歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

懺悔(さんげ)道と菩薩行

2019-06-03 | 哲学 Philosophy

懺悔(さんげ)道と菩薩行

 

田中 裕(上智大学名誉教授)

略説

 

(1) 『懺悔道としての哲学』[1]は敗戦時の日本の「歴史的現実」─自己と自己の帰属する民族・文化の「自己同一性の危機」―への哲学的応答であった。田辺自身は親鸞の浄土真宗、とくに『教行信証』の言葉に導かれていたが、それは、仏教だけに限定されたものではなく、田辺が後に書いたように『キリスト教の辯證」へと展開されるべき契機を含むものであった。民族の自己同一が問われた亡国の危機こそは、まさにユダヤ教の預言者的精神と、ユダヤ教を世界宗教へと刷新したキリスト教の起源であった事を思えば、田辺の直面した歴史的現実が、キリスト教と関わるのは当然である。

(2)戦後の田邊の宗教哲学は、理論的哲学(理観=テオーリア)を越えて、実践的な「理性の事実」にもとづく道徳を語るカントの批判哲学の立場、そこから「理性の限界内で」宗教を語るカントの立場を更に徹底させたものである。[2] 田邊は戦後を生き延びた哲学者であり、出陣学徒を戦地に送った帝大教授であった。生き延びたものが死者達へ感ずる罪責と懺悔の情念、自己の理性の無力を実感した田邊に、更に哲学を続けることを可能にしたもの、「哲学ならざる哲学」として恩寵の如く与えられたものが「懺悔道としての哲学」であった。

(3)田辺の言う「懺悔」は、「過去」の悔悛にとどまらず、「現在」を生きる人間の実存の根本的な転換、すなわち廻心を意味すると同時に、「未来」に約束された救済の福音を、「今此処」の「世俗の中」で生きることを意味している。すなわち「懺悔道」は、救済の時のもつ過・未・現の三一構造をふまえて語られている。その救済の時のもつ三一論のダイナミズムが、過去・未来・現在の世代を相互に媒介する実存協同論となることによって、戦後の田辺哲学は、日本民族(種)の特殊性を越えた、普遍的な救済論の可能性を提示している。

(4)宗教的経験の事実(それは個人的であると同時に社会的であり、歴史の中にあって歴史を越える事実)を解明することは西田と田辺に共通する課題であった。田邊から西田に遡って、「懺悔道としての哲学」の課題を引き受けることが重要であろう。

西田六二歳の時の著作、『無の自覺的限定』の宗教論は、まさにキリスト教論であると言ってもよい。滝沢克己はこの著作を読み、後に西田のすすめによりカールバルトの神学を聴講したときに、非キリスト者である西田がバルトと同じ問題を論じていることに驚き、後年、「西田哲学はこのときに生まれ、この国の言葉をもって語られたる真(まこと)の神の証言(あかし)としての悔改(メタノイア)の哲学である」[3]と書くことになったが、それはある意味で西田がキリスト教的な経験の事実にそれだけ肉薄したことを意味している。 西田はまず「哲学史上自覚の深き意義に徹底し万物をその立場から見た人」としてアウグスチヌスの言葉を引用し、その「三位一体論」を神学的人間学として評価し、「我々が外物を離れて深い内省的事実のなかに自己自身の実在性を求めるとき、自ら神に至らざるを得ない」と書く。[4]ここで注意すべきは、「自覚」を促す神の働きを「創造」という言葉で西田が表現するようになることがあげられる。これ以降、創造という働きが、単に「自己が自己に於いて自己を映す」という写像作用の代わりに用いられると共に、自己の内に完結する自己内写像の作用を突破する「絶対の他」という用語が「無の自覺的限定」のなかに登場するようになる。
(5) 「無の自覺的限定」では、他者論とアガペ論、そして原罪論というキリスト教的テーマが集中的に取りあげられる。まず、「肉親」への愛、「我国人」への愛を越える愛が、エロスならぬアガペとして位置づけられ、絶対に分離せるものの結合としてキリスト教的愛が考察される。[5] 次に自己知よりも「汝」の呼びかけ、「物のよびかけ」が先行することが指摘され、「過ぎ去った汝として過去を見ることから歴史が始まる」という歴史認識が示される。「自己自身の底に蔵する絶対の他と考へられるものが絶対の汝という意義を有するが故に、我々は自己の底に無限の責任を感じ、自己の存在そのものが罪悪と考へられねばならぬ」という立場からキリスト教的な「原罪」の意味するものが語られる。すなわち「自己自身の底に絶対の他を見るということの逆に絶対の他に於いて自己を見る」という意味に於いてのみ、真に自己自身の底に原罪を蔵し、自己の存在そのものを罪とする人格的自己」が考えられること、そこに西田はキリスト教の云うアガペの意味を見出している。[6]
(7) 西田にとって宗教の問題は、ある意味で彼の哲学的思惟のアルファであると同時にオメガでもある。しかし、その思惟は、アルファの以前、およびオメガの以後を限りなく追求するということを付記せねばならない。西田は、哲学的思惟の可能根拠を求めて、思惟の原理以前の経験、原理(アルケー)をさらに遡る無底の経験、ないし経験の無底へと下降する。この下降的な超越ないしケノシス的な超越こそが、西田の宗教哲学に於ける超越論的経験の基本的な特徴である。「有を存在せしめる根拠」を再び存在者として定立することはできない。したがって、(卓越した意味での)存在者、もっとも完全なる存在者を目指す「上昇的超越」、すなわち神的なエロスにもとづくプラトン的な超越は、下降的超越の経験無くしては成立しない。上昇的超越は、対象化しえぬものを対象化する「ノエマ的超越」に立脚する限りは、経験の裏付けを持たぬカント以前の形而上学的思惟として斥けられる。西田のいう場所的論理においては「ノエーシス的超越」という語が使用されたが、それは知的直観としてのノエーシスの立場をもって哲学的思惟の終結と見なす立場そのものの超越、すなわち「メタ・ノエーシス」の立場をも含意している。田辺の『懺悔道としての哲学』の立場は、ある意味に於いて西田のうちに既に存在していたものである。
(8) 最晩年の西田哲学のキリスト教論は、それ以前の西田哲学の行為論の要をなしていた「行為的直観」をも越えるものであった。そこでは、「神の言葉」が、聞くべくして見るべからざるものとして、主題化される。[7] 「場所的論理と宗教的世界観」を執筆中に鈴木大拙に宛てた書簡に依れば、西田は第二次世界大戦に於ける日本の敗北と予感しつつ、その終末論的な意識のもとで、旧約の預言書を読み、おそらくはじめて旧約聖書に内在する預言者の精神に触れたと思われる。西田は大拙に向かって、バビロン捕囚時代のユダヤ民族の精神に学ぶべきことを指摘し、「民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる」と述べる。それと同時に、鈴木大拙の言う『即非』の論理に共感し、その立場から、「人というもの即ち人格」というものを出し、それを現実の歴史的世界に結合することを自分の課題としていると述べる。[8]
(9)戦後の田辺の宗教哲学のもうひとつの根源語は「菩薩行」であるが、「懺悔道」と「菩薩行」との連関を解明するために、田辺が頻繁に用いた「行道」と云う言葉の意味を次に考察する。この言葉は、もともとは、仏教寺院で本尊や堂塔の周りを念仏して回り歩く礼拝儀式をさすものであったが、田邊は、そのような単なる宗教儀礼を念頭に置いているのではない。彼の「行道」とは、文字通り「懺悔の道」を「行ずる」ことであった。[9] 

田辺元の道元論に大きな影響を与えた和辻哲郎の『沙門道元』は、道元の思索と実践を「禅宗」という如き「宗派」を越えた普遍的な場で道元の「学道」ないし「行道」の精神を捉えようとした書である。この書で、和辻は、阿弥陀仏の本願他力に随順する親鸞の念仏行と、峻厳なる戒を守る出家の功徳を説き、知恵の完成行を無窮に行じる道元の座禅とは、前者が阿弥陀という名を持つ絶対者の慈悲による救済をとき、後者が、自己の救済よりも他者の救済を先立てる菩薩行としての座禅を選択したという方法上の違いはあっても、その根底に於いては慈悲を根本とする大乗仏教の根本精神があると述べている。「道得」や「葛藤」を重視する道元の道(ことば)に「日本哲学の先蹤」を見る点では、和辻も田辺も共通している。それでは、道元の中にも単なる哲学ではなく、田辺の言う意味での「懺悔道」の先蹤も見ることができるであろうか。

 

(10)「随聞記」は受戒と懺悔についての道元と懐奘との間の次のような対話を収録している。

問云、「受戒の時は、七逆の懺悔すべし、と見ゆ。如何」

答云、「實(まこと)、懺悔すべし。受戒の時、不許事(ゆるさざること)は、旦、抑止門(おくしもん)とて抑ふる儀也。又、上の文は、破戒なりとも還(また)得受せば、清浄なるべし。懺悔すれば清浄也。未受に不同(おなじからず)。

問云、「七逆、已に懺悔を許さば、又、受戒すべきか如何」

答云、「然也、故僧正、自所立の義也。已に懺悔を許さば、又、是、受戒すべし。逆罪なりとも、悔いて受戒せば、可授(さずくべし)。況、菩薩は、直饒(たとひ)、自身は破戒の罪を受くとも他の為に受戒せしむべし。

この「菩薩は、たとえ自分は破戒の罪を受けるとも、他のために受戒させるべきなのだ」という道元の言葉は、七逆という最も仏法に違背した罪を犯したものをも、救済しようという菩薩の徹底した精神が表現されている。

(11)「黄泉に下る菩薩」―道元の遺偈についての考察

入滅を前にして道元禅師は法華経神力品の一節を唱えながらそれを柱に記した。[10]

その翌朝、彼は居ずまいを正して次の遺偈を弟子達に残した。(建撕記)

五四年照第一天(五四年第一天を照らす)

打箇𨁝跳 触破大千(この𨁝跳を打して大千を触破す)咦(にい)

渾身無覓 活落黄泉 (渾身に覓むる無し  活きながら黄泉に陥つ)

道元禅師の遺偈の「活陷黄泉」(活きながら黄泉に陥つ)という結びの言葉は、何を意味するのであろうか。

(11)この遺偈を単独で考察するのではなく、師の如浄と弟子の懐奘の二人の遺偈との関連で考察したい。六六歳でなくなった如浄禅師、八三歳でなくなった孤雲懐奘のどちらの遺偈にも「黄泉に陥つ」ないし「地泉に没する」の句があるからである。

如浄禅師の遺偈:六十六年 罪犯彌天 打箇𨁝跳  活陷黄泉 咦 従来生死不相干

孤雲懐奘の遺偈:八十三年如夢幻 一生罪犯覆弥天 而今足下無糸去 虚空踏翻没地泉

如浄─道元─懐奘 と受け継がれた一連の遺偈に通底するものを、徹底した菩薩行として、衆生の罪を一身に引受けて黄泉に下る菩薩の懺悔道と捉えることができる。菩薩の道は、一切の衆生を救済しようという大悲の誓願に基づいている。

(12)如浄から嗣法し、懐奘に伝えた道元の仏道は「見性成仏」を云う「禅宗」の禅ではなく、大悲の誓願に基づく菩薩行としての座禅であったことは、如浄が道元に語った次の言葉が示している。

いわゆる仏祖の座禅とは、初発心より一切の初仏の法を集めんことを願ふがゆえに、座禅の中において衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし昆虫にも常に慈念をたまひ、誓って済度せんことを願ひ、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。(『宝鏡記』)

如浄の遺偈には「罪犯彌天」、懐奘の遺偈には「一生罪犯覆弥天」の言葉がある。この菩薩の懺悔は、衆生の犯したすべての罪を自己自身の罪として引き受けるところから発する言葉である。それこそが、自己と無関係なものは何一つない縁起の法を生きる菩薩の心であろう。

(13)面山瑞方が編集した『傘松道詠』に収録されている道元の道詠  

愚かなる我は仏にならずとも衆生を渡す僧の身ならん

  草の庵に寝ても醒めても祈ること我より先に人を渡さん

もまた、菩薩行を説くものであるから、如浄から菩薩戒をうけて嗣法した道元、その道元との対話を記録した懐奘の遺偈もまた「黄泉に下る菩薩」の「行道」の言葉として読むことができよう。

(14)『教行信證』再考-─五逆の罪を犯し、正法を誹謗した者に救済はあるか?

『無量寿経』の第一八願の願文の末尾に「唯除五逆誹謗正法」とあり、これは従来「ただ五逆の罪と誹謗正法の罪だけは救いの対象から除外する」という排除規定として読まれてきた。そうすると摂取不捨という弥陀の本願と矛盾しないだろうか?

(14)すでに曇鸞の時代に、この問題は意識され、道綽の安楽集では、の第一八願趣意では、排除規定は省略されている。善導は、これを排除の意味ではなく如来の願いを込めた抑止門とされ(謗法・闡提・廻心皆往)未造の者に対する抑止、已造の者は廻心さえすれば救うという意味に解釈する。除外規定は教育的配慮として付加されたと解釈する。

(15)もう一つの可能な解釈は、漢訳経典の本文批評にもとづき、「五逆」も「誹謗正法」も、そのような罪を犯した「罪人」をいうのではなく、「罪そのもの」と読み、この文は「五逆と誹謗正法の罪を犯した者を救いの対象から除外する」のではなく「五逆と誹謗正法の罪そのものを取り除く」と解する。たとえば、観無量寿経に「除八十億劫生死之罪」「除無量億劫生死之罪」「除却千劫極重悪」・・・の文があり、多く「除・・」は極悪人を救いから除外するという意味ではなく、罪そのものを端的に除くという意味である。[11] 一切衆生の救済を願う弥陀の誓願に、救済から除外されるものを含ませるのは不自然であり、本来的な「摂取不捨」の誓願には相応しくないとする解釈である。

(16)道元は七逆の重罪を犯した者には受戒させないという戒律規定を「抑止門」とみることによって、そのような者でも、「懺悔」させることによって受戒させるのが菩薩の道であることを述べたが、親鸞も又、弥陀の本願の「唯除五逆誹謗正法」を次のように釈義している。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふ言葉なり、五逆の罪人をきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんためなり。(『尊号真像銘文』)

五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪をけすまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらしめんがためなり。(『唯信証文意』))

『教行信証』は信巻の根本主題として、「逆謗摂取釈」を取り上げ、浄土三部経だけでなく涅槃経の「阿闍世王懺悔」の物語を長文に亘って引用している。

(17)涅槃経は「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」を説くと同時に、五逆の重罪を現に犯してしまった人の救済の物語を主題としており、道元もまた鎌倉行化の際に在家の信者の家で書き留めた「白衣舎示誡」でこの物語に言及している。そこでは、仏教の因果応報の理を否定して、阿闍世王の父王殺害を正当化する言説を説く六人の大臣の(六師外道の説)が書き記されている。仏陀の弟子の耆婆が、「慚愧の心」が人を人たらしめることを王に説いたあとで、「阿闍世の犯した悪業の罪は決して逃れられず、釈尊以外の誰も阿闍世を救うことはできないから、六人の大臣の詭弁に従ってはならぬ」という亡父の声が天上より響き渡り、釈尊による阿闍世王の救済が語られる。

(18)悪人正機説は法然および親鸞の浄土教の核心にあり、更に『歎異抄』では弥陀の本願は「親鸞一人のためなりけり」という言葉が記されているが、涅槃経では、摂取不捨を衆生救済を誓う弥陀の役割を、「阿闍世独りの為に涅槃に入らぬ」釈尊が引き受けている。一切の衆生というのではなく、なぜことさらに阿闍世ひとりのためというのかという迦葉の問に対して釈尊は、「阿闍世王独りの救済は一切の五逆を造る者に普く及ぶからであり、私が世に留まるのは、一切有為の衆生(煩悩具足の衆生)のためである、と答えている。[12]



[1] 私は懺悔道を「さんげどう」と読み、敗戦直後の「一億総懺悔」の如き無責任な「懺悔(ざんげ)」の喧伝から区別して用いることにしている。

[2] 「宗教は心霊上の事実に基づくものであり、哲学はその事実を解明すべきものであって、理性の立場から概念的に宗教的経験を捏造すべきではない」とは、最晩年の西田幾多郎の宗教哲学の立場であった。戦前・戦中の田辺の「種の論理」にもとづく国家論や宗教論にはそのような概念的図式の偏重があったことは確かであるが、「懺悔道としての哲学」に始まる田辺の宗教哲学にはもはや当て嵌まらない。

[3] 「西田哲学の根本問題」こぶし書房刊、214頁、2004(法蔵館「滝沢克己著作集第一巻」1972)

[4] 「場所の自己限定としての意識作用」西田幾多郎全集6:116 

 「哲学史上自覺の深き意義に徹底し萬物をその立場から見た人はアウグスチヌスであったと云ひ得るであらう。その「三位一體論」の一篇は一種の神學的人間學と云ふことができる。我々が外物を離れて深い内省的事實の中に自己自身の實在性を求める時、自ら神に至らざるを得ない。彼は「懺悔録」の始に Thou awakest us to delight in Thy praise; for Thou madest us for Thyself, and our heart is restless, until it repose in Thee と云って居る。彼は我々の自覺的實在の根抵を神に求めた。メーン・ドゥ・ビランの「人間學」といふ如きものも我々の精神的生命の基を神に帰して居る。」

[5] 「自由意志」 西田幾多郎全集6:319

「汝の隣人を汝自身の如く愛せよといふキリスト教的愛は、絶対に分離せるものの結合でなければならぬ。我親なるが故に、我子なるが故に、愛するのではない。又我国人なるが故に愛するのでもない、否、何等の価値のために愛するのでもない、唯、人なるが故に愛するのである。」

 

[6] 「私と汝」西田幾多郎全集6:419-420,424 

「道徳的にはわれわれは有限なる自己の中に無限の当為を蔵することによつて人格と考へられ、宗教的には罪の意識なくして人格といふものは考へられないと云はれる。併し我々の人格的自己は何故に斯く考へられねばならぬのであろうか。それは我々の自己自身の底に絶対の他を蔵するといふことを意味するに外ならない。自己自身の底に蔵する絶対の他と考へられるものが絶対の汝といふ意義を有するが故に、我々は自己の底に無限の責任を感じ、自己の存在そのものが罪悪と考へられなければならない。我々はいつも自己自身の底に深い不安と恐怖とを蔵し、自己意識が明となればなる程、自己自身の罪を感ずるのである。」

「自己自身の底に絶対の他を見るといふことの逆に絶対の他に於て自己を見るといふ意味に於てのみ、真に自己自身の底に原罪を蔵し、自己の存在そのものを罪とする人格的自己といふものが考へられるのである。そこにキリスト教の所謂アガペの意味がなければならない。」

[7] 「哲学の根本問題」西田幾多郎全集7:428
「現実が現実自身を限定する世界を絶対否定の肯定として絶対弁証法的世界の自己限定と考へるならば、自己自身を限定する現実の世界の底に、我々は行為的直観を越えて、無限なる表現に対すると考へなければならぬ。それは唯何処までも我々の行為的直観を越えるもの、行為的直観によつて達することのできないものと云ふだけでなく、行為的直観を否定する意味を有つたものでなければならない、道徳をも否定する意味を有つたものでなければならない。それがキリスト教徒の所謂神の言葉と考へられるものである。それは聞くべくして見るべからざるものである。絶対の彼方にあるのである。」 キリスト教を度外視した西田哲学解釈では「行為的直観」をもって西田の最終的立場とするものが多いが、上のテキストは、それが適切ではないことを示している。

[8] 「鈴木大拙宛書簡」 西田幾多郎全集19:399,426「私は今宗教のことを書いています。大体従来の対象論理の見方では宗教といふものは考へられず、私の矛盾的自己同一の論理即ち即非の論理でなければならないと云ふことを明にしたいと思ふのです。私は即非の般若的立場から人といふもの即ち人格を出したいと思ふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいとおもふのです。」(昭和20年3月11日 鈴木大拙宛書簡) 「君の東洋文化の根柢に悲願があるといふことよく考へて見るとそれ非常に面白い。私もさういふ立場から考へて云って見たいと思ふ。その故に西洋の物の考へ方がすべて対象論理的であったのだ。此頃猶太民族の宗教発展の歴史を読んで色々考へさせられる。猶太人がバビロンの捕囚の時代に世界宗教的発展の方の基礎を作った。真の精神的民族は斯くなければならぬ。民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる。」(昭和20年5月11日 鈴木大拙宛書簡)

[9] 懺悔道における行道は「懺悔の道行ずる」とも読める。「私が道を行ずる」のではなく、「道が私を行ずる」のである。『正法眼蔵随聞記』では、「学道の人、もし悟を得ても、今は至極と思て行道を罷ることなかれ。道は無窮なり。さとりても、行道すべし」とあり、「無窮の行道」が道元の言葉として伝えられている。

[10] 建長五年(1253)道元は義重および弟子達の請願に従って上洛、西洞院の覚念邸で自身の病気療養のかたわら在家の人々に説法していた。ある日、邸中で経行しつつ妙法蓮華経神力品の巻を低声にて唱えた後、それを自ら面前の柱に書付け、この館を妙法蓮華経庵と名付けたと言われる。(建撕記巻下などの伝承による)そこには次のような言葉がある。「僧坊にあっても、白衣舎(在俗信徒の家)にあっても、殿堂にあっても山谷曠野にあっても、この処が即ち是れ道場であるとまさに知るべきである。諸仏はここにおいて法輪を転じ、諸仏はここにおいて般涅槃す」僧坊にあっても在家の弟子の家であっても、今自分がいるその場所こそが「道場」であり、転法輪の場所であり、完全なる涅槃に入る場所であるというのが、道元の京都での最後の在家説法の趣旨であろう。

「放下身心(しんじんをほうげして)、一向(いっこうに)可入仏法(ぶっぽふにいるべし)」と仏向上を説く道元が、出家の功徳と在家のための菩薩行を同時に説く法華経の行者であったことを、この偈は如実に示している。

[11]北村文雄著『教行信証と涅槃経』、(永田文昌堂2014) 参照。 

このような解釈は、キリスト教におけるイエスキリストへの信仰告白「世の罪を除きたもう主よ、憐れみたまへ」に通じるものでもある。この「キリエ・エレイソン」と呼びかけられる「主」は、「世の罪人を除く〔裁く〕」のではなく端的に「世の罪を除く」のである。私の理解するところでは、キリスト教における信心業の「十字架の道行き(via crucis)」は、キリストに倣う「行道」である。

「使徒信条」のなかの「黄泉に下るキリスト」を論じたバルタザールの「過越の神秘」、ラッティンガ―の教義学(終末論)、はアウシュビッツ以後の「十字架の神学」を、カトリックの伝統を配慮しつつ受けとめたものであるが、それに拠れば、「黄泉に下るキリスト(discendit ad inferos))は、救済からもっとも遠い場所へキリスト自身が下ることによって、神から切断された極悪人の苦しみを自ら引き受けたものである。

Transdescendence (下への超越)がTranscendence(上への超越)に外ならないこと、最も神から遠い(黄泉の)暗黒を照らす光としての「まことの菩薩」としてのキリストが一切の被造物の「救済の希望」の根拠であるという解釈についてはHans Urs Von Balthazar, Dare we hope “that all men be saved”?(Ignatius,1987)(ドイツ語原書のタイトルは Was dürfen wir hoffen? 我々は何を希望することが許されるか?)参照。また、大乗仏教の菩薩の背後に「まことの菩薩」としてのキリストを見るキリスト教教義学の立場については、Joseph Rattinger Eschatologie-Tod und ewiges Leben (Kleine Katholische Dogmatik, Verlag Friedrich Pustet Regensburg, 1977) 参照。

 

 

[12]我今當爲是王住世至無量劫不入涅槃 迦葉菩薩白佛言 世尊 如來當爲無量 衆生不入涅槃 何故獨爲阿闍世王….. 阿闍世者普及一切造五逆者 又復爲者 即是一切有爲衆生  我終不爲無爲衆生而住於世 何以故 夫無爲者 非衆生也 阿闍世者 即是具足煩惱等者  

(大般涅槃經卷第二十 北涼天竺三藏曇無讖譯 梵行品第八之六)

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