歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

エキュメニカルなカトリック (国境と宗派を越えた普遍の教会)

2020-12-17 |  宗教 Religion
エキュメニカルなカトリックというと、私は
 
「Strangers No Longer, Together on the Journey of Hope
ともに希望の旅の途上にある我等は もはや異邦人ではない」
 
という言葉を思い出します。これは、アメリカのカリフォルニア州クレアモント大学(昔、鈴木大拙が「禅と日本文化」の講義をした大学)の近くにあった「聖母被昇天教会」のミサに与ったときに目にしたスローガンでした。
 そこは實に多国籍、多民族の人々からなる教会でした。22年前に私がはじめてこの教会に来たときの司祭はアイルランド人でしたが、二度目に来た時の司祭は、アフリカ出身の方でした。信徒でもっとも多いのは米国在住のヒスパニック系の移民、つぎに中南米から米国に職を求めてきた人々、そして旧南ヴェトナムからの難民です。日本人には逢いませんでしたが、中国系、韓国系の人々もたくさん参列していました。こういう様々な人種の人々が「一つのミサ」に与る。それが、本来の「普遍の」教会の姿ではないかという印象を持ちました。  
 ミサの式次第は日本と全く同じです。もちろんすべてが英語になっている点は違いましたが。私が参列した時のミサは教会暦年間第30番目の主日で、旧約聖書はエレミヤ記第31章、詩編126、使徒書はヘブル書5章、福音書はマルコ伝10章。聖書こそ典礼の基礎であるという点では、じつはローマン・カトリックもプロテスタントも変わりはありません。
 
 エレミアの朗読を聞きながら、私は内村鑑三のことを思い出さないわけにはゆきませんでした。預言者の情熱、その祖国に対する愛、それはまさしく内村が共鳴したものでしたから。紀元前のユダヤ民族のシオンにたいする思い、捕囚より解放された喜びが、エレミヤや詩編の様々な章から、長い歴史の隔たりを越えて聞こえてきます。そして、古代のイスラエルの民の「愛国心」は、キリストによって浄化され、普遍化され、全人類の精神的な遺産となっています。
 
 ユダヤ教からキリスト教への展開は、ユダヤ民族の伝統と愛国心のもつ自己中心性、民族的エゴイズムを一度は徹底的に否定したあとで、再び、新しい精神の中でその民族の伝統を受容するというダイナミックな転回でもあったと私は理解しています。  内村鑑三は真の愛国者でした。日清戦争を正しき戦争として擁護したあとで,日本政府の欺瞞的な政策に同調したことへの徹底した自己批判。日本中が「愛国心」の狂騒のなかで日露戦争を支持したまさにその時に、非戦論を国家の取るべき方策として提言したことこそ、キリスト者としての内村の真の愛国心のしからしめるところでした。自国が道を誤ったときに批判できるものこそが真の愛国者といえるのです。
 
 いわゆるWASPが多数派であるアメリカで、カトリックはマイノリティです。しかし、私は、真のカトリックは、国家の中に於いてマイノリティであるときこそ、云うならば「地の塩」としての役割を果たすことが出来ると思っています。
   「Strangers No Longer, Together on the Journey of Hope   
   ともに希望の旅の途上にある我等は  もはや異邦人ではない」
 
という標語は、キリスト者の立場から、政府の排外的な移民政策に反対するエキュメニカルなカトリックの姿勢がよく出ていましたが、それにしても    
 
「ともに希望の旅の途上にある(我等)」
 
というのは実に良い言葉であると思いました。
 
 キリストの存在する場所は、特定の民族や国家に限定されない。様々な民族や人種や国家が、その違いを超えて一つになるところに、すなわち多なるものがその個性を失わずに一つとなるところに、世界宗教としてのキリスト教の成立する場所があると思っています。
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