[霊魂の不死より無我に徹すべし聖者の歌を非戦に転ず]
講談社学術文庫から出版されたヴァガヴァッド・ギーターの新訳を読んだ。学術的な散文訳とも言うべき岩波文庫の上村勝彦訳と比較すると、哲学的叙事詩の雰囲気を良く伝える名訳である。この「聖なるものの歌」は、「ニーチェのツァラストラかく語りき」の独文がそうであるように、簡潔にして力強く、そして何よりも音楽的でなければならない。その点では、鎧訳は群を抜いていると思った。学術的な観点から見ても、詳細な索引があり、解説があるのも有り難い。この新訳を契機として、あらためてこの「聖なるものの歌」に惹かれたのである。全体を通じての白眉とも言うべき第2章を、鎧訳を手引きとしつつ読んでみた。ギーターは現代のヒンズー教徒の間でも読み継がれている古典である。
ヴァガヴァッド・ギーターは、インドの国民的叙事詩「マハーバーラタ」の第6巻にあるクリシュナ神と勇者アルジュナの歌う問答体の歌である。日本で言えば、平家物語のような叙事詩的な歌謡といえばわかりやすいだろうか。戦闘を前にして弱気になった戦士アルジュナを勇気づけるために語られたクリシュナ神の教えが、古代インドの宗教思想を背景として、韻律を以て歌われている。いかにもインド的と思うのは、叙事詩の中に哲学的な思索が統合されている点である、すなわち、梵我一如というヴェーダンタの哲学を根本的に特徴づける教えが含まれている点である。たとえば次のような一節がある。
2-16 有ならざる(肉体)に実在無く、有(霊魂)に実在ならざることなし。すべてこの両者の辺際は、真理を観ずる人々により看破せられたり。(鎧訳)
ちなみに原文と英訳(swami Prabhupada) は次の通りである。(サンスクリットのフォント"SuzSktR"が必要)
nAsato vidyate bhAvo nAbhAvo vidyate sataH ubhayor api dRSTo'ntas tu anayos tattva-darSibhiH
Those who are seers of the truth have concluded that of the nonexistent there is no endurance, and of the existent there is no cessation. This seers have concluded by studying the nature of the both.
肉体は真に存在するものではなく、霊魂こそが実在である、といってしまうと単純な霊肉二元論のように響くが、ここは、英訳のように Endurance(存続)しないと訳すのがよいだろう。「あるものはあり、ないものはない」というような単純な同語反復を述べているわけではあるまい。肉体が非有であっても、非有は非有としての存在性をもっているからである。いいかえれば、肉体が仮象であっても、仮象は仮象としての実在性を分有するといって良い。
肉体に生・病・老・死が避けられないということを、誰しもが経験によって知っているある。その意味で、肉体は真実の意味で「有る」とはいえぬものである。しかし、それが真実の意味で「有る」といえないということは、何処から言えるのであろうか。我々は、肉体の可死性をいうときに既に、不生不滅なるものの「有」を知っているのではないか。不生不滅なるものが何であるかはいまだ知らなくとも、それが「有る」ということが言えなければ、肉体がそのようないみでは「有らぬものである」ということを認識できないのではないか。さすれば、肉体の生・病・老・死をあるがままに認識するものは、すでに不生不滅なる何ものかの「有」を認識しているのである。
かかる不生不滅なるものとは、一体何であるのか? ギーターの詩人は、次の節でそれについて以下のように語る。
2-17 願わくは、この一切にあまねく充満彌綸せるもの、そを滅ぶこと無しと知り給わんことを。 この不易なるものの滅びを、何人も為すあたわざれば。
avinAsti tu tad viddhi yena sarvam idaM tatam vinASam avyayasyAsya na kaScit kartum arhati
「一切」の言語はsarvam であるが、これを全世界ととる場合と、この身体ととる場合とで翻訳が二つに分かれる。日本語訳は鎧訳も上村訳も「全世界」ととっているが、英訳では「この身体の全体」ととっている。全世界という意味でとるならばブラフマン(梵)の意味であり、この身体にあまねく充満しているものととれば「アートマン(自己)」であろう。アートマン即ブラフマンであるから、アートマンは、そこにおいてブラフマンが顕現する場である。
2-18 常住にして不滅、無量無辺なる霊魂の、これなる肉体は、限りあるといわる。されば戦うがよし-バラタの御子よ。
不生不滅なるものを霊魂であると素朴に言ってしまうのも哲学的にはもの足りない。「聖なるものの歌」では、まだ「不生不滅の霊魂」が実体化されて表象されている。これは哲学ではなくて叙事詩のもつ限界と言うべきか。
それはともかくとして、ギータの詩人がここで、アルジュナに「戦え」と言っていることについては納得できぬという意見を、私は、アメリカのある友人から聞いたことがある。つまり、これでは、霊魂不死という宗教的教義が、戦争や殺人を肯定する思想に転化しているというのだ。彼が言うには、戦争の無益さを実感したアルジュナのほうが人間的であり、そのヒューマニズムを捨てて、不生不滅の霊魂という、それ自身、論議の余地のある疑わしい宗教的教義のもとに人殺しを奨励するとは許し難いというのである。
たしかに、霊魂が不死であるという教えは、信仰に属する事柄であって、科学的認識には属さない。だから、他者に対してその帰結としての生き方(宗教的な生)を強要するだけの客観的確実性はない。だから、アルジュナが自らの主体性において、アートマンの不死を信じて行為したとすれば、それは一つの首尾一貫した生き方を示したことになろうが、そう言う生き方を万人に強制されたのではたまったものでは無かろう。
「戦え」という勧告は、私にとっては必然性を持たぬものだ。私ならば、一切戦わぬ、という生き方をむしろ選ぶ。しかしながら、世俗から自由となる超越論的な立場に立ちつつも、この世に於ける責務を引き受け、自分自身の持ち場を離れずに、果敢に行為するという生き方は私は正しいと考える。
また、無我を説く仏教と、梵我一如を説くヴェーダンタの哲学の違いも此処に関係するのではないか。仏教では「不殺生」こそが第一の戒律である。梵我一如を素朴に不生不滅の霊魂に結びつけるのではなく、無我説によってそういう自我の実体化を絶対否定したのが仏教である。したがって戦場に於ける名誉などというものはかなぐり捨てて、さっさと戦場から立ち去り、みずからいかなる汚名を着せられようとも頓着しないという態度を薦めることのほうが、戦場で名誉ある戦士として行為せよというよりも遙かに仏教徒らしいと思う。もっとも戦前の禅の老師達の中には、武士道に心酔するものも多く、学徒動員された弟子に対して、立派にお国のために死んでこいと、檄を飛ばした愛国者も多かったのであったが。
講談社学術文庫から出版されたヴァガヴァッド・ギーターの新訳を読んだ。学術的な散文訳とも言うべき岩波文庫の上村勝彦訳と比較すると、哲学的叙事詩の雰囲気を良く伝える名訳である。この「聖なるものの歌」は、「ニーチェのツァラストラかく語りき」の独文がそうであるように、簡潔にして力強く、そして何よりも音楽的でなければならない。その点では、鎧訳は群を抜いていると思った。学術的な観点から見ても、詳細な索引があり、解説があるのも有り難い。この新訳を契機として、あらためてこの「聖なるものの歌」に惹かれたのである。全体を通じての白眉とも言うべき第2章を、鎧訳を手引きとしつつ読んでみた。ギーターは現代のヒンズー教徒の間でも読み継がれている古典である。
ヴァガヴァッド・ギーターは、インドの国民的叙事詩「マハーバーラタ」の第6巻にあるクリシュナ神と勇者アルジュナの歌う問答体の歌である。日本で言えば、平家物語のような叙事詩的な歌謡といえばわかりやすいだろうか。戦闘を前にして弱気になった戦士アルジュナを勇気づけるために語られたクリシュナ神の教えが、古代インドの宗教思想を背景として、韻律を以て歌われている。いかにもインド的と思うのは、叙事詩の中に哲学的な思索が統合されている点である、すなわち、梵我一如というヴェーダンタの哲学を根本的に特徴づける教えが含まれている点である。たとえば次のような一節がある。
2-16 有ならざる(肉体)に実在無く、有(霊魂)に実在ならざることなし。すべてこの両者の辺際は、真理を観ずる人々により看破せられたり。(鎧訳)
ちなみに原文と英訳(swami Prabhupada) は次の通りである。(サンスクリットのフォント"SuzSktR"が必要)
nAsato vidyate bhAvo nAbhAvo vidyate sataH ubhayor api dRSTo'ntas tu anayos tattva-darSibhiH
Those who are seers of the truth have concluded that of the nonexistent there is no endurance, and of the existent there is no cessation. This seers have concluded by studying the nature of the both.
肉体は真に存在するものではなく、霊魂こそが実在である、といってしまうと単純な霊肉二元論のように響くが、ここは、英訳のように Endurance(存続)しないと訳すのがよいだろう。「あるものはあり、ないものはない」というような単純な同語反復を述べているわけではあるまい。肉体が非有であっても、非有は非有としての存在性をもっているからである。いいかえれば、肉体が仮象であっても、仮象は仮象としての実在性を分有するといって良い。
肉体に生・病・老・死が避けられないということを、誰しもが経験によって知っているある。その意味で、肉体は真実の意味で「有る」とはいえぬものである。しかし、それが真実の意味で「有る」といえないということは、何処から言えるのであろうか。我々は、肉体の可死性をいうときに既に、不生不滅なるものの「有」を知っているのではないか。不生不滅なるものが何であるかはいまだ知らなくとも、それが「有る」ということが言えなければ、肉体がそのようないみでは「有らぬものである」ということを認識できないのではないか。さすれば、肉体の生・病・老・死をあるがままに認識するものは、すでに不生不滅なる何ものかの「有」を認識しているのである。
かかる不生不滅なるものとは、一体何であるのか? ギーターの詩人は、次の節でそれについて以下のように語る。
2-17 願わくは、この一切にあまねく充満彌綸せるもの、そを滅ぶこと無しと知り給わんことを。 この不易なるものの滅びを、何人も為すあたわざれば。
avinAsti tu tad viddhi yena sarvam idaM tatam vinASam avyayasyAsya na kaScit kartum arhati
「一切」の言語はsarvam であるが、これを全世界ととる場合と、この身体ととる場合とで翻訳が二つに分かれる。日本語訳は鎧訳も上村訳も「全世界」ととっているが、英訳では「この身体の全体」ととっている。全世界という意味でとるならばブラフマン(梵)の意味であり、この身体にあまねく充満しているものととれば「アートマン(自己)」であろう。アートマン即ブラフマンであるから、アートマンは、そこにおいてブラフマンが顕現する場である。
2-18 常住にして不滅、無量無辺なる霊魂の、これなる肉体は、限りあるといわる。されば戦うがよし-バラタの御子よ。
不生不滅なるものを霊魂であると素朴に言ってしまうのも哲学的にはもの足りない。「聖なるものの歌」では、まだ「不生不滅の霊魂」が実体化されて表象されている。これは哲学ではなくて叙事詩のもつ限界と言うべきか。
それはともかくとして、ギータの詩人がここで、アルジュナに「戦え」と言っていることについては納得できぬという意見を、私は、アメリカのある友人から聞いたことがある。つまり、これでは、霊魂不死という宗教的教義が、戦争や殺人を肯定する思想に転化しているというのだ。彼が言うには、戦争の無益さを実感したアルジュナのほうが人間的であり、そのヒューマニズムを捨てて、不生不滅の霊魂という、それ自身、論議の余地のある疑わしい宗教的教義のもとに人殺しを奨励するとは許し難いというのである。
たしかに、霊魂が不死であるという教えは、信仰に属する事柄であって、科学的認識には属さない。だから、他者に対してその帰結としての生き方(宗教的な生)を強要するだけの客観的確実性はない。だから、アルジュナが自らの主体性において、アートマンの不死を信じて行為したとすれば、それは一つの首尾一貫した生き方を示したことになろうが、そう言う生き方を万人に強制されたのではたまったものでは無かろう。
「戦え」という勧告は、私にとっては必然性を持たぬものだ。私ならば、一切戦わぬ、という生き方をむしろ選ぶ。しかしながら、世俗から自由となる超越論的な立場に立ちつつも、この世に於ける責務を引き受け、自分自身の持ち場を離れずに、果敢に行為するという生き方は私は正しいと考える。
また、無我を説く仏教と、梵我一如を説くヴェーダンタの哲学の違いも此処に関係するのではないか。仏教では「不殺生」こそが第一の戒律である。梵我一如を素朴に不生不滅の霊魂に結びつけるのではなく、無我説によってそういう自我の実体化を絶対否定したのが仏教である。したがって戦場に於ける名誉などというものはかなぐり捨てて、さっさと戦場から立ち去り、みずからいかなる汚名を着せられようとも頓着しないという態度を薦めることのほうが、戦場で名誉ある戦士として行為せよというよりも遙かに仏教徒らしいと思う。もっとも戦前の禅の老師達の中には、武士道に心酔するものも多く、学徒動員された弟子に対して、立派にお国のために死んでこいと、檄を飛ばした愛国者も多かったのであったが。