歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

自由の問題

2005-12-23 |  文学 Literature
松本さんが「小さき声」を発刊し始める頃に退所された野上寛次さんは、講演会の席で「松本馨さんは元来、政治的な人ではなかった」と云われたが、たしかに、1965年頃までの松本さんが書かれたものは、死別した妻のこと、失明の経験、そして、自己の信仰にかかわる事柄が中心となっている。関根正雄の無教会主義の信仰に触れ、教会的な信仰から、無教会の立場へとラジカルな回心を遂げられ、個人的な伝道の書「小さき声」を刊行することを始めてから約5年くらい経過してから、療養所の自治会再建のために向けられた松本さんの活動が始まる。それは文字通り「世俗の中の福音」の実践であり、無教会のキリスト教思想が、松本さんという一人の人格の中に血肉化していく。もともと「政治的な人間」ではなかった松本さんが、自治会の再建を呼びかけ、入所者の直面している生活上の具体的諸問題ーそれは結局の所、政治と切り離せない-に深く関わりを持っていく経緯を追っていくことにしたい。

松本さんの「多磨」誌への寄稿のなかから、自由を奪うもの(1967年4月)という評論をWEB復刻した。これは、隔離医療から解放医療へとむかう混乱期のなかで自治会が解散された頃に書かれたものであるが、キリスト教的な主題であると共に、入所者の生活と直結した政治上の問題でもある「自由」について論じたものである。

冒頭、松本さんは、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人の心情を吐露した旧約聖書の言葉を引用する。
「あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」
松本さんにとって、囚われ人に解放を告げるこの聖句が、そのまま、敗戦直後の日本へのメッセージとなる。米国も又、広島長崎への原爆投下という大量殺戮を犯した戦争犯罪の責任は決して免れるものではないが、米国の日本に果たした歴史的役割は、嘗て、キュロス王がユダヤ民族に果たした役割と類比的であって、結果的には、迫害され抑圧されたものに解放の福音をあたえることととなった。治癩薬がもたらされ、選挙権と人権を保障する憲法が制定されたことによって、療養所に隔離されたものに自由への希望が生まれた。しかしながら、閉鎖的な隔離医療から、解放医療への転換にともなう混乱状況の中で、療養者の「自由」を妨げているものが厳然としてある。それは何であるのか、というのが松本さんの問である。

このエッセイには、隔離政策を推進した光田健輔への松本さんの批判が述べられている。医師としての彼の業績、献身を松本さんは決して否定するわけではない。しかしながら、解放医療の思想に反対して光田の復権を叫ぶ一部の声に対して、松本さんは次のように明言する。
「彼のあやまちを指摘することは監房で首を縊って死んだものや、監督の下でうらみをのんで世を去っていった先輩に対して、残っている私たちの義務でもある。自由の行き過ぎと、光田の隔離政策を礼讃する反動的な人たちの動きに対して、私たちは警戒し、自由を守らねばならない」
文中に、シュワイツアーの名前が出てくるのは、おそらく、光田を「シュワイツアー以上の偉人」として顕彰した内田守のことを念頭においているのであろう。

また、閉鎖された嘗ての自治会のあり方に対しても松本さんは手厳しい批判の言葉を述べている。自治会活動が、かならずしも療養者の爲を思って為されたわけではなかったということを率直に認めて、その原因を徹底して明らかにした上で、見せかけの開放感に浸ることなく、療養者の真の自由がどのようにして得られるかを問いつつ、
青空は一時的なもので、台風の目の中なのである。こうした中で、われわれは、自由を奪うものは誰か、自己に問い続け、その答えを求めなければならない。
という言葉でこのエッセイは締めくくられている。
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