歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

細川ガラシアー二つの世界(カトリック信仰と武士道精神)を一身に体現した戦国の世の夫人像

2019-02-17 |  文学 Literature

「細川ガラシア」は、江戸時代末期までは、「細川忠興の夫人」と呼ばれ、洗礼名をもつキリスト教徒であると云うことは全くと言って良いほど知られていませんでした。
 たとえば、寛文8年(1668)に儒者の黒沢宏忠が出版した「本朝列女傳」の「細川忠興孺人(孺人=身分高き人の夫人)」では、武士の妻の鏡として、貞女にして列女(忠義の心をもつ気丈な女性)」として称賛されています。それによると、彼女は石田三成の使者に向かって、「源君之命東関に在り。我其の夫人なり。如何に秀頼に従はんや。盛衰を以て節を改めず。存亡を以て心を易えざるが武士の家法なり。偶々武士の家に生まれ、豈家法を辱めんや」と述べて、武家の作法に則って自決したと書かれています。
 「戦いに勝利するか敗北するか、その盛衰によって節を曲げずに、生きるか死ぬかの存亡の時にも心を変えないのが武家の法」
 というあたり、ここでは、忠興夫人は、「当代の節女にして、婦人でありながら義のなんたるかを知っていた」サムライの妻の理想とも云うべき人物として称賛され、彼女を称える頌(細川内室 當時節女 婦而有儀・・・)が添えられてます。
 島原の乱の30年後、キリシタン...を「邪宗門」と信じ厳罰に処していた時代の儒者であった著者が、もし「忠興夫人」がクリスチャンであったということを、知っていたら、さだめし吃驚仰天したでしょう。
 日本で儒教的な観点から「武家の妻の鏡」として称賛されていたのとほぼ同じ頃、ヨーロッパでもガラシアの名前は、イエズス会の宣教師達の書簡によって知られており、彼女を主人公とした物語が語り継がれ、バロック・オペラとして1698年、オーストリアのウイーンで、ハプスブルグ家の皇帝レオポルド一世とその家族の前で上演されました。 
 そこでは、彼女は、キリスト教的な美徳(信仰・希望・愛)の鏡であり、逆境にあっても不変の信仰を貫いた「丹後の国の勇敢なる王妃」として称賛されています。
 ヨハン・ベルハルト・シュタウト作曲のこのオペラの楽譜が、ウィーン国立図書館に所蔵されていることがわかったのはごく最近のことで、上智大学の故トーマス・インモース教授の助言を受けたウィーン在住の日本人女性が発見、その源譜を託された沖縄音大の教授の豊田喜代美氏が校訂し、上智大学創立100周年記念事業のひとつとして2013年に紀尾井ホールで蘇演されました。
 幸い、鈴木伸国神父を通じて上智大の総務課からこのときの音声資料を拝借したので、私もそれを聴くことができました。いかにも十七世紀らしいバロックオペラで、ビバルディの宗教音楽を聴いているような感じでした。蘇演では声楽家でもある豊田先生はじめとする出演者が日本の衣装を着け、動きも日本風の振り付けと演出が為されていましたが、歌詞はラテン語でした。
 このオペラの脚本は、1627年にフランス人イエズス会士のフランソワ・ソリエがまとめた「日本教会史」がもととなっており、そのオランダ語版が1667年にオランダ人イエズス会士コルネリウス・アザルによってアントワープで刊行、さらにそのドイツ語版が1678年にウィーンで、「丹後の女王の入信とキリスト教的美徳」というタイトルで出版されています。「丹後の王妃ガラシア」の物語は1838年にフランスでも公刊されていますから、十九世紀初め頃までは、ガラシア(Gratia)の名前は、フランス、オランダ、神聖ローマ帝国で語り継がれていたようです。
 なぜ日本の儒教の学者によって「不変の忠誠心をもってサムライの家の掟を辱めなかった、貞女の鏡」と称賛され、ヨーロッパのカトリックの信仰の世界では「信仰・希望・愛のキリスト教的美徳tと不変の信仰を貫いた聖女」として物語られてきたのでしょうか。
 二つの異なる世界(カトリックの精神世界と武士道の世界)を共に生きたガラシアの思想と生き様は、これまで多くの人々の関心の的となってきましたが、そのなかでも私が、もっとも信頼しているのが、厳密な文献批判の作業からガラシアの実像に迫ったヘルマン・ホイベルス神父のガラシア研究と、日本人の心とキリスト教の精神を共に良く理解し統合された同神父の戯曲「細川ガラシア」です。 
 今月末から来月初めにかけて、ザルツブルグで開催されるヨーロッパ科学芸術アカデミーの年次大会に、昨年に引き続き参加しますが、適当な機会があれば、オーストリアの人たちにも、細川ガラシアについての私からのメッセージを伝えることができたらと思っています。

 

追記 (2019/5/3)

ウイーンで1698年に上演された「勇敢な婦人(Mulier Fortis)」 再考   細川ガラシャを主人公として1698年にウイーンで上演された楽劇「勇敢な婦人」のラテン語の脚本(ヨハン・バプティスト・アドルフ脚色)と楽譜(ヨハン・ベルハルト・シュタウト作曲)を、上智大学の創立100周年記念事業の一つとしてこの楽劇を復活上演されたとき、ガラシャのパートを歌われた豊田喜代美先生より送って頂いたので、それにもとづきつつ、いくつか、気のついたところを、以前書いた記事に補足します。

〇この楽劇のタイトルは正式には

Mulier Fortis /Cuius pretium de ultimis finibus/Sive/GRATIA Regni Tango Regina /Exantlatis pro CHRISTO aerumnis clara 勇敢な婦人ーその真実の価値は、遠い(海の)果てより到来した(珠のような婦人)ガラシャ、丹後の王妃として著名な彼女は、キリストの為の受難に耐えて光り輝く

このタイトルの出典として、まず、旧約聖書「箴言」31:10 (「妻の理想」について書かれた箴言)があげられるでしょう。 箴言31:11『Mulierem fortem quis inveniet? procul et de ultimis finibus pretium ejus.勇敢な婦人を誰が発見するであろうか? その真価は、遙か遠く離れた海岸より来たりしもののごとし。』

楽劇のタイトルは旧約聖書箴言の上記Vulgata訳に由来すると思われますが、「遙か遠く離れた海岸より来たりしもの」が何であるかについては、日本聖書教会の文語訳では「その値は真珠よりも貴し」のように「真珠」であり、フランシスコ会聖書研究所の原文校訂訳では、「真珠」ではなく「珊瑚」となっていました。私は「真珠」のほうが、細川ガラシャの日本名である「珠」に符合していると考えたので、(珠のような)と訳しておきました。

福音書の「東方の三博士」来訪の故事に擬えて理解された極東の日本からの「三人の王の(名代の)訪問」(天正少年使節)、その後の日本でのキリスト教の宣教師と信徒達の迫害と殉教の事実は、當時のウイーンでもイエズス会の宣教師の書翰を通じて知られていました。では、この楽劇の脚本は、史実をどこまで踏まえていたかを検討してみましょう。

この劇の台本の梗概(argumentum)は次のようなものです。

『丹後の王妃ガラシアが、国王のヤクンドノ(「越中殿」のラテン語訛で細川忠興のこと)が戦争のため不在中にキリスト教に改宗し、子供達にも新しい信仰を教えた。凱旋して帰郷した国王は、王妃が禁制のキリシタンになったことに怒り、妻をはげしく折檻し、(抜刀して斬首の)死の恐怖を与えて改宗を迫ったが、王妃は毅然としてそれに耐えた。しかし王妃の霊魂(アニマ)は苦境に動じなかったとはいえ、その身体は拷問に耐えきれず、遂に1590年8月に王妃の「不変の霊魂」は天に召された』

ここで1590年8月にガラシアが亡くなったというのは史実ではありません。関ヶ原の合戦直前に石田三成の人質になるのを拒んだガラシアが1600年に自決したというのが年代記的な事実です。この脚本では、秀吉による禁教令後の26聖人殉教の時代の話、関ヶ原の合戦の頃の話、その後の元和の大殉教の頃の話(たとえば、「阿弥陀」の名を口にすれば棄教したと見て拷問をやめるというような話)が、時代的にきちんと区別されずに混淆された状態で脚色されています。したがって、この脚本は、(イエズス会士コリネリウス・ハザードの教会史(1678)の「丹後の王妃の改宗とそのキリスト教的美徳」の記述をもとにしているとはいえ)、史実を反映したものではなく、あくまでも劇的な想像力の所産として見なければならないでしょう。

しかし、「殉教を主題とする創作」としてみる限り、十七世紀の西欧のカトリック諸国の人たちのキリスト教的世界観がよく分かるという点で、Mulier Fortis という作品はなかなか興味深いものです。この作品は、現在我々が理解するような「オペラ」ではなく、コロス(歌舞団)を幕間に挟む演劇なのです。つまり、ギリシャ悲劇の様式を踏襲しつつ、それをキリスト教的な受難劇として制作した作品と理解するのが適切でしょう。

  ギリシャ悲劇ではコロス(歌舞団)の役割が大切ですが、それを摂取したキリスト教的受難劇では、コロスは、上演されるドラマの「想定された観客」の心を表現する役割を演じます。つまり、人格化された「不変Constantia」「忿怒Furor」「残忍Crudelitas」「不穏Inquies」「改悛 poenitudo」の演ずる幕間のアレゴリーは、いずれもドラマを見ている観客の心の世界の葛藤を表現するものであり、このコロスによって遠く離れた国のキリスト者の殉教劇が、時代的地域的な制約を越える普遍性を獲得することがめざされています。

  人格化された人間の情念を表すコロスだけでなく、そもそもこの劇の登場人物は「ガラシア」(恩寵を人格化した人物でもある)、夫の「ヤクンドノ(越中殿)」を除いて、原則として固有名詞では呼ばれず、王、王妃、王子1、王子2、娘1、娘2、キリスト者(高山右近がモデルか)、僧侶、などのように普通名詞で表現されています。こうすることによって、観客でもあったハプスブルグ家の王も王妃も王女達も、そこで上演されているドラマが、遠い異国の物語ではなく、自分たち自身の事柄でもあるというように、感情移入することができたでしょう。要するに、この脚本は、遠く東の果の国に伝道された殉教者の物語を、西のカトリック諸国のクリスチャンにも理解できるような形で上演することをめざして書かれていると云うこと、「普遍にして不変の信仰」を「はるか東方の国の王妃の殉教」という特殊な事件を素材にして劇化したということです。したがって、この楽劇の観客は、みな「丹後の王妃ガラシア」が、「殉教の死」を迎えたことを理解したと思います。

 mulier fortis の中で、私の印象に残った場面と台詞をいくつか挙げておきますしょう。

まず、第一幕第二場、祭壇の前で祈るガラシャと息子達の場面に注目したいとおもいます。突如大いなる地震がおきて、祭壇に安置されていた十字架が落下します。周章狼狽する息子達の前で、その落下した十字架を祭壇にもどしつつガラシャは次のように云います。

「それがどのような予兆であれ、キリスト者に相応しい高貴な心で耐えることができますように (quidquid rei portendat, illud mente generosa feram, ut christianam condecet)」

福音書の伝えるイエスの十字架上の死の場面をふまえて、「キリストに倣う」ガラシアが殉教の死を受け入れることが、ここで暗示されてます。これはドラマトロギ―として優れています。

 次に第一幕第五場、凱旋帰還する王による嵐のようなキリスト教迫害は避けられないことが分かったとき、逃亡を勧める家臣に対してガラシアの語る次の言葉は、この楽劇の根本主題に関わる重要なものと思います。

「王妃:その(迫害の)嵐の原因は何ですか?」「家臣:新しい信仰です」 「王妃:ああ何と祝福された罪でしょう! 神の故に私が罪あるものとされるなら、苦境から逃れて私が自分の幸せだけを求めることは間違っています。ガラシア(恩寵)は、勇敢に、この場所に、しっかりと立たなければいけません。たとえ、地獄の門が開き、忿怒の群が私を襲おうとも、私の心は、神が見捨てたまわぬがゆえに、平安に満たされています。(O culpa felix! Pro deo si sim rea, Non bene saluti consulam auxilio fugae. Hic esto fortis, Gratia, hic standum tibi! Tota solutes orcus, Eumenidum manu, In me recumbat; corde non tollet deum.) 」

正確な史実を知らなかったMulier fortis の作者ですが、上の台詞は、おそらくガラシアと同時代を生きた宣教師達の書翰の内容が反映されており、「ガラシアがなぜ逃亡せずに死を受け入れたか?」その理由を、よく捉えているように思いました。私は、聖グレゴリオの家で行った講演でも、この問題を取り上げましたが、期せずして、劇中のガラシアのこの台詞は、私の講演の趣旨と一致していますので、その点でも 私はこの楽劇に敬意を表したいと思っています。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする