歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

オスカーワイルドの「獄中記」を読む

2012-07-16 |  宗教 Religion

今週末の西田哲学会で「キリスト教と西田哲学」という題で講演をする予定があり、このところ西田が若い頃に出逢ったキリスト教関係の書物を調べているが、たまたまオスカーワイルドの「獄中記」を入手してこれを読み、大いに感ずるところがあった。おそらく神学者や哲学者のキリスト教論などよりも、この本一冊のほうが西田の心を直接に揺るがしたのではないか、そういう内容であったからである。

西田がオスカーワイルドを引用している『善の研究』のテキストは以下のようなものだ。

罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』 De Profundis の中の一節を想い起さざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人は人は己が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能くし得ることを示した。例の放蕩子息が跪いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能く罪の本質を知ったのである。

『善の研究』では、西田最晩年の『場所的論理と宗教的世界観』ほど深刻な悪の問題や原罪にかんする考察はない。しかし、「深き淵」より呼ばわるワイルドの声に耳を傾ける西田は、この小品に深く共鳴したことは間違いない。そのことは、『獄中記』の出版がワイルドの死後5年後の1905年であり、西田が上の文章を書いたのが1909年であったから、当然西田は出版間もない原著でこれを読んだわけであり、その詳細な読書ノートが西田幾多郎全集の第16巻断章2に収録されている。京都大学で行った宗教学講義草稿でも、「ニーチェ、ワイルドの思想は宗教を否定するもののようではあるが、一面より見れば宗教を建てんとするものと見ることが出来る」と、生の理想を美的生活に求めた思想家としてワイルドをニーチェと共に論じている。また「善の研究」の第4篇宗教論の末尾にこのワイルドの文があることからみて、西田がいかにこの文に共感を覚えていたかが偲ばれる。 

 このたびDe profundis を読んでみて、さらにこれまでの西田にかんする先行研究で指摘されていなかったと思われるテキストを見出した。それは「悲哀」(sorrow)にかんするワイルドの述懐である。彼はスキャンダラスな罪によって投獄されてから三ヶ月後、母親の死を、病をおして駆けつけた妻から聞かせられる。その折の彼の言葉。(日本語訳は角川文庫の田部重治による)

 繁栄、快楽及び成功は、いずれも肌理のあらい、繊維のような月並みなものであろう。しかし悲哀はありとあらゆる創造物の中で、もっとも感受性の鋭いものである。・・・悲哀は愛以外のいかなる手が触れても血を吐く痛手であり、また、愛の手が触れるときでさえ、痛みこそしないものの、同じように血を噴くものである。悲哀のあるところには聖地がある。いつか人々はこの意味を身に沁みて悟ることであろう。それを悟らない限り、人生については全く何事も知ることが出来ない。・・・
 喜びと笑いとの背後には、粗野な冷淡な、しかも無神経な気質が潜んでいるかもしれない。しかし悲哀の背後にはいつも悲哀がある。苦痛は快楽と違って、仮面を被ることはない。藝術に於ける真とは実質的な観念と偶然的な存在との一致ではない。形が影に似るようなものでもなければ水晶に映った形が、形そのものに似るということでもない。また窪める丘からこだまする山彦でもなければ、月を月に、ナーシサスをナーシサスに映してみせる谷間の銀色の泉でもない。藝術に於ける真とは、物がそれ自体と一致していることを云う。つまり外面が内面を表現するようにされることであり、魂が肉の形をとることであり、肉体が精神に溢れていることである。(Truth in art is the unity of a thing with itself: the outward rendered expressive of the inward: the soul made incarnate; the body instinct with spirit)。そうした理由で、悲哀に匹敵する真理はない。私には悲哀が唯一の真理であると見えるときがある。他のものは、眼あるいは嗜好の幻で、それは目をくらまし、嗜好を満たすようにされているかも知れない。しかし、悲哀から数々の世界は作られた。子供が生まれるにも、星が生じるにも、そこには苦痛がある。

私はこのワイルドの驚くほどの洞察に満ちた文を読み、はじめて西田が「哲學の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と述べたことの意味を理解したのである。その悲哀はただちにワイルドのイエス論、すなわち「悲哀の人にして悩みを知る人 a man of sorrows and aquainted with grief」としての キリスト論につながっているのである。

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