住するところなき心―無常のなかに花を求める
ここで引用されている禅的なる問答の典拠は不明であるが、その内容は、対立規定の一致をとく大乗仏教の「矛盾的相即」の論理を、「飛花落葉」というイメージのかもしだす情意の空性のうちに感性的・美的に表現したものである。謡曲「箙」にも
飛花落葉の無常はまた、常住不滅の栄をなし
とある。世阿弥にとって「美の本質」は「時間において」存続しないことによってその永遠性を現す。もし桜の花に散るということが無く、いつまでも咲き続けたとすれば、その花を愛でるということがあるだろうか。それは、まさに「散る花」であり「存続」に執着しないが故に、「美しい」。「飛花落葉」が無常であり同時に常住不滅であるとは、生は死によってあり、死は生に依ってあること、ゆえに生死一如の現実の生成流転のただ中にこそ「永遠の美」を現成すべし、という教えである。それは、時間と存在に関する独特の新しい見方であり、生死の根本問題に対して答える大乗仏教の空觀ー矛盾的相即の論理-を我々の美的構想力の情意の地平に射影し、観想と言語行為、身体的な芸術表現として現成せしめた物なのである。
まさに住するところ無くしてその心を生ず(金剛般若経)
人の心にめづらしきとみるところ、すなはちおもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあれば、めづらしきなり。能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風躰に移ればめづらしきなり。(世阿弥「花伝」)
めづらしきといへばとて、世になき風躰をし出すにはあるべからず。(同)
時・をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風躰を取り出だす。これ、時の花の咲くを観んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと観し風躰なれども、物数を究めぬれば、その数をつくすほど久しし。久しくて観れば、まためづらしきなり。(同)
抑、花とは、咲くによりて面白く、散るによりてめづらしき也。有人問云、「如何無常心」。答、「飛花落葉」。又問、「如何常住不滅」。答、「飛花落葉」云々。
面白と見る即心に定意なし。さて、面白きを諸藝にも上手と云、此面白さの長久なるを、名を得る達人と云り。然者、面白き所を成功まで持ちたる爲手は、飛花落葉を常住と見んがごとし。(世阿弥「拾玉得花」)
ここで引用されている禅的なる問答の典拠は不明であるが、その内容は、対立規定の一致をとく大乗仏教の「矛盾的相即」の論理を、「飛花落葉」というイメージのかもしだす情意の空性のうちに感性的・美的に表現したものである。謡曲「箙」にも
飛花落葉の無常はまた、常住不滅の栄をなし
とある。世阿弥にとって「美の本質」は「時間において」存続しないことによってその永遠性を現す。もし桜の花に散るということが無く、いつまでも咲き続けたとすれば、その花を愛でるということがあるだろうか。それは、まさに「散る花」であり「存続」に執着しないが故に、「美しい」。「飛花落葉」が無常であり同時に常住不滅であるとは、生は死によってあり、死は生に依ってあること、ゆえに生死一如の現実の生成流転のただ中にこそ「永遠の美」を現成すべし、という教えである。それは、時間と存在に関する独特の新しい見方であり、生死の根本問題に対して答える大乗仏教の空觀ー矛盾的相即の論理-を我々の美的構想力の情意の地平に射影し、観想と言語行為、身体的な芸術表現として現成せしめた物なのである。