歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

絶対者の人格性と非人格性-5

2005-06-20 |  宗教 Religion
絶対者の人格性と非人格性-人格と最も普遍的なもの-5


西谷啓治の「宗教とは何か」はReligion and Nothingness というタイトルで University of California Press から1982年に出版された。そのなかで、とくに「宗教に於ける人格性と非人格性」という章をとりあげ、彼のエックハルトに対する考え方を手引きとして、佛教とキリスト教に通底するものを確認しておきたい。

西谷の「宗教とは何か」の議論は、「人格」と「絶対無」との関わりを巡って展開する。彼は次のように言う。
人格としての人間という観念が、従来現れた最高の人間観念であったということは疑ひない。人格としての神といふ観念についても同様である。主体的自覚が確立されて以来、人格としての人間といふ観念は殆ど自明的になってゐる。しかし、人格といふものについて従来一般に考へられてきたやうな考へ方が、果して唯一の可能な考へかたなのであらうか。(注13)


「人格といふものについて従来一般に考へられてきた考え方」ということで、西谷が意味しているものは、おそらく、デカルトの自我の概念、あるいはカントの人格概念などの近代に固有のものに限らず、ギリシャ哲学にまで遡る基本的な思惟のありかた指して語っており、「我」を何らかの形で実体化して捉える人格概念を指してていると思われる。

我々は第一節に於いて、『大乗起信論』や大拙の『大乗佛教概論』を手引きとして、佛教的な思索の展開の中で、とりわけ佛法僧の三一性において如何に人格的なるものが語られ得るかを論じた。いうまでもなく、佛教の根本は「無我説」であり、実体化された自我の存在は斥けられる。しかしながら、佛教には「法灯明」「自灯明」という佛陀の遺言にみられるように、客観的な「法」とともに、主体的な「自己」が拠り所である。そのような自己は、他者に対して閉ざされた實體ではなく、前節でキリスト教的な「人格主義」の説明で述べた言葉を使うならば、「個体」ではなく、「人格」であるということができよう。

人格を實體としてとらえる伝統は確かに西洋哲学には古くからあるものである。「理性的本性を有つ個別的実体である Persona est natura rationalis individua substantia」とはボエティウスに遡る定義である。このように人格を「個的実体」ととらえる理解は、優れてギリシャ的、あるいはアリストテレス的であるといってよかろう。実体とは、存在するために他を必要としないものであり、アリストテレスの意味では、第一実体としての基礎個体である。それは「理性的本性をもつ」という人間に固有の特有性によって特徴づけられ、他の生物学的個体や単なる物体から区別されている。西谷啓治が言及した「人格」の伝統的なとらえ方に、是が含まれることは間違いない。
西洋の形而上学の伝統の中では、とくに人間という物質的な基盤を持つ存在については個的實體としての人格概念が主流であったが、キリスト教的哲学には、そういう實體概念とは別のもうひとつの人格概念がある。それは、前節で言及したキリスト教の三位一体論に由来する「人格」概念の伝統である。それは、人格を「実体」ではなく「関係」と見なす伝統といってよい。

中世の初めに於いて、聖ヴィクトルのリシャールは、キリスト教の内部から由来する人格概念を、「霊性を有つ通約不可能な実存=spiritualis naturae incommunicabilis existentia」と定義している。ギリシャ哲学では、常に主題となるのは「類的存在」ないし「種的存在」としての本質を備えた「人間」であり、個人というものは視野に入っていない。あの人間もこの人間も、「人間性」という共通の本性に於いては通約可能であり、そのかぎりで学問的な研究の対象になる。しかし、人格とは、第一義的には共通本質ではなく通約不可能な実存(existentia)である。

また、「霊的spiritualis」という言葉も、理性的と同義ではない。聖書の伝統では、霊的なるものは、理性だけではなく感覚的な身体を含む人間の全体を指すのであり、身体から分離された精神的な実体ではない。

「通約不可能な実存」としての人格は、すぐれて個々の人間の自由と責任の問題、類的存在のような共通性に還元されぬ代替不可能な生きた全体としての人間に関わりを持つ。この考え方こそ、掛け替えのない個人の価値を第一義的に考えるキリスト教の伝統を表すものと言ってよいであろう。このような「個人への配慮 cura personalis」こそ、人間論を実践哲学へと架橋するキリスト教的哲学の核心にあるものといえる。

「宗教とは何か」における西谷の人格論は、エックハルトの思想に依拠し、そこにおける「神と神性の区別」をもとにしている。 エックハルトは鈴木大拙も西田幾多郎も非常に早い時期から注目していたが、ある意味で、それはキリスト教の佛教にも通底する普遍性を我々に課題として示した先覚者であると言ってもよかろう。

西谷によれば、エックハルトのいう「神性」とは神の本質essentia であり、「神をして神たらしめるもの」である。西谷には「神と絶対無」というエックハルト研究があるが、そこではこの神性を「絶対無」と等値している。しかし、本質essentia とは、アリストテレスに由来する哲学用語であり、それはものが「何であるか」を言い表す説明方式(ロゴス)であり、実体のカテゴリーについて本来言われるべき事である。 従って、神の本質としての神性というとらえ方自体が、存在を表す言葉essentiaに派生するのであるから、それを「絶対無」とよぶことが果たして妥当であろうか、という問が生じるであろう。

もちろん、エックハルトが、ある文脈に於いて、「無」に該当する言葉を使っていることは、その通りである。しかしそれは、どういう文脈であろうか。

それは、「神が何であるか」を、我々が、人間の理性の立場ではけっして知り得ないと言うこと、人知の限界を承認することを意味するのである。そして、それは否定神学の正当なる主張を摂取したトマスの根本主張でもあり、エックハルトもこの先人の考えに従っているのである。

したがって、「神性が無である」ということは、神性については我々はロゴスによって語ることが絶対に出来ないと言うことを意味する。そのかぎりで「無」ということは適当である。エックハルト自身、被造的存在を「有」というその尺度を当てはめる限り、神は決して「有」ではないといったのであるから。しかし、この主張の裏にあるもう対立的主張を見落とすべきではなかろう。
すなわち、神の存在を「有」とする尺度をあてはめるならば、どの被造物も決して「有」ではあり得ないという対立命題であって、それと組み合わせて始めて、「神性」を「無」とよぶことが動的な転換をしめす命題として生きてくるのである。

エックハルトのラテン語著作を読む限り、彼は「esse(動詞としての有)」を機軸として考えるトマスの伝統を受け継いでいる。その伝統では、神性は、純一なる「有」というべきであって、決して、「絶対の無」とはいえない。

エックハルトの著作を後世に伝えたニコラウス・クザーヌスは、「神は有でも無でもない」とし、有無の対立を超越した神を「絶対に最大なるもの」すなわち「究極の普遍」として言い表した。この考え方は、真の意味でのカトリックを目指すキリスト者にとって指針を与える。

 究極の普遍は、それを限定するものを持ち得ないが、あるものを「無」とよぶ場合は、必ず「有」を否定することによる限定が伴うのである。その限りで、有無はつねに相関しており、その両者を越えるものを言い表すことは出来ない。 

西谷においても、又一般に所謂京都学派に於いても、「絶対無」という言葉は、有を聊かも含まない絶対的無という意味ではなく、有無の対立を越えた絶対無、有の否定ではない無という、独特の意味で使われているが、「我はありてあるものである(ego sum qui sum)」という言葉で自己を啓示する聖書の人格的なる神、かかる宗教的経験に立脚する絶対者を言い表すのに、「絶対無」は適切とは思われない。しかし、そうかといって、それを「有」というギリシャ哲学の用語で概念化するのも不適切である。そこで、出エジプト記の神名の啓示を手掛かりとして、ヘブライ語の動詞「ハヤー」をもって、「有無を超える純一なる生成」を言い表すーこれがキリスト教的な普遍を表すもっとも適切な言葉であろう。

 存在論と神学との結びつきを絶ち、「実体の形而上学」ではなく、真の意味でのキリスト教的形而上学は、「オントロギア」(存在論)ではなく「ハヤトロギア」(現成論)でなければならない。 (注14) 

 ここでは詳説しないが、佛教においてすら、有無を超える「絶対」を再び「無」とは、必ずしも呼ばないのではないだろうか。「中論」で明示されているごとく「空」は「縁起」と同義なのであり、決して老荘的な「無」ではない。大乗起信論では、佛の根源は「法身」であり、法の根源は「真如」であるが、真如は「絶対無」というよりは、離言と依言、「空」と「不空」の二つの側面を持つ根本原理である。 

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注13  西谷啓治「宗教とは何か」(創文社、昭和三六年、79頁)「現成」という言葉は、道元の「正法眼蔵」にある言葉であるが、「ハヤトロギア」を日本語化するにあたって、私は、それに最も近いと信じる佛教者の言葉を使った。道元は、「正法眼蔵」において、無や空を「絶対化」せず、有無を超える絶対を「現成」と言っている。

注14 「現成」という言葉は、道元の「正法眼蔵」にある言葉であるが、「ハヤトロギア」を日本語化するにあたって、私は、それに最も近いと信じる佛教者の言葉を使った。道元は、「正法眼蔵」において、無や空を「絶対化」せず、有無を超える絶対を「現成」と言っている。
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