このところ多忙で書き込みが出来ませんでしたが、今日は、帰宅の途中に、本郷の東大医学部図書館に行きました。先日、ここでも紹介しました和泉眞藏先生の近著の中で言及されていた青木大勇の論文を閲覧するためです。書庫の奥深く眠っている古雑誌「醫海時報」を捜しあてて複写しました。
1931年は、らい予防法が改正され、絶対的な終生隔離の医療政策が日本国家の基本政策として定められた年ですが、その前年に、隔離撲滅政策に異議を唱えた少数派の医師の一人が青木大勇です。
彼の論文「癩の豫防撲滅法に関する改善意見」(一)(二)(三)とそれに対する林文雄の反論「官立癩療養所の為に弁ず」(一)(二)は、小笠原登と早田皓が後に中外日報でおこなった論争を多くの点で髣髴させるものでした。
醫海時報には、国際連盟の「癩委員会幹事ビュルネ博士の報告」の日本語訳も連載されており、林文雄の反論と合わせ読みつつ、いろいろと考えさせられました。
1931年は、らい予防法が改正され、絶対的な終生隔離の医療政策が日本国家の基本政策として定められた年ですが、その前年に、隔離撲滅政策に異議を唱えた少数派の医師の一人が青木大勇です。
彼の論文「癩の豫防撲滅法に関する改善意見」(一)(二)(三)とそれに対する林文雄の反論「官立癩療養所の為に弁ず」(一)(二)は、小笠原登と早田皓が後に中外日報でおこなった論争を多くの点で髣髴させるものでした。
醫海時報には、国際連盟の「癩委員会幹事ビュルネ博士の報告」の日本語訳も連載されており、林文雄の反論と合わせ読みつつ、いろいろと考えさせられました。