたり) So it was more probable that they returned to Christian Faith by confessing their crimes of apostasy before Siodoti than that they were baptized by him.

Original Japanese Texts of Arai Hakuseki’s manuscript of Record of Things Heard From the West (西洋紀聞) in his own handwriting 

 正徳四年甲午の冬に至て、かのむかし其教の師の正に帰せしものの奴婢なりしといふ夫婦のもの〈此教師は、黒川寿庵といひしなり。番名はフラソシスコ=チュウアンといひしか。奴婢の名は、男は長助、女ははるといふ〉、自首して、「むかし二人が主にて候もの世にありし時に、ひそかに其法をさづけしかども、国の大禁にそむくべしとも存ぜず。年を経しに、此ほど彼国人の、我法のために身をかへり見ず、万里にしてここに来りとらはれ居候を見て、我等いくほどなき身を惜しみて、長く地獄に堕し候はん事のあさましさに、彼人に受戒して、其徒と罷成り候ひぬ。これらの事申さざらむは、国恩にそむくに似て候へば、あらはし申す所也。いかにも法にまかせて、其罪には行はるべし」と申す。まつ二人をば、其所をかへてわかち置かる。明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。ここに至て、其真情敗れ露はれて、大音をあげてののしりよばはり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を変ずまじぎ由をすすむる事、日夜に絶ず。……此年の冬十月七日に、彼奴なるものは、病し死す。五十五歳と聞えき。其月の半よりローマン人も身病ひすることありて、同じき二十一日の夜半に死しぬ。其年は四十七歳にやなりぬべき。

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ジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」(1658)を読むー「棄教」後のキリスト信仰と聖母の祈りについて

2019-03-15 |  宗教 Religion

ジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」(1658)を読むー「棄教」後のキリスト信仰と聖母の祈りについて

遠藤周作の「沈黙」の主人公ロドリーゴ神父のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父の墓碑が2016年1月26日に調布市の有形文化財に指定された。当時のカトリック新聞に 「キアラ神父は(棄教)後にキリスト教の教えを説く本(現在行方不明)を書かされました」という記事があった。しかし、キアラ神父が「棄教」後に書いた本のすべてが行方不明なのでは無く、「岡本三右衛門筆記」という文書の抜粋が新井白石の「西洋紀聞」にあり、更に詳しい内容をもつ「宗門大要」が、姉崎正治の「切支丹宗門の迫害と潜伏」(大正14年刊行)にある。

 キアラ神父の「宗門大要」は、17世紀ころの迫害のさなかを生きたキリスト者の信仰の内容を当時の日本語で忠実に伝えてくれる第一級の資料である。
  たとえば当時の切支丹は「十戒」をどのように理解していたか。「宗門大要」は次のようにそれを伝えてくれる。
〇十箇条のマンタメント(Mandamento)はデウスよりの御掟の事
第一、 御尊体のデウスを万事に越えて御大切に存じ、尊み奉ること
第二、 デウスの尊き御名にかけて、空しき誓すべからず候こと
第三、 御祝日をつとめ守るべきこと
第四、 父母に孝行にすべし
第五、 人を殺すべからず
第六、 他犯すべからず
第七、 偸盗すべからず
第八、 人を讒言すべからず
第九、 他の妻を恋すべからず
第十、 他の物を猥に望むべからず
右十箇条はすべて二箇条に極まる也
一には、御一体のデウスを万事に越えて御大切に存じ奉ること。
二には、わが身の如くに、他人を思ふべき事是れなり

「宗門大要」では、現代では「愛」と訳す言葉を「御大切」と訳している。これは、現代の私たちにも心にしみる訳語ではないだろうか。たとえば、「汝の敵を愛せよ」というよりも「汝の敵を大切にせよ」と言うほうが、生きた翻訳のような気がするがどうであろうか。

また、「主の祈り」(おらしょ=Oratio)も、当時の生きた言葉で翻訳されている。

〇 天にまします我らが御親、御名をたつとまれたまへ、
御代きたりたまへ。天に於て思召ままなる如く、地に於てもあらせたまへ。我らが日々の御やしなひを、今日我らにあたへたまへ。我ら人にゆるし申すごとく、我らが科(とが)をゆるしたまへ。我らをテンタサンにはなし給ふことなかれ、我らを今日悪よりのがしたまへ。アメン。

この「主の祈り」の翻訳は、「われらの父」ではなく「われらの御親」と訳すところなど、先行する「どちりな・きりしたん」の「ぱーてる・なうすてる(pater noster)」と基本的にかわらないが、「隣人」を表すポルトガル語の「ぽろしも」を「ひと」と訳すように、外来語の音写をやめて、当時の日本人に耳で聞いてわかる言葉に、できる限り近づけようとしている工夫がみられる。

「どちりな・きりしたん(キリストの教え)」によれば、「我らの御親」の「我ら」は貴賤を問わぬすべての人をさす言葉であり、(異教徒も含めて)万人はみな同じ親を持つ兄弟姉妹であるというキリスト教の普遍的なメッセージを伝えている。それは「父」と訳すよりも「御親」と訳すことによってよりよく伝わる。「日々の御やしない」は、(聖体拝領の時に唱える場合)、朽ちる身体ではなく朽ちない心(アニマ)を養う霊的な糧であり、(毎日の食事の時に唱える場合)、われらの身体をやしなう物質的な糧でもある。心と身体の両方の糧を表す語として「御やしなひ」を当時の切支丹は理解していたと思う。

「宗門大要」では、「サンタマリア」の祈りは次のように訳されている。

〇ガラサ(Gratia)みちみちたまふマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共にまします女人のなかに於て、わきて御果報いみじきなり。また御胎内の御身にてましますゼズスはたつとくまします。デウスの御母、サンタマリア、今も我らがさいごにも、我等悪人の為に頼みたまえ。アメン。

「宗門大要」には「雪のサンタマリア」についての伝承も記録されている。 潜伏切支丹の大切な遺産となった「雪の聖母」の絵姿とともに「宗門大要」のアヴェ・マリアの祈りが一つなって聞こえてきたような気がした。

遠藤周作の引用した宗門改の役人の手記に基づく映画版「沈黙」の最後の場面は、仏教の葬儀儀礼に従って棺桶に入れられ薪でで焼かれるロドリーゴ神父の胸に十字架が光り輝くシーンである。これはスコセッシ監督のこの映画にこめたもっとも重要なメッセージであろう。
  浄土真宗の門徒として埋葬されたキアラ神父の墓碑は、1943年におなじイタリア人のタシナリ神父によって発見され、サレジオ修道会に大切に保管された。
 そのとき、この墓碑銘の「入専浄眞信士霊位」は、仏教の戒名から、キリスト教の「浄い真の信仰」を示す墓標に変容したのではないだろうか。墓標の上の司祭帽のような墓石と、キリシタン文字のように刻まれた梵字が印象的である。
 キアラ神父がその生まれ故郷で「殉教者」として絵に描かれていることも、決して全くの誤解によるものではなく、通常の意味での殉教とは違った意味に於て、真実を語っているものと思う。 

補足

雪のサンタ・マリアーキリシタンの時代のマリア像―とジュゼッペ・キアラ神父の「宗門大要」 

「雪のサンタマリア」とは、キリシタン時代の絵画の小断片を掛軸に表装したもので、現在は長崎の日本26聖人記念館にある。その記念館の館長をながらく勤められたレンゾ・デ・ルカ神父が、2018年6月、上智のキリスト教文化研究所で、「信仰伝承の証しとしての<旅>を考える」というテーマで講演されたが、そのときに使われたスライドの一枚が、この聖母像であった。
 「雪のサンタマリア」の名称の由来は、諸説あるが、おそらく、日本布教の前にイエズス会の宣教師達が祈りをささげたサンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承に由来する。昔、マリア聖堂奉献を考えていたローマのある貴族に、聖母ご自身が夢に示現され、建設すべき場所を(真夏であるにもかかわらず)雪で示されたという伝承である。
 明治維新以後の浦上キリシタンに対する迫害、浦上天主堂の被爆へとつづく受難の歴史を思いつつ、あらためて信徒の苦しみと迫害をともにされた聖母ご自身の<旅>の歴史を感じた次第である。
ところで、Sidotti と新井白石との対話を記した「西洋紀聞」とその関連資料を調べているときに、姉崎正治の『キリシタン宗門の迫害と潜伏』(同文館 大正14年)に収録されている「宗門大要(北条安房守宗門改記録下巻)」のなかの「雪のサンタマリア」の記載に遭遇した。
  「宗門大要」は、岡本三右衛門ことジュゼッペ・キアラが、井上筑後守に替わって宗門改役について北条安房守の尋問に応じて明暦4年、1658年に宗門の大要を陳述したのを筆録したものである。内容は、宮崎道生校注『西洋紀聞』に収録されている「岡本三右衛門筆記」とほぼ同じであるが、それにはない文書も記載されており、そのひとつが「雪のサンタマリアと申すこと」という一九番目の文書である。
雪のサンタマリアと申すことは、ロウマにてある侍(さむらい)、子を持ち申さず候(に)付きて、金銀取らせ申すべきものも之なき(に)付て、サンタマリアの寺を建て申すべき由、女房と相談申し候處に、其夜の夢にサンタマリア夢にまみえ給いて仰せられ候(に)付きて、夫婦ながら右の所へ参り見候へば、六月土用の中にて御座候へども、雪降り候て御座候。其處に即ち寺を建て申し候。夫れに就き雪のサンタマリアと申し候。
これは「雪のサンタマリア」に言及した文書の中で最も古いものであり、サンタ・マリア・マジョーレ教会の伝承とほぼ一致することが注目される。この記事が、「宗門大要」に載っている理由については、姉崎博士自身は「この話を何のために出したのか聯絡不明、或は奇蹟の一證としてか」と述べるに止まっているが、一つの自然な解釈として、シドッチが「親指の聖母」像を持参して来日したのと同じく、ジュゼッペ・キアラも、ミサを立てるときに用いる聖像の一つとして、「雪のサンタマリア」の絵を持参したのではないかという仮説が考えられる。
キアラが宗教画を持参したという直接的な証拠は未だ見いだせないが、「ジュゼッペ・キアラが日本に密入国したときに持参した「書物」については、「岡田三右衛門筆録」に次のような記載がある。

一 ヒイデス、ノダイモク 壹冊 是ハ初テ切支丹ニイタシ、又ハサイゴノ時トナヘ候書物
一 ミイサ、ヲコナイノキヤウ 貳冊  是ハデウス、尊キタムケヲ捧ケ候時ノ経
一 身持ノ書物 壹冊
一 エキノ書  壹冊
一 ヲカボラリヤウ 但三右エ門自筆 壹冊 是ハ日本口ナラヒノ書
一 日本言葉集書  三冊壹結
一 勤三冊ノ書物控 貮冊
一 同下書共    壹結
一 同不審書控   貳冊
一 天地の図ニ有之国郡ノ名付 壹結
一 南蛮ユサンの書付    壹結
一 キリシト天下ル未来記  同
一 諸事アツメ書      同
以上

ここで「ミイサ、ヲコナイノキヤウ 貳冊  是ハデウス、尊キタムケヲ捧ケ候時ノ経」とある点に注意したい。宗門改めの役人にとってミサ聖祭の道具がどんなものであるかは理解できなかったと思うが、キアラがミサをおこなうための「経典」とともに、シドッチと同じくそのための祭具を持参した可能性はあると思われる。
 現在、二六聖人記念館に保管されている「雪のサンタ・マリア」がキアラが持参したものであるという直接的な証拠は無いので、即断は禁物であるが、「雪のサンタ・マリア」は、その後様々に(日本のキリシタン説話として)変容された形で、隠れキリシタンの間に伝承されたことはよく知られている。その意味で、サンタ・マジョーレ教会の古い伝承にもっとも近いものが、キアラの言葉を収録した「宗門大要」に掲載されていることが注目されるのである。

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「隠れたるキリスト者」の系譜

2019-03-07 |  宗教 Religion

「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的ですが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味するのですから、決して特殊な言葉ではありません。
 そこで、原始キリスト教から始まるキリスト教史全体を考慮した上で、さらに「現代日本に生きている私達の直面している問題」との関わりを大切にするという観点をわすれずに、この講演ではもっと普遍的な「隠れたるキリスト者」の系譜の中にいわゆる「潜伏キリシタン」ないし「隠れキリシタン」を位置づける試みをしたいと思います。

まず「隠れたるキリスト者」の系譜として、三つの意味を区別しつつ歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づけてみましょう。

〇隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-迫害の中で隠れた所におられる神に祈る-
(マタイ福音書の初代キリスト者の祈り)

マタイの生きていた時代のキリスト者は、ステパノのように公然と信仰告白をすれば殉教するかもしれない迫害を「正統派」のユダヤ教徒から受けていた。街道や街角に立って自分の善行を人に見せびらかすユダヤ教の「正統派」の祈りではなく、「言葉数が多ければ神に聞き入れられると思う異邦人の祈り」でもなく、「まことのキリスト者の祈り」は、どのようなものであるのかについて、マタイ福音書の伝えるイエスは「主の祈り」を教える前に、次のように云います。

「あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)

〇隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)
  -非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー
(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)

「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」
「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)

フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教でした。

〇隠れたるキリスト者-C (Hidden Christian-C)
-時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者(隠されたキリスト者)ー

細川ガラシアがキリスト者であったことは、江戸時代には隠されており、ホイベルズ神父ほか多くの人の努力によってそのキリスト者としての生と死が解明されたことは前に述べました。

ペトロ岐部にしても、たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及されているのみで、彼がいかなる人物であったかは書かれていません。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、残念ながらペトロ岐部の名前は見当たりません。
 彼が難民として日本から逃れた後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、日本全国の隠されたキリスト者を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになりました。

 そのほかにも、天草崩れ、浦上崩れのように江戸時代の夥しい数の殉教者の一人一人の名前は歴史から抹殺されました。

良心の自由などと云う観念のひとかけらももたぬ権力者達のプロパガンダによって、処刑の残虐非道なやりくちにもかかわらず、キリシタンの「殲滅」が徳川幕府の国策であるとして正当化されました。(万人は神の前に平等であり、良心の自由は例え国王といえどもおかすことはできないというキリスト教倫理の根本が、まさに幕府の保守的体制を覆す危険思想でもあったことを忘れるべきで無いでしょう)

しかし、キリシタンは殲滅されたわけでは決して無く、生き延びていた。大浦天主堂で「私たちはあなたとおなじ心です」と潜伏キリシタンの勇気ある一女性が、フランス人司祭に語った言葉は、「主は皆さんと共に(Dominus vobiscum)」という司祭の言葉に応ずる「あなたの心と共に(Et cum spiritu tuo)」でもあった。「潜伏キリシタン」として信仰を守り通した人の信仰告白は「信徒発見」であると同時に「司祭発見」の邂逅でもありました。

 また、父祖以来の信仰を護り続け、ローマ教会に入らなかった「隠れキリシタン」の信仰も、日本の大切な文化遺産であることはいうまでもありません。生月島のオラショで歌われる「ぐるりよざ」が、十六世紀のスペイン・ポルトガルで歌われていたマリア讃歌であるということを発見された皆川達夫氏の次の言葉に私は全く同意します。

「オラショのなかには、日本人の生活と信仰、外来文化の摂取と日本化、伝統と現代、音楽のはかなさと強さ、祈りと歌、集団と個人、弾圧と自由、抵抗と順応、掟と罪、人間の強さと弱さ―要するに一人の音楽史研究者としてこの現代日本に生きている私のあらゆる問題がある。隠れキリシタンは今や私にとって、私の生き方そのものを問いただす存在となって、私に対峙している。」
(皆川達夫著「オラショ紀行-対談と随想」(日本キリスト教団出版局 1981)

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ローマ皇帝よりもキリストへの忠誠を優先したため殉教した勇敢な兵士の物語

2019-02-28 |  宗教 Religion
ヨーロッパ科学芸術アカデミーのシンポジウムに参加するためにザルツブルグ滞在中です。会場のザルツブルグ大学法学部のそばの大聖堂に今朝参詣しましたが、側廊の装飾聖像群の中で最も多くの信者の蝋燭が捧げられていたのは聖セバスチャンの殉教図でした。彼はヨーロッパのどこでも礼拝されているし、多くの人の洗礼名にもなりました。ローマ皇帝への忠誠よりもキリストへの忠誠を優先したため、殉教したこの勇敢な兵士の物語は、黒死病を癒す聖人となるなど様々な伝説を生み、戯曲にもオペラにもなりました。ローマ時代のキリスト教徒の兵士の殉教の物語がなぜこれほど多くの人の心を捉えたのか。日本の宣教師到来後にキリスト教に改宗した武士たちの殉教と比較すると、そこには風土と歴史の相違を超えた何か変わらぬものがあるということを実感した次第です。



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ガラシアの読んだ「キリストに倣いて」とアベ・マリアの祈り

2019-02-18 |  宗教 Religion
プロテスタントとカトリックの区別を越えて聖書に次いでキリスト教徒によってよく読まれた本は「キリストに倣いて(imitatio Christi)」です。この書の日本語訳は、『コンテムツス・ムンヂ(contemptus mundi)』と題して1596年ローマ字で天草から、1610年国字で京都から出版されました(後者は前者の抜粋版)。ともにキリシタン文学の白眉と称せられるほどの優れた翻訳です。ところで、細川ガラシアは、国字で書かれた「キリストに倣いて」を座右の書としていたことが宣教師の書翰によって知られています。たとえば、受洗する前の頃であるが、「細川忠興の奥方」について、ルイス・フロイスは次のようなエピソードを伝えている。
 
「奥方〔細川忠興夫人〕は司祭達に、デウスの教えについて関心をいっそう深めていきたいので、御身等の手元にある日本語に訳され、日本の言葉で書かれている霊的な書物を是非とも送っていただきたいと願った。司祭達が当初、『コンテムツス・ムンヂ』を贈ったところ、彼女はそれがいたく気に入り、片時もその書を身から放そうとせず、我らヨーロッパの言語に出てくる言葉とか未知の格言について生じる疑問をすべて明瞭に書き留め、侍女のマリア〔儒者清原枝賢の娘で已に洗礼を受けていた〕にそれをもたせて教会に使わし、それらに対する回答を自分の所にもって帰らせた。奥方の文字は日本できわめて稀なほど達筆であり、彼女はそのことできわめて名高かったから、彼女は後に自筆でもって他の霊的な書物の多くを日本語に書き写した」
 
ここで「忠興夫人」が読んだ、『コンテムツス・ムンヂ』は、秀吉の伴天連追放令とキリシタン迫害の始まる前の時期なので、1610年の国字本のもととなったテキストがあったのかもしれません。あるいは、外国人宣教師とローマ字の日本語で文通できた細川忠興夫人が、ローマ字で書かれた本を、自分で国字に書き写し、それが後に1610年に京都で出版された国字本に反映された可能性もある。それはともかく、この書のローマ字完訳本第二巻12章(国字本の第二巻第9章)のつぎの言葉に注目したい。
 
「尊き御クルス〔十字架〕の御幸の道〔王道〕のこと――天の御國に至る道となるクルス〔十字架〕を請け取り奉る〔自分の責任として引き受ける〕ことを何とて恐るるぞ。クルスに息災〔救い〕と寿命〔生命〕があり、敵を防ぐご擁護〔庇護〕もクルスにあり。天の甘味〔至福〕クルスにあり。アニマ〔心〕の強勢勇気〔堅忍不抜の心〕もクルスにあり。歓喜悦予もクルスにあり。善徳の極めもクルスにあり、外になし。かるが故にクルスを担げてゼズ・キリシト〔イエズス・キリスト〕を慕ひ奉れ。不退の命〔永生〕に至るべし。キリシト先ず一番に先立ち給ひて御身のクルスを担げ給ひ、汝の為にクルスにて死し給ふなり。これ汝にもクルスを担げさせ、それにて死せんことを望ませ給ふべき為なり。その故は、キリシトともに死するに於いてはともに生き存ゆべし。辛苦の御友となり奉らば、天の快楽の御友たるべし。」
 
上の引用には、「キリストに倣って、十字架の道行きをすること、キリストが先に、あなたのための十字架を担われ、あなたのために死なれたのだから、そのキリストを慕いて、キリストとともに十字架の道を歩み、キリストと共に死し、キリストに於いてキリストと共に生きること、辛苦の御友は天においてかならず快楽(至福)の御友となる」という、「キリストに倣いて」からイグナチウス・ロヨラの「スピリツアル修行(霊操)」に受け継がれたキリスト教の根本テーマが、簡潔に要約されています。
 
 安土桃山時代の独特のキリシタン的日本語表記に慣れるにつれて、私は、何とも言えない「言霊」が自分の心に響き渡ってくるのを実感しました。この文書を現代日本語訳で昔読んだときにはなかった感動、あえて云えば、こちらの琴線に響く「霊動」を受けました。そこには、キリスト教の根本的メッセージに初めて触れた當時の日本人の心が、直にこちらに伝わってくる感触があり、また、細川ガラシア自身がこの文書を書写したときの感動を幾分なりとも共有できたという思いがあったからかもしれません。
 
何故、細川ガラシアが、「死が不可避であった状況にもかかわらず、細川邸から逃げ出して、命を永らえる道を選択せずに、自分の命運を自ら引き受けた理由」を考える場合、今引用した箇所の後に続く次の文が非常に重要な関わりを持っていると思うので、次にそれを引用します。
 
「一つのクルスを捨つるに於いては、また別のクルスに遭ふべきこと疑いなし。もしくは猶勝りて重きクルスもあるべし。人として一人も遁れざるクルスを汝一人逃れんとするや。善人たちのうちに何れか難儀クルスを遁れ給ひしぞ。我らが御主ゼズ・キリシトも御在世の間、実に一時片時ももごパッシオン(受難)のご苦痛を遁れ給ふことなかりしなり。その故は、キリシト苦しみを凌ぎ給ふを以て、蘇り給ひ御身のゴロウリヤ〔栄光〕に入り給ひしこと肝要なり。しからば、汝何とて尊きクルスの道より外を尋ぬるぞ?ゼズ・キリシトのご在世中は、クルスとご苦患のみにてありしに、汝は寛ぎと歓喜を尋ねるや?」
 
 秀吉が宣教師の国外追放令を布告しただけでなく、日本人の信徒を含む26名(そのなかには十二歳の少年もいた)を残酷な形で人々の前にさらし者にして行進させ処刑した頃、細川忠興は自分の家に害が及ぶことを恐れ、キリシタンになった一人の侍女に秀吉が乗り移ったような残酷な仕打ちをしたうえで、ガラシアに棄教を迫っていました。
 
そのとき、ガラシアは本気で細川忠興と離縁して、信者の侍女に残酷な虐待をした忠興と分かれるために細川邸を脱出することを考えていたことが、宣教師との書翰のやりとりから窺えます。
 
 しかしながら、ガラシアが細川邸を忠興に無断で脱出したと分かれば、忠興はかならずその手引きをした宣教師達を恨み、彼をキリシタン迫害の急先鋒にする危険がありました。
 
 宣教師達はそのことをガラシアに告げて、なんとか彼女の細川邸脱出を思いとどまらせようとしました。離婚の意思の固かったガラシアに対して、細川邸に止まって、その場所で自分の十字架を担う決断を促した言葉が、まさに上で引用した「一つのクルスを捨つるに於いては、また別のクルスに遭ふべきこと疑いなし」という「キリストに倣いて」の一節でした。
 
  ガラシア一人が逃亡して身の安全を確保し、安穏な暮らしをむさぼることは、ガラシアのために先に十字架の上で死なれたキリストのご恩を裏切ることになるし、その結果は、夫の忠興を(ガラシアの父を殺し、26人の無辜のキリスト信徒を十字架に架けた)秀吉側にますます接近させ、多くのキリシタンたちを迫害する先兵にしてしまうという危険に気づいたのでしょう。
 
ガラシアから相談を受けたオルガンチーノは「天主がお働き下されて、ついに天主への愛のために、彼女の担う十字架を抱くように決心させたのである」と書いています。(1589年2月24日の書翰)
 
  死の直前に、ガラシアは礼拝室でアベマリアとイエスの御名を称えて祈りを捧げたと記録にありましたが、彼女の称えたと思われるアヴェマリアはどういうものであったか、當時の教理入門書、ドチリナ・キリシタンは次のように、まさに「ガラシア(めでたし)」という言葉から始まります。
 
「ガラシアみちみち玉ふマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共にまします。女人の中にをいてベニジイタ〔祝福された女性〕にてわたらせ玉ふ。又、御胎内の御実にしてましますゼズス〔イエズス〕はベネジイト〔祝福された男性〕にてまします。デウスの御母サンタ・マリア、今も我らが最期にも、我ら悪人のために頼み給へ。アメン」
 
 避けられぬ死を前にして、ガラシアは平常心を保ちつつ、常に明るい顔で落ち着いていたと宣教師の記録にあります。この悦びに満ちた平静さはどこからくるのでしょうか。
 
 「キリストに倣う」道は「マリア讃歌」と一つになっていますが、アヴェマリアの祈りが、まさに「ガラシア」という祝福で始まり、「御胎内の御実であるイエス」と「天主の御母マリアへの祝福」であることに注意したい。
 
 ガラシアは忠興とのあいだにたくさんの子供をもうけ、その子供のなかには忠興の了解を得て洗礼を授けた者も含まれていましたから、彼女は細川家の妻としての務めを果たしつつ、忠興のキリスト教に対する偏見を改めさせたことが分かります。
 
 忠興自身が改宗することは遂にありませんでしたが、アベマリアを称えることは、キリストの十字架を自分も担う事であると同時に、天主の御母マリアの祝福が、自分と息子達の上に(そして夫忠興のうえにも)与えられることを頼むオラショでもあったと思います。
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