歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論

2020-12-17 | 哲学 Philosophy

創造的無と宇宙の歴史性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論

田中 裕

はじめに

 

「天地は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり」とは人口に膾炙した古人の詩句であるが、もし天地を宇宙(コスモス)の意味に取るならば、現代の物理学は、宇宙そのものもまた永遠なるものではなく過客(旅人)であるという認識に達したように見える。天と地の挟間にあって束の間の生をうけた個々の人間のみならず、乾坤も、行き交う年(時間)もまた旅人に他ならない。西欧中世においては、万物はその被造性のゆえに永遠なるものを本性的に必要とすることが教えられ、この世界の偶然性(contingentia mundi)の自覺こそがキリスト教信仰への道の一つであった。我々が以下に考察するのは、我々のすまう世界が根源的に歴史的過程(以下「歴程」と呼ぶ)に貫かれており、宇宙そのものが決して永遠不変のものではないこと、存在するために自己以外の何ものをも必要としないような必然的な存在では有り得ないという事実の有つ意味である。

1 現代宇宙論の展開

 相対性理論と量子力学を基礎とするコスモロジーは現代科学の最先端の一つである。そこでは、我々の宇宙が約140億年前のビッグバンに始まる歴史をもつという証拠(宇宙の背景輻射の存在)の発見とともに、宇宙の起源と終末に関する問題が、神話や単なる形而上学の問題としてではなく、科学の問題としても議論される段階に到達したように見える。

 曾ては、創世紀の七日間の天地創造の物語を熱心に論じたのは中世のキリスト教の神学者達であったが、今日では、創造後の『最初の3分間』を現実の歴史として語ったのは、素粒子の統一理論でノーベル賞を受賞した物理学者のスチーブン・ワインバーグである。さらには、単にビッグバン以降の宇宙の歴史を物語るだけにとどまらず、宇宙の始まりという特異点を解消するという問題もまた物理学の最前線では課題の一つとなった。「無からの創造」(creatio ex nihilo)はキリスト教神学の知解を越える教義であったが、まさしくこのような教説が、ビッグバンの特異点を解消する理論の一つの理論的な可能性として、物理学者によって議論されるようになった。

 ビッグバン理論によれば、宇宙の歴史の始源においては極大の宇宙は極微の宇宙でもある。それゆえに、宇宙の起源を正しく認識するためには、マクロ宇宙を記述する一般相対性理論とミクロ宇宙を記述する量子力学とを統一する理論が必要となる。重力、電磁気力、弱い相互作用、強い相互作用の4種類の異なる自然力を統一する究極の物理理論が検証される領域は、人間が地上で実験可能なエネルギーのレベルを遥かに越えており、初期宇宙のような極限的な状況こそ統一理論の試金石になるのである。このように、量子論と一般相対性理論という20世紀の物理学の歴史を根底から変えた二大理論を更に高いレベルで統一するという理論物理学の課題が、『宇宙がどこから来てどこへ行くのか』という歴史の黎明期から人類が問い続けてきた形而上学的問題の探求と結び付いたものが現代宇宙論なのである。

  ビッグバン以後の膨張する宇宙とは、境界をもたぬ有限の大きさの宇宙が膨張して行くことを意味している。人間の感覚を遥かに越える宇宙も単なる大きさだけでは人間を凌駕するものではなく、我々は物理的宇宙のスケールよりも寧ろその宇宙の全体を捕らえ得た人間の精神の宏大さのほうに驚嘆すべきかもしれない。それと同時に、宇宙の全体を捕らえる人間自身は、当然のことながら、時間的にも空間的にもその宇宙の内部にいる訳であるから、そのような『宇宙内存在』としての人間が、宇宙の全体を捕らえ得ることが如何にして可能となるかが問題とされねばならない。人知の限界を探求する形而上学の可能性の問題として、カントの『純粋理性批判』の課題が装いをあらたにして蘇ったというべきであろう。

 カントの批判哲学が形而上学の批判を通じて深く自然神学の問題にかかわっていたように、我々を含む宇宙の全体を学問的に問題とする現代宇宙論も、こうして間接的に自然神学上の問題にコミットせざるをえないのである。 更に、この大宇宙が創造されて間もないころは量子力学が適用されるような極微のスケールをもっていたということ、すなわち初期宇宙における極大と極小の一致ということもまた、現代宇宙論の含意する事柄の一つである。我国の代表的な宇宙論学者として知られる佐藤文隆氏と佐藤勝彦氏が共同で書かれた啓蒙的な論文に『宇宙が1センチだったころ』という表題をもつものがあるが、その意味は、一つ一つが約1000億個の星を含む星雲を何兆個も含む100億光年にもわたる宏大な拡がりと膨大な量の物質を含む現在の我々の宇宙が、創造後10-36秒の時点においては半径1cm以内の微小領域におさまっていたということである。佐藤文隆氏によれば、我々の宇宙の歴史のこの時期までは、物理学者が実証性をもって溯れるということである。そして、それ以前の極微の宇宙の状態がいかなるものであったかについては、現在実験によって確認できる領域を越える高エネルギーの物理学を必要とするために、物理学者のあいだで意見が一致している訳ではなく、さまざまな仮説が提案されている状況であるという。無限の拡がりをもつように見える現在の宇宙が高々1cmの大きさしかもたなかった時期があったなどということですら門外漢には驚嘆すべき主張であるが、現在の宇宙論学者の理論的関心は、さらにその先まで行っているということであろう。専門の物理学者が宇宙の始まりについて積極的に発言すること自体が、一昔前までは考えられないことであったことを想起すれば、量子宇宙論に対する物理学者の間での最近の関心の高まりは、現代科学が、ある決定的な段階にさしかかっていることを象徴しているのかもしれない。

 ビッグバンの特異性を解消して、物理学の内部で『宇宙の創造』という出来事そのものを記述しようとする試みの二つの代表的な例として、ロシア生まれの米国の物理学者アレクサンダー・ビレンキンと英国の物理学者スチーブン・ホーキングの理論があるが、彼らの述べていることは、理論の数学的な構造の類似性とは対照的に、日常言語に翻訳され解釈された地平においては正反対の主張のように見える。その理由は、『無』や『創造』にかんする日常的な概念も、また伝統的な哲学的概念もともに、現代宇宙論の遭遇した状況を表現するには不十分であるということに求められるのではないだろうか。

 『無からの創造』は曾てはキリスト教神学のドグマであり、『無からは何も生じない』という古代ギリシャの原子論以来の自然哲学の根本原理に反するものと考えられて来たが、ビレンキンの理論は、量子力学と相対性理論に両方に立脚する物理学においては、『無からの創造』は自然な形で表現されるということを述べている。彼の理論は、『真空のエネルギーの揺らぎ』によって極微の時間幅において物質の創造が行われるという理論-相対論的な場の量子論では実証済みの考え-を宇宙全体に適用することを提案したエドワード・トライオンの着想(1973)をさらに展開したものである。この理論では、宇宙の全物質のもつエネルギーは重力場の負のエネルギーと相殺してゼロとなり、物質的な宇宙の総体は、言わば『真空』の表現とみなされる。ビレンキンが1982年に米国の専門学術誌のフィジックス・レターズに発表した『宇宙の無からの創造』という論文では、宇宙が不安定な『無』の揺らぎから生まれる数学的機構を提示して、誕生したばかりの宇宙の大きさを具体的に計算している。それによれば、『無から誕生した』瞬間における宇宙の大きさは10-26cmのオーダーであり、この種子のごとき宇宙が、極めて短期間に指数関数的に拡大する『インフレーション期』を経た後に、標準的なビッグバン理論に従って膨張したものが我々の宇宙である。ここで、ビレンキンが無という言葉で何を言おうとしているのかを理解するのは容易ではない。米国の物理学者ハインツ・パージェルは、この宇宙創造以前の『無』について次のように解説している。

 宇宙の創造『以前』の無とは、我々が想像し得るもっとも完全な空虚であるーそこには空間も時間も物質もない。それは、場所も持続も永遠もなき世界である.しかし、この思考不可能な空虚が、存在の充実へと自らを変容させることー   これが物理法則の必然的な帰結なのである。これらの法則は、その空虚のどこに書き込まれていたのであろうか。あたかも空虚ですら法則に、すなわち時間と空間以前に存在する論理に従うかのようである。

 ビレンキンと同じように、『虚時間』という量子論の数学的技法を使って原始宇宙がトンネル効果によって真空中に出現する確率を計算したホーキングは、ビレンキンが『無』とよんだものを寧ろ『有』と呼び換えて、量子宇宙の波動関数によって記述される初めも終わりもない実在を表現している。ここでは、ホーキングは一昔前の物理学者ならば、単なる計算上のトリックに過ぎぬものとして『実在性』を否認したかもしれないような『全宇宙の波動関数』や『虚時間』のような数学的概念が、あたかも我々人間が巨視的尺度で経験する時間的な生成変化の世界よりも根源的な実在に対応しているかのように語っている。彼の考える量子宇宙モデルは、空間的に境界がないばかりか『虚時間』において『始めも終わりももたぬ』自己完結的な世界である。ニュートンの『プリンキピア』後300年にあたる1986年に出版された記念論文集『重力の300年』のなかで、ホーキングは自分自身の量子宇宙論の立場をビレンキンのそれと対比させて次のように要約している。

 宇宙は極小の半径をもって『無から創造された』ということもできよう(ビレンキン、1982)。しかしながら、『創造』という語の使用は、宇宙がある瞬間以前には存在せず、その瞬間ののちに存在したかのような時間概念を含意するように思われる。しかるに、アウグスチヌスが指摘したように、時間はただ宇宙の内部でのみ定義され、その外部では存在しないものである。彼はこう言っている:『天地を創造する以前には神は何をしていたか。私は、かってある人が冗談で述べたように、神はそのような質問をするもののために地獄を用意していたなどとは答えまい。時間そのものも神によって作られたがゆえに、いかなる時刻においても、神は何も作られはしなかったのである。』 現代の見方もこれと非常に良く類似している。一般相対性理論では、時間は宇宙の中の出来事にラベルを貼る座標にすぎない。時間は、時空の多様体の外部ではいかなる意味ももたない。宇宙が始まる前に何が起きたかを問うことは、地球上で北緯91度の点はどこかと問うようなものである。そのような点は単に定義されていないのである。創造され、おそらくは終末に達する宇宙について語る代わりに、人は単に次のように言うべきだろう:宇宙はあると(The universe is)。 

 これとほぼ同じ思想は、ホーキングの書いた啓蒙書である『時間の短い歴史』のなかでも繰り返されているが、それによると彼はこのアイデアを1981年にバチカンでイエズス会が催した宇宙論会議の席で最初に発表したという。カトリック教会は、宇宙の永遠性を否定する神学的教義と一致することを理由に、ビッグバン理論にたいして初めから好意的であったことは良く知られている。しかしながら、会議の終わりに参加者に謁見したローマ教皇ののべた言葉、すなわち『ビッグバン以後の宇宙の進化を研究するのは大いに結構だが、ビッグバンそれ自身は探求してはならない、それは創造の瞬間であり、神の御業なのだから』という言葉にたいするホーキングのコメントはかなり辛辣である。

 ここではホーキングは自分の提案した自己完結的な宇宙をあたかも創造神を必要としないかのように語っている。読者には、ガリレオ以来の科学とキリスト教神学との対立関係がここでも顔を覗かせているように見える。ローマ教皇とホーキングの思想の微妙な対立をどのように考えるべきであろうか。どちらかの見方が誤っているのであろうか。それともどちらとも、科学と神学のそれぞれの領分において正しいと考えるべきだろうか。『無からの創造』を説き、それの間接的な支持を現代物理学に求める考えのほうを撤回すべきなのか。それとも『創造』も『無』もありえず、端的に宇宙の『有』を説くことによって創造主を無用とする考え方のほうを改めるべきなのか。

 『始めも終わりもない宇宙』といっても、それは巨視的なレベルでの宇宙が現在と同じ姿で永遠の昔から未来永劫に至るまであり続けるということではないから、曾ての唯物論者が想定したような意味で、宇宙は自己完結的なのではない。ホーキングの世界においても、巨視的世界における『実時間』においては、やはり宇宙の始まりは存在するのである。ホーキングと同じくビッグバンの特異性の解消を意図したビレンキンの論文の表題が『無からの創造』であったことを想起すれば、寧ろ我々は、ここでは、神と宇宙との関係について、このような意見の対立そのものを止揚する新しい観点をとることを要請されていると考えるべきであろう

 

2. 現代宇宙論とキリスト教神学

 現代宇宙論が人類にもたらす世界観の革命的な変化は、ヨーロッパ近代の黎明を告げた地動説のひきおこしたいわゆる『コペルニクス的転回』に匹敵するであろう。ガリレオの異端審問官の一人であった枢機卿ベラルミーノにとって、地動説は一定の目的にとって便利で有効な単なる『数学的仮説』にすぎず、厳密な意味での真理の名に値しないものであった。ガリレオは地動説を単なる数学的な仮説としてではなく真理として主張したために裁かれたというのがガリレオ裁判のポイントの一つであった。確かに、多くの科学史家が指摘しているように、ガリレオの時代の地動説はまだ洗練されたものではなく、現代科学の目から見れば、その細部においては多くの誤謬もあったことは事実である。しかし、この理論が近代の世界観の革命を引き起こし、科学の飛躍的進歩をもたらしたことを否定することはできないだろう。それと同様に、現代宇宙論も、その科学上の詳細においては将来修正される部分をもつことは当然予想されるが、それが人類にもたらす世界観上の革命的変化については、そのような修正可能な詳細とは独立に論じなければなるまい。

 夥しい数の啓蒙書が書かれているにもかかわらず、現代宇宙論の提起する宗教的および神学的問題が何であるかについては、いまだ十分に論じられてはいない。主として欧米の科学者や神学者によって、『新しい物理学』が神学に対してもつ意味が論じられた例はたしかにあるし、ビッグバンの先駆的理論とも言うべきル・メートルの宇宙論をひいて『現代自然科学に照らした神の証明』を書いたローマ教皇ピオ12世のような例もある。また、最近では、宇宙の進化を目的論的に説明する『人間原理』を要請することによって、宇宙における人間の位置に中心的な役割を回復させると同時に、宇宙の進化の過程において新たに生じる情報と秩序の源泉として神の存在を間接的に論証する議論もある。

 しかしながら、一般に科学者はこのような神学的な問題の考察には不慣れであって、それを科学上の具体的な問のレベルに還元して答えようとする傾向があることは否定出来ないし、彼らが『神』について語る場合でも、現代の神学的議論に関する無関心のゆえに、神と世界に関するまことに古色蒼然とした思想を前提にして議論をしてしまう傾向がある。これと同様に、神学者のほうもまた、現代科学の諸理論が、時空、物質、因果性にかんする科学者の常識をいかに変化させたかということに無知であるために、現代宇宙論の提起する諸問題を、彼らのやはり古色蒼然とした科学観の内部で処理しようとする傾向がある。そのために、両者の議論が常にかみ合っているとは言いがたいのである。カール・セーガンは、前述の『時間の短い歴史』に寄せた序文のなかでつぎのように述べている。

これはまた、神についての書物でもある-ひょっとすると、神の不在についての本かもしれないが。いたるところに神という言葉が現れる。宇宙を創造するとき、神にはどんな選択の幅が有ったのか、というアインシュタインの有名な問いに答えるべく、ホーキングは探求の旅に出た。少なくともこれまでのところ、この努力から導かれた結論は全く予想外のものだったー空間的に果てがなく、時間的に始まりも終わりもなく、創造主の出番のない宇宙。 

 ここでは、セーガンは、ビッグバン宇宙論の特異性(宇宙の始めと終末)を量子論と『虚時間』という円環的時間概念の導入によって解消することを意図したホーキングの量子宇宙論の基本的アイデアを、ホーキング以上にあからさまに、あたかもそれが無神論を支持するかのように、あるいはすくなくとも有神論を無用のものとするかのように語っている。

 勿論、ここで、ホーキングやセーガンが『神』について語ったとしても、彼らが真の意味で宗教的な神について語っていると考える必要はかならずしもない。それよりは寧ろ、本来『神』抜きでも語り得るような物理学上の専門的な問題、例えば、一般理論の内部では決定出来ない任意性(初期条件や物理定数の値)をどこまでなしですませることができるかというような問題を通俗的に語るための一つの便法として、彼らは『神』を持ち出していると考える方が妥当であろう。しかし同時に、我々自身を含む世界の全体を主題とする宇宙論においては、通常の自然科学の内部では遭遇しない形而上学的な問いに直面させられることも事実であり、このような問いそのものが、自然科学そのものを通じて宗教の根本的な問題領域に我々を導くことも否定出来ないのである。 

 ホーキングの著書から直ちに無神論的な結論を出したセーガンの議論は、神学者によって反論されている。例えば、オランダの神学者ウィレム・ドリーは、ホーキングの宇宙論は世界を神の被造物とみる有神論的な見方と矛盾しないという趣旨の論文を書いている。確かに、セーガンの議論には幾つかの隠された前提、ないしは偏見とも言うべきものがあって、それらを共有しないものにとっては、どうして現代宇宙論が神の出番を必要としないのか理解に苦しむであろう。言い換えれば、新しい物理学から神の存在を追放するセーガンの無神論的な議論も、ル・メートルの宇宙論から有神論的な結論を出したピオ12世の議論と同様に、純粋な物理学の内部では用いられていないある種の独断的な狭い形而上学的命題を既に前提したうえで、物理学の解釈を行っているのである。

 たとえば、宇宙に絶対的な意味での始まりがあるということが事実であるならば、それは有神論を支持するが、その逆に初めも終わりもない宇宙の永遠性が事実であるならば、それは無神論を支持するという類いの議論を取り上げてみよう。この種の議論は、宇宙の始まりを想定するル・メートルの宇宙論を支持したピオ12世の議論においても、また始めも終わりも無い円環的な『虚時間』の想定によってビッグバンの特異性を消去したホーキングの理論を根拠に造物主としての神を無用視したセーガンの議論においても、暗黙のうちに前提されていたようにみえる。たしかに、この種の前提ないし偏見には長い歴史があり、それこそ神と世界の関係を考える中世以来の基督教神学者の多くによって、またそれに敵対した唯物論者の多くによって共有されていたといってよい。しかしながら、筆者がここで主張したいのは、このような考え方は、過去の独断的な神学の名残であり、現在ではむしろ克服されるべき考え方だということである。 

 ガリレオ裁判以前の中世の基督教神学の世界では、宇宙の無限性を主張することはジョルダーノ・ブルーノの自然哲学がそうであったように異端審問の嫌疑をかけられるような事柄であった。それは、宇宙が時間的にも空間的にも有限であって、その存在が必然性をもたず、全くの無から創造されたということが正統派の見解であった基督教の神学的伝統に由来するのである。 

 宇宙の空間的無限性のみならず、その永遠性を説くこともまた中世の基督教神学の伝統の中では異端の嫌疑を招く教説であった。13世紀のドイツのスコラ哲学者にして基督教神秘主義者としても著名なマイスター・エックハルトは、時の教皇ヨハンネス22世によって異端者として断罪されたが、その告発理由のなかには、エックハルトが『世界の永遠性』と『魂の非被造性』を主張したことがあげられている。現存するエックハルトのラテン語著作の一つである『創世紀注解』を見ると、『何故神はもっと早く世界を創造しなかったのか』という問にたいして、エックハルトは『神が神であるまさにその時において、また神が万物の中にご自身に等しく永遠なる御子を誕生させたその同じ時に、神は世界を創造した』という見地から、神が時間の中で世界の創造のときを待っているかのような素朴な見解を退けて、ある意味では『世界が存在しない時には神も存在しない』という大胆な見解を述べている。

 これは、神の根底(神性)と一つである我々の自身の根底(霊性)への突破と、霊における神の子の誕生を説くエックハルトの他の教説とともに、中世の基督教神学のドグマの限界を越えた大胆な思弁であったが、神と世界を区別したうえで、世界を神に一方的に従属させる西欧の神学的伝統の中ではあくまでも異端の教説とされたのである。

  しかしながら、第二バチカン公会議以後の現在のカトリック教会における神学を、中世の独断的な神学と同一視するのは時代錯誤であろう。ガリレオを名誉回復すべきことがローマ教皇ヨハネパウロ二世によって正式に表明されたことはまだ記憶に新しいし、エックハルトもその全集の発行以来、その深い霊性が再認識されているといって良い。キリスト教以外の他の宗教的伝統のなかで啓示された真理にたいする敬意とともに、現代科学との対話を重んじることは、多元的な価値観の尊重において成り立つ近代化された社会におけるカトリック神学に不可欠の条件となっている。元来『カトリシズム』とは、普遍的な信仰の真理を意味する言葉であって、特殊な信仰者の共同体のなかでのみ通用するような疑似宗教的イデオロギー(idioV logoV=特殊言語)の否定において成り立つものである。キリスト教信仰は科学上の真理と矛盾するものではなく、それを完成させるべきものであることは、トマス・アキナス以来のカトリック神学の重要な課題の一つであった。それゆえに、もし我々が、過去の神学的ドグマにとらわれる事なく、神と世界の関係を問題として考察したとしても、それはこのような広い意味でのカトリシズムの精神には合致すると考えて良かろう。 神と世界の関係を、世界の側から、あくまでも世界に内在的な観点から考察する神学のことを、カトリシズムのキリスト教の伝統では『自然神学』と呼んでいる。それは、神の特殊な啓示から天下り的に議論を始める『啓示神学』と相補的な関係にあるキリスト教神学の伝統の一つである。

 宇宙の存在に初めがあるとするならば、それは造物主の存在を証明することになるというような単純な議論の背後に隠されている宗教的前提を明らかにするためには、我々は、このカトリックの自然神学の伝統をもっと良く知る必要があろう。

 現代フランスのカトリシズムの伝統に立つ神学者であるクロード・トレモンタンの『天体物理学と形而上学』という論文は、このカトリシズムの自然神学の伝統を踏まえたうえで、現代宇宙論の問題を論じている。彼はこの論文の中で、宇宙の存在そのものを問う形而上学の三つの類型を人類の思想史のなかからとりあげて、それらを対比している。

 第一の類型は、物理的宇宙は見せかけのものに過ぎず、経験科学が研究の対象とするような『客観的現実』は、実際には単なる仮象であって、夢、幻のごとき、まったく実体のないものであると考える。古代インドの形而上学の伝統やプロチノスの新プラトン主義の形而上学などはこの類型に属するという。 

第二の類型は、物理的宇宙が『存在そのもの』であり、存在するすべてのものの総体であって、他に存在するものは何もないと考える。ここでは宇宙こそが絶対的な存在であって、宇宙の存在は必然的である。そして、この宇宙における生成変化が認められる場合でも、宇宙の不可逆的進化の事実は否定され、常に永遠の循環が考えられる。その意味で、物理的宇宙には、始まりも終わりもなく、真の意味での生成も進化も歴史もない。パルメニデスやヘラクレイトスに代表される古代ギリシャの自然哲学や、機械論的な唯物論者の形而上学もまたこの類型に属するという。 

第三の類型は、物理的宇宙は、客観的かつ現実的に、それを認識する人間の意識とは独立して存在する実在であるが、宇宙それ自身は決して自己充足的な完全な存在ではないと考える。ここでは、絶対者の存在と物理的な宇宙の存在とが厳密に区別される。経験に与えられた現実の全体、すなわち物理的宇宙とそのなかにあるすべてのものを非神格化したヘブライ人に由来する超越神論の形而上学の伝統がこの類型に属する。宇宙が神によって創造されたという思想は、このように、絶対存在でも神的存在でもない宇宙の存在をどう理解したら良いかという文脈で生まれたものであるという。  このトレモンタンの言う形而上学の三類型は、後で述べるようにそれだけで人類の形而上学的遺産のすべてを尽くしているとは言い難いが、聖書の伝統に基づくキリスト教の形而上学が、宇宙を非神格化することによって、それを科学的に探求する道を開いたという視点を提供している点で、歴史的には興味深いものである。

 この宇宙が『無から創造された』というキリスト教の教義の核心は、この宇宙のどこを探しても、そこで我々の出会うのは、神ならぬ被造物のみであるということである。そしてこの世界を創造した全能の絶対者の似姿として作られた人間は、すくなくとも原理的には、一切の神的なものを剥奪されたこの宇宙の法則を完全に認識することができるであろう。我々は、呪術とは明確に区別される近代的な意味での自然科学を生み出したのが、宇宙に宗教的な意味を見いだす文化圏ではなく、宇宙から神的な意味を奪った基督教文化圏においてであったことの意味をもう一度よく考えてみる必要があるだろう。

 トレモンタンは上に述べたような形而上学の三類型以外のものは、人類はいまだ見いだしていないと信じており、そういうものがあるならばぜひ教えてほしいと明言している。そして彼は、現代宇宙論はかれの言う第三番目の類型に属する形而上学の真理性を、経験的な論拠に基づいて証明していると確信しているようである。この点に関する限り、筆者は率直に言って彼に同意することはできない。筆者は形而上学には無限に多くのバリエーションの可能性があると同時に、神と世界の捕らえ方には、この三類型のどれにも帰着しない重要なものがあると考えるものである。さらに、キリスト教の教義に合致するかしないかは別としても、経験科学がアポステリオリな論拠に基づいて特定の形而上学のみを支持すると考えるのは、科学と形而上学との生産的な関係を損なう危険があるだろう。ある特定の形而上学的な先入観が、科学の発展を助長することは有り得ることであるが、それは同時にその後の科学の進歩を妨害するということも十分に起こり得るだろう。地動説を唱道したのが、カトリックの司祭であったコペルニクスであったとすれば、同様にガリレオを迫害したのも基督教の教会であった。スピノザの『永遠の観点に立つ』形而上学を愛好していたアインシュタインは、最初の宇宙論的考察において、いわゆる宇宙項を付加することによって宇宙の膨張という動的な事態を予見することができなかったことは有名な科学史上の事実である。トレモンタンが言う意味での『宇宙の存在そのものを問う』形而上学といえども、実際には、融通のきかぬ単なるイデオロギーの体系に転落する危険を秘めているであろう。真の意味での形而上学の任務の一つは、我々の思考を束縛するものから我々を解放する普遍性を獲得することである。そこで、筆者は次の章で、トレモンタンが考慮していない形而上学的立場の新しい可能性を提示することによって、自然神学と現代宇宙論の双方を射程に収め得るような、新しい視点と概念の枠組みを検討することにしたい。 

3 「無」の哲学再考

 前章で引用したトレモンタンの言う形而上学の三類型のいずれにも帰着しない、独自の類型として、西田幾多郎の絶対無の哲学を考察し、その立場から現代宇宙論と宗教との関係を以下で論じてみよう。この西田哲学の終着点ともいうべき宗教論の特徴は、特定の宗教的伝統や特殊な民族や人物にのみ下された神の啓示の内容に拘束されることなく、万人に対して平等に開かれた経験の直接性のみをより所にして神を論じている点にある。西田の晩年の宗教論を英訳したデビット・ディルワースは、西田を『我々の時代におけるおそらく最初の世界的神学者(the first world-theologian)』と呼んだが、それは西田の宗教論の出発点が、特殊な天啓を記したと称される聖典のみを原理とする啓示神学ではなくて、世界的な宗教の様々な伝統に通底するものを、万人が自分自身の経験の中で本来確認できる事柄として捕らえる最も普遍的な意味における自然神学であったことを意味している。

 われわれがここで注目したいのは、科学と宗教との関係について、内在神論と超越神論、汎神論と創造神論というような神学上の二元的対立そのものを止揚する宗教的立場が何であるかについての徹底した考察を西田が展開していることである。それは、『善の研究』のなかでは、純粋経験の立場であり、『自覚における直観と反省』では、直観と論理的反省を統合する自覚の立場に移行し、『働くものから見るものへ』では場所の立場となり、そして最後には、平常底と逆対応によって特徴づけられる絶対矛盾自己同一の立場となるが、それらは、神、宇宙、人間の三つの存在領域をどのように相互連関において捕らえるかという形而上学の根本問題に関する思索を、主客未分以前の徹底して具体的かつ直接的な経験の現場において展開するものであった。それは、この宇宙を夢や幻のごとき実体の無いものとは考えない。われわれによって経験される世界は、そのあるがままの姿で実在性をもっており、その背後にさらに優れ意味での実在を隠しているという意味での形而上学ではない。また、この世界のみが唯一の絶対存在であるという独断からもこの哲学は自由である。なぜなら、世界を必然的な存在と同一視する考えは、不生不滅の実体の存在を前提するが、西田のいう意味での絶対無の場所の哲学は徹底した非実体論であって、宇宙にはそのような実体は存在せず、すべての有は相互関係の網目に解体されると同時に、『作られたものから作るものへ』という方向性をもった因果の文脈でとらえられる。またこの哲学は、宇宙の外部にそれよりも優れた意味での『有そのもの』を独断的に構想しない点において、単なる超越神論ではない。有の総体としての宇宙それ自身が無限に開かれた絶対無の場所においてあるという意味では、西田哲学は決して宇宙の存在をもって終結するわけではないが、有を存在せしめる原理そのものを、再び有という範疇で捕らえないからである。絶対無の場所において有を捕らえる西田哲学は、宇宙と神と人間を有としてあるいは実体として捕らえる神学的伝統に対する徹底した批判の所産なのである。

 『善の研究』において西田は、『超越的神があって外から世界を支配する』というごとき神学的立場を『啻に我々の理性と衝突するばかりではなくて、かかる宗教は宗教の最深なるものとは言われない』という考えを表明している。  彼が基督教神学の伝統の中で評価したのは、スコートス・エリゥーゲナ、マイスター・エックハルト、ヤコブ・ベーメ、ニコラウス・クザーヌスなど、神秘主義の伝統に立つものであったが、その理由は、これらの神学者たちが、我々の直接経験の事実において、『翻された眼』をもって神を認め、『宇宙の外にたてる宇宙の創造者とか指導者』というごとき独断的に『仮定された神』をもって満足しなかったからである。これらの思想家は、確かに西欧のキリスト教神学の伝統においては少数派であり、ときに異端の嫌疑さえかけられた神学者ではあったが、我々がキリスト教の特殊な啓示の絶対主義に捕らわれずに、宗教的視野を拡大して、世界宗教のさまざまな伝統において与えられた多様な霊的経験に通底するものを考慮すれば、これらの思想家は狭い意味でのキリスト教神学を越える普遍性をもった場所において、神と宇宙と人間の問題を論じていたということはできないであろうか。 

 さて、西田哲学に導かれた我々の立場からすれば、一方において、自然科学の進歩によって基礎が揺らぐような自然神学は脆弱な基盤のうえにたつものといわなければならない。

 しかし、他方において、自然神学は、自然科学が歴史的に進歩することによって更に深い内的統一を獲得できるような世界観的基盤を提供すべきものであって、自然科学の進歩から切り離された孤立した場所で営まれるべきではない。自然科学の『道』も、宗教の『道』もその根底においては一つの『道』であることを示すことこそ自然神学の課題である。それはまた、そのような自然神学は、いわゆる特殊啓示を一切含まずとも、究極においては啓示神学と矛盾することはないであろう。『恩寵は自然を破棄せずに完成させる』というのが伝統的なカトリックの神学的立場であるが、我々はこれと逆対応的な命題として『自然は恩寵を破棄せずに、却ってこれを完成する』ということもまた、同等の権利をもって主張できるであろう。

3.歴程宇宙の遠近法

 一般相対性理論では、宇宙時間とよばれる特別な時間が定義され、とくにビッグバン宇宙論の標準モデルでは、この宇宙時間によって、宇宙全体の歴史が語られる。そして、その語り方は、例えば、百数十億年前に溯る宇宙の歴史の中での銀河や太陽系の形成の時期について語り、また将来、宇宙の膨張が続くか、それが収縮に転ずるかなどということが語られる。その語り方は、あたかもニュートンの絶対時間が復活したかのようであり、アインシュタインの相対性原理の理念、すなわち、この宇宙にあるどの基準系も原理的に対等であるという原理に反するように見える。空間的に世界の「絶対的な中心」というものが無いのと同じように、時間的にも、他の様々な瞬間とは違った「世界の始まり」というごとき特異点が存在することは、相対性の原理に反するように見えるからである。

 アインシュタインが1905年に特殊相対性理論の基礎においた同時性の相対性という概念は、最初は、世界全体に広がった客観的時間経過という観念を物理学から追放したかに見えた。そのかわりに、それぞれの観測者は固有の時間系列をもつこととなったが、この複数の時間系列のどれ一つとして、客観的な時間経過を表示するという特権を主張出来なかったのである。

 しかるに、それから4半世紀がたつと、相対性理論に関連する物理的なアイデアや数学的技法をつかった宇宙論学者が、アインシュタインが退けた概念そのものを再び導入するようになったのである。ここで言う宇宙時間の本性は如何なるものであるのか、とくに、それが相対性理論で否定されているニュートン的な絶対時間とどこが違うのか、このことについて明瞭な理解をもつことは、現代宇宙論の理解にとって必要であろう。 

 宇宙時間は、物質の重力効果を無視できる特殊相対性理論では登場しないが、一般相対性理論を宇宙の全体に適用する場合には、物質分布に適切な条件を施した場合に限り、登場することが知られている。 宇宙時間は、宇宙全体の出来事を直線的に秩序だてる普遍的な時間を表すという意味で、特別の役割をはたすものではあるが、それは、絶対時間の存在を否定する相対性理論の内部で定義されたものであって、ニュートン的な時間の絶対的な遠近法を与えるものではない。それゆえに、宇宙の開闢のときと今此処との間の時間的な隔たりを表す百数十億年という悠久の時の経過をあらわす数字は、宇宙が空間的に一様でかつ等方的に見えるような観測者の時間を基準にしているという点で、標準的な時間であると言えるが、ニュートン物理学においてそうであったように、あらゆる基準座標系に共通する絶対時間であることはできない。この宇宙時間において『同時的』な二つの出来事は、ニュートン的な意味で同時的であることはできず、互いに因果関係を全くもたないという意味で、基準系の取り方によっては遠い未来にも、遠い過去にも属するからである。 たとえば、 ビッグバン宇宙論からインフレーション宇宙論への展開のひとつの契機となった有名な『地平線』の問題は、相対性理論の枠組みの中でのみ意味をもつ事柄である。我々から見て、同時に見える二つの宇宙領域が、過去において因果的に関係をもつことが可能であるためには、その領域は空間的に限られた狭い領域(粒子的地平の内部)になければならない。例えば、宇宙黒体輻射のやってくる領域についていえば、電波望遠鏡で数度離れた二つの領域は、過去において因果関係をもち得なかった領域である。それゆえにその2領域が全く同じ輻射を与えるということが問題となった訳であるが、この問題自体が、相対性理論の時空概念を離れては意味を失うことに注意すべきであろう。

 宇宙を時間的な層によって直線的に系列化する宇宙時間で同時的な二つの領域は、因果的には独立であるということが、ニュートン物理学の絶対時間と根本的に異なるのである。

 我々は、次に、宇宙の歴史の長さを測る尺度について考察しよう。ビッグバン宇宙論で、宇宙の歴史が百数十億年であると言う意味は、物質の平均的な運動に従う基本観測者の位置する系(共動系)を基準にするということである。ニュートン物理学では、二つの出来事のあいだの時間的間隔は、基準座標系の選択に依存しない絶対的な値をとるが、一般相対性理論では、それらの二つの出来事を結ぶ世界線の選択によって、それらの世界線に沿って積分されたそれぞれの固有時間の総和は異なる値をとることはよく知られている(双子の逆説)。その理由は、宇宙の物質全体に対する関係が、二つの基準系の間で異なるからである。この双子の逆説を宇宙規模で考えるならば、宇宙開闢の時から現代に至るまでの時の経過を、原理上は、無限に短いものと見なすことのできる基準系があってもかまわぬということになろう。その意味で、この百数十億年という数字は、ニュートン物理学でもち得るような絶対的な時間の経過を表す量ではないのである。

 しかしながら、ここで注意すべきことは、ビッグバン宇宙論の時間は、絶対時間ではないにしても、(もし宇宙に特異点や事象の地平がなければ)我々が地球上で使用している時間を宇宙の全体へ外挿し普遍化することを可能にするという意味で、普遍的時間の資格をそなえているということである。相対論的宇宙論では、宇宙が空間的に一様でありかつ等方的であること(宇宙原理)を仮定したうえで、至るところでこの空間的な超曲面と直交する普遍時間として宇宙時間を定義したのである。

 さて、宇宙の物質とエネルギーの分布はどこから見ても同じであるという宇宙原理が正しいかどうかは、最終的には観察によって決定されるべきアポステリオリな問題である。従って、宇宙時間が存在するかどうかも、相対性理論の枠組みの中では決定されておらず、事実問題として決着をつけるべき問題である。相対性理論の要請をすべて満たしながらも宇宙時間の定義できない宇宙モデルを構成したゲーデルの言葉を借りるならば、物質の分布というような偶然的な事情に依拠するような時間は、絶対時間とは呼べないであろう。

 この宇宙時間の存在がアポステリオリな理由によって正当化されるならば、宇宙時間がそこにおいて成り立つような基準系は、他の基準系とくらべて特権的な意味をもつことが可能なのである。 従って、『あらゆる基準系が対等である』ことを要求する相対性原理の述べている『対等』の意味は、『事実上の対等』ではなくて、あくまでも『権利上の(法則上の)対等』であると理解すべきであろう。それは、『物理学のもっとも普遍的な法則が、どのような基準系でも平等な形で成り立つこと』を原理的に要請するが、事実問題として、宇宙の特殊な歴史について語るというような具体的目的のためには、ある特権的な基準系が、他の基準系に優先するということを妨げないのである。

 例えば、ビッグバン以後の歴史を語る場合には、宇宙背景輻射が完全に等方的であるような基準系が特別の意味をもち、われわれは、この基準系に対して、地球がどのような運動をしているかを計算することもできるのである。この事情は、天動説と地動説の対立というような問題の考察のレベルでも既に現れていた事柄である。太陽と惑星の相互作用を扱う天体物理学の問題を記述するというような具体的な問題では、我々は、太陽を静止していると見なす基準系(地動説)を選択し、地球を静止するとみなす基準系(天動説)を選びはしない。しかし、そのことをもって、地球基準系と太陽基準系の原理的な対等性を要求する相対性原理が成り立たないと主張することはできないであろう。宇宙背景輻射が等方的になるような基準系は、ビッグバン以後の宇宙の歴史をかたるという目的にとって、最適の基準系であるがゆえに、特権的な位置を占めているのである。

 したがって宇宙時間においては、宇宙の歴史が100数十億年であると語ることには普遍的な意味があることが認められるが、それは決して「絶対的な」意味を持つものではない。それどころか、相対論的に思考するならば、ある特別の意味においては、宇宙の開闢という遙か昔の出来事は、「今此処」の出来事に近接しているということも可能なのである。 そのことを言うために、相対性理論において二つの出来事が時空的に遠くにあるとか近くにあるということが何を意味するかということを明らかにしておく必要があろう。

 話を簡単にするために、我々は宇宙に於ける二つの出来事の間の四次元的な距離に関するアインシュタイン・ミンコフスキーの基本的な考え方から出発しよう。

 相対性理論では光円錐というものが基本的な役割を演じることは周知の通りである。光円錐とは四次元距離がゼロであるような時空点の集合であり、宇宙に於ける光の軌跡を表現している。この四次元距離がゼロであるということの経験的な意味は何であろうか。

 我々が夜空の星を見上げる場合のことを考えてみよう。我々が肉眼ないし望遠鏡で観測している天体は、我々にとってのその都度の現在の宇宙の姿なのではない。例えば、冥王星は5時間前の、ケンタウロス座のaは4年前の、アンドロメダ星雲は150万年前のというように、過去に向かう時間的な奥行きをもった対象の姿を、今此処で見ているのである。過去の光円錐とは時間の奥行を持った三次元の空間であるが、それは決して抽象的な数学的概念などではなく、現在的直接性という様式を以て知覚される我々の経験的事実と密接に結びついているのである。

 四次元世界の出来事間の隔たりをdsであらわすならば、相対性理論では、それは時間的な隔たりdtと空間的な隔たりdlを統合したものであって、dtもdlも単独では絶対的な不変量ではなく、ただdsのみが不変であることに注意したい。

 そして、四次元宇宙に於ける遠近法を語る場合、|ds|<e によって、出来事のe近傍について語ることができるであろう。そのときに、相対性理論では、古典物理学では生じない独特の事情を考慮しなければならない。

 まず、近傍に、time-like な近傍と、space-like な近傍の二種類があるという事である。ここでtime-like な近傍とは、ある特別な基準系では、時間的な成分のみで表示される近傍のことで、spce-like な近傍とは、或る特別な「基準系では、空間的な成分のみで表示される近傍のことである。それらのふた通りの近傍を図示すれば下記のようになるであろう。

  この図が意味するように、相対論には、時間的且つ空間的に閉じた領域ではなく、双曲的に開かれた近傍の概念があり、それは無限の過去と無限に未来にむかって開かれた領域になっているのである。そしてこの近傍の概念にしたがうならば、たとえば、100万年前に百万光年離れた星雲で起きた出来事の方が、昨日、私の部屋で起きた出来事よりもtime-likeな意味に於いて「近くに」あると言うことに客観的な意味を与えることが可能なのである。

 曾て、禅学者の鈴木大拙は、キリスト教徒の集会で講演したときに、『天地の創造のときに、神が光りあれと言われたら、光があったというが、一体それをだれが見ていたのか』と尋ねたと言われている。これは、臨済禅の伝統を踏まえた大拙がキリスト教徒に提示した宗教的公案とも言うべきものであるが、その趣旨は、おそらく、旧約聖書の天地創造の物語が、個々のキリスト者の今此処における宗教的実存とどのようにかかわっているのかという事であったと思われる。

 この公案を、キリスト教徒に対してではなく、相対性理論を基礎として宇宙の始まりについて論じている現代物理学に提示したら、どうであろうか。  現代の物理学者は、ビッグバン理論において、『宇宙の初めの最初の3分間』について、まるで直接に見てきたかのように語っているが、そのころの宇宙の光を一体だれが見ていたのか、と問うことは現代宇宙論の認識批判という見地から意味のあることであろう。

 聖書やプラトンのティマイオスの記述が神話であるのと同じく、物理学者の天地創造の物語りも、真実らしい装いを施された現代の神話であるというような批判に対して、どう答えるべきであろうか。我々はこの物理学の『公案』に対して、次のように答えることができるだろう。

『我々は、宇宙の開闢の時の光を、今此処で見ており、そしていつでも何処でも見続けるであろう』と。

 もちろん、『見る』といっても、それは宇宙背景輻射というマイクロ波の形においてであるから、文字どおり肉眼で見える訳ではなく、電波望遠鏡で遥か遠方の銀河の遠い過去の姿を見るというのと同じような類比的な意味においてであるが。

 宇宙の開闢時の状況(正確に言えば、物質と光の相互作用の均衡が破れて光が自由に運動可能になったビッグバン以後数百万年後の頃の状況) を示す観測データは、今此処に与えられている。一九六〇年代にこの宇宙背景輻射が発見されたことが、相対論的宇宙論を実証的な科学として認知するきっかけとなったのは理由のあることなのである。キリスト者にとって聖書の記述が決して神話ではなく、彼らの宗教的実存に照らして実証可能な霊的真理であるのと同様に、相対論的宇宙論の基本思想を受容した物理学者にとって、宇宙開闢の物語は、決して検証不可能な神話なのではなくて、原理的には今ここで起きている出来事と直結し、いまここで成り立つ物理法則を使って実証可能な事柄である、ということができよう。

あとがき

2006年10月に、米国カリフォルニア州クレアモント大学院大学で、Cosmology and Process Philosophy という国際シンポジウムにパネリストとして参加しました。パネリストの一人である、アレクセイ・ヴィレンキン氏に触発されて書いたのが、この「無の場所の創造性ー歴程の哲学からみた現代宇宙論」という論文です。
 ヴィレンキン氏は、旧ソビエト連邦からの亡命物理学者で、当時タフツ大学の教授でしたが、Multiple Worlds in One という著書を出したばかりなので、クレアモントではホーキングと同じくらい有名でした。ヴィレンキン氏は、ビッグバーンの特異性を解消する論文を書いたことでも有名で、現代物理学者の中ではじめて「無からの宇宙創造」を、量子論的トンネル効果によって説明する論文を書きました。ホーキングと共著で「大宇宙と小宇宙」という本を出し、また最近では「人間原理」にかんする批判的考察で著名な南アフリカ共和国の物理学者エリス氏もパネリストの一人でした。 私は「無からの創造」というキリスト教的世界観の歴史性と,東洋的なコスモロジーの円環的空間性を統合する哲学を、科学哲学と宗教哲学のふたつの分野で構想していましたので、ヴィレンキン氏の理論に大いに触発されました。彼の「無からの宇宙創造論」は、私が以前書いた論文(『現代宇宙論と宗教』、岩波講座(宗教と科学)第4巻、岩波書店、1992)でも引用しましたが、その後の彼の理論の展開、とくにeternal inflation理論と、多重宇宙論の話を直接聞くことが出来き、いろいろな点で興味をそそられました。

 


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